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2009年7月9日
高木敏雄HomePage

虚偽の申請が罷り通るか否か

                             宮大工 十四代 高木敏雄
 
       ◆ 弘誓寺本堂宝暦造営の経緯と真相 ◆

 昭和59年11月、甲賀郡国宝長寿寺本堂修理の責任を全(まっと)うし、続いて三重県津市、重要文化財専修寺如来堂(高木日向、同但馬作)修理の末席を汚すことが決まり、これに同道すべく自宅に立ち寄った村田信夫から神崎郡・弘誓寺本堂(高木但馬・同兵庫作)の調査報告書を此(これ)見よがしに突きつけられた。

 この報告書は滋賀県と印刷されたB5判の専用罫紙(14枚)に、肝心の作成年月が欠落しているものの昭和61年一旦県指定に、翌年重要文化財に昇格する事前の調査報告書と考えて大過はなく、その関連文書として、
(一)「奉願造作之事」(裏面に修理許可の写しあり)
       宝暦5年10月、一巻(写し)
(二)本堂素建平物・角物木寄(高木但馬筆)
       宝暦6年5月、1冊
 註(三)・(四)は省略す
以上の4点に次いで村田の間が抜けた扱(こ)き下ろしが続く。

     ◆ (一) 「奉願造作之事」 ◆

 宝暦5年10月の(一)文書は、京都大工頭中井家に提出した普請願とその許可の写しで、それには天満御坊の古堂(桁行・梁間共に11間)を拝領し桁行のみ2間切縮め、朽損した部材を取替えて再建することを記し、取替材の位置を示す図面を付加している。

     ◆ (二) 「本堂素建までの木寄」 ◆

 〔前述の(一)文書に対して〕(二)宝暦6年5月の文書は全て新材で拾い出した木材明細であり、これには代金まで記載されていることから(一)文書即ち天満御坊の古堂拝領云々は、
『高木が虚偽の申請をしたものと考えられ、また現存する本堂に古材を用いた形跡がない』と、造営の経緯を知らぬ不見識を棚に上げ、恰(あたか)も先祖が幕府の法度を犯したかの如く事実無根の公表をして有頂天になっているが、この愚論は言わずと知れた村田信夫の惚(ぼ)けた感性に基づく策略であり、その証拠として先祖を八幡大工(5頁)・高木大工(11頁)等と、先祖の職位を馬鹿にした表現は、他に類例を見ない村田独自の傲岸不遜極まり無い筆調がそれを物語っている。

 このような筆法(風上に置けぬ村田の放論)に含むところあり諸種の文書の出所(でどころ)に言及すると、そもそも(一)文書(宝暦5年)は中井家の定めにより
(申請書の提出義務を双肩に担う)地元大工が、肝心の書式(願書などの書き方のきまり)が不馴(ふな)れであることから止むなく高木が代筆したものを二通作成し、一通を地元大工に委託、残る一通は現在私が所有している。

 以上の制約により地元大工が中井家に持参した文書は(筆者が高木であっても)大工頭がこれに裏書し、「誰々へ」と地元大工名を記したものを当人に手交されるのが慣例である。

 一方現存する寺蔵文書は前述の如く地元大工が中井家の裏書を得て一旦自宅に持ち帰ったものを後日寺院側が筆写した単なる「メモ」であるが、これが原本の高木文書を超越して重要文化財・弘誓寺本堂の「附」文書となっているのは誠に奇妙な「お笑い草」であり本末転倒の謗(そし)りを免れないが、愚痴はともかく、三通共申請人は
高木ではなく地元大工であることは現存する文書によって明白であり、縦(よし)んば高木が申請したと誤読しても普(あまね)く署名は「高木但馬」と四文字であり、これに対して寺蔵文書の字数が三文字である事実は高木が申請人でない証拠であり子供でも即座に判断できる筈であるが、それでも字が読めないのか村田・細見・山岸・池野は知ったか振りで無頼漢の如き難癖を捏ね回し、江戸幕府の出先機関・中井役所の法則を蹂躙して虚偽の申請が罷り通ると大言する旗振り役村田の判断こそ古文書を調査する資格は一切無く、一途に「でたらめ」・「つくりごと」の害毒を垂れ流す果てし無き愚の骨頂である。
 
