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2008年3月3日
高木敏雄HomePage

先祖を獄門に懸ける冤罪と陰謀

宮大工 十四代 高木敏雄

 先賢の戒めに、『小人窮すれば斯(ここ)に濫(らん)す』〔古文書の解読に不得手な人が行き詰まると即座に取り乱して書きたい放題の体たらくとなり恥をかく〕と、調査に際して適材適所を促(うなが)す先人の老婆心に続いて、『悉く書を信ずれば、則(すなわ)ち書無きに如(し)かず』〔いくら立派な書物でも全(すべ)て真理(客観的に認め得る真実)が書いてあるとは限らないので、内容を鵜呑みにするくらいなら(どちらかといえば)読まぬ方がよい〕という戒めもある。

 昭和2年、以上の金言を無視するかの如く、若干畑違いの経済学者の研究論文には匠家の古文書に邂逅する恩恵を享受し乍ら、自らの著書「江州甲賀の大工仲間」に、これは断簡(切れぎれの文書)であると、忌憚なく文書の不備な点を指摘した上で、この種のもの(江戸時代の大工組に関する研究)は何処も同じであるから、大工組織の区分を知るにはこれで充分であると、まるで謙虚でない人と、高慢ちきが同居したかの如き大言を吐露し、読まれた人々が唖然とされたであろう論文を臆面もなく発表された。

 時空を超えた昭和51年、類は友を呼び誤謬の少なくない前述の経済論叢に狙(ねらい)目をつけて同調し、徹頭徹尾私の先祖を根拠なき想像で非難した吉田説を糾明すると、渇望の古文書を渉猟した似た者同士が尻馬に乗った見当違いの矛先は、江戸幕府の御用役大工として最も喫緊の金料玉条(法律)即ち、「郡外で作事をすることの是非」(大工作法)にまで賢しら知識で容喙し、
『それぞれの大工は自己が居住する郡境を越えて他郡に出向することは不可である』と、何処の国の掟か知らないが、衒学的かつ私意を以って法の正理を歪曲した虚妄(うそ・いつわり)を世間に垂れ流し、因って後学の諸賢を誤導する固定観念を醸(かも)し出すに至った。

     ◆ 折角の好意を仇で返す吉田説 ◆

 以上の如く客観的事実と自己の潜在観念とが一致しない吉田説〔独断と偏見による先祖非難の妄誕(うそ・でたらめ)〕に対し、プロとして規範理論の核心に迫る駁論を差し挟むべく弘治2年(1488)創業以来の職道由緒書を繙(ひもと)くと、権現様(家康公)の御下命は、当初「江州肝煎」(のち江州大工頭)として、連年幕府が行なう諸造営に必要な大工人数を揃える世話役(肝煎)の見返り給付として諸役を免除する工匠保護の特権及び大工高(18石余)を与えられ、その
任地は高木が居住する近江国蒲生郡を超えた〔江戸城の改修、慶長11年(1606)〕に次いで、〔家康公の隠居、(駿府城)焼失に伴う復旧、慶長13〜14年〕、〔禁裏造営、慶長18年(1613)〕と頻発する幕府公用作事に次いで、特筆すべきは大坂の陣、慶長19年(1614)〜翌元和元年の軍役(封建制下に於ける軍事上の負担)は孤高を持して顕著である。(これについてはのち詳述)

