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2006年9月20日
高木敏雄HomePage

人を叩く前に己の頭の蝿を追え

宮大工 十四代 高木敏雄
     ◆ 正論に絡む邪説を追咎する ◆

 『嘉肴(かこう)有りと雖(いえど)も、食わずんばその旨(うま)きを知らず』元来、自分の事は棚に上げ、一途に先祖を排他的かつ猜疑や僻見が横溢した県教委の人間が、どんなに見掛け(肩書)が立派で虚勢を張ってみても、場数を踏まない(経験を積まない)名目だけの看板倒れでは残念ながら肝心の実質が伴わない。物事は総(すべ)て咀嚼・玩味(意味をよく考える)をしなければ、真実の意義を知り得ぬままに無様な(みっともない)結果をもたらすが、取り分け誤った先入観による独善主義(独りよがり)は、先祖の来し方を蔑(ないがし)ろにし、剰(あまつさ)え、傲岸不遜の知ったか振りで幕府の準則までも無視する体たらくは、「臭い者身知らず」(自己の欠点に気がつかない)惰性の果ての度し難い
(情味が欠落した品性下劣な窮状)を露呈する破目となった。

     ◆ 意図的に無価値にされた高木文書 ◆

 概して価値観とは、それぞれの人々が、ある事物に対して下す価値判断であり、論理の必然性(議論の筋道が、それ以外にはあり得ないとする思惑)は、各人の思惟により多種多様であることは言を俟(ま)たない。一方、世上の取沙汰(うわさ話)に『高木文書を読破せずして江州大工を語る勿(なか)れ』と、学術的に認められている稀覯(容易に見られない)文書が、有ろう事か先祖を襤褸糞(ぼろくそ)・味噌滓(みそかす)に扱(こ)き下ろす以外に語句を知らぬ(悲哀さえ感じる)県教委の連中によって、懐疑・複雑化した憂慮すべき轍鮒の急、即ち、正統な古文書が猫に小判となった事態は、(史実が形骸化したものを旧状に回復させる)予断を許さぬ過中にあって、現在吾人が曲りなりに(どうにか、こうにか余喘を保ち乍ら)天職を継承できるのは、偏(ひとえ)に先人の知的な営為の相乗(古文書・参考技術書・極秘伝・記録を含む複数の要因が重なった作用)つまり恩恵の結実であり、尚、これらをステップとして知的水準を向上させるには、取りも直さず先人に対する尊敬の念がなければならない。

 これの実践躬行にあたって、倦(う)まず、弛(たゆ)まず、直(ひた)向きに技能を習得した成果により、凛(りん)として孤高を持する江戸時代の大工に関する研究成果を、社会の裨益(役に立てる)の一端とし、尚々後代に次第送りの義務を果たすには、経験に裏付けされた中軸を温存し乍ら、温故知新〔先人の故(ふる)き物事を温(たず)ねて研究・吟味をし、そこから新しい知識や、見解を得る〕ことが必須と考えられる。

 凡(およ)そ、人間の品格は見掛けや肩書だけで決まるものではなく、精進に基づく勝れた果実の薀蓄(うんちく)の有無にあるが、彼等は他者の論述を覗き見し、これを断片的に繋ぎ合わせて捏造する、言わば、現実から乖離した観念的な屁理屈を捏(こ)ね回して飄然としているが、この程度の呆れ果てた低次元では重要な真偽の論証が未熟であるのみか、論点が真実と信ずるに足り得ると認めるに相応しい要旨も述べておらず、矢鱈に公権力を行使し、謂(いわ)れ無く
『高木は組頭という職権を乱用し、各地で大工と相論を起こしている。また、新築で申請すると不許可となるので故意に修理の名目に変更し、実際は新築した』等と、網羅すれば枚挙に暇が無い。このように生半可で矛盾に満ちた下らない論述は、迚(とて)も同日の論ではなく、(比(くら)べものにならず)逆に衆人の謗(そし)りを招く……の一つ覚えの愚考は啻(ただ)ならぬ匹夫の勇に他ならない。

