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2004年4月22日
高木敏雄HomePage

高木文書が蛇蝎視された経緯

宮大工 十四代 高木敏雄

      ◆ ま え が き ◆

 明治以降、日進月歩の勢いで、文教政策(学問・教育によって人を教え導く)が盛んとなり、物質が充実し文明開化の時代が到来すると、吾人の分野では古社寺保存法が制定され、一方では旧時代に先人によって造り出された白眉の作品や、その「ものづくり」の人々の来歴が顕彰される事となり、(別段胸を張って言うべき事でもないが)先祖の来し方を顕著にすべく、大正6年9月『近江新報』に掲載されたのを先鞭とし、『蒲生郡志』(大正10年)『八幡町史』(昭和15年)を始め、戦後の昭和26年3月、「学習大辞典美術編、二」「日本美術史概説」「蒲生郡志」「近江人物伝」等を出典とした『近江の先覚』(芸道部門)が、滋賀県教委より発行され、最近では平成4年3月、『近江を築いた人びと』「草の根群像下巻」(同県教委)の発行があり、これらは殆んどが官の機関の出版物であった。

     ◆ 賞賛から非難へ急変 ◆

 これらの評伝には(先祖の事は私以外わからない)千慮の一失とも言うべき、(失笑で済ませる程度の)大同小異の誤記があるものの、何れも練達の士の筆になるものであったが、これに対して昭和60年以降の県教委発行による高木非難、酷評、冤罪紛いの毒筆はとどまる所を知らず、廉恥の心や、誇り、倫理などは疾っくに独善的私意によって棚上げとし、ここに隔世の悪し様をまざまざと見せ付けられた。

 これより先、昭和50年代半ば頃より、県教委の主導により、次期指定候補と目される近世社寺建造物見直しの気運が高揚し始め、望まぬ事乍ら高木作品も調査の範疇となり、同61年3月、「滋賀県の近世社寺建築」と題する調査報告書が公刊された。

 これに伴う建物群の調査にあたって、同文化部文化財保護課には専門技術者の陣容が整っており、その雌雄の決定について、私は容喙する権利も資格もない単なる傍観者の一人であった。

 一方、建物の調査と一線を画した、造営の裏付けとなる「付け足り文書」は、現在では殆どが散逸した状態で、折角の先行文献の剔抉は至難の様相を呈し、それ故に調査をする側の諸氏にすれば、畢竟これの探索が、何は扠置き焦眉の急の様態であったことは言うまでもない。
 註 但し、この時点での高木文書は未公開であった。

     ◆ 県教委の僻論を斬る ◆

 中国の名言に『知らざるを、知らずとせよ、是知るなり』つまり、知らない事(知らざる)は、正直に知らない(知らず)という方が得策であり、知ったか振りをしていると誰も教えてくれないので、知識の向上(これ知る)は覚束ない、(望んでも無駄である)という諭しである。

 この箴言を念頭に前述の県教委の報告書(61年3月)を虚心に刮目すると、
 41頁 
近江八幡の大工組頭高木は、江戸初期に江州大工組頭を称し『実際は』蒲生郡組の組頭として建築活動の統師にあたった。(注1)
 41頁
江戸中期以降はその権力は弱まり、文政10年(1821)の論争では組頭 より退かされる。(注4)
 42頁
組頭を追われるのは光規の時代である。(注5)
 43頁 
中井家棟梁と自称した。(注2)
 43頁
組頭追放の願い出を、中井役所との直接交渉で却下させた事実、(注3)

 以上は厳然とした客観的事実があるにもかかわらず、主観によって正当な判断を放棄し、都合の良い所だけをつなぎ合わせた弥縫の下策となっている。その為、叙述に欠けた所や、肝心な部分に触れない不徹底な点など、これを論理的な思考によって的確に表現することなく、矢鱈に付和雷同の野次馬の如き揶揄とし、健気にも蟷螂の斧の状態で当家先祖の陥穽に挑んだものの、結果は天網にかかり、自分で墓穴を掘ることとなった。

