トップページ
2010年4月15日
高木敏雄HomePage

古文書を捏造した欺瞞の調査

                             宮大工 十四代 高木敏雄
 
    ◆ 物事の本質が読めない恥の上塗り ◆

 公権力とやら申す微温湯にどっぷり浸った矛盾の連鎖と、故意に理性を駆逐した瞞着(ごまかし)の調査手法は威張り捲って先祖を侮蔑する以外に能が無く、粗雑な筆誅と妄想に感(かま)けて歴史的事実を歪曲し、自己の認識の甘さを巷間に垂れ流して逆に恥をかくことに余念が無い。

 これについて古文書の内実が真面(まとも)に読めない偏狂者・県教委の村田信夫・池野保と、奈良文化財研究所の細見啓三・山岸常人は、高木文書を調査すると大言を吐き乍ら感情を剥(む)き出しにした憂(う)さ晴らしは、認識が枯渇した偏見と吉田の早とちりに執着した感情論に他ならず、取るに足りない中傷を恰(あたか)も事実であるかの如く誇張しているが、自己の墓穴を掘る弥縫策が後日の弊害になることを意識せず、名有りて実の無い先祖非難は実質が伴わず、世人の謗(そし)りと相俟(あいま)って文化や制度を破壊する傾向にあるが、肝心の大工法度も知らず愚にも付かぬ素人判断で先祖を猜(そね)み、懐疑と憎悪を剥(む)き出しにした事実無根の毒筆は整合性を欠いた空想と、意趣返しを露呈した冤罪以外何物でもない。

 加えて物事の本質を突き詰めた実証もなく、裏付けの無い虚構(つくりごと)・虚誕(でたらめ)の中傷は奇を衒(てら)う論破と、吉田説を妄信して大工法度を愚弄する衆愚の集いに他ならず、机上の空論を弄(もてあそ)ぶ妄想は深刻な結果を招来し、焦点をはぐらかして自己を正当化しようとする遣り方は文化財建造物の保護が謳(うた)い文句でも、事実は先人の糟粕(のこりかす)を嘗(な)めるだけの愚論に過ぎない。

     ◆ 江戸幕府の梁間制限と法度 ◆

 寛文8年(1668)3月、幕府は三間(げん)梁制限
〔これ以後の新築に限り、梁間寸法は京間の三間を限度とする〕禁令を京都大工頭に伝達、中井氏はこれを五畿内・近江六ヶ国の組頭を召し寄せ、新令を申し聞かせた上で法度の写しを領(わか)ち、これを各郡内の大工に漏れなく伝えるよう命じた。                  (高木文書)
 これについて蒲生郡志〔大正11年(1922)中川泉三氏筆〕に、「大工頭・中井氏が江州高木作右衛門に伝達した文書は次の如し」と明記し乍ら、『惜しむらくは、その文書の覚書が見当らないのが遺憾である』と、述懐しておられるが、何故か当家には高木四代日向光連自筆の覚書が現存する。

     ◆ 大工頭・中井氏自筆の出頭命令書 ◆

 『この度江戸幕府より仰せ付けなされた御法度を急度(きっと)上方の大工共に申し付けるべく御下知があったので大工組頭を召し寄せてこれを伝える。即ち御下知の条目の写しを遣(つかわ)すので、その内容を組下の大工共に毎月促(うなが)し申すべく、若し違背する者は曲事(罪科)と見做(みな)すもの也』   以上

        中井主水正      花押
    寛文8年(1688)  3月29日
         江州組頭 八幡 作右衛門かたへ

     ◆ 蒲生郡志から脱落した問題の覚書 ◆
         覚
1、梁間(奥行)は、京間三間(19尺5寸)を限るべし。但し、
  桁行は心次第たるべし。
1、仏壇、角屋(つのや)は京間三間四方とすべし。
1、四方の錣庇(しころびさし)は京間一間半を限る。
1、屋根の形状は小棟造り(寄棟)とする。
1、柱の頂部は舟肘木造りを限度とする。
右ハ堂舎、客殿、方丈、庫裏(くり)その他、この定めより広く
造るときは寺社奉行所に再申請すべし。
  寛文 8年3月