     ◆ 堅白同異の詭弁と調査報告 ◆

 指定建造物調査の目的は、それ相応の資格を有する
本物のエキスパートによる真実を追究した知識の普及であるべき筈のところ案に相違し、常軌を逸脱した浅薄な判断により、只管(ひたすら)興味本位で先祖を愚弄することに汲汲としているが、その御座なりの手抜き調査により客観的な実態が把握されておらず、それ故に基本的な概念すら理解できない弥縫策により恥の上塗りを意識せず、あくまで主知論ではなく、衒学的(学問のあることをひけらかす)な感情論を剥(む)き出しにし、微温的(物事が中途半端で不徹底)な調査は、残念乍ら本質的な論点の錯誤により然(さ)したる成果も挙げられず、公刊に有るまじき虚構(フィクション)の安手の小説と化した無責任な報告書を躊躇することなく公表して尊大に構えているが、このような一時凌ぎの付会(無理にこじつける)説では、理非曲直が明白でない絵空事(物事に虚偽・虚構・誇張の多い偽物)に他ならなず、貧困な発想は喫緊の要事を無視した許し難い誣告〔故意に事実を偽(いつ)わって告示した虚偽事項〕や、詭弁を弄(ろう)し本末が転倒した虚誕の報告書の執筆者に対する報復手段は、先祖に成り代わり、毒を以って毒を制し、勝利を千里の外に決しその供養としたい。
    
     ◆ 源清ければ水清く、古川に水絶えず ◆

 以上の如く、主観のみに基づいた惚けた感性の愚にも付かぬ調査により、
先祖は恰(あたか)も幕府の禁令を破った大罪人と蔑(さげす)み、傍若無人の軽慢や、根拠なき誹謗中傷は、極限の非難によって暴戻の限りを尽(つく)し、その非人間的な気違い染みた妄挙による数多の冤罪事実は、死児の年令を数える以上の徒事(効果なき無駄骨)である。

 一方、有名無実(名が有っても実が無い)彼等とは裏腹に、先祖は『名を竹帛に垂る』(名前を史上にとどめ、これを後世に伝えた事実)の実体を究明すると、『名詮自性』〔名は自(おの)ずから性(本来の性質)を詮(具に言い顕し)〕名実(名前と実質が程好く釣り合い)累を重ねた先祖の実績は面目躍如(世間に対する名誉と評価が高い)たるものがあり、それ故に氏素性や『名にし負う』称号は、絶対に汚(けが)すことのできない立つ瀬(地位)なのである。

 これに関連する称(とな)え、(呼び名)が現行では『姓名』であり、古くは『名字・苗字』、旧時代では「幼名」に次いで「通称」、長じて「実名」、更に特別に許された国名受領の制度であった。

 手前味噌乍らこれの実例を示すと、先祖は本山西本願寺坊官〔僧衣を着用して帯刀する門跡寺院侍所の家司(けいし)下間氏〕より、代々日向・但馬・越中・因幡等の国名を許され、加えて技芸部門では『掾』(じょう)の称号を受領(づりょう)し、また社殿造営に際して『神祇管領』より、立柱・上棟の奉仕には『木綿手繦』(ゆうたすき)の着用を許可される等、その貫禄は他の追随を許さぬものがあった。

 このように由緒顕然たる先祖が遺した汗牛充棟の文書(専ら日本の文字で書かれている)の解読に際し、枢要な論点を充分に噛み砕いて味得することなく、また本来ならばその勉励によって会得できた筈の個々の事柄や、知識を薀蓄するといった力量すらなく、一途に箍(たが)の緩んだ県教委の連中が、徒に虚勢を張り、
『高木の先祖は高が知れたこの程度である』と蔑(さげす)み、剰(あまつさ)え、奈良国立文化財研究所の有るか無しの権威に安易に左袒した非合理(自己の主観を思慮分別なく重視し、理念よりも寧(むし)ろ感情的な思考に重きをなす逆説の非理性主義)にお追従し、その猿真似によって先祖を余すところなく排斥した病弊は、客観的真理の可能性を疑い、これに洗脳された裁量行為の拡大を主目的とする偏頗な調査では、迚(とて)も本質の究明には至らず、不見識も甚だしい妄挙(道理にはずれた振舞い)である。