 加えて塀の修理ならともかく、本堂の竣工検査には奉行所より与力2名、中井家から頭棟梁1名に高木もこれに立会う厳重な検査があるのを知ってか知らずか、
虚偽の申請等と中途半端な不見識で恬然として恥じないが、〔人を呪(のろ)わば穴二つ〕自分も穴に入る覚悟が不可欠である。

     ◆ 後書を歪曲した細見の逆恨み ◆


 不幸にして専門的な能力が枯渇し、物事の全てを悪意に解釈する以外に能がない村田・細見・山岸・池野は、必要不可欠な後書の内容を故意に捩じ曲げてまで自己の有るか無しの能力を過大評価しようとする意図が読みとれる。

 これについて申請人の地元大工は中井役所に提出する修理願の後書に、『本来ならば高木がこれを提出すべき筈のところ高木は蒲生郡、建設地は神崎郡と、それぞれに大工組が違いますので私(地元大工)が助棟梁の立場乍ら申請人となり、ここに大工組の違う訳を立て(立証)申します』と地元大工2名に加え、神崎郡大工組頭がこれに連判し、中井家はこれを許可している。
 
 以上の定法(例えば神崎郡の仕事を蒲生郡の高木に依頼されたときの大工仲間の作法)に対して根性が捻じ曲がった村田・細見・山岸は、地元大工と高木とが協力して仕事をすることを約束してはいるが
『蒲生郡と神崎郡では組違いであると、わざわざ前文を付けているのをみるとその経緯は必ずしも平穏であったとは言い切れず、そこには高木一流の政治力が働いたことは甲賀郡・矢川神社の例が物語っている』と修理願の後書さえ碌すっぽ読めないど素人が八方破れの理不尽な構えで無謀な毒筆を自慢たらしく並べ立て恥をかくことに余念がない。

     
◆ 味噌も糞も混交した村田の強弁 ◆

 「事実は小説よりも奇なり」〔実際に起こる出来事(村田の奇妙な強弁)は作られた小説よりも変化に富んで不可思議である。〕このような村田の迷妄を検討すべく一旦原点に立ち戻り寺蔵文書の内、(一)・(二)の本質的な違いを韋編三度絶つまで検討しても、(一)は拝領した古堂の修理案に他ならず、これに対して(二)は修理許可を得たものの急遽新築に変更され7ケ月後、高木が全て新材で拾い出した明細を寺院に提出した時点で真面(まとも)な人の判断ならば、即座に(一)の修理案を廃棄して再びこれに目を向けることなく素直に(二)の新築案に構想を切替えるのが村田を除く普遍の思考であるが、如何せん感受性に乏しい村田は、
『現存する本堂には古材を用いた形跡が無い』と子供でも判断できる至極当り前のことを尤(もっと)もらしく強調した上で、疾(と)っくに廃案となった文書をまたもや金魚の糞でもあるまいに未練がましく引き摺り回し、『天満御坊云々は高木が虚偽の申請をしたものである』と、妄想を捲(まく)したてて自己の無能を世間に曝け出しこれを喧伝して懸命に恥をかく。

     ◆ 虚偽以外に言詞を知らぬ山岸の謬想 ◆

 平成6年、先祖の怨敵・山岸常人主筆、『建物の見方・しらべ方』に散散御託を並べ、『現存する弘誓寺本堂を見ると18世紀中期に充当する様式を有しているが垂木に反り増しがあって古式な箇所もあり、その為に現存本堂は(一)文書の通り
拝領した天満御坊の古堂に修理を加えたものと誤断する恐れもあるが、実際に建物をよく見ると修理した痕跡は一切無く、むしろ宝暦期に全て新築したことが判明する』と自己の無能な調査を鉄面皮に公表して害毒を垂れ流す。

 続いて山岸は『事実この他にも宝暦6年、本堂素建の木寄や翌7年の寄進木の控も新材で建てるべく(寄進を)募っている』と、猫も杓子も自己の蒙昧を棚に上げ当初の古堂修理計画は寺院の都合により拠(よんどころ)無く新築に変更して現在に至る実態を調査したにも拘らず村田信夫による捻(ひね)くれた誘惑に翻弄され、
『以上の事から修理願〔(一)文書による天満御坊の建直し〕は虚偽の申請と断定するに至った』と、文書の紙背が読めない盆暗が得手に帆を揚げ鬼の首を取ったように雀躍する。