     ◆ 京都御役所向大概覚書 ◆
           「新屋改め之事」より抜粋

 『神社・仏閣・寺院は前々(寛文8年)の如く三間梁制限令を厳守し、その他一間半の錣庇・角屋・仏壇は三間四方を限るべし。右は貞享3年(1686)11月書付にて触れ流したが、その後猥(みだ)らに付、重ねて申し付けるもの也』  (以下略)
 以上の「三間梁制限」は、火事と喧嘩は江戸の華(はな)の一翼を担う防火対策であったことから元禄3年(1690)に至るも梁間制限を厳守する督促状が矢継早に発布されたが、これがェ延年間(元年は1748)になると次第に弛緩の傾向となり、次いで宝暦期(元年は1751)には、本願寺八幡別院本堂の柱(側柱を除く)を円柱に取替え、続いて明和元年(1764) 弘誓寺 (現存) 本堂の新築が完成する等、順次緩和された。

     ◆ 死人に口無しを悪用した非人間性 ◆

 以上の金科玉条 (重要な法律)を皆目知らぬ分際が、自己は至上の存在であると恣意的な解釈をし、先祖を虚仮にした村田・細見・山岸・池野は如何なる遺恨によるものか、先祖に対して排他的な感情論に終始し、矛盾が横溢した独善により幕府の準則を蔑(ないがし)ろにし、観念(現実を無視した空想)的な屁理屈を捏ね回して得意になっているが、その醜態は評論ではなく即座に嘘が露見する単なる三文小説に過ぎない。

 このように善(よ)くも悪(あ)しくも自己の偏見に拍車を掛け、自説に固執する貧困な発想は本質を無視し、生殺与奪の権を振りかざして得手に帆を揚げているが、縦(よし)んば真実と信じる理由があったにせよ詰めの甘さが不足した下らぬ論難は信憑性に乏しく、挙句の果てに先祖を愚弄する思い上がりが人間をますます高慢にする所以(ゆえん)である。

     ◆ 村田・細見・山岸に対する意趣返し ◆

 先祖の足跡を内心誇りにしているがこれを表顕した覚は一切無く、一途に先祖の名声を守りたいと思念するのみである。これに対して村田・細見・山岸・池野は高木文書の一部を覗(のぞ)き見しただけで自己の不見識を棚に上げ、
『高木は新築で申請すると不許可になるので故意に修理の名目で申請して修理許可を取得し、実際は新築したものである』と惚(ぼ)けた感性で「でたらめ」の世迷(よま)い言に終始しているが、これに対する当方の報復手段として、細見・山岸に対する事実無根の絵空事に加え奴等が公表した机上の空理・空論、『蒲生郡大工組頭・高木作右衛門の系譜とその作事』(細見・山岸筆・昭和62年) を証拠とし、加えて先祖の立つ瀬を示す自家薬籠中のもの、即ち当家が郷里に保管している非公開の文書( 長持三棹 )や既に細見・山岸の毒牙にかかった卦体糞(けたいくそ)の悪い一部の文書も交(まじ)え〔 以前先祖を侮辱された一件で勝訴した地裁の証拠文書もあることから〕堂々と提訴し、法廷で双方の文書を比較すれば先祖が虚偽の申請をして許可を得たか否かは火を見るよりも明らかであり、質(たち)の悪い村田他の魂胆を明らかにし、以って先祖に対する供養にしたい。

 兎にも角にも恥を恥とは意識せず自己主張を重んじて身の程を顧(かえり)みない根拠無き中傷は先祖に対する侮蔑・冷罵に加え、人格まで否定して公衙の出版物に公表する悪辣な人権剥奪は子孫にすれば不倶戴天〔命を賭(か)けて報復せねば止まない恨み〕の痛恨の極みである。

 つまるところ、自分だけは正しいと信じて客観性を考えず御里(おさと)が知れる次元の低い定義を振りかざした愚の骨頂は、合理的な判断を欠いた公権力の乱用であり、奈良文化財研究所・滋賀県教育委員会・文化財保護課という看板だけで虚勢を張ってみても、所詮は古文書の読解力を含む専門知見の実質が伴わず、度が過ぎた人権の蹂躙は子子孫孫に語り継ぎ、絶対許さない。

