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2005年4月5日
高木敏雄HomePage

誣告に対する反駁と破邪顕正

宮大工 十四代 高木敏雄
    ◆ 釜底抽薪の戒め ◆

 先人の格言によると、問題を解決する根本的な手段として『釜底(ふってい)の薪(たき木)を抽(ぬ)く(ちゅうしん)』つまり、煮えたぎる湯を冷(さ)ますには、「かまど」の薪木を取り除き火を消すのが最も手っ取り早い方法であり、転じて、これの対処にあたって一時凌ぎの因循姑息(その場しのぎのやり方)ではなく、根本の塞源(そくげん)、源をふさぐ方法をとらねばならないと説かれている。

 これを処世(世わたり)の規範とし、その実践について抜本塞源の対象となる事柄を抽出すると、従来、一部の先覚者による不実な高木論評に、後覚(一部)が、誘発され、原拠(高木文書)の内容を頑味(意義を味わう)不充分の儘に既成事実化し、心眼に乏しい誤読がもたらす虚構(事実でないことを事実らしく仕組んだフィクション)の論述は、喫緊(差し迫った)の要事である基本的概念(ここでは大工支配に伴う幕府法度など)を捨象して一顧だにしない嫌いもあるが、それでも当初の段階(昭和40年代ごろ)では高木批判に意図的であったとは考えにくく、それは旧時代の制度の複雑さに拍車をかける知ったか振りの面もあったが、時の移ろいと共に希有にして圭角な調査もあり、彼等は自らに理があると過信し、裏付のない誤断によって枢要な決定を否め、漸次世間を誤導していった。

 これらは客観的な事実確認という観点からいえば、小説化されたものと言わざるを得ず、いわれなく先祖を中傷された私にすれば、如何なる寛容と忍耐をもってしても、心骨に刻して永久に忘れられない痛恨の極みである。そこで史実までも歪曲した放論(書きたい放題)の根源に立ち戻って徹底的にこれの糾明をし、本質の伴わない自説に固執した挙げ句の果てに、先祖の真摯な来し方を論(あげつら)い、それ故に看板倒れの蹉跌を醸成したにも拘らず、自若としている県教委(文化財保護課建造物係)との違和(不調和)について論及してみたい。

     ◆ ボタンの掛け違いによる撞着 ◆

 そもそも確執の素因は、「高が知れた大工」旧家の文書といえども、内容は幕府出先機関である京都大工頭中井役所による裁許の条項であるにも拘らずこれを懐疑とし、旧時代の物事を知らない蹉跌(つまづき)に加えて、建築に携わる者として必要不可欠な建築制限を知ってか知らずか、県では高木文書の内容を「条理に適さず」と判断した異説は到底得心し難く、遂に意志の疎通を欠くこととなった。この腑に落ちない詭弁を披瀝すると、去る昭和48年6月、本願寺八幡別院(近江八幡市)本堂以下三棟が県指定有形文化財に認定され、(但し、一棟のみ半年遅れて認定)このとき当院では棟札・造営関係文書を紛失、止むなく八幡町史(昭和15年刊)に記載された高木文書
(元禄7年1694本堂修覆願提出、同1月28日許可)に依存の状態であった。

 一方、本堂縁高欄擬宝珠に、『享保元年(1716)霜月』の刻銘が確認され、これを何故か既成の価値観により
本堂新築完成年月と決めつけ、一方の高木文書(原拠)は『あんなもの修復の文書だ』と、万人が唖然とする荒唐な論決となった。

 このような愚にも付かぬ
新築説は高木文書の客観的事象(修覆許可)とは氷炭相容れず、それでも県では飽く迄擬宝珠の刻銘のみに惑溺し、一途に自己の主観による『新築』の誤った潜在意識に執着した異説を主唱し、一方真っ当な『修覆』の高木文書は、恰も足の裏に付着した飯粒の如く、うるさくて邪魔なものとなり『あんなもの』と疎んじられる暴言となったのである。