     ◆ 不実記載の否定 ◆
 
 注1
 これを手っ取り早くいえば『高木は肩書の詐称をした』という容疑であり、取り分け「実際は」の三文字が彼等の謀略の分岐点である。仮に筆順を変えると一段と分かり易く、『高木は一郡だけの大工組頭の癖に、近江一ヶ国の頭と僣称した』と途轍もない曲解をしたもので、この「高木剥がし」の詭弁・強弁は「注2」にも共通する。
            (拙稿、幕府公用作事と江州大工に詳述)
 注2
 寛保3年(1743)9月、高木によって上棟された本堂棟札の記述に難癖をつけ、「中井主水家棟梁と自称した」と、下らない言い掛かりをつけるが、その揮毫自体、当該寺院ご住職又は役員諸氏の筆になるのが通例である。
 注3 
先祖が恰も大工頭と結託して組下大工による組頭罷免願を却下したとある
が、それの派生した年月も記さず、曖昧模糊で誠に卑劣であり、仮に彼等の
記述通り近江の田舎大工が中井家と双肩?の権力が あったとする と「それ
以降高木の権力は弱まった」とする筆致とは大いに矛盾する。何れにしても半可通で、啻に書きたい事を羅列したに過ぎない。
    (拙稿、鼎の軽重を問う・地の巻「新組結成の動き」に詳述)
 注4 注5
 注4・注5は、「注3」同様に謀反大工が親組を脱退して新組結成を目論んだもので(中井家は原則としては、これを許可しない)これの審理に際し高木は当時三重県で造営中に遠路遥々再三再四、それの釈明に上京したが、文政10年中井家は終に謀反大工側の賄賂に傾き、高木は中井家の不誠実さに反骨し、自己の意志で職師を辞したものである。その証拠として、謀反大工の本来の訴えの趣旨、「高木支配を離れた新組結成の野心」は成就していない。
 尚、当該高木非難では当時の先祖名も違っており、出鱈目な発表は決して
瞠目に値するものではない。(拙稿、職師離脱に至る事象に詳述)

     ◆ 事実と事由、そして真実 ◆

 そもそも『事実』とは、実際の有り様であって、これは人の主観では動かすことのできない客観的現象である。一方の『事由』とは、「その事のわけ・理由」であるから、その都度派生した個々の事情を思量(あれこれと比較する)して考えること、即ち主観であり、これが(法)用語では「その結果の直接原因となった事実」であると、辞書は説明している。

 これを踏まえた上で、県教委より高木が非難されるに至った嚆矢を勘案すると、昭和51年、別の調査希望の人が県の建物調査に先んじて逸早く当家の門を叩いた。当時私は福井県で三門造営(間口12米、重層、山廊付、鉄筋コンクリート造)の原寸図や、仮枠大工諸氏の指導等に単身赴任中で、そのため今回の古文書調査の応対が不徹底な憾みもあったが、兎に角同年10月、その論説が学会に発表された。

 時は移ろい、これが県教委によって引用され、謂わゆる「孫引き」の遅きに失した形で同61年3月、前述の発表となった。元来この手法は通例であっても、往々にして引用の回を重ねる都度、その筆者の誤断をも含む主観が付加される危惧を胚胎し、案の定原本の内容と県のそれとを比べると、大幅に歪曲されているのは前述の釈明の通りである。

 先人の教訓に『海の事は漁夫に聞け』『餅は餅屋に』という諺があり、一方では『嘉肴(かこう)(珍味の料理)ありと雖も(いえども)食わずんば、その旨き(美味か否か)を知らず』(つまり、自分で学んだり、実際にいろいろ経験をしなければ、物事の本質は分からない)ということであり、『学びて思わざれば、則ち(すなわち)暗し』先人の学説を鵜呑みにせず、自分で研究しなければ、その学問は上達しないという戒飭である。

