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2005年10月26日
高木敏雄HomePage

大工組織の調査と疑義 

                      宮大工 十四代 高木敏雄
    ◆ 既成の秩序と正道の否定 ◆

 世俗の雑話に「十人十色」と言う通り、物事に対する見解は人々によって異なるが、これが小説ではなく、公刊の調査報告書ともなると、些(いささ)か趣を異(こと)にする。即ち、調査にあたって斯道の道理(人としての人たる正しい道)を会得し、『実事求是』(事実に即応した真実の探求)をなすべきところ、残念乍ら一部の心なき不所存者による虚実混交の無責任な調査報告を、後学者がその正否を識別することなく、唯々著者の肩書にのみ惑溺してこれを鵜呑みにし、その為、先学の垂れ流しの享受によって生じた事実誤認に加え、先入した固定観念を是正する手立てに乏しい浅学が一つの障壁となり、ますます跳梁する(のさばる)傾向にあるが、蛇(じゃ)の道は蛇(へび)で、同類のする事柄、取分け先祖に対する非難は、憚り乍ら先祖代々「餅屋」を標榜する私にすれば容易に推知でき、人後に落ちないと生意気に自負するものである。

 その迷妄を打開するには、社会の安寧秩序の根幹である倫理を、単に一般的な規制として捉(とら)えることなく、これを自己の生き様(経験)を密着させた具象化とし、その成果に基づく責任のもてる発表でなければ、最早、病弊がカンフル注射を要する焦眉の急となった文化は、やがて形骸すら止(とど)めなくなってしまう。

 そこには遠慮会釈もなく、自己の不見識を棚に上げ、矢鱈に他者を攻撃して得意満面としているが、時には理性による「深謀遠慮」(将来の後進の人々のことまで考えねば)先人より次第送りをして戴いた恩恵に対する背信となり、一方、これを信じて読まれる人々に対する詐欺行為ともなって、「何をか言わんや」呆れ果てて言葉もない罪科(つみとが)となり、人間として失格であると思う。

     ◆ 理を非に捩じ曲げた詭弁 ◆

 これについて『滋賀県の近世社寺建築調査報告書』昭和61年、(滋賀県教育委員会発行)41頁、『近江八幡の大工組頭、高木家』の文中に、
「高木家は江戸初期に江州大工組頭を称し、『実際は』蒲生郡組組頭として建築活動の統師にあたった」(山岸常人)の独善による事実無根の記述があるが、これの根拠となった著書は、東近江五郡の「郡組」についてと題する『日本建築学会学術講演梗概集』昭和51年10月及び、江戸時代中・後期における六ヶ国農村大工組について『近世建築の生産組織と技術』昭和59年、(吉田高子)より抄録した旨が明記されている。

 そこで先ず前者、山岸説の妄想について抗(あらが)うと、前述の「江州大工組頭」〜「蒲生郡組組頭」を肩書の地滑りであると一方的に決め付け、性悪な吹毛求疵の思う壷と曲解して悦に入るが、これは自己の不見識による認識不足の恥さらしであって、絶えず事あれかしと希求する肩書の降格ではなく、その真意は中井家による大工編制(成)に伴う真骨頂である。この事象(事のなりゆき)について糞丁寧に
『実際は』と、わざわざ余計な文言を挿入する偏狂の勘繰りは、先祖の肩書そのものを常套手段の懐疑とし、その素因は吉田説を妄信したことが一層高木非難に拍車をかけ、指弾の矛先を先祖に向けた事実誤認の付会の説をつまみ食いした根拠のない妄想や、主観に基づく印象批評は、次元の低い虚誕(でたらめ)の虚構(作り事)に他ならない。

 この憎しみの連鎖の否定的な邪念、つまり
『実際は』の文言を前後させると、山岸論の事理に反する感情的な奸策(悪だくみ)を如実に垣間見ることができる。即ち、『高木は、実際は矮小な蒲生一郡の組頭の癖に、その身分を越えて勝手に上位の称号、「江州一ヶ国の大工の頭」であるかの如く誇大に僭称した』と識見の欠如によって先祖の扱き下ろしをし、溜飲を下げているが、この愚にも付かぬ駁論こそ山岸論の傲慢無礼の腹蔵なき真意の表徴であろう。

