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2002年9月12日
高木敏雄HomePage

幕府公用作事と江州大工

宮大工 十四代 高木敏雄
   ◆ 江州肝煎衆 ◆

 徳川政権下に於ける三職(大工、大鋸、杣)の支配組織は、家康に最も重用された大和法隆寺村西里出身の中井藤右衛門正清(大和守)を頂点とする上方大工集団(五畿内と称する山城、大和、攝津、河内、和泉に近江を加えた六ケ国)で編成され、我が近江国は、神崎、蒲生、野洲、甲賀、栗太の東近江五郡を一つの近隣集団とし、その中から五名(各郡一名宛)の有能な大工を選出、これらの人々は、「江州きも入(肝煎)衆」と呼ばれた。

  註 江州大工組と称するのは、のち寛永になってからである。

 この肝煎という肩書は、直訳すると世話人とか、とりもちをする周旋役のことで、現在「匠」の世界では死語に等しいが、慶長十八年(1613)十一月上棟の内裏作事について、七月十一日付けで、
 「江州より大工衆二百人用意候て、禁中(京都御所)の御普請に出候様に申し付ける」
と命じた中井家の差紙(出頭命令書)には
 「江州きも入衆まいる」                      (高木稿本)
と宛てており、平均すると一郡あたり四十名の大工を中井家に斡旋している事実で、この肝煎衆の職務の一端を知ることができる。

 続いて元和五年(1619)七月、蒲生郡桐原郷の郷社造営(非公用作事)について、七郷の庄屋が尾、淡路守に宛てた書状にも、
 「この郡中(蒲生郡中)惣大工のきも入、大工 (高木)作右衛門」
とあり、ここでも肝煎の肩書がみられる。            (旧高木文書)

   ◆ 公用作事と職人保護 ◆

 これら幕府の公用を勤める人々は御用大工、または公役大工(略して役大工)と呼ばれ、このような技術者集団を結成するのは織豊時代の慣例であったが、その目的は取りも直さず幕府の行なう諸造営に際し、幕命を中井家―肝煎―大工と上意下達を旨とし、時日を要さずに動員を可能ならしめる手段であったが、一方、当事者たる大工にすれば軍役、御用役という名目の税金であった。
 そこで、この徴用に関して大坂(阪)などの都市大工を除く、いわゆる半農半大工で糊口をしのぐ農村大工の場合は、その土地の領主による年貢徴収に加え、一方では好むと好まざるとにかかわらず動員される公用作事との二重負担(税金の二重払い)となるため、その不公平(都市大工に対して)の払拭を目的とした、
 「諸役これあるまじく」
とする条件とした。
 この条件について「黒白を弁ぜず」との雰囲気の大工組もあったが、我が郷土八幡町(市制以前の近江八幡)は開幕以来天領(幕府直轄)であったことも幸いしてか、当初は「権現様御上言にて」と然したる紛糾もみられず、寧ろ職人保護を目的とした諸役免除の特権を標榜する兆候さえみられた。

   ◆ 公用作事の懈怠 ◆ 

 ところが豊臣氏滅亡の大坂の陣後、論功行賞による領主の大幅な所領替によって、幕府の基本方針を無視した一部の弱小代官により公用大工にまで一般農民なみの課税となった。
 例えば家康の没後、日光東照宮が中井家によって創建されたが、一方、これと併行して江戸城内紅葉山にも同宮が建てられることになり、その差紙(元和三年、高木文書)に
 「腕の良い大工五十人御下しあるべし」とし
 「若し違背これあるに於いては重ねて曲事たるべく」
とある通り、違反は罪科であるとした上で「重ねて」とあるのをみると、これ以前にも無法な悪税徴収を潔しとしない反発があったことが窺える。

   ◆ 特権回復運動 ◆

 これらの危機感漂う苛斂誅求の傾向は、単に江州一ケ国にとどまらず六ケ国全体に波及したのでこれを不服として大工頭に訴え、中井氏また当時の国奉行北見五郎左衛門に伝訴、元和四年(1618)同氏の折紙を携えて、近江国中の代官所を巡回するも、各給人衆の返答は、
 「御同心なされる御方も、これなき御方もあり」
といった状況であった。                      (高木文書)