 続いて豊臣氏滅亡後の〔元和3年(1617)、江戸城内の紅葉山に東照社を造営、但し、このとき社格は宮号宣下以前につき差紙(出頭命令書)には東照宮でなく単にお宮と記す〕、〔元和5年(1619)姫路城主・池田公御内室の菩提寺たる良正院を知恩院内に造営〕、〔寛永3年(1626)、三代家光将軍宣下の仮御殿を大坂城内に造営〕、〔これと併行して二条城増建〕、〔江戸城西の丸作事、寛永10年(1633)〕、〔勢州(三重県)亀山御城造営・同10年〕、〔翌11年、水口御茶屋(将軍休息所)造営〕、〔江戸城本丸作事、寛永14〜15年(1637〜38)〕、〔同18年(1641)に至り、第109代・明正天皇勅命・家光公大檀那による東寺五重塔重建〕等々、数え上げれば枚挙に遑(いとま)が無いが、
衆目の一致するところ、これら先祖の任地は吉田が尊大に大言する郡外での作事不可とは裏腹に、否応なく木の居住地・蒲生郡外に出向した歴然たる公用作事であることは火を見るより明らかであり、知ったか振りによる嫌謗〔先祖を憎んで謗(そし)る行為〕は事実無根を事実らしく仕組んだ悪質な虚構(つくりごと)に過ぎず、吉田による先祖攻撃は「見る人は眉をひそめ、聞く人は唇(くちびる)をひるがえして吉田を非難する」天罰覿面、自らの墓穴を掘ることとなった。

     ◆ 特集、大坂の陣と江州大工の参戦 ◆

 大坂御陣、慶長19年(1614)〜元和元年(1615)冬・春両度之御陣に相勤め申し候。権現様(徳川家康)住吉より茶磨山へ御陣替しなされ候ときは申すに及ばず、御本陣に大工・杣・七百人、御上様(二代秀忠)御本陣(平野)には、大工・杣五百七十人、井伊掃部頭(かもんのかみ)直孝御陣場へも領内の大工・杣百五十人、掃部頭様が仰せ付けなされ候ところのせいろう(井樓)矢倉、築山の下にかねほり(金堀)人足が切り通しなされ、(それに伴う)切立込まで我等大工を召(め)し連れ仕(つかまつ)り立て申し候。その上、茶磨山(家康最前線)の御矢倉(戦況を見渡すための櫓)(やぐら)は立て込み(多人数でこみあう)戦場に候えば、昼夜を限らず(兼行で)相働き、五日以内に人足共御座候得共、(人足を一応待機させてはおいたが)上方(かみがた)の大工や杣千人ばかりの者を召し連れ、船場(せんば・地元の名称)の蔵や家々を壊(こわ)し、これを大工・杣共にて運搬し、茶磨山に我等棟梁にて御普請滞(とどこお)りなく相勤め申し候。                
                        「高木稿本」
   「注解」           高木敏雄

 この記述は慶長19年、大坂冬の陣に軍役として江州大工・杣が召集されたことを示すものではあるが、このとき書かれたものではなく、これより12年後の寛永12年(1635)諸役免除の特権回復に際し五畿内・近江6ヶ国の大工・他の代表が江戸に出向し、幕府老中に訴訟した信憑性の高い顛末(事の一部始終)の覚書である。

 その内容を分節すると、慶長19年12月1日、一旦住吉に布陣した家康の本陣は、茶磨山(現在、天王寺区茶臼山町)に駒を進めるについて、京都大工頭・中井大和守正清より、「船場の町家を壊してこれを運び、後陣小屋を造るべし」と命じられ、同山頂にこれを構築し、同月4日には屋根葺を行った。勿論有事であるので昼夜兼行で働き、5日間で出来(しゅったい)し、6日には家康が移られたとある。

 一方、12月11日には井楼矢倉(木材を井桁に組んで積み重ね、敵陣偵察に用いる櫓)の他、築山の下を金堀(かねほ)り人足(甲州金山や石見銀山の坑道掘りに熟達した人々)によって切通し(もぐらのように坑道を本丸めがけて掘り進む戦術)ののち切立て込みまで云々とある。
 この「切立て込み」とは、金堀人足により坑道(間口約3米・高さ約2米)が掘り進むにつれて、大工は丸太・角材等で鳥居状に入口より1、5米間隔に組立て、落盤防止の目的で厚板により天井・側面にこれを嵌め込んでゆく作業を担当させられた。
 尚、中井家支配下の大工(六ヶ国)全体としては、楯、梯子その他架橋もあったが、江州大工は井伊家支配下であったので、陣小屋の制作・坑道の切立て込みを命じられたとある。