 その他、当人の陰湿な猜忌を更に裏付けるものとして、寛保3年(1743)高木によって上棟された寺院本堂の棟札銘文まで非難・攻撃の俎上に載せ、高木は
『中井主水家棟梁と自称した』と児戯にも劣る難癖をつけているが、そもそも棟札の揮毫は御住職か、その役員さんが執筆されるのが通例であり、たまさか書式等について大工に相談されることはあっても、手に馴染(なじ)まない毛筆で大工がこれを書いた例はなく、全ては先祖の陥穽を目論んだ、ど素人紛いの下劣な言いがかりである。

     ◆ 山岸説の原拠となった吉田説 ◆

 一方、後者の吉田説について、同氏より私宅に古文書閲覧を希求する打診があった昭和51年、当時私は県外で寺院の山門造営に奮闘中であった。このとき要請のあった先祖伝来の古文書は、父の死後火災を考慮し、田舎の土蔵に保管して母に管理を依頼、大半の文書(長持三棹分)は重要な希覯文献であることから『絶対に他見は許すな』の亡父の遺言(既刊の八幡町史にも先祖に対する不都合な記述が散見される事実)により、当家では非公開の原則を堅持し、それ故に仕事の多忙さと相俟って吉田氏には余儀なく、座右の一部の文書のみ手短に閲覧を許し、ほんの申し訳程度のその場のがれとした。

 吉田氏は同年秋、早速に当家文書を交えた論文を発表したが、その文中に功名を焦慮する余り、事実と大幅に相違する不実の記述を臆面もなく羅列し、自己に都合よく文章を飾り立てた心骨に刻すべき知ったか振りの牽強付会の説は、折角の当方の善意を仇で返す意趣返しとなり、このように人間味が欠落し、道義に外れた公表は、僅か貝殻一杯の大海の水(高木文書)が、山岸説・他により十倍の水で薄められて針小棒大となり、その駁論が多面にわたって影響を及ぼしたことは前述の通りである。

 我々は古文書や先人の遺作を通じてこれを規範とし、その中から物事の本質を洞察して学ぶべきところ、一部の不所存者は古文書が難解であることから、取りとめのない意識の希薄さを露呈し、また、これを研究するについて自らが精査することなく惰眠を貪り、他者の論旨の覗き見による正鵠の外れた誤った判断や、理に悖逆した浅見による思い込み及び、思考の曖昧さは、必然的に古文書に書かれた内容の事実誤認となり、奇を衒う軽はずみな内幕の安手の読みものに成り下がってゆく。

 それ故に、瞠目に値する実態を的確に表現することができず、益々偏見による拍車をかけて高木剥がしに汲々とするが、それは調査に際し、奈文研や県教委という看板を楯に虚勢を張ってみても、所詮は旧時代に於ける専門分野の実質が伴わず、生半可な知識による度が過ぎた先祖の人権無視は、却って文化の破壊に繋がると言っても決して過言ではあるまい。

     ◆ 公用大工の肩書と、その変遷 ◆

 『道理を破る無法あれど、法を破る道理なし』先祖の肩書の侮蔑について、吉田・山岸説に反駁すると(紙幅の都合で概説)徳川政権下になって大工頭中井家による支配が近江国にまで浸透したのは、慶長15年(1610)、高木から中井家に提出した書状によると、『江戸・駿河まで罷(まか)り下り(命令により任地におもむく)御用役つとめ申し候』とあり、これを拠りどころとして考察すると、(前後が逆になるが)この後者の公用とは、同12年に焼失した家康公の隠居城(駿府城)の再建〔これの完成後に諸役(税金)免除の特権を与えられる〕であり、残る前者、江戸とは後者の事実から勘案して、同11年(1606)の江戸城修築と考えて大過なく、つまるところ、慶長11年より寛永12年(1635)に至る29年間の組織の呼称が
『江州肝煎』である。これについて、中井家から高木に宛てた書状には『江州きも入衆へ』とあり、このとき先祖は触頭(命令を伝達する役目)をつとめていた
                        (高木文書)

 
続いて寛永12年より、江戸市中の大半を焦土にした明暦大火(振袖火事)(1657)ののち、中井家が江戸を撤収して京都に帰着される〔万治年中(1658〜60)と考えられる〕約24年間の大工組織こそ『江州大工組』であり、これに関する高木宛の書状二通の内、一通の宛所は『江州肝煎衆』残る一通は『江州大工組頭(高木)作右衛門へ』とあり、両通の年月日によって従来の肝煎から、大工組に改められた切替年月を容易に峻別できる。
                         (高木文書)