 ついで寛永三年(1626)大坂城の仮御殿造営について小堀遠江守(遠州)より、江州大工に対して千石夫(小堀氏の祿高千石に付、一人の計算で毎日人夫を提供する)名義の夫役(人夫提供の税金)を命じられ、ここに至って諸役免除の特権は無に等しいものとなり、大工頭を通じて折衝するも小堀氏は「後の例にはならない」とか、「今回限りである」といった曖昧な回答をくり返し、この時期小堀氏でさえこの体たらくであった。
  註 大坂城の仮御殿とは、三代家光の将軍宣下のための建物である。
                                     (旧、高木文書)

 寛永十二年(1635)「これでは埒明き申さず」と、大工の代表が江戸に下向して幕府老中に直訴することとし、正月より七月まで十回に及ぶ訴訟を重ねた結果、大工側に有利な展開となり、九月七日、正式に四名の老中連署の奉書を獲得、ここに大工の所有する田畠のとれ高に応じて賦課される諸役が再び免除されることとなって、その特権回復に成功した。
                                     (高木稿本)

   ◆ 江州肝煎から江州大工組頭へ ◆

 前述の老中奉書(諸役免除の特権を回復したことの証明書)(九月付)に先立って大工頭代理は六月二十七日付で、「江戸にて言上つかまつる書き立ての写し」(訴訟の結審によって老中が承認した免税分と、納税分を区別した明細書)が配付されたが、これには依然として、
 「近江国中大工肝煎中」
と宛てており、寛永十二年六月現在でも肝煎という呼称がみられる。
                                     (旧 高木文書)

 ところが注目すべきは大工頭が、これよりのち十一月六日付で六ケ国の大工組頭に送った書状(後述)には明らかに、
 「江州大工組頭、(高木)作右衛門殿」
とあり、前者(六月付)と、後者(十一月付)では宛所の肩書に変化がみられる。 
                                     (旧 高木文書)

 その変化をもたらしたと考えられるものに、大工頭中井氏の直属上司たる作事奉行、土井大炊頭が七月六日、小堀遠江守と、京都町奉行、五味金右衛門氏に対して、
 「大工側の申し分は大略御聞分けなされ候」
となったので、
 「上方言上帳に書きのせ(記載)候へ」
との決定的な発言が契機となり、大局的に言えば豊臣氏の滅亡によって今後は有事の際の大量の大工動員も有名無実となって、必然的に大工の周旋を主目的とした「肝煎」の役儀は不用となり、七月六日以降「江州大工組」として再編成されたものと考えられる。

   ◆ 大工高の調査 ◆

 大工高とは、一般の農民が自己の所有する田畠から生産する年間のとれ高と同じく、大工の所有する田畠からのとれ高のことで、後述する引高帳作成のために、一般農民と大工の分とを区別して別記しただけのものである。

 寛永十二年(1635)十一月二十六日、大工頭中井正純は前述の老中奉書の趣旨に基いて、六ケ国の大工組頭に対して大工の所有する田畑の作高を調査して書き上げるよう命じた。
 当家に届けられた書状によると、
 「御蔵入(幕領)御給人方(私領)の別なく、それぞれの領内に付着する大工の作高を調査せよ」
と命じ、それについては、
 「小前(小規模な田畠の作高)たりとも念を入れて調査せよ」
に次いで「少しでも私曲(よこしまな考え)あるに於ては罪科とみなす」と結んでいる。

 (表題)
  寛永十三年子十一月、
   江州国中大工石高之帳           (全十七頁)
高木作右衛門他六名が調査した江州中の大工高は合計九千五百石弱で、
 「右の石高、在々の庄屋手形(後々の証拠にするための書類)として書き付け上げ申し候」
として奉行小堀権左衛門に提出した。             (高木稿本)