     ◆ 論点を無視した讒構と絵空事 ◆

1. 高木は江戸初期に江州大工頭と称しているが、実際は蒲生郡のみの
  組頭に過ぎない。

2. 江戸中期以降はその権力も弱まり、文政年中(1823頃)には組頭を
  退かされる。

3. 「明光寺本堂棟札」〔寛保3年(1743)9月〕には、中井主水家棟梁
  と自称している。

4. (組下大工による)組頭高木追放の願い出に対し、中井家との直接
  交渉で、その願い出を却下させた事実にみられる如く、密接な関り
  を有していた。

5. 高木の活躍年代は、18世紀前期(1700)から後期(1799)までの
  寿命であった。

6. 従って組頭を罷免されるのは、光規の時代である。

 註 以上は吉田説を妄信した
山岸常人の中傷より抜粋。

 前述の1〜6は、嘴(くちばし)が黄色い門外漢の分際で、蟷螂(かまきり)が斧を怒(いか)らして隆車に向かうが如く、理非を分別せず錦の御旗(公権力)を振りかざし、興味本位に先祖を非難する人間味の欠片も無い悪辣な嫌謗〔先祖を憎んで謗(そし)る〕は、昭和61年3月、滋賀県教育委員会発行「近世社寺建築報告書」(監修・文化財保護課建造物係長・鈴木順治、同主査村田信夫)の文中に、有ろう事か『近江八幡の大工組頭・高木家』と題し、有りと有らゆる罵詈讒謗(ばりざんぼう)の限りを尽(つ)くして溜飲を下げるに至った山岸常人による誹謗中傷の抜き書きである。

 その疎狂(粗雑で常識に外れる)の発端は、これより先、昭和51年以降「のべつ幕無し」に続く吉田による妄想〔根拠なき主観に基づく偏狂(常識を逸脱した想像)を鵜呑みにした奈良文化財研究所・山岸常人は、先祖に対して如何なる意趣遺恨によるものか?その根源たる文書の解読は、江戸初期の文書については一丁字を識(し)らず、さりとて中期に至り、たとえ字が読めても行間が読めず、その無様な蒙昧は字句の深意が眼光紙背に徹することなく、それ故に公文書の捏造を臆面もなく繰り返し、恬然として恥じることが無い体たらくとなった。

 加えて江戸時代の幕府法度(主として建築制限)の無知が一層先祖非難に拍車を掛け、それでも委細構わず自己の能力を実際以上に空想し、自説を至上の英知と妄信する幻想は、高木文書の断章〔親父の遺命による古文書の封印厳守により、高木文書の全てを公開していない現実〕のみを自己に都合よく解釈する一方で、京都大工頭・中井家を通じてもたらす掟まで歪曲して先祖を味噌糞に蔑(さげす)む性悪な印象批評は、必然的に理不尽かつ頓珍漢な迷論となり、それが高じて皮相的な主観のみが行く手に立ちはだかり、その為に先祖による犬馬の労は自己の認識の外に押し出されて識(し)る事が出来ず、文字通りの思考停止の憂(う)き目を見ることとなった。

 そもそも理性とは、真偽・善悪を識別する能力、つまり物事の筋道を立てて考え、因って正しい判断ができ得る心の働きであるが、これを失うと古文書の意味が皆目通じない論理の飛躍は世人の冷笑を買い、細見・山岸論の如く見解の偏向した御託(くだくだした傲慢な屁理屈)を並べ立てた先祖の扱(こ)き下ろしは、事物を実体に即して考える良識ある者の判断とは世辞にも言いにくく、単なる自惚れに過ぎない唯我独尊(自分以外に偉い者が無いと自負する主観的な認識)と考えられる。