 第三次の組織の名称、蒲生大工組について、中井家が京都に帰着された直後の動向は詳(つまび)らかでないが、早くも寛文3年(1663)都市大工の多い大坂では、もぐり大工が増加したため大坂町奉行は、「中井家の規則を守らぬ大工は、その支配下の六ヶ国より他の地域に出て仕事をするように」と、触書によって取締を強化している。       (大阪市史)

 これが近江国では寛文8年(1668)中井家より高木に宛てた書状、「新令を申し聞かせるので上京すべし」の出頭命令が届き、このとき組織の再編制として従来の一国一組の制から、農村大工組を一郡一組に細分化し、貞享3年(1686)に至り、一郡の内部を更に五分割した向寄(最寄とも)制度とした上で、各向寄に一名宛の大工年寄を配し、この五名の大工年寄の頂点に組頭一名が存在し、ここに郡大工組組頭の地歩が確立した。

     ◆ 不義・不当・無謀の論述 ◆

 以上の確証があるにも拘らず、吉田・山岸説では、不義(人の道に外れる)・不当(当を得ていない)・無謀(物事を深く考えない)等により、恥を恥とは意識せず、ぬけぬけと先祖の肩書を否定するが、果して彼等の妄想の通り
『実際は蒲生郡だけの大工の頭であった』とすると、高木の萌芽は単に寛文期(1661〜68)以降の事となるが、案に違(たが)い、慶長年中の江戸・駿府城・京都御所等々の公用作事や、大坂の陣による軍工としての活躍に始まって、元和4年(1619)、工匠保護の特権が等閑(なおざり)に付されるや高木は中井家に具申し、中井家またこの付託に応じて当時の近江国奉行、北見五郎左衛門氏に伝訴、高木は北見氏の書状を得て近江国中の代官所(著名なところでは、草津の代官、芦浦観音寺、膳所城主本多氏)を遍歴し、『在々(至る所)の代官所をお尋ねなされ、公役大工の特権はこの通り保護されている(税金の二重取りをしないで)と』巡回した。

 これを彼等の悪宣伝通りとすると、高木による蒲生郡以外の活動は不必要であり、第一に慶長11年以来の先祖による犬馬の労は空虚(からっぽ)で空しいものとなるが、寧(むし)ろ、空虚なのは、知ったか振りで矢鱈に先祖を誹謗・中傷する度し難い(救いようがない)御両人の頭の中ではなかろうか。

     ◆ 蒲生大工組の体制と運営 ◆

 慶長11年(1606)〜元和4年(1618)にかけて目まぐるしく活躍した公用大工であったが、幕府財政の窮迫という時代の成り行きには如何(いかん)とも致しがたく、中井家は京都に帰着されたが、然(さ)りとて、焼失による京都御所造営以外は公用作事も極端に減少し、ここに需要と供給のバランスが崩れると、畢竟それぞれの大工自身も世過ぎ・身過ぎの手だてとして自普請(自営業)に重点を移さざるを得ず、必然的に仕事を供給してくれる客(建築主)の確保が熾烈を極めることとなった。

 一方、幕府側もこれを気散じ(のんきに)対岸の火事として拱手傍観していたわけではなく、ここに「寛文の大工法度」が登場する。即ち、寛永(1624〜43)以来財政の窮乏に対処してきた倹約令(武士は武士らしく、町人は町人らしく、応分の度を越えざること)を更に強化し、寛文8年(1668)中井家は高木に対して『新令を申し聞かせ、その上で二通の写本をつかわす』の下命により上京した。この新令の内、一通は建築制限(新築の梁間寸法は京間3間〔6.5尺=(1.970粍×3)〕を越えざる事と定め、残る一方の定法については大工仲間の作法〔従来より各自が有する得意先を互に再確認し、やむなく建主の要請(自己の得意先以外の作事)に応ずるときは、その出入大工の承諾を得た上で、但し、この仕事は今回限りである旨の一札を手交し、紛争なきように〕と定めた。

 註 県教委の一部の面々は、前者の制限令(門跡寺院でも適用された)
   を不見識によってこれを蔑(ないがし)ろにし、先祖を愚弄した。
   例えば本願寺八幡別院本堂の元禄修理を頑強に
「新築である」
   豪語し
(同課、池野説)一方、山岸説では後者の大工作法を無視し、
   
『高木は各地で幕府禁令を破り、その為に地元の大工と争論に及び、
   これは組頭という職権を 乱用した政治的なやり方である』
と、ど
   素人が知ったか振りで先祖を罵(ののし)り立て、公刊・私刊に
   事実無根を垂れ流している。
    