   ◆ 引高帳について ◆

 そもそも引高とは前述の如く、一部の貪欲な代官による課税に対して職人保護の目的でとられた措置で、中井家では先に調査させた大工個々の大工高から、幕府公用作事に対する給付分(諸役の免除分)を算出して、これを基いの大工高から先に差引し、この残った石高(差引したのでこれを引高という)に対して課税をするもので、この引高帳(課税台帳)を納税完済の目的で大工組頭に管理させた。

 この措置は、公用大工といえども元来無税ではなく、概して一般農民の半分とする優遇であった筈が地方によって不統一となる不公平是正が目的であり、現行税法と対比すると、年間所得(大工の生産高)から必要経費(諸役免除分)を差引した課税基準額(引高)のようなもので、この引高を所持している以上は大工を廃しても納税義務は果さねばならなかった。
 それは中井家が「大工を廃したりとはいえ、その土地まで退転することはない」と納税を促している事実で判断できるであろう。

   ◆ 上方大工集団中井家の変革 ◆

 京都大工頭初代中井大和守正清は、特に家康個人に重用され、江戸の徳川譜代ともいうべき木原、鈴木方(三州六人衆)に対して、外様的な立場でその活躍は顕著であったが、三代正知のとき、時代の趨勢によって十七世紀中頃以降、幕府財政面の事情も相俟って、公用作事も極端に減少し、そのため江戸よりの撤退を余儀なくさせられた。

   ◆ 郡大工組としての整備 ◆

 京都に定着した中井家は京都御所の修理や、焼失の都度の造営のみでは必然的に作事業務転換の必要に迫られ、一方大工各自も個々の営業活動にその中心が移ると、中井家また生き残り策として従来の江州大工組から、各郡を単位とする郡大工組として地域別に細かく整備し、そのことによって大工同志の横のつながりを緻密にした大工仲間へと変容させ、寛文八年(1668)の幕府による作事法度、特に三間梁制限の遵守、建築申請や、大工同志の作法、例えば仕事の配分、均衡を考慮した郡外へ仕事に行く時の大工組頭に対する届出や、正規の大工仲間の保護を目的とした大工人数改めを実施し、元禄六年(1693)中井役所として発足する。

 以上、本項では中井家が五畿内、近江六ケ国の大工を掌握した慶長十年(1605)頃より(但し、江州大工にまで支配が及ぶのは同十二年頃以降)江戸を撤収して京都に帰着した寛文初年頃(元年は1661)に至る大工組織の頭目の肩書きについて、当家の文書を根拠として時系列に述べたものである。

   ◆ 大工の肩書の推移 ◆

 それは大別して、第一次〜第三次に分かつことができる。先ず第一次ともいうべき慶長十二、三年に始まる公用作事に際して「諸役これあるまじく」とする約束事が大坂の陣ののち等閑となって、その特権回復を目的として幕府老中を相手どり訴訟に及んだ寛永十二年(1635)までの二十七年間の肩書は「江州肝煎」である。

 次いで第二次といえるものは、諸役免除の特権回復に成功し、幕府老中奉書を得、最早旧来の「肝煎」という役儀も不必要となり、これに代って「江州大工組」として再編成され、一方、不公平税制を改める目的で近江国中の大工高調査を行ない、これによって「引高帳」が作成された寛永十二年暮より、江戸撤収の寛文初年に至る二十五、六年間の大工組織が一般に知られるところの「江州大工組」であり、その組織の長が「同組頭」なのである。

   ◆ 蒲生大工組(郡組)の成立 ◆

 残る第三次的なものは、中井家が京都に定着後の寛文八年(1668)三月、三代中井主水正は幕府法度による三間梁制限、その他を組下大工に触れ流すよう命じるとともに、これを機会に大工人数の調査を命じた。
 これは大阪市史によると五年以前、都市大工の集結する大坂、とくに三郷(大坂の北、南、天満)では新興大工が急増し、これらの大工は大工組に所属しない「もぐり大工、はづれ大工」で、(中井家の表現)手間賃の協定を無視した「下値」にでるなど、正規の大工仲間の障害となり、町触によって厳しい取締りの対象となったことに端を発し、この人数改めを江州にも適用したもので、あくまでも、「もぐり大工」に対して大工組への入組を促し、一方ではこれより先、寛永期の大工高調査以降に大工となった新興大工、(引高を有する高持大工に対して無高大工)の調査が目的であった。