     ◆ 同穴の狢(むじな)細見啓三の悪態 ◆

 以上の如く村田・山岸による牽強付会の説を含め弘誓寺本堂の宝暦造営が新築であろうと修理であろうと私は一向に痛痒を感じるものではないが、如何んせん御里が知れる差し出がましい判断と、透明性が欠落した細見は『天満御坊の古堂を拝領し、腐朽箇所を繕い乍ら桁行を2間切縮めて9間に造り替えようとするものである』とすでに廃案となった過去の計画を未練がましく短絡的・場当り的な意味不明の「でたらめ」を公然と前置きした上で、味噌も糞も一緒くたにし
『しかし一方では宝暦6年本堂素建までの新材明細及び寄進木の控に古材は一切含まれておらず、すべて新材で拾い出されており、事実現存本堂をみても宝暦以前の古材は使用されておらず、すべて同一時期の加工・組立である』と、黒白を弁ぜず物事の判断が真面(まとも)にできない痴(し)れ者が人並に難癖をつけ為(し)て遣ったりと糠喜びする。

    ◆ 劣悪な猜疑と、見当違いの邪推 ◆

 つまるところ細見は当初の計画であった拝領本堂の修理と、現存する本堂は全て新材である双方を執念深く引き摺り回して御門違いの妄念を取り除くことができず、
この食い違いはどこから派生したかというと、現存本堂を新築で申請すると不許可になる可能性があることから故意に修理という名目に変更し、つまり虚偽の申請をして無理に修理に漕ぎつけたと、バカバカしくて取るに足りない細見特有の恣意的かつ常軌を逸した解釈をし、『それが中井役所の与(あずか)り知らぬ(関与しない)ところなのか、また知っていながら特にお目溢(こぼ)しをしたのか?俄かに決め難い』と、自惚(うぬぼ)れた挙句の果てに、大工頭・中井氏にまで八つ当たりする愚か者細見の遣り方に対して、おどろおどろしい戦慄を覚える。

     ◆ 道徳の本質を逸脱した屹度馬鹿 ◆

 そもそも知性とは物事を認識する能力であって、一面的で下らない自分の意見が正しいと頑強に主張するのは知性ではなく、自らが反省した戒飭(自分に対する戒め)を加えることが知性である。それらを見極める知識や力量は些(いささ)かも無く、矛先を間違えた馬鹿丸出しは一途に先祖を猜(そね)み、それによって生じる子孫に対する感受性に乏しいど素人が懐疑と憎悪の念を拠りどころとする毒筆(先祖非難)は人間性が欠落した空想と、感情を剥(む)き出しにした非人間的な中傷に他ならず、法廷で争う以外今となっては解決方法がない。

 以上の如く古文書が読めない素人の分際で先祖を非難するには専門分野に没頭し、手ぬかりの無い感性と洞察力を享受し対象となる目的物、即ち本件に即して言及すると弘誓寺本堂に纒(まつわ)る第一次・拝領本堂修理計画を廃棄して新築に至る経緯を自己の心情で受け止める視野の広さが求められるが、この程度の片鱗すら具有しない村田信夫・細見啓三・山岸常人・池野保による半可通な悪態は自己の蒙昧を棚に上げ、現存する新築本堂の申請書が寺院に無いことから、(本来無いのが普通である)真っ当な(一)文書に言いがかりをつけ、
虚偽である等と何事も先祖の所為にする偏狂者(常識を超えたことを平気でする)は単なる興味本位の空威張りであり、このように外見は利口そうに見えても実際はそうでない人間を屹度馬鹿という。

      ◆ 化けの皮が剥(は)がれた村田の詭弁 ◆

 以上の寝耳に水の暴逆に対して先祖に成り代り反駁すべく問題の部分
(申請人は地元大工である証拠)を実写してホームページに掲載せんとしたが、私は曲りなりに古文書が読めても一般の人々は誰彼なく読める訳でないことからこの構想は八方向きとはならず、また一方では地元大工による真っ当な申請書を故意に歪曲した村田の謀略は、申請人を先祖にすり替えた法度破りの矛盾(喧嘩)であり、この売られた喧嘩に対し十四代目として傍観するに忍びず、生ある限り先祖の怨敵村田に対する仇(あだ)討ちに艱難辛苦の日々が続いた。