 言う迄も無く文化財修理の目的は、専門として蓄積した真実の追究であり、下らない公権力の介入や、廃棄して尚余りある不必要な細見・山岸の抑圧が良い結果を生み出した試(ため)しが無く、論理的に繋(つな)がらない権威主義は却(かえ)って真実の敵である。

     ◆ 郡外作事の準則と、気違い沙汰 ◆

 江戸時代特有の大工法度を虚仮にし、人間味が欠落した先祖の扱(こ)き下ろしは自己の品位を下げる高慢な行為であるにも拘らず高木文書を捏造して毒筆を垂れ流す体たらくは、感受性を露骨に表顕して悦楽に浸り、肝心の物事を知らぬ零落の極みは自己の偏見を分析する過程で感情的になり、客観より寧(むし)ろ主観を優先させて先祖の陥穽を画策し、一方的に非難を浴びせる愚にも付かぬ主義・主張は本質を探究することなく、只管(ひたすら)吉田の既成事実に翻弄し物事を実質以上に誇張することに余念が無い。

 これについて知ったか振りの吉田の主張は、
「東近江五郡に居住する大工の仕事範囲は、自己が居住する郡内に限る」と恣意的な解釈をして反り返っているが、五畿内・近江六ヶ国大工頭・中井家による大工統制の基本方針は、顧客第一主義であることから一例として他郡の建築主が蒲生郡に居住する好みの大工に仕事を依頼されるのは自由であり、況(ま)して半農半工が大半である近江国は農閑期になって新築・修理の受注が集中すると必然的に大工が引張り蛸(ひっぱりだこ)になることから肝心の幕府公用作事が手支(てづか)えになるときは公用・私用を問わず信頼できる大工に仕事を依託して公用作事の要請に応ずることと定められている。

 その一例として幕府公用作事の義務を果たす目的で、高木から代理を依頼された仲間の大工は中井家に提出する申請書に高木の承諾印のあるものを提出し、許可済の書状は高木に返却して仕事だけをするという慣例からこの種の書状が多く当家に存在する実態を細見・山岸は、
『高木は組頭という権力を行使して多目的に他の申請業務まで吸収し、その証拠としてこの種の書状が多数存在する』と、ど素人の分際で大言する取るに足りぬ感情論は、天に向かって唾(つば)をするに等しく世人の顰蹙(ひんしゅく)を買うだけである。

     ◆ 凋落の一途を辿(たど)る古文書の調査 ◆

 元禄7年 (1694) 1月修理に着手し、同13年9月慶讃法要を執行された本願寺八幡別院本堂他三棟が、昭和41年県指定建造物となった。これを裏付ける高木文書に、
「元禄7年1月、中井家に本堂修理願を提出し、その裏書にこれを許可する旨が明記されている」にも拘(かかわ)らず県教委文化財保護課・成瀬氏は如何なる根拠によるものか、「あんなもん(あの文書)は修理の文書だアー」と嘲弄しているが、修理文書に対して修理の文書だと揶揄する屁理屈が40年以上経過した現在に至るも理解できない。
 
 このような卦体糞(けたいくそ)が悪い成瀬説を覆(くつがえ)す証拠(高木文書)は、元禄7年より26年も遡(さかのぼ)る寛文8年(1668)2月、中井家から高木に届けられた三間梁制限令、「以後新築する建物の梁間寸法は京間の3間を限る」旨の法令が発布されたことから、幕府の制限寸法より8間半も超過した11間半の当該本堂が新築できる筈もなく、それ故に作事が修理に止(とどま)った事由は何人も否(いな)めない眼前の事実である。

     ◆ 他郡の作事と大工仲間の作法 ◆

 神崎郡弘誓寺本堂の宝暦造営(第一次計画)は当初本山東本願寺より拝領した古堂を修理して建直す計画で同年(1755)10月、高木但馬が代筆した修理願(願い奉る造作之事)を地元佐野村の大工利兵衞氏に依託、同氏はこれを京都大工頭中井家に持参して許可(裏書)を得た。これについて高木は願書を二通作成し、一通は利兵衞氏に、残る一通は当家に保存して現在に至るが、もう一方の弘誓寺文書は利兵衞氏が許可を得て持ち帰った元本を後日寺院関係者が筆写された単なる写しである。
 註 前述の高木文書には神崎郡大工組頭太郎右衛門氏と利兵衞氏の
   名が見えるが弘誓寺の文書には同郡塚本村大工勘兵衛氏も加筆
   されている。