 以上の如く事実を歪曲した誹謗中傷は次第に全体的集団思考として伝播され怨嗟の念に耐えられないものがあるが、これらの誤った見解を打ち破り、真相を顕正(破邪顕正)するのが本項の目的である。

     ◆ 本堂修覆に対する中井役所の許可条項 ◆

 以上の県教委による新築説とは裏腹に、元禄7年1月、京都本山西本願寺御門主の御下命による
修復の思惑は(新築ではなく)既存の本堂桁行10.5間に1.5間を継ぎ足して合計12間とし、その他、所々朽損した柱の取替や、地業(基礎)全体を2尺(約60糎)築上するご希望であった。

 以上は勿論解体を示唆したものであるが、当時幕府の建築制限は殊の他厳しく、
(梁行三間以上の新築も不可)それ故に本来は桁行1.5間の継足し自体ご停止のところなれど子細格別(門跡寺院であるので許可する)とし乍ら、『但し壊し候て建直し候事は難しく成り申し候』とある如く、解体修理は却下された。従って案に相違して基礎の築上は兎に角、切迫した朽損柱の取替えまでも一時保留という憂慮すべき応急修理となったのである。

 それでも頑迷固陋(見識が狭く頑固で、正しい判断ができない)県教委では高欄金物の刻銘のみに固執し、断乎新築説を譲らず、
元禄7年新築着工、20年余の歳月を費して享保元年完成と主観的な鼻元思案の発表となった。

     ◆ 本堂の修理完成と慶讃法要 ◆

 これについて高木文書を基底に考察した私見を差し挟むと、そもそも当該本堂の営繕は、元禄期・宝暦〜明和期の二段構えで実施された。元禄期(同7年〜13年完成)は前述の如く中井役所より解体を禁じられた本堂の応急修理であり、同時に付属建物(書院・台所・対面所)も法令通り準則とし、大屋根より一段低く設けた錣(しころ)庇は「1.5間を限度」とする制限をフルに活用し、結局両方の庇を含めた梁間の最大寸法は、三間梁制限とはいい乍ら6間まで許可されたのである。

 一方、解体を禁じられた本堂は、所々取替を要する程に朽損した柱を黙視するに忍びず、水平方向の横架材等の絡みのない柱は取替とし、他は極力柱根継ぎが実施されたであろう事は想像に難くない。斯(か)くて、

『元禄13年(1700)9月10日、当御門主寂如尊師、御堂(みどう)御再興、慶讃大遶堂  御執行也』     「本福寺旧記」

とあって、このとき通算7年を費して本堂及び大遶堂『遶』は、にょう、つまり、めぐる・めぐらすと読めるところから本堂を圍繞(いにょう・とりまく・かこみめぐらす)する付属建物も同時に完成し、慶讃(堂塔などの完成を喜びたたえる仏事)が、御門主御下向のもと、執り行なわれたのである。

     ◆ 少し遅れた本堂の屋根葺き ◆

 前述の付属建物三棟については、『屋根小棟、こけらふき』(屋根の形状は建築制限により入母屋造りを禁じられた小棟造り、いわゆる「寄棟」、柿葺)で出願しているのを見ると、当初から瓦ではなく柿葺の企画であった。一方、本堂は修理報告書によると、
『元禄7年新築に着手、翌8年(1695)屋根は土居葺まで施工』とある。

 註 小田原の南、早川口にある太閤一夜城でもあるまいに、これだけの
   大型本堂が一年余で新築されたとは信じられない。矢張り修理なら
   ばこその仕業である。

 続く本堂の瓦葺は少し遅れて宝永元年(1704)より葺き始めて翌年完了とあり、結果として10年間は土居葺のみで雨を凌いだことが判明するが、葺足を少し短くしているのは、その辺を考慮しての事であろう。

 何れにしても修覆着手より7年後の法要は段落、(物事の区切り)であり、更に5年遅れた棟包みを実質完成時期と見做しても工事着手より12年後の事であり、これを
本堂修覆一期工事の完了と考える事に決して矛盾は生じない。それは享保元年に金物寄進があった事は否定できない事実であっても、これより16年以前に既に法要が行なわれ、その後に新築完成では洒落にもならない不合理であり、その意義を見出すのは困難である。