     ◆ 郡組分立の隠謀と組頭の職責 ◆

 以上のような逼迫した事態(仕事を求める大工側に不利な状況)が切迫すると、自(おの)ずと世情の常套として、『窮鼠猫を噛(か)む』の喩(たと)えの通り法の網を潜る大工(中井家では、はずれ大工・抜け大工と表現)が暗躍し始め、これらの人々は仲間の協定を破り、定められた賃金を無視した下値で働き、素人を雇い入れ、他郡にまで出向して需要に応じるため、正規の組大工の障害となった。

 元文5年(1740)この度不届き(法にそむくこと)なことがあったとして、東近江五郡の組頭が一堂に会して鳩首合議の結果、原則として「他郡に出て仕事をなさざる事」と定め、例外として、前述の寛文法度にある如く、郡外に出向するときは先ず自己の所属する組頭にその旨を届け、これを受理した組頭はその付託に応じて相手方の組頭に打診をし、相互の組頭の相対尽(あいたいずく)(合意)の上でこれを中井家に届け、その上で郡外の出向が可能になるという取決めとした。

 これについて蒲生郡は地域が広大なこともあって天領(幕府直轄領)以外の私領支配地に居住する大工も多く、一部の不心得な人はこの煩雑な手続きを潔(いさぎよ)しとせず、一例として、寛延2年(1749)12月、及び翌年9月、と相次いで蒲生郡下の山の上村(現竜王町)の大工より高木宛の書状によると、同村の与兵衛という大工が近年策略を弄して各地で大工を雇い、無届で仕事を始めたので、組の作法に従うように申し入れたところ、村役人の取持ち(仲立ち・仲介)により、尾州様(尾張藩主)の御免を(容認)されていると主張して聞き入れず、その上、郡内の尾州領下大工は心の儘(自由にしてよい)と返答したため、このまま放置すれば他領(尾州領以外)にまで類を及ぼしては差し留めも難しく、大工作法も立たず、尾州表(政治を行なう所)に何とか申し入れて欲しいと具申(意見などを詳しく述べる)書状が届けられた。

     ◆ 郡大工組の体質について ◆

 大工組頭といえば、世間の体裁はよいが、本質は名目だけで、上から抑圧され、組下大工から突き上げを喰らう誠に意に満たない中間管理職であったと、子孫の私が今頃追懐しても始まらないが、中井家は公儀の役人として力任せに『由(よ)らしむべし、知らしむべからず』(組下大工を唯々従わせればよく、理由の説明は不用)と、杓子定規に強(し)いるが、凡そ役人たる者は人の上に立って雪駄(せった)の土用干しでもあるまいに、反りくり返って威張り捲(まく)るだけでは能がなく、時として『今日立つる民の煙の絶えざらば』と、民(たみ)の竈(かまど)(人民の暮し)の忖度も必要であろう。

 このような情勢下、怒髪天を衝(つ)く一部の不満分子が反発し、大工組分立の策略を企画したが、元来幕府を楯の金城湯池の中井家の定めた一郡一組の制では容易に組分けを首肯する気配もなく、それは(ごまめ)の歯軋(はぎし)り等しく、唯一の手段は、無法を取締る役目の組頭高木を罷免に追い込む以外に体質改善の方法は無いと考えたであろうが、反面、これとて六ヶ国大工組全体の排他的・独善主義の陳腐な支配体制に無理があったといわざるを得ない。

 前掲の反発は、公儀の法度を順守しない大工にも非があるに違いないが、これの理非について根本に立ちかえると、寛永13年(1636)大工の所有する土地を調査し、「大工名寄帳」(一年間のとれ高明細)を作成して、これを大工組頭に管理させたが、この目的は公用作事に大工を動員する反対給付(諸役の免除)の特権を与える台帳であったが、これとは裏腹に大工高の付着した土地の領主はこの事によって永久に課役を徴集できないのみか、この村落に居住する農民に幕府はこれを無償で耕作させるという、いわば税の負担増となり、そのため土地の領主は機会のある毎に大工の特権を侵害せんとした。 
                         (高木文書)

 そもそも大工高とは、高役(公用大工の年間米生産高)から税の分を事前に差引してあるので、文字通り『引高』といい、これを所持する大工を引高持大工、略して『高持大工』というが、この特権を与えられるのは長子のみに限定され、例えば、一家で兄弟三人が大工を始めたとしても、長子は高持大工、二子・三子は無高(冷飯食い)であるため諸役免除の特権は与えられず、また平大工の身分であるので民家以外の請負は許されず、仕方なく高持大工の親や、親方衆の下働きに甘んじなければならなかった。