 これらは一方では風評となり『一犬影に吠ゆれば(一匹の犬が吠えると)万犬声に吠ゆ』(一人が間違ったことや、嘘を言うと多くの人がそれを信じて本当だと思うようになり、)故に先人をして『真の闇(やみ)より無闇(むやみ)程怖いものはない』と言わしめた所以である。

     ◆ 往古の誤断の一例 ◆

 往古、中国の見識ある学者でも誤断があったらしく、その教訓に、『尽く(悉く)書を信ずれば、則(すなわち)書無きに如(し)かず』(書物に書いてある事が、必ずしも正しいわけではないから、鵜呑みにする位なら、むしろ読まない方が良い)
         (ことわざ格言辞典 永岡書店 1987年)
 
 以上の注解は性急な直截的解釈の憾みが無くもないので、少し私の蛇足を加えると、詮ずる所、専門的知識の欠如による、皮相的な虚構とならぬよう示唆したものであり、よしんば先学の研究発表たりとも、夢々油断することなく、その正否を見破る慧眼が乏しいままに、誤った既成事実を尚々追認した僻論(片寄った議論)とならぬよう戒慎を促しているのが紙背より見えてくる。

     ◆ 極限ともいうべき中傷誹謗 ◆

 県教委による最もおぞましい高木非難より、枝葉末節を除く前掲五件の理非曲直に、更に拍車をかける恰好で、自己はこの世で至高の存在と自惚れた居丈高な駁論は、京都大工頭中井家大工法度や、幕府禁令の基本的概念すら理解することなく、只管『物事について識るところの極めて浅薄』により、弘誓寺本堂(神崎郡五個荘町金堂、重要文化財)の宝暦造営建築願について、『高木はその内容を捏造し、虚偽の申請をして許可を得た』と、事実無根を万人が最も信頼するであろう公刊に掲載して世間を誤導し、当家先祖を貶める画策をした。

 この建築願が公文書である裏付けとして、元禄6年(1693)以降の中井家は、すべて幕府公金で運営される『中井役所』に変容し、従ってここに提出する書状は必然的に公文書であり、それらを歯牙にもかけない貧困な発想による不遜の暴挙は、当該本堂を昭和61年、一旦県指定に申請するための事前調査(同59年頃と考えられる)にあたって、一連の高木非難(61年3月)より先んじて、単なる憶測による抽象的可能性に過ぎない不毛の発表をされた。

 それについて、高木が主棟梁、地元大工が脇棟梁として造営された事実を不承不承認めながら、一方では建設地は神崎郡、高木は蒲生郡である「郡違い」について、『自己の所属する郡以外で仕事をなさざる事』とする先学の異説を頑なに鵜呑みにし、「高木は禁令を破った」と半可通な私意によって生意気に当家を指弾する。

 次いで『建築願の内容が虚偽記載である』と、鬼の首でもとったかの如く宣うが、そもそも大工頭中井家の規制では、寺院より郡境を越えて高木に御下命の場合、神崎郡の大工組頭に届けて承諾を得ることと定められ、但し建築届については高木ではなく、地元大工が中井家に提出することと定めている。

 その紛れもない証拠として、寺蔵の建築願の奥書に、『願主地元大工』名に加え、これに神崎郡大工組頭が保証人として連署、捺印する。そして中井家はこれを許可するが、当然この奥書には高木の名前は一切見られない。県の職員はこの書状を調査したにもかかわらず、惰眠を貪り『高木が虚偽の申請をした』とバカ気た大見得を切るが、これこそ自己の品位を汚す行為であり、調査する資格に乏しい者が僣越したと嘲罵されても否定の余地はない。

 尚、県教委が殊の他、幼稚に決め付けた無思慮な分別は、当初計画ではすでに解体してあった天満御堂の旧堂を譲り受け、それを修理して建てる計画であったので再用材と取替材の調査をしたものの、建設地の都合で一間半切縮めせねばならず、また旧材自体が案に相違して腐朽材が多く、とどのつまり割高という結論となって、今度は改めて新築で再申請したが、その許可書また申請した地元大工に所有権があるので自宅に最重要文書として保存し、一方の現存寺蔵文書は地元大工にすれば価値なき唯の紙屑であり、寺院に放置したものと考えられる。