     ◆ 生半可な見識と、杓子定規の解釈 ◆

 昭和48年6月、本願寺八幡別院(近江八幡市北元町)本堂・(四代高木)・表門(五代)・裏門・(六代)・鐘楼(七代)(但し、裏門のみ一年遅れて翌49年)が、滋賀県有形文化財に指定された。特に本堂は高木四代(日向・光連)による
元禄応急修理及び、付属建物三棟の新築に次いで、のち同五代(但馬・光親)の手になる本堂の宝暦解体修理は、(猜忌の念が強烈な県教委の人間を除き)何人も否めない史実である。

 一方、同五代但馬が新築した他県の本堂が、昭和32年、既に重要文化財に指定済みという差違もあり要領を得なかったものか、翌49年1月、寺院ご輪番三島様・同責任役員太田さん連名で、『文化庁から高木家に関連文書無きやと指摘された旨』の書簡が私宅に届けられた。

 この打診に対する諾否は私の故郷という経緯もあり、早速に汗牛充棟の古文書の内から関連文書を選出し、暫時の約束で太田氏にこれを預けて帰宅したが、このとき当院には八幡町史所載(高木文書・昭和15年)以外に造営年代の決め手となる文書は一切無く、辛うじて縁高欄擬宝珠に、享保元年(1716)の刻銘があることから、県教委ではこの現実態を鬼の首でも取ったかの如く糠(ぬか)喜びし、『これぞ正しく
本堂新築の証拠である』と早合点した。一方、私が持参した文書〔江戸幕府の出先機関(公金で運用される京都中井役所)の裏書がある修理の許可書・(写し)〕に難癖を付けた文化財保護課・建造物係・成瀬係長は「あんなもん(あの許可書)は修理の文書だ」と、折角私の善意を虚仮にする吐き捨て発言があった。

 この魂消(たまげ)た発言は係長自身の不明による浅薄な判断で
新築と決め付けた独善的な放論であり、『間に合わない高木文書ならば撤収する』と、押し問答を繰り返したが、このとき寺院では当方の承諾を得ず、古文書の解読ができる人を探して各地をたらい回しの最中であり、止むなく没収を断念したが、詮ずるところ県教委の要人でさえこの体たらくでは埒が明かず、素人相手の確執(修理説・新築説)は次第に意思の疎通を欠き、県教委の没分暁漢(分からず屋)とは以来袂(たもと)を分つこととなった。

     ◆ 笑中に刀あり、言葉の下に骨を消す ◆

 『言葉の下に骨を消し、笑いの中に刀(かたな)を研ぐはこの頃の人なり』太平記(16)笑中に刀ありの意は、〔自己の不見識を棚に上げ、自分の意見を一言しなければ気がすまない陰険な一言居士は、人を欺(あざむ)いたり、陥(おとし)いれたりするが、その言葉の下に(言い終わってすぐに)骨を消す(その讒言の為に生命を失うことがある)〕という物騒な格言である。

     ◆ 本堂元禄修理を
新築と嘯く盆暗者 ◆

 現存する本願寺八幡別院本堂の造営年月について県教委の門外漢による横槍〔高木文書を蔑(さげす)む諸説紛紛〕を詮索すべく、これを本福寺旧記を参考に補足すると、(石山合戦終結後)本山西本願寺の顕如尊師が安土城下にこれを初建され、(その時期は)天正8年(1580)3月、信長と和平せし後〔石山本願寺から鷺森(和歌山市)に移られた後〕なるべしと明記し、のち信長はこれを蒲生野に移さんとしたが成らず、〔本能寺の変(1582)によるものと考えられる〕斯(か)くて創建より6年後の天正14年より八幡(現在地)に移建を始め、文禄元年(1592)(着手より6年後)本山より御門主の御下向ありて遷仏供養を執行したとある。