     ◆ 高欄宝珠銘は建物完成年月たり得るか ◆

 これについて近隣の類例を参考にすると、当八幡別院より然程遠くない長命寺本堂が成就したのは御厨子の銘により大永4年(1524)で、高欄金物は徳川氏の代官米津清右衛門の一族が、同本堂慶長修理のとき寄進され、その刻銘に同16年(1611)2月13日とあるところから、この寄進は本堂完成より87年後のこととなる。

 また高木但馬作による弘誓寺本堂は、同寺院修理報告書(平成16年)によると、御遷仏は明和元年(1764)11月であるのに対して、一方擬宝珠陰刻には寛政8年(1796)2月とあり、これもご遷仏の32年後となる。

 尚、前掲の八幡別院本堂もご多分に洩れず、元禄13年(1700)法要を執行され、宝珠の寄進は16年後の享保元年(1716)であるので、三ケ寺共にそれぞれの年月が同日ではなく、当院修理報告書(平成13年、3月)の記述のような宝珠寄進(刻銘)年月を、直ちに本堂完成年月と決定するのは早計の謗りを免れない。

     ◆ 三人市虎の戒めと、世評 ◆

 中国の名言に『三人市虎(しこ)を成す』という成語がある。その意は、一人が市街地のど真ん中で、『虎を見かけた』と言っても誰もが「嘘だ」と言って信じないが、三人が口を揃えて同じことを言うと、やがて信じ込んでしまう。つまり、事実無根の事柄でも、大勢の人が同じ事を言えば終(つい)には事実として信じられ、時を移さず世間に広まってしまうという、人が人に対して為(な)す無責任な悍(おぞ)ましさ(ぞっとする不快感)に対する戒めである。

     ◆ 三間梁制限令の実在と意義 ◆

 今般の当該本堂県指定建造物認定に伴う調査(S48年)に際して、往事の建築制限を想起し、これに付随して処理されるべき事柄、即ち元禄7年に着手された本堂の作事が、新造・修覆・を論ずるまでもなく、これより28年遡及する寛文8年(1688)、幕府老中による奉書が京都所司代経由で大工頭中井家に届けられ、中井家またこれに呼応して上方の大工組頭に対し、「新令を申し聞かすので上京すべし」と、差紙が高木にも届けられた。

 内容は『梁間の寸法は京間3間(一間6・5尺、1・97米)を限るべし』を中核に、その他、屋根の形状は入母屋妻飾りを禁じた小棟、仏壇角屋、庇の制限に加え、柱頂の意匠については舟肘木以上の結構は無用(これ以上は望まないこと)とし、従って大斗絵様肘木、平三っ斗等までも不可という厳しい制限であった。

     ◆ 県教委の異論 ◆

 以上の制限令を踏まえ所としてこの問題を究明すると、元禄7年当時の本堂梁行寸法は11・5間あり、制限寸法より8・5間の超過なればこそ準則によって『修覆』で申請したもので、それでも頑なに『宝珠の寄進は即ち本堂新築の証し』の我執に拘泥し、高木文書まで虚仮にした恣意的で事理に暗い解釈となった。このような識見の欠如した屋上屋を架す議論は誠に鳥滸がましく私まで物笑いの的となるリスクを避けるべく、然(さ)りとて傍観の立場であるところからこれ以上の執拗な抗弁もできず、不即不離(つかずはなれず)の保身とした。

     ◆ 問題があると指摘された高木文書 ◆

 「斯道(この道、人の人たる道)の重きを知らぬ者は物怖(ものお)じせず」という成句が示す通り、先年(S49)の論争から身を退(ひ)いた「ツケ」が今頃になって回ってきた。それは昭和62年、高木非難第3号、奈文研、細見・山岸両氏による報告書に元禄7年1月、
高木が提出した修覆願に対して又もや趣旨の把握できない乱暴な難癖をつけ始めた。この愚にも付かぬ屁理屈を敷衍(ふえん)すると、