     ◆ 目を側(そば)める古文書調査の根源 ◆

 『大道
(人として踏み行うべき正しい道)廃(すた)れて仁義(慈しみ・思いやりの心と、条理)あり』(大道が行なわれていた安穏な時代は人情が厚くて偽りもなく、仁義を主唱する必要は無かったが、後世大道が等閑(なおざり)になると世の中に虚偽が多発し、当然の成り行きとして仁義の強調が不可欠となる、という中国の名言がある。

 この道徳訓について、いみじくも類推でき得る事象とは、昭和50年代の半ば頃、図らずも県教委主催による「近世社寺建造物調査」が実施され、一方、これに付随する如く「高木文書」まで虎視眈眈と狙い目をつけ、その皮相の果ては、最も忌むべき先祖に対する憎悪と、バカ気た蛇足判断(存在しても益のない余計な物事)を十把一絡げにした無味乾燥の不実を列挙し、情味の欠落した県教委の調査
(細見・山岸・村田説)は、表題の美辞麗句とは裏腹に、目を側 める〔呆れ果てた憎悪により真面(まとも)に正視できない〕不測の事態を惹起した。当時私は病院のベットに横臥中で、医師より終生回復不能の宣告を受け、歩行不能は言うに及ばず、車椅子の昇降すら自力では儘ならぬ厭世的な病態を斟酌することなく、当方の窮状など何処吹く風と、ごり押しに当家所蔵文書を調査するという青天の霹靂(へきれき)に愕然とした。

 この調査の手法について、幕府の法度を皆目知らない素人感覚の県教委の調査員は、現実と旧時代の先人の来し方との狭間で完全に機能不全に陥り、況(ま)して人倫の空洞化した現世に於いて普遍の原理(多くの物事にあてはまる根本の理論)に基づくか、もしくは独自の見解による新機軸を貫(つらぬ)くのか、その根幹がずれた二律背反(両立しない)では、その上に構築する論理も自ずと「ちぐはぐ」(不調和)になることは必定であり、古文書調査の適否審査も行なわず、安易に奈文研に依頼した県教委にも責任の一端があると言っても過言でない。

     ◆ 論点相違(無視)の虚構と妄執 ◆

 表題の「論点相違」とは議論の中心点の「ずれ」(食い違い)を意味し、更なる分析を「広辞苑」に求めると、第一義として解決すべき物事の道理を説明(証明)するについて、論理に基づいた判断によって真偽を確定した『論証』を正当化し、この思考を『前提』(結論の基礎となった判断を文章にしたもの)として提供し、これを中軸とした前者を論題・命題(論文の題名)といい、後者を『論拠』(議論の拠(よ)りどころとなる重要なもの)とに二分される旨が説かれている。

 次いで、虚構の内実に言及すると、
(1)県指定建造物・本願寺八幡別院本堂、(2)重要文化財・弘誓寺本堂(何れも先祖作)の建築願について、その内容を歪曲した、県教委発行による「(1)前者本堂」修理工事報告書・監修・池野保、38頁に、〔取り分け後者(2)本堂は高木に申請義務が無いにも拘らず〕『両本堂共に高木による虚偽の申請で造営された』と、根拠もなく先祖を愚弄した犯罪者紛(まが)いの理不尽な嫌疑は、論を重ねるまでもなく「羊頭狗肉」(見掛けが立派でも実質がこれに伴わず)かつ判断基準自体が甚だ拙劣で、未だに大人になることを拒否して止まない御都合主義の連中が、虚誕を滔滔と捲(まく)し立て、報告書という公刊物を媒体として害毒を垂れ流し、因って世間を誤導した。
                
(細見・山岸・村田・池野説)