 案ずるに、この本堂の移建期間つまり、天正14年(1586)〜文禄元年(1592)に至る6年間は、故地(安土)で本堂を一旦解体し、改めてこれを八幡で組み直した工事期間と考えて大過なく、その証拠として先祖の絵図に書かれた中世の柱間寸法と、昭和49年、私が実測した当本堂外陣四周の柱間寸法の両者を突き合わせると、僅少の誤差がある箇所もあったが、大抵は中世の柱間基準(当本堂に限り)一間(けん)を6,88尺で設計された建物であることが明らかとなった。

 これに対して、細見・山岸・池野が頑迷固陋に主張する
元禄新築だとすると、当然のこととして『一間(けん)は京間の6尺5寸を限るべし』の幕府規制に矛盾が生ずるが、以上の厳然たる法の制限により、中世の本堂をそのまま移建した経緯を有する現存本堂は、予め中世末期の旧本堂柱間を実測した上で解体し、現在地にはそれに準じて礎石を据え付け、その上に移建した本堂を再構築した公算が大である。

 加えて当時の『三間を限度とする梁間制限令』を無視してまで
梁間11間半の本堂の新築が案の通り是か否か、それは子供でも解る理屈であり、細見・山岸・池野説は荒唐無稽、物事の趨勢を知らぬど素人と揶揄嘲弄されても人並に立腹する資格はない。

     ◆ 本堂の応急修理と、間抜けた考量 ◆

 現在地八幡に移建した102年後(初建より数えて114年)の元禄7年(1694)1月現在、本堂の朽損程度は小修理どころではなく、所々柱の取替を必要とする大破であった。その根拠は相応の経年も然(さ)ること乍ら、寺院周辺は往事湿地帯であったらしく、中井家に宛てた修理願には「総地形(基礎全体)を二尺ばかり(約60糎)築上したい」の請願に加え、本山御門主よりこれを機会に桁行方向に1間半継ぎ足したい旨の御希望があった。従って先祖が持参した『江州八幡・西御門跡、御(み)堂修復願』には、一旦在来本堂の規模を梁行11間半・桁行10間半と明記し、修理完成後も梁行寸法の旧態を堅持し、桁行寸法のみ10間半+1間半=12間とする旨の(解体修理を示唆する)修理案を樹立し、これを京都大工頭・中井家に持参した。

 以上の桁行のみ増建を伴う本堂の規模について一言居士の細見・山岸は(前述の如く)吉田による先祖攻撃を真に受けて洗脳され、先祖を貶(おとし)める焦燥に苛(さいな)まれたものか、
  修理前の梁行  11間半+増建なし   = 11間半
  同   桁行  10間半+増建1間半   = 12間
とすべきところ、
  修理後の梁行を
 11間半ではなく    = 12間
  同   桁行は 
10間半+増建1間半   = 13間
つまり、増も減も無い梁行寸法を身勝手に0,5間拡大し、一方、現実に1間半増建した桁行を(正論)12間ではなく、惚けた感性によって13間と世人の冷笑を買う違算をしているが、この無様な醜態は初歩的な失敗、つまり素人でもあるまいに桁行と梁行とを取り違えて自ら墓穴を掘るという捧腹絶倒は児戯に怠る笑い種(ぐさ)である。

     ◆ 裏書・大工頭中井家の許可条項 ◆

 表絵図の御堂を御門跡より御修復なされるについて、この度桁行の方へ1間半継ぎ足すことは勿論御停止(不許可)であるが、子細格別(門跡寺院である格式)により許可されるが、決して他の例にはならない。但し、一旦解体して建て直すこと(解体修理)は難(むずかし)く、若しそのような好みであれば寺社奉行に再申請すること。とある如く増建は認めるが解体修理は不可とする厳しい条件付きの(応急修理)の許可を得た。以上により基礎の2尺築上は解体修理が不可であるので当初の計画を断念し、従って再申請も諦(あきら)め、単なる応急修理に止(とど)める結果となった。