  この
修覆願は問題のある所で、文面では桁行11間半(高木文書には10間半とある)梁間12間(同じく11間半)の本堂を修理すると同時に、桁行方向に1間半の継足しをやりたいというが、「桁行方向に拡張するのは不可解である」と、今回(S62年)より14年以前の調査ですでに価値あるものと認定された文化財に対して常軌を逸する御託を並べ、高木文書には『修理着手以前の本堂桁行10・5間に1・5間継ぎ足して12間としたい』とあるにも拘らず、根本的な要点である桁行寸法と梁行寸法を勘違いし、10・5間+1・5間=12間ではなく、(梁行寸法の)11・5間+1・5間=13間であると、空前絶後の大醜態を演じたのである。

     ◆ 懐疑剥(む)き出しの放論 ◆

 疑念に苛(さいな)まれた非道な高木文書調査に対する酷評は、遍(あまね)く客観的判断の基準を拠りどころとした知性・理性(主知)に基づく高尚な評価ではなく、文書や作品(建物)から享受した感情的な主観を露呈した僻論が障害となり、その結果生じた主義・主張は知ったか振りの衒学が無碍に高じ
『1・5間の継ぎ足し自体が中途半端である』と、独り善がりの夜郎自大な指摘をし、『拡張後の姿が思い浮かばない』と、偉ぶった極言を吐くが、そもそも約300年以前から上手く納まっている既成建物に難癖をつけ、今頃いわれのない悪評をされても、それは天に唾する愚行である。

 このように雑駁で、小説化された異議そのものは彼等なりに捧腹絶倒の屁理屈として介在し、その確執はすでに述ぶる如く、この調査より14年以前(S48年)に修覆の高木文書を虚仮にし、強引に新築説を主唱したその果てに、自らの誤謬を後生大事とし、現在に至るも尚引き摺り回している県の体たらくに由来する。

 この道理に合わない異説とは、
『高木は先ず虚偽の申請ありき』の烙印を「三人市虎」の如く妄信し、『つまり、高木は新築で申請すると不許可になるので、故意に修覆の名目で許可を得、実際は新築をした』等と、付会(こじつけ)の説とし、更にこれを余計に証拠だてた新築説の妄信が禍して『現本堂には桁行に拡張した痕跡がない』と得手に帆を揚げる馬鹿げた愚論を展開するに至ったのである。

 更に彼等は間違いだらけの自説を正当化すべく、現本堂の側柱真々を
1間6尺2寸で測ると13・2間になると豪語し、これに対して高木文書には13間(正しくは12間)と記されているので両者はほぼ一致すると極言する。

 つまり1・2間の児戯に類する計算違いは身勝手に無視し、前述の自らの実測13・2間と、高木文書の
12間を捏造してまで13間であるとうそぶき、苦肉の計の空惚け(そらとぼけ)をする卑劣な手段の空理空論により、『高木文書にある1・5間の拡張は当初から無かった』即ちそれは中井役所を欺く計略であり、『高木は公文書を捏造し、虚偽の申請をした』と、公刊の出版物という信憑性に便乗し、世間に誤謬を垂れ流したのである。

 この辺り(基準または着想の範囲)が誠に浅慮の致すところ幼稚であり、その悪行が天の配剤によって自ら墓穴を掘ることとなった。それは一知半解の生半可な知識で愚にも付かぬ批判をする破廉恥は最も反省すべき県教委の恥部であり、プロの立場であり乍ら
6尺2寸という半端な数字の帳尻合わせを画策し、真っ当な高木文書の寸法を改鼠してまで無理矢理割り込んだ誤算の結果、偶然自己のみが満足喜悦する寸法となっただけの前代未聞の珍事である。

     ◆ 報告書に開示された懐疑説の披瀝 ◆

 (高木非難・本願寺八幡別院の項) 72頁・73頁抄録。以上の事から修覆・拡張という願書は実は
中井役所に指出す(ママ)際の便法(便利な方法)であって、実際は新築を目論むものではないかとの疑いが成り立つ。