 『天の見通しは誤りがなく、悪にはそれぞれの報いがある』平成16年3月弘誓寺本堂修理報告書が発刊され、その59頁に宝暦5年10月中井役所宛の修理願(原本は高木但馬筆)を現代の活字に解読して掲載された。それによると修理願の申請人は
高木ではなく、地元塚本村(現在五個荘町塚本)大工勘兵衛、同佐野村(現在能登川町佐野)大工利兵衞であると発表され、古文書が不得手な一般の人々にも先祖でないことが明白となったが、反面村田信夫による悪質な陥穽(先祖に対する陰謀)は脆(もろ)くも崩れ去り、事あれかしと村田を担(かつ)ぎ上げて威張り捲っている細見・山岸による質(判断の肯定・否定)の追及を蔑(ないがし)ろにした悪事は是(ここ)に一絡(ひとから)げにして白日の下(もと)に晒(さら)されることとなった。

     ◆ 摂津渡辺に初建された大坂本願寺 ◆

 参考までに浄土真宗本山流転の経緯に言及すると、そもそも本山東本願寺より拝領云々の天満御坊の古堂とは〔顕如上人余芳(本願寺平成2年)〕によると信長と石山合戦ののち本山は紀州鷺森・泉州貝塚を経て天正13年(1585)8月天満に移転、同18年1月、再び秀吉は京都に移転を命じ、翌19年8月本山は現在の六条堀川(西本願寺)に定着された。

 一方、大阪市北区の梅田から浪速区の難波に至る御堂筋に甍を並べる本派・津村別院(北御堂)及び、大谷派・難波別院(南御堂)は天正19年(1591)本願寺が京都に移られたのち大坂の門徒が創立されたものであるが、7年後の慶長3年(1598)の記述に「教如上人建立の大谷本願寺を摂津渡辺から難波に移した」とあることから、浄土真宗大谷派の初祖・教如上人が「渡辺の津」に初建された本堂は、本山が貝塚から天満に移られた天正13年8月以降と考えられるが、このとき秀吉が本願寺に新たに寄進された土地とは現在の大阪城公園附近つまり、もと石山本願寺のあった場所(天満)であり、これを難波へ移建するについて教如上人創立の本堂を解体してこれを天満御坊に畳み置き(収納)し、難波には新材で造営されたことが判明するが、その天満本願寺は現在の「中島興正寺」を中心とする地域といわれ、その近くに「大坂天満宮」が現存することで御坊の旧地が推測できる。

 これについて高木文書に『先年より天満御坊に畳みおきなされた』とある本堂とは、取りも直さず弘誓寺本堂宝暦造営に際し『本山より拝領した本堂』に他ならず、その証拠として難波別院旧記の平面寸法と、先祖が天満に出向して実測した寸法とは寸分違わず、これを弘誓寺に移建
(のち新築に変更された)するについて敷地の都合で桁行のみ2間切縮めて9間堂にする許可願に中井役所は許可を与えているが、この真っ当な修理申請書に対して村田・細見・山岸・池野による敵対調査は止(とど)まるところを知らず『高木による虚偽の申請云々』と、不見識な有象無象は眼前の実態を判断する能力が無く、それでいて自分は誰よりも勝れていると過信して恥を恥と感ずることなく、一途に自己を過大に評価する妄想は実に嘆(なげ)かわしく、間違いだらけの報告書は浅慮の謗(そし)りを免れない。