     ◆
 (1)本堂の虚誕を片っ端から暴く ◆

 巻頭の『論点を無視した虚構』を詮索すると、そもそも論証の規範として、『外見上似た事柄、または僅かな関係しか持たない事柄を論証し、これで真の論証をなし得たとするのは誤謬』と明記されている。ところが
(1)本堂の事例として、県教委・池野説では、論点の相違どころか、当初から土台となるべき要点を歯牙にもかけず、これを無視した蛇足の判断により見当違いの入口論(論外の事柄)を無益に論(あげつら)い、其れでいて公権力を後盾にした誤った主張〔例えば、当該本堂の元禄応急修理を、根拠となる高木文書を蔑(ないがし)ろにし、惚けた感性によって元禄新築とバカ気た大言壮語をして憚らない事実〕を権威による圧迫支配が本流を占(し)め、自分だけは絶対正しいと悪才に長(た)ける一元論的な逆説は、とどのつまり誹謗中傷までも正論であるかの如く力説する強迫〔相手を自分の意に従うように無理に強(し)いる〕となり、恥を恥とは意識せず、条理に外れた誤断や、道義に悖逆した無法は、一途に奇を衒(てら)う軽慢な先祖非難の焦慮に駆(か)られ、それに感(かま)けて、(こだわって)瞠目に値(あたい)する力量までも駆逐した挙げ句の果てには喫緊の論点までも無視し、恥の上塗りを曝け出す体たらくとなった。
 註 前掲の入口論については、論理的に導き出した挙証を後述します。
     
     ◆ 廃案の文書を妄信した池野説 ◆

 前述の
(1)本堂建築願に伴う先祖の撫で斬りは、去る昭和48年文化財建造物係長N氏による誤断以来、……の一つ覚えの如く止どまるところを知らず、調子に乗って(2)本堂建築願にまで言及し、県教委の人間にあるまじき無頼の徒の如き難癖を付け、性懲りもなく陋劣な策を弄した先祖非難の事実を裏付ける支証(争論の時に出す証拠)とは、論証の規範(のっとるべき規則)の内から『外見上似た事柄』または、『僅かな関係しか持たない事柄』に充当する事例を摘示すると、当該寺院に現存する宝暦5年(1755)付、建築許可書写し(原拠は高木文書)は、当初天満御坊の古材を拝領し、桁行を2間切縮めて建直す条件付の修理計画であたが、僅か半年を満たずして新築に計画変更され、必然的にこの第一次申請許可が廃棄となった事実(僅かな関係しか持たなかった事柄に充当)を夢にも斟酌せず、只管(ひたすら)に井蛙の見(けん)によってこの反古(ほご)となった文書(外見上似た事柄に充当)に惑溺してこれを後世大事に標榜し、「鬼の首をとった如く、これぞ高木が虚偽の申請をした証拠」と、欣喜雀躍するバカ気た蛇足判断は、我々専門家にすれば「へそで茶を沸かす珍事」であり、一方、「足の裏に付着したウルサイ飯粒」でもある。

 このように、(1)・(2)本堂にまつわる愚にも付かぬ先祖攻撃は、肝心の論拠が曖昧であり、この程度の次元の低い論争では立ち所に議論倒れとなって悲惨な最期を極めることは一定(いちじょう)であり、当方にも寛容の限界を超えた含むところもあって、延(ひ)いては大幅な不利益を彼等にもたらし、「汗顔の至り」を招来することは火を見るよりも明らかである。

 以上の如く代々の先祖は、斯道の分野に携わる大工組頭として、必須の根本法則、即ち、京都大工頭中井家を通じてもたらされる幕府の普遍必然的な規範に対し、彼等ど素人は不見識によって一切これを考慮せず、吾人による肝心の慣習と伝統を愚弄し、あまつさえ理の通らない非学によって場当り的で下らぬ既成事実化とし、逆に矛盾を深刻化させた苛(いら)立たしい発露は、事の本質的な解決にはなり得ず、こんな貧困な選択肢しか、無いのか。この無様では名にし負う組織の瑕疵ともなり、その存在意義を疑う。