 県の職員はこれの調査にあたって、現建物はすべて新材であるのに対し、一方の寺蔵文書は『修理名義の申請書』である為惑溺し、その責務なき高木が虚偽の申請をしたと公権力で捩じ伏せるが冗談ではない。『井中にて星を見れば数星にすぎず』自分の狭い視野で物事を推し量るな、もっと広い心で、人の意見も採り入れて、正しい判断ができないものであろうか。実に情けない限りである。

 それは悠遠のそれぞれの先人が、それぞれに信仰の対象とされる神仏の館に「ものづくり」の人々の魂が吹き込まれ、更に悠久の時間を得て一段と高尚なものに磨き上げられた価値ある作品、それが現在の指定建造物群である。その無辜な先人の領域に土足で踏み込み、四角な重箱に丸い鍋蓋をするような筋の通らぬ屁理屈を捏(こ)ね回すのは、血反吐(ちへど)を吐く程に無念である。

     ◆ 本項執筆の真意 ◆

 一体全体彼等は、高木に対して何が不快なのか、真摯な先祖の来し方のどこが逆鱗に触れたというのか、啻に呆れるばかり、思わず目を覆いたくなる収斂なき曲論は、『当たらずといえども遠からず』等と、聞えのよいものは僅か一握りで、(自分らの考え以外の)『不都合なものには蓋をしてしまえ』などと、独善な志向は、書かれた側にすれば不倶戴天の宿敵であり釈然とはせず、その主観的な感情論は次の論評に集約され、
 (1)「滋賀県の近世社寺建築」昭和61年3月、
 (2)「高木作右衛門の系譜とその作事」同62年3月、
が挙げられる。前者(1)は前述の如く当家文書調査以前に書かれた虚妄について、問題点を指摘したものが本項の『高木文書が蛇蝎視されるに至った経緯』であり、後者(2)はその表題で明らかな如く、同文書調査後に発表されたものであったが、それすら折角原拠を見乍ら、咀嚼不充分によりその旨さを味わう以前に公表され、大半が事実とは大幅に異なった説が腑に落ちず、これに反論したもので、勿論後者はすでにお読み下さった私の言説である。

 それ故に重複して恐縮乍ら、前・後者共に、『一を知りて二を識らず』に起因する誤断や、不条理な虚誕の僻論は、果たして必要性や実益を充足させるものか否か、それは生殺与奪の権の立場に固執し、徒らに高木剥がしを狙った、唯の活字連鎖以外なにものでもない。
 そこで、若い人々には些か「抹香臭い」話であるが、『本(もと)に報い、始めに反(かえ)る』(先祖の根本を大事に考え、その恩に報いること)に柄(がら)にもなく困ったときだけ先祖を懐旧するとき、彼等の論述は惻隠の情が欠落した状態で、先祖の来し方を敵視し、死屍に鞭打つが如き毒筆で辺幅を飾るこの種の風潮は、公権力を楯に有無をいわせなかった旧時代の「大本営発表」と大差はない。

 そこで、先祖の尊厳も然る事乍ら、このような荒唐無稽の出版物が『三人市虎をなす』の理によって後進の同職諸賢に伝播してはとの老婆心もあり、何時でもとり出せる自家薬籠中の古文書を基いとし、『矯めつ(ためつ)、眇めつ(すがめつ)』(鍵穴から天井を覗くような管見ではなく、大局的な判断)をし乍ら躍起になって燎原の火の消火に逸る過程で、口さがない友人から「お前の論説は本の途中から読むようなものだ。同じ書くなら始めから書いては」つまり前述の後者(2)の反論にのみ焦慮していた自分に目ざめ、今回遅れ馳せ乍らこれの誘因となった前者(1)の道標の設置が完了し、これによって点晴を欠いていた(高木文書が唾棄されるに至った)隘路が拡げられて全面開通した。(つもり)

 これらは押し並べて興味半分の罵詈雑言の類であって、元来、他人の悪口は言わないのが日本人の美徳であった筈なのに、このような筋の通らぬ難癖は、喧嘩を売られたようなもの、と理解せざるを得ない暴虐ではなかろうか?