 次いで中井家に提出した原本に言及すると、『在来の本堂が大破したので再建したい旨を本山に相談したところ、幸い大坂天満御坊に解体して収納してあった梁行・桁行共に11間の古堂を精査し、朽損した部材は取替、その他の再用材を精(しら)げ、〔選(よ)り抜き〕桁行を2間切縮めて9間にし、その他はなるべく古材を用いて従来通りに建直したく、詳細は絵図に記入しました』と上申した。

     ◆ (後書) 棟梁と助棟梁の役割 ◆

 (前書略)『大工の職分について、絵図の作成及び本棟梁を蒲生郡高木但馬が勤め、諸事(いろいろの指図)を致します。これにより高木が御窺(おうかが)い(中井家に許可願を持参)すべきところ、高木は蒲生郡、地元大工は神崎郡と、それぞれの大工組が違いますので地元大工利兵衞が助棟梁乍ら申請人となり、大工組の違う訳を立証致します』 以下略

     ◆ 知ったか振りの曲解と、先祖非難 ◆

 これについて味噌も糞(くそ)も綯(な)い交ぜにし、先祖の来し方を襤褸糞に書かねば気が済まない根性が捻じ曲がった村田・細見・山岸・池野は神崎郡の地元大工と高木とが協力して仕事をする旨を約束しているが、
「蒲生郡と神崎郡では大工組が違うと、わざわざ前文を付けているのをみるとその経緯は必ずしも平穏であったとは言い切れず、そこに高木一流の政治的な手腕と力量が働いたことは、甲賀郡矢川神社本殿造営の例がそれを物語っている」と、古文書の後書さえ読めず、素人であることを白状して恥をさらした盆暗集団が破れかぶれの無様(ぶざま) な体たらくを表顕し、無謀な毒筆を自慢たらしく並べ立てて恥をかく事に余念が無いが、何れにしても奴等の魂胆を証拠立てる地元大工の謝罪証文が汗牛充棟の状態で当家に存在する。

 以上の悶着の震源は、
「東近江五郡の大工は他郡に出て仕事をなさざる規定になっている」と知ったか振りを撒(ま)き散らした吉田高子の独善を妄信した村田・細見・山岸・池野による馬鹿丸出しの捏造に起因するが、それは取りも直さず天に向かって唾(つば)する愚考に等しい屹度(きっと)馬鹿である。

     ◆ 新築に変更された弘誓寺本堂 ◆

 総(すべ)ての本質が把握できない病弊の根源は、自分より尊い人は現世に存在しないと身勝手に信じて客観的に考えることなく、一貫性(終始一つの考えで貫き通す性質)の欠片も無い空理・空論を強弁して世人の嘲笑を買う文化の破壊者は紙背の解釈や、その深意を読みとることができず、恥をかくことに余念が無い。

 前述の如く、宝暦5年(1755)10月、折角本山より拝領した本堂建直し案は、7ヶ月後の同6年5月これを廃案にして新築に変更すべく、高木は素建までの木材明細を提出した。これを裏付けるものとして同7年7月寺院が寄進木の控帳を作成された実態は修理案を廃案にして新築に変更された唯一の証(あかし)といえる。

     ◆ 反駁する村田説と、人為的な破壊 ◆

 村田の独り善がり〔宝暦5年大坂天満御坊の古堂を拝領して再建云々は、〕
「高木が虚偽の申請をしたものであり、その証拠として現本堂に古材を用いた形跡が無い」と常軌を逸して大言壮語しているが、高木に申請義務は一切なくその証拠は弘誓寺文書(第一次修理願)によって明白であり、馬鹿も休み休み言うのが自己の身の為である。

