トップページ
2003年12月18日
高木敏雄HomePage

名辱冤傷に対する断案

宮大工 十四代 高木敏雄
     ◆ 序   章 ◆  

 格別取り立てていう程の事もないが、江州八幡の一介の宮大工、高木作右衛門という他人様にすれば有り触れた名前でも、創業以来五世紀近い累を重ね、善くも悪しくも曲がりなりに十四代を標榜する私にすれば、心中密かに誇りとするところである。
 ところが今回独善な誤断に基づく高木文書調査の発表は、人倫の常軌を逸脱した上、当家先祖を侮蔑した表現とし、その情理なき筆致により、怨嗟の払拭が不可能な、心理的打撃を蒙った青天の霹靂とは、取りも直さず謂われなく先祖の名を汚され、辱められ、冤(濡れ衣)を着せられた数々の不実記載であり、これら脈絡なき妄評が素因となった致命的な傷(悲しみ)に対し、ここに合理的、論理的な帰結の追及をするものである。

     ◆ 高木文書調査の企図 ◆

 そもそも奈文研による当家の文書調査の意図は、示威的な賤易に起因するものと考えられる。即ち、調査で得た当家の営為に対する不見識や、曲解が、自己の既往潜在意識と両両相俟って無碍に高じ、軈て逆鱗に触れることとなり、それによって当家先祖による真摯な行跡を、一旦立ち止って俯瞰する感覚を喪失し、更に、他郡の大工組運営状況とを比較する文書の制約も加わって、一層錯雑となり、挙げ句の果ては恣意による虚誕や、揣摩臆測による感情論を網羅して文面を飾り、また調査の骨子たる幕府老中や、大工頭の規制まで安易に弄って矮小化させたことにより、折角の先人の作品を文化的、歴史的な所産から遠ざけ、誤断による実態以上の悪し様な増幅は、当家に的を絞った狙い撃ちとして、不適切で虫唾が走る表現となっている。
 
 それらに関する濫觴について思考すると、奈文研では、すでに一部の先学による誤った研究発表が、先入観念として頑なに底流をなし、これらに拘泥して無作為に抽出した、一面的で狭小な見方に依存したことが誘因と考えられる。
 例えば、当家文書調査(S・62)より、少し早期に実施された弘誓寺本堂調査について、前述の如く既得の知識『自己の居住する郡以外にて仕事をなさざること』とする過誤により、近江国蒲生郡に在住する高木が、神崎郡に存在する寺院造営をなすこと自体、「幕府禁令を破るものである」との知ったか振りから「高木は怪しからぬ奴」と、満を持して嫌悪、指弾の傾向となり、これらの行為は「甲論乙駁の角逐」といった聞えの良いものではなく、結果として自己の不勉強を棚上げとした上で、社会人として基本的な「信義」の欠落した調査結果を巷間に表明したが、その臆面もない奇を衒う志向は、実情を見る目を失したとしか思えない。

 註 以上の弘誓寺本堂に関する出典には、年月の記載はないが、
   紛れもなく「滋賀県」と印刷された罫紙を使用した当本堂
   調査報告書である。
   断定はできないが、当本堂は昭和六十一年三月、
   一旦県指定となり、それに伴う事前調査の同五十九年頃と
   考えられる。因みに、高木文書調査は同六十二年三月
   であるので、然程年月を隔てるものではない。
   このように後述の出典と併せて都合四回に亙って
   事実無根の発表をされた。

     ◆ 掲載された書物 ◆

 1、 滋賀県近世社寺建築特別調査
        「近江蒲生郡大工組頭
          高木作右衛門の系譜とその作事」
          奈良国立文化財研究所
                細見啓三(氏)
                山岸常人(氏)
                  昭和六十二年三月

 2、 建物の見方・しらべ方
      江戸時代の寺院と神社
        文化庁歴史的建造物調査研究会
             株式会社 ぎょうせい
                  平成六年発行
               (三名共著のうち)山岸氏記述分
  
 3、 滋賀県指定有形文化財
     本願寺八幡別院本堂保存修理工事報告書
         滋賀県教育委員会事務局
             文化財保護課
              監修 副主幹 池野保(氏)
                   平成十三年 三月

     ◆ 観念による屁理屈と事象の不一致 ◆

 一連の高木文書調査報告書9頁には、
 『高木支配の排斥は多方面でもみられる。高木家は郡大工組頭としての
 強力な地位を利用してか、郡外でも仕事をするようになる』
 『こうした強引なやり方(手段)が、
  各地の大工と相論を起すことになった』
 続いて『例えば、甲賀郡矢川神社造営がそれである』(以下重複するので詳述は割愛します)が、問題は高木が駆逐(排斥)されたとする「各地」について、愚直に辞書を引くと「各地」とは、「いたるところ」と説明している。そこで「高木は多方面・各地で蛇蠍の如く毛嫌いされている」と、指摘された矢川神社一件を先ず差引し、残りの「いたるところ」については、造営建物名を列挙せず、空疎、空虚な悪質極まる表現とする。勿論、事実無根であるので明記できる訳もなく、それでも無責任に、事物の定義について理義(道理、筋道)を述べた定論とはせず、その非難は次第に行き場を失い、只管、当家の陥穽を画策した卑劣な陰謀であることが判明する。