 先人の戒めに『鼠、壁を忘れ、壁、鼠を忘れず』とある。つまり「壁に穴をあけた鼠はそのことを忘れてしまうが、一方の穴をあけられた側の壁にすれば、鼠のことは絶対忘れない」転じて、一度受けた痛手は被害者にとっては生涯忘れる事はできないが、害を加えた側にすれば無責任にすぐに忘れてしまうという戒めである。

     ◆ 表現の自由の是非論 ◆

 そもそも言語とは、それぞれの人々の思考(論理的な考え)を表明する『声』の結合であって、これが文章の綾(飾った言いまわし)として表現されたもの(言文)が、媒体によって巷間に伝播され、これを読まれた人々は、その事によって物事を把握することができる。それ故に書き手にすれば、言説(世間に発表することば)に責任があることは言うまでもない。

 一方、古文書を原拠とし、それを注釈した発表をするときは専門の人でない限り、その内容の咀嚼に至る以前の問題として、先ず文字が難解である事や、仮令読めたとしても肝心の文章の意義が読めない、つまり原文に書かれた内容が皆目玩味できないのが一般的である。

 そこで一概には言えないが、原文に飽くまでも忠実に、ありのまま言句通りに訳す『直訳』や、その意義のみを訳した『意訳』の方法もあるが、特に自己の余説(尾鰭をつける)を付加して他者の批判をするときは、不文律乍ら校正(ゲラ)の時点で相手の承諾を得て、その上で公表するのが倫理の綱領であり、礼儀でもある。

 それらの大抵は独善思考により、表現の自由、発表の自由等と生半可な知識でこれを標榜し、その履き違えた思考は、書く側にすれば興味半分の痛痒を感じない事態であっても、書かれる側の言い分としては、矢張り主観的な独り善がりの考えではなく、普遍的で妥当性の高い、両者納得できる方法に拠るのが常識であり、賢者の筋道と考えられる。

     ◆ 議論の拠り所について ◆

 私の大工修業時代に、明治生まれの頑固親父から『沈黙は金なり』「無駄口を言わず黙って仕事をしろ」と教えられ、親父、職人さん、先輩等の指導により所謂(いわゆる)「受動」の時期を経て、曲りなりに一本立ちし、自分で物事を考えられる「能動」の時代に入ると、スペシャリストの人々とは違って、学問によって得た知識ではなく、経験を通じ、体で覚えた洞察力を身につけ、(体得の領域)高度な蓋然性は不得意であっても、現場での『ドタカン』土壇場の勘、即ち直観的に悟る心の働きは、私と同職の方々すべて同じであると思う。

 更に生意気に言うと、それらは推理や学問上の理論、理屈ではなく、ちょっと見ただけの感じ(直観)により、その時々の場合に臨み、変化に応じて即座に判断する現場力(げんばちから)を誰しも内蔵しているものである。

 それらを踏まえて今般、私先祖に対する謂われなき中傷や、筆舌に尽くし難い衝撃と怒りに対し、事ここに至って彼等の『間違い点を否定するだけでは何も生まれない』『黙っていては誰も理解してくれない』ので、親父の金言である寡黙に逆らって真情を吐露したもので、それは内部告発などの矮小な根性によるものではなく、道徳上の正義として、堂々と同職の諸賢に訴えるものである。

 中国古代の『墨子』という人の言葉に、
『義を為(な)すは、毀(そし)りを避け、誉に就くに非ず(あらず)』
「道徳上の筋道(義)を行なう(為す)のは、他人の悪口(謗り)をのがれ(避け)名誉を得る(誉に就く)為ではなく(非ず)人間として当然のことである。」と、現今私の苦悩に正鵠を射る名言である。


PN   淡海墨壷