 この書状の宛所は「江州組頭」との肩書を付しているものの、このとき以降「八幡作右衛門かたへ」と地域名を付加するようになり、また十八年後の貞享三年(1686)正月、郡内に五人組の設置を命じるなど、ここに蒲生大工組の成立が窺える。
 結局は寛文八年以降に郡単位に細分割された過渡期を経て、貞享三年には更に郡内を「五向寄」という近隣グループに分割されるが、これは中井家の定めた規制等の違反事実を細かい向寄の範囲内で逸早く見破らんとするもので、蒲生大工組の組織としては幕末まで継承されてゆくのである。

   ◆ 県教育委員会による謬見 ◆

 ところで昭和六十一年三月、県教委発行による
 「滋賀県の近世社寺建築」四十一頁には
 「高木家は江戸初期に江州大工組頭を称し、実際は蒲生郡組の組頭として建築活動の統師にあたった」(以下略)
と記述され、愚直に解釈すると、蒲生郡大工組頭として江戸初期から活動したことは肯定するが江州大工組頭であった事は否定するのみならず「実際は」との文言があるのをみると、この肩書は詐称であると生半可な知識で明言した上で「江州肝煎」時代のことなど、知ってか知らずか、全く触れておらず、その不見識を露呈している。

 また最近では、平成十三年三月末、県指定建造物本願寺八幡別院本堂修理工事報告書の記述に、当建物は元禄七年(1694)当家の祖高木作右衛門四代日向光連が、本山西本願寺御門主より修理のご依頼を受け、京都中井役所に修理願を提出、写し乍らその許可書が現存するにもかかわらず、偏狭で独善的な考えから「このとき再建」と頑強に決定したが、ここまでは見解の相違とやらで失笑で済ませるが、問題はあくまでも中井家の修理許可条件まで無視した「再建」と決定するについて、
「高木は新築で申請すれば不許可となるので実際は新築を目論見乍ら、故意に修理の名目で申請し、無理矢理許可にこぎつけた」とするなど、私の周囲には衒学的で一知半解の連中に事欠かない。

 勿論、大工の肩書の件についても「言わずもがな」のことで、前述の如く当家の祖が「江州肝煎衆」として、大坂夏の陣に参戦、その後の諸役免除の等閑については、近江国奉行、北見氏の折紙を持参して彦根井伊家領を除く近江国中の代官所を巡回したが、これが彼等がいうように蒲生郡のみの組頭であったのならその要もなく、また江州大工組と変容後も、中井家の指示で近江国中の大工高調査も不必要なことで、全てはこの拙文をご一読下さった諸兄が、ご賢察下さるものと考えます。

 これら官職の人々は、官尊民卑の思想から恰も生殺与奮の権力を得たかの如く錯覚してその地位を誇り、矜持を持つが、その個々に蓄積された技術は、「決して己以上遥かに卓越した者は在野の人間には存在しない」の主我主義から軈て意志の疎通という壁をつくる。

 畢竟するに、それは地下足袋を履いて現場で働く「高が知れた大工」と疎んじてみても、宮大工一筋に五世紀に及ぶ先祖の遺した古文書、極秘伝を基いとし、当家古文書の解読に過去四十年余の蛍雪の功に立脚した成果から、当家先祖に関する謂われなき中傷、誹謗に対して、只管平身低頭その訂正を要求するも省察の一片もなく、「一旦掲載したものは不可」の没義道では、彼等を生涯不倶戴天の敵とする不幸な結果を招聘し、折角代々保存されてきた掛け替えのない古文書を、達っての閲覧希望に応じたまでなのに何が逆鱗に触れたものか、事実を歪曲した報告書とし、そのことによって所有者の善意を蹂躙して未来永劫悔恨の連鎖を背負わせるようでは、早晩文化も瓦解の一途を辿るものと憂慮せねばならない。

PN   淡海墨壷