     ◆ 不合理な先祖非難と、埋没した真実 ◆

 中国の格言「刻舟」に、〔船の上から河に剣を落とした人が後(あと)で探す目印として舷(ふなべり)に「ぎざぎざ」つけ、やがて船が向う岸に着くと目印のところから河に入って剣を探したという喩(たとえ)〕は、時勢が刻刻(こっこく)と移り行くのを知らぬ偏狂者村田信夫による偏見、
天満御坊の古堂を拝領して弘誓寺に建直す第一次修理案は、日成らずして全て新材を用いた第二次新築案に変更されたにも拘(かかわ)らず、味噌も糞も一緒くたにし、眼前の第一次修理許可願の写し(寺蔵(一)文書)に対し急遽新築に変更された第二次新築許可(原則として地元大工が自宅に保存している)が、弘誓寺には無い当然の事象(成り行き)を、素人であるが故に立体的に把握することができず、持ち前の偏見により、現存する本堂が宝暦新築であるのに対し、寺蔵(一)文書は修理であることから高木による意図的なごまかし、つまり修理の名目で申請して許可を得、実際は新築したものであると、辻褄が合わない自家撞着に陥り、一面的な浅慮により高木が虚偽の申請をしたと公表して調子に乗り得意満面になっているが、そもそも江戸幕府の出先機関・中井役所を誑(たぶら)かすことができると考えること自体が常軌を逸(いつ)するど素人の判断は、恣意的な解釈しかできない抱腹絶倒の極みであり、人並に先祖を非難する資格は些(いささ)かも無い。

 このような愚策に惑溺したものか?平成16年3月刊行の弘誓寺本堂修理工事報告書(編集、豊城浩行)に、天満御坊の古堂を修理して建直したい旨の内容であるが、
実際は新築に等しく、今回の修理において転用材は確認されず実際は新築であると、第一次修理案と第二次新築案の内実を斟酌せず、肝心の論点を中抜きにして安手の小説の如く喧伝し、我が意を得たりと馬鹿丸出しの糠(ぬか)喜びに狂喜する。

 以上の如く猫も杓子も文書の行間や紙背を読む力量が無く、さりとて根源を突き詰めた実証もなく、裏付けの無い虚構(つくりごと)・虚誕(でたらめ)の先祖攻撃を臆面もなく公表する愚策は原因でないものを恰(あたか)も事実であるかの如く主張して問題の中心点をはぐらかし、下らない偏見を客観性よりも優先させ、屁理屈を捏ね回して詭弁を弄し、幕府法度を皆目知らぬ素人が、専門家を無視するのは根本的に無理である。

 加えて肩書だけが先行する生半可な知識で煩雑な内実の修理許可文書と、眼前の新築本堂との食い違いの真相を究明しょうともせず、また解明でき得る力量もなく、一途に弥縫策の猿知恵を働かせて先祖の尊厳を否定する次元の低い人間が、低劣な品格を露呈して優越感に浸(ひた)っているが、これらの手法を剔抉すると初手から文書が読めない癖に威張ること以外に能が無く、それ故に物事の筋道を弁識せず、大工法度を歯牙にもかけずに先祖を嘲罵する差し出半学で吾人の分野に容喙して憚(はばか)らず、尊大に振舞う悪趣味の奸計によって先祖による犬馬の労は無残にも打ち拉(ひし)がれ、とどのつまりは不見識な人間(村田・細見・山岸・池野)が大手を振って闊歩し、間違いだらけの醜態を演じて巷間に害毒を垂れ流したのである。

 そもそも物事の可視化は論理的な正誤が定かでない限り実現は不可能であるが、当初の計画であった拝領本堂の修理案が沙汰止みとなり、急遽新築に変更された事実を無視した固着観念(一つの事に拘泥してそこから離れない考え)は、当初の修理案と、のちこれを廃案にして新築に転じた両者を同一視し、肝心の論点を置いてけ堀にした上で先祖を非難する惚けた感性こそ臍(へそ)で茶を沸かす噴飯ものであるが、解決すべき事柄は、第一次修理願を許可(宝暦5年10月)されたものの、新築に変更されたことにより翌6年5月、先祖は改めて新材で拾い出した木材明細を寺院に提出、(厳密に言えば前述の明細書作成に着手する直前)までの間に、先祖を交(まじ)え本堂を新築に変更する役員会議が回を重ねて開催されたであろうことは、先祖の覚書にその事由が散見されるが、如何んせん人間性を逸脱した村田・他の暴論は実に馬鹿げていて、みっともなく、その改過は「黄河が清水になるのを待つに等しい」と考えるのは私だけではあるまい。


PN   淡海墨壷