 尚、
修理と称し新築する例は他にも見られ(例えば弘誓寺本堂)ことに、中井役所開設後間もないことを考慮すればこういった事もまかり通った可能性が高い。従ってここではこの願書を本堂新築を果たすための願とみておく。

 同書5頁・6頁抄録。元禄7年の八幡別院改築の場合、
法度違反であるにも拘らず、「子細格別に付、御許容され、」と例外の処置であることが明記されている。このことは実は法度違反の申請の場合も、特別の事情があれば許可されたこと、その際上納金等の何らかの取引が行なわれたのであろうことが推測される。(6頁では)「前記の八幡別院のように問題のある申請の場合」(と指摘している)       

 (高木非難・弘誓寺の項)104頁
新築の申請では不許可となる可能性があるところから、わざと古堂の修理・修復ということにその名目をかえ、つまり虚偽の申告をして許可にこぎつけたとするのが妥当なところであろう。それが中井役所のまったくあずかり知らぬことであったのか、あるいは知っていながら特にお目こぼしを行なったのか(以下略)
             『奈文研・細見・山岸論、原文のまま』

     ◆ 増建にまつわる空論と実在の疎明 ◆

 前掲の如く、細見・山岸氏による継ぎ足し否定論は、客観的な真理を疑い、現実を無視した挙げ句の果てに、抽象的で実体のない空理空論を展開し、尚も恬然として恥じないが、そもそも元禄7年の修覆申請に対する裁許の真実の意義は、解体は禁じられても増建は認可された事実が示す通り、現実として目(ま)の辺り二重縁(修覆以前は濡縁のみ)が顕在する根拠を侮蔑し、一途に高木の陥穽を画策した不毛の論理、即ち『継ぎ足し否定説』が正論とすると、二重縁は成就している筈もなく現在も濡縁のみの旧態であることは火を見るよりも明らかであり論を俟(ま)たない(言うまでもない)が、この不逞は議論ではなく自惚れた、頭ごなしの強迫観念(打ち消しても、打ち消しても迫ってくる不所存)である。

     ◆ 過去の表示、間(ま)と間(けん)◆

 当該本堂は去る48年、県指定建造物の認定に伴う調査において、桁行は9間(実際の計測寸法にあらず)と明記されているが、この9間本堂という呼称自体は現在のように定距離を示す表現方法ではなく、両端の柱と柱の「アイダ」の数によって、それが9ヶ所あると個々の柱間寸法に差違があったとしても、9間(但し奇数を原則とする)であった。

     ◆ 間(けん)を基(もとい)とした桁行寸法 ◆

 以上の呼称9間本堂の桁行に対して、高木文書による修覆以前の桁行総計は10・5間と明記され、この内、縁を除く入側柱間は9間であるので、これを差引すると入側から縁側までは10・5間−9間=1・5間となり、これを二等分したものが旧来の濡縁の出巾となる。

 一方、高木絵図による修覆後の企画は、入側より外方に旧の縁巾より二倍の『9尺の広縁』(現実は垂木割の関係で僅少の端数がある)が書かれており、入側柱間9間+広縁(1・5間×2)=12間の桁行総計となり、この数値は現在も同じであるので、彼らの誤算13・2間では子供にまで哄笑される無様である。

 それにしても故意か、迂闊か、将又悪趣味なのか、高木を貶(おとし)める事に焦慮の果ての看板倒れの醜態はどのように説明する心算なのか、人を呪わば穴二つ、残念乍ら彼らの謀略である増建は無かったのではなく、『現前に存在するのである』
 それは圭角(言語・行動が角立つ)な思考で先人を疎んじ、その作品に顕在した手法や特徴を研究しょうとはせず、徒に「洋服の仕立てが不具合で身に合わない」ではなく、『自分の感性(素直に印象を受け入れる能力)が、服の寸法に合わないのではないか』と、謙虚で大らかな雅量も時として必要不可欠であろう。
 
PN   淡海墨壷