     ◆ 古文書 熟読と玩味 ◆

 そもそも陳腐な文書の読み解きは、一般には指弾される傾向があるが、難解なものに挑んでこそ、得もいわれぬ興味も湧出するというものである。と、偉そうに申し乍ら、その隘路は私のような「素人」の研究者に対して両手を拡げ、仁王立ちとなって苛む古文書奴(め)は、断簡(切れぎれとなった書きもの)が多く、また年号の記入がなく干支(十二支のえとで、例えば申三月など)のみの文書もあり、故人の零墨(筆跡)でも、紙幅のまとまった伝記の類でない限り、年代順に包括するのは至難である。

 それでも蛍雪の努力により、一見して何代目の先祖の筆跡と識別できるようになったが、それらの書きものを歴史的、巨視的に、内容の経緯を把握し、特に大工頭の直筆や、配下の役人衆の貴重な文書は、微に入り(普通では知られていないこと)細を穿ち(細かく調べて詮索し)忽諸に付する(おろそかにする)ことなく冷静に倫理を辿り、「ほんもの思考」による解読とした。その上で巷間に発表した言説やその主意に対して、粗雑なものでは到底許されまいと考えている。

     ◆ 大工又太夫の請状について ◆

 前述の古文書解読に関連のあるものとして、奈文研による高木文書調査報告書の3頁に、
 『高木家の大工職(各自の大工が有する縄張りを他大工に侵害されない
 営業の権利)は常に安泰であった訳ではなく、慶長十六年(1611)には、
 又太夫と相論があったことが知られている。』
と記載し、この文書を「八幡大工所口上書控」であると説明している。

 註(別表109)と整理番号を付けているので、以下109号文書と
   略記します。
 
 ところが、この見解は残念乍ら過誤であって、正しくは本項表題の如く、地元大工又太夫の成敗(刑罰)に対する「請状」であり、更に、「八幡大工所」とあるのは、それを細分した内の日牟礼八幡宮大工所を指すものである。以上の抽象的な文言の羅列に過ぎない部分を訂正した上で、高木の大工所の概要について述べると、永正九年(1512)八幡宮大工所や、その周辺を譲渡されたことを嚆矢とし、のち徐々に拡大されていったが、これが徳川政権下になると、我が郷里八幡町は天領(幕府直轄)となり、代官の代替り毎に大工所の吟味(確認)が行われ、その都度安堵された。また大御所(家康公)による神領下付に際しては「別当、社人なみに我等にも下された」とある。(大工頭に宛てた書状)

 しかれども、慶長十年(1605)三代目代官権太小三郎氏のとき、八幡宮近くの舟木村の大工又太夫は、以上の正統な高木の大工所に対して異議を唱え、代官はこれを「いたずら者」として成敗の方針を示したが、高木は大工仲間であるとの理由で当人を「預り処分」(引き受けて世話をする)としたがその後同十五年八幡宮の神鐘再鋳に伴い鐘堂も再建されることになると、またもや性懲りもなく不条理なことを画策する。

 ここに至って又太夫は再び理不尽な主張をし、あろうことか、京都所司代に出訴した。板倉氏は訴えの主旨が大工所の事であるので、大工頭中井大和守に伝訴、中井家は高木に対して詳細な返答書(現在風にいえば答弁書)を提出するよう命じた。「恐れ乍ら申し上げ候返答書之事」
 以上の経緯による又太夫の訴状と、二代目高木の返答書を照合の結果、高木の言い分を「ありやう」(ありのまま、実際)と決定し、大工所の件も実正也(確かなことである)と結審された。

 ところが又太夫は審理の過程で、公方御役儀(幕府公用作事)つかまつらず候として(懈怠した事実が発覚したので)ろうしゃ(牢獄)仰せ付けられ候(入牢と決定した)
 そこで当家の先祖を含む東近江五郡の肝煎が連署し、又太夫には公用作事を務めるよう説得し、それでも無沙汰に於いては(従わないときは)この請人共を御算用つかまつりあいたて(又太夫の負担分を我々が分担して務める)との保証書を提出した。

 奈文研では、1 訴状 2 答弁書 3 109号文書請状の内、3 の請状のみ調査したとし、不揃い、不充分な資料によって力まかせに当家を非難するが、僅か一葉の文書の内、十ケ所以上の誤読があり、特に「入牢処分」の部分が解読不能の体たらくでは、全体像の把握は覚束ない非合理な、的の外れた蕪雑な指摘となっている。
 奈文研ではそれでも両者間の相論であると刹那的、衝動的に判断した野次馬の如き揶揄とするが、又太夫は八幡宮大工所が「手前に御座なく候を」とする状況であり乍ら、高木に対して不届な申し入れをし、加えて高木側に対する意趣返しの暴虐に対して、所司代では又太夫の言い分を言下に否定している事実を勘案するとき、それは喧嘩両成敗の裁きではなく、高木に対しては不起訴処分とした重要な岐路ともいうべき勘所を、正確に伝える努力を軽視した表現は衆口の一致するところ、傍若無人の所業であるとの謗りは到底免れることは出来ない。


PN   淡海墨壷