 一方、弟子は高持大工に入門して一人前になると、親方の保証によって大工組に加入できるが、高持大工になるには多額の金子を必要とし、それでも権利はその者一代限りであるので、大抵は平大工で生涯を終るのに対して、世襲の匠家は代々長子に継承されて益々永続せしめる性質を与えたが、無高大工の視座からすると、誠にもって偏向した矛盾極まる制度であった。

     ◆ 新組結成の連判と謀反大工 ◆

 このような普遍妥当性を欠いた制度の濫觴は、前述の寛永13年の大工高調査を切っ掛けに、これ以前から大工営業をしている人を『古株』、同年以降に大工を始めた人を『新株』と区別し、組の運営は古株大工が牛耳を執った。この排他的な差別は、当初同業者増加の抑制が目的であったが、次第に因習の打破を主唱し、この制度の矛盾に反発する不満分子は当然無高大工であったが、彼等は絶えず大工組支配下の脱皮を目論む傾向にあった。

 宝暦2年(1752)8月、中井役所の役人三名が連署して高木に宛てた顛末書によると、前年の冬、最寄の大工、年寄より高木に対する退役願が出され、この事案の判定を此許(ここもと)に於てとあることから、中井役所で吟味されたことが判明する。

 このとき不義は御法度と知り乍ら連判した人々は『当初からこれに不得心の者や、一旦署名し乍らその後に取消した者もこれあり』とある通り、各自で連判を決めかねる首鼠(迷って決心がつかない)の状態であった。その時期は宝暦元年(1751)冬とあるから前述の尾州領内の大工による具申から一年後にこれを決行したことになるが、このときの書面の内実から勘案して謀反を企てたのは尾州領内の大工と考えられる。
 これの吟味について、主義・主張の趣旨が大工組の運営にまつわるものであったので、同業者の神崎・野洲両郡の組頭が『双方をさばきなされ』とあり、当家には打ってつけの至上の仲介者であった。

 中井家ではこの組頭二名の意見を参考に斟酌した結果、元来組分けは法度(禁制)であるのでこれを却下とし乍ら『取り分け古格(昔のしきたり)を忘却せぬ事を肝要に心得ること』と説諭(いいきかせ)し、「名宛て」(高木を名指しした事)について、
『連判しなかった者や、または、一旦署名したものの、その後に削除した面々共に、右の一件相済み、今後理由なく異議を唱える者は、大工職の停止処分を命じるので心得違いのある者は年寄り方を通じた上で、よくよく大工共に申し含める事』と高木に命じた上で、『大工共の印鑑をとり、組内を堅めおき申すべきものなり』と結んでいる。

     ◆ 実質の伴わない吉田説 ◆

 中井家より高木に宛てた書状には、争論の目当ては組頭の退役願であってもこれに共鳴して連判した人々の内訳は、『宛初から連判に不得心の者や、一旦連判したものの、その後に署名を取消した者もこれあり』とある書き振りを勘案すると、
結果として連判した大工は皆無ということであり、つまるところこれを煽動した主謀者は他ならぬ向寄責任者の大工年寄であることが判明する。

 この私見の根拠は、同書の末文に、『これ以後大工共より申し出あるときは先ず大工年寄に申し出で、その上で年寄方より組頭に届けることとし、大工共は組頭に直接申し出ることは禁じる旨を申し渡し』とある如く大工年寄を蔑(ないがし)ろにせず、彼等にも支配権の一端を認めさせている事実により真意を感得できる。

 元来この反発の素因は、旧来の陋習により全体を構成する諸要素の矛盾が燻り続け、とどのつまり組分けは法度(御禁制)であることを知り乍ら、勝ち目のない訴えに至った彼等の苦悩の片鱗すら忖度することなく、吉田説では単に高木と組下大工との対立と受けとめ、軽率に
『高木は退役をまぬがれた』の人情味なき批評は、只々刹那的、興味半分の野次馬に止(とど)まった感が否めない。

 一方、山岸説では例によって
『高木は組頭追放の願出を、中井役所との直接交渉で却下させた事実にみられるような、中井家との密接な係わりに求められよう』とあるが、これは同氏の他の暴評と対比して辻褄が合わない慇懃無礼であり、残念乍らこのような事実は見当らず、単なる気紛れの御都合主義で先祖を徹頭徹尾愚弄したご判断と未来永劫心骨に刻し受け止めておく。

PN   淡海墨壷