     ◆ 細見・山岸による虚構と素人判断 ◆

 細見の馬鹿げた知ったか振りをぶちまけると、宝暦5年の修理申請に対し翌6年、新材による木材明細及び同7年の寄進木控は共に新材であるが、新築の申請では不許可になるので故意に修理の名目にし、
「つまり虚偽の申請をして無理に許可に漕(こ)ぎつけたものである」とほくそ笑み、恥をかくことに余念がない。

 註 江戸幕府の出先機関・京都中井役所に虚偽の申請が罷り通ると
   考えている村田・細見・山岸・池野こそ「ど素人」と揶揄され
   ても立腹する資格はなく、特に近江国は中井家当主の直直(じ
   きじき)の検査(竣工も含む)は与力二名・更に中井家から
   棟梁一名に加え、高木も立会う義務があり、第一に中井家は
   
虚偽の申請は受け付けない。

 このように猫も杓子も歪んだ先入観で先祖の来し方を蔑(ないがし)ろにし、多面的に矛盾が横溢した独善によって幕府の準則まで無視し、味噌も糞も綯い交ぜの衒学趣味は天罰の報いによって未知の領域を脱することができず、洞察に乏しい場当りの論旨は単なる自己満足であって論理的な思考による知的な判断ではなく、その為に先祖の怨敵、村田・細見・山岸・池野の面々は視野狭窄に陥った人間の蹉跌から抜け出せず、一貫して自己に理があると過信し、惚(ぼ)けた判断によって真(まとも)な決断を否め、
「江戸幕府の出先機関・京都中井家に対して高木は虚偽の申請をして許可を得た」と、悪態嘲罵を並べ立て人間性を置き去りにした事実無根の誹謗中傷は肝心の結論が客観的に立証されておらず、馬鹿丸出しの愚論は次元の低い不見識と相俟(あいまっ)って益々主観に満ちた抽象に終始し、感情論の零落の果てに本質的な問題の在り処(ありか)を見誤り、作為的な「でたらめ」を公衙の出版物に伝播(でんぱ)して世人を誤導した。

 そもそも人間味が喪失(そうしつ)した陋劣な手段は、合理的な根拠もなく、事実関係の確認という観点からいえば奴等の手段は信憑性を疑わしめるものがあり、人の痛みに対する感受性が欠落した能力をど厚かましく過大評価しようとする意図が読みとれるが、身勝手な御都合主義による誤断と、それに起因するど素人判断に基(もと)づく醒(さ)めた書き振りは、
当初から虚偽の申請と絞(しぼ)り込み、先祖を敵視する奴等特有の縦割り意識の弊害により、人間が人間に対して為(な)す「おぞましい」(恐ろしい)所業であり、思考が短絡化し理念の無い御託を並べて肝心なところに触れない不徹底な妄想は物事全体の把握に乏しく、この程度の範疇しか考えることができないのか?真(まこと)に浅ましい限りである。

 先祖の英知を愚弄して未知の領域に踏み込み、矛盾に満ちた一面的な判断で伝統と慣習を拒否し、有るか無しの権限や裁量の拡大を主目的にし乍らお上(かみ)意識が色濃(こ)く残った時代錯誤の見当違いにより自分の価値観を覆(おお)い被(かぶ)せて欣喜雀躍しているが、それは取りも直さず人倫の根源に背(そむ)く文化の破壊である。

     ◆ 棺の蓋をして後(のち)に事が定まる ◆

 親父の早世により身分不相応乍ら十四代を継承した自分が正義に滅(ほろ)びるならば、この世に生き長らえる価値は無く、加えてこの程度の無能者による攻撃的な中傷は、代々の先祖に対して遺恨を腹蔵する村田・細見・山岸・池野によって撫(なで)で切にされた恨(うら)み骨髄に徹する異様な事態は理非を判定する範囲を超えた愚の骨頂であるが、それにつけて村田信夫家の菩提寺本堂も高木但馬の愚作である因縁(前世から定められた運命)があるにも拘(かかわ)らず、根拠も無く先祖を蛇蝎(だかつ)の如く忌(い)み嫌う破目となったが、否(いや)でも応でも村田自身の終焉(しゅうえん)に臨み高木作の当本堂を通過せねば納まるところに納まらない皮肉な運命でもある。

PN   淡海墨壷