     ◆ 欺瞞に満ちた策謀と、腐敗した調査 ◆

 元禄7年1月、前掲の通り解体は不可であるが、1間半の継ぎ足しは可とする許可を取得した高木日向光連は、これを胸中に銘記し、本堂の
応急修理及び付属建物三棟の新築が完成し、同13年9月10日、本山より寂如尊師の御下向あって慶讃法要が執行された。

 これらの成り行き(新築か、修理か)について県教委の構造的な体質は、調査にあたって何故か識見に富む人物を選ばず、適確性を疑う細見・山岸に委託した愚にも付かぬ毒筆は、京都大工頭・中井家の許可条項にまで難癖を付け、
『八幡西別院本堂改築の場合は、法度違反であるにも拘わらず子細格別につき許可されたのは例外の措置であり、この事実は違反の場合でも特別の事情さえあれば許可されるという内実は、上納金納入等の何らかの取引が行なわれた』

 註 ここで細見・山岸が指摘する特別の事情とは門跡様の寺院である
   特別措置である。

等と、当寺院及びこれの許可を与えた中井役所に対して鼻持ちならぬ傲慢な言い掛かりは、細見・山岸の高慢が堰(せき)を切って噴出したものの、その悪因悪果の報いは、逆に自己の無能を世間に曝(さら)け出す噴飯の体たらくとなった。

 続いて八つ当たりの矛先を先祖の非難に転換し、
『八幡西別院のような問題のある申請、つまり、修復・拡張という願書は、実は中井役所に提出する便法であって、実は初めから新築を目論むものであった』と、下種の勘繰りの如き亀毛兎角(絶対あり得ない)御託を並べ立てた。

 註 当時では幕府の規制により、梁間3間より大なるものは許可を
   与えず、まして梁間11間半の新築本堂は建てられない。

 そもそも物事を人並に批判するには、それぞれの専門分野に没頭し、手ぬかりの無い感性と洞察力を享受し、対象となる目的物(当本堂の規模)を自己の心情で受け止め得るプロとしての力量と、視野の広い専門知識が求められるが、これらの欠片(かけら)すら具有しない素人(細見・山岸・池野)が生意気に真っ当な先祖に対して根拠もなく非難し、中途半端な偏見で先祖を攻撃する悪態は、古文書が碌(ろく)すっぽ読めない癖に自己の愚鈍を棚にあげ臆面もなく事実無根を羅列しているが、それは先祖に対する反逆ではなく、寧(むし)ろ自分の無能に対する腹立ち紛(まぎ)れの焦燥に他ならず、逆に自分の品格を下げるだけである。

 今回高木文書(他見は不可とする親父の封印を除く)調査では一部分の文書のみ不承不承公開したが、それはさて置き、有るか無しの職位の高さに拘泥するよりも、その人間が古文書の読み解きに相応しい識見の持ち主か否かの吟味が先決であるが、それについては経験という土壌が豊かでなければ
正論という果実は鯱(しゃち)立ちしても望めず、迂闊に調査を依頼した県教委にも責任の一端があるといっても決して過言ではない。

    ◆ 本堂の解体修理と、棄却された証文 ◆

 元禄13年(1700)9月の慶讃法要より48年後のェ延元年(1748)(今度こそ)本堂から木立て(空木建て)〔柱を建て、野地降りを経て土居葺(瓦葺にすぐ着手でき得る工程まで)〕の契約を交して外陣四天柱を建て、四方を大虹梁で繋いだところで作事は中断した。のち宝暦2年(1752)7月、改めて当別院の協力寺院10ケ寺が連名し、(但し、2ケ寺のみ欠印)、期限は同4年4月迄とする再契約がやっと締結した。

 ところがこの再契約(一札)の冒頭に、『御坊(別院)御普請云々』に続いて『御堂(みどう)から木立て』と続く一札は、客観的見地から考察して真宗本派の10ケ寺が連名で高木但馬に宛てた文書であるにも拘わらず、県教委・建造物係長はこれを御堂(み)堂ではなく「お堂」と読み『お堂ならば何処にでもあるので必ずしも当別院のものではない』と有無を言わせず頭ごなしに否定した。

 その第一義の理由(屁理屈)は、当初『元禄7年新築』と高木文書を虚仮(こけ)にしてまで頑強に抗(あらが)う無謀・無策の解釈が障害となり
『元禄の新築から僅か50年後に、またぞろ新築など有り得るか』と熱(いき)り立ち、役人風を吹かせた一喝(いっかつ)により、無法にもこの貴重な一札(高木文書)は棄却され、ここに真っ当な史実は無残にも打ち拉(ひし)がれ、敢(あ)えなく公権力によって私の言い分は潰滅した。

 註 この匹夫の勇の暴言について当本堂が仮に元禄新築だとすると、
   現在見られる円柱は一体何時建てられたのか?未来永劫払拭で
   きない疑義となるが、百様を知って一様を知らぬ素人判断は、無茶
   苦茶であり、大切な所が抜けた空念仏となった。

     ◆ 隠蔽された証拠事実と愚かな池野説 ◆

 県教委が雇用した奈良文化財研究所・細見・山岸の御託(勝手な言い分)を至上と錯誤した常軌を逸する池野の愚論を表顕すると、

1.本堂に1間半拡張した痕跡が無い。
桁行10,5間の本堂に1,5間拡張した現実により現存本堂は12間であり、痕跡がないのではなく、あるのであり、池野が知らぬだけである。 註、 赤字部分は高木による反論。

2.近世において基本的に左右対称の浄土真宗本堂の桁行に1,5間拡張することは中途半端な平面となり、考えにくい。
中途半端はご自分の頭であり、池野に指弾される程に無様な本堂ならば去る昭和48年、何故県指定になったのか?考えにくい。

3.願書に書かれた拡張後の桁行寸法は13間で、
(現実は12間である)これは現本堂の側柱真々寸法を1間6尺2寸と仮定すれば、13,2間となり、ほぼ現本堂に一致する。池野の目は節穴なのか?高木日向自筆による願書の記述は『桁行の方へ1,5間継ぎ足して12間にしたい』と明記されている。これを敢(あ)えて13間と吐(ぬ)かす池野の魂胆は、在来の桁行10,5間に1,5間加算すべきところ、梁行の11,5間と摩(す)り替え、梁行11,5間+1,5間=13間と故意に歪曲したものである。加えて、初歩的な計算を惚けた感性で間違え乍ら恥を恥とは意識せず、これを正当化せんものと、基準の一間(いっけん)を身勝手に6,2尺と決めつける等、素人丸出しの恥を曝しているが、当該本堂は江戸時代以前の造営であるから「正論」6尺5寸でも不可であり、況(ま)して、6,2尺で計算すると13,2間となり、ほぼ現本堂と一致する等と、これは無理矢理に辻褄を合わせた愚にもつかない悪巧(だく)みの成れの果てであり、この体たらくでプロと称えるのは、みっともない物笑いである。

4.当時、同様に高木が関った工事において修理と称して新築する例は弘誓寺本堂にもあった。
これについても、性懲りもなく生来の頭の悪さから行間を読むことができない愚鈍が災い(わざわ)いしている。

5.以上の事から(両寺院共に)実際は新築を目論むものである。
馬鹿も休み休み言うのが大変によろしかろうと思われる。

 以上、押し並(な)べて調査する資格のないど素人の判断によって、真実を歪められた文化の破壊は、知ったか振りで幕府法度まで歪曲する荒唐無稽に他ならず、獅子身中の虫でさえ呆(あき)れ返る前代末聞の珍事は『伝家の宝刀正宗も焼け落ちれば単なる焼け跡の釘の価値に過ぎず』所詮は瓜の蔓(つる)に茄子は(なすび)は成らぬ。
PN   淡海墨壷