     ◆ 先祖が蛇蝎視された根幹を抉る ◆

 『原因があってこそ結果が生じる』この因果関係を私なりに照校して勘案すると、常套な手段の細見・山岸説では、先祖に対して正当な理由・根拠も無く蛇蝎(へび・さそり)の如く嫌忌し、有無を言わせず暴戻の限りを尽くして非難した愚にも付かぬ調査発表こそ誹謗中傷の
「結果」に他ならず、残る一方の「原因」を剔決(えぐって、ほじくり出す)すると、昭和2年、甲賀郡の匠家の古文書を出典とした経済学専攻の学者による論著『江州甲賀の大工仲間』黒正巌説には「それぞれ郡単位毎に居住する大工は、郡外に出向して仕事をしては不可」という、私にすれば眉唾の問題提起に対して、これをプロの物指し(物を観る価値観)で見当すると、この大工規制自体が幕府の準則を見誤った不備な指摘であり、一見、社会正義の観点に立脚した論評のようでも、事実は整合性を欠いた部分も散見され、況(ま)して論者は畑違いの所為(せい)もあってか?違和(ちぐはぐ)な感が拭色できず、誤った判断によって枢要な決定(けつじょう)を否定した事実は(後述する弊害もあって)甚だ慙愧に堪えない。

 註 元禄8年(1695)1月、大工頭・中井家による「大工仲間の定書」
   によると、
郡外作事は相対尽(合意)の上であれば許容している。

 光陰移ろい、昭和51年、一連の県教委の調査に先駆け、当時渇望の古文書を渉猟していた吉田説では、前述の黒正説を鵜呑みにした学術調査発表(当家文書を出典とした一部を含む)によってこれを首肯し、黒正説同様に
郡外での作事を否定した。

 続いて昭和62年、県教委では三人市虎(付和雷同の格言を否定せず、)郡外作事可・否の決定について定見も具有せず、一途に前述の黒正・吉田説に準(なぞら)え、現実を無視した抽象・空想的な思考(観念論)により、事物の本質の究明が曖昧となり、その事理は一方的で抗弁の範疇を逸脱した机上空論を妄信し、迷妄の果ては先祖による郡外作事を否定し、憶測に満ちた姑息な中傷(細見・山岸説)により、
『高木は幕府の禁令を破った』と、不見識により徹頭徹尾非難したのである。   
              (建物の見方・しらべ方・山岸説)

     ◆ 机上の空理・空論と、要らざる勘繰り ◆

 山岸説では何を血迷ったのか、妄信の至り(誤った分別)なのか?おぞましい意趣返しによって証拠・根拠も無く、卑劣な憶測に基づく中傷
『郡大工組の規定では郡外で仕事をする事を禁じているが高木はそれを破っており、矢川神社の造営ではそれが為に地元の大工と相論を起こしている』等と荒唐無稽かつ空想的な規範を身勝手に標榜して先祖の英知を蹂躙し、その下らない事由は、空疎な他者の論述を覗き見した結果、『高木は幕府禁制を破る怪しからん奴』と、見当違いの邪推に終始するが、下手な考え休むに似たりとある通り、幕府規制の欠片(かけら)すら知らぬ人間が、差し出半学で僭越し、然程な(たいした)良策も無い癖に知った振りで先祖を愚弄するが、肝心の本質的な問題の在り処(ありか)を見誤り、実態以上に誤断が増幅された愚にも付かぬ印象批評は、唯の主観的な幻想にすぎない。

 このように、自己は至上の存在と鉄面皮に思い込み、先祖を犯罪者紛い
(幕府禁令を破ったと公表して憚らない事実)の侮蔑極まる嫌疑は、言わば、洟(はなみず)も引っ掛けてくれない浅慮であり、品性下劣な人間と世人は蔑視するであろう。詮ずる所、この無責任な発想が障害となり、半可通で吾人の未知の領域に土足で踏み込み、客観的な前提をを明らかにせず、また事物の経緯などの証拠を経驗則に照らして総合的に考慮することなく、肝心の拠りどころの(黒正・吉田説)自体が不確かでは、不幸にして共倒れの憂き目を免れない。

 今回、思慮分別する力量もなく、これを論拠と頑なに信じた陋劣な連中によって先祖を陥穽(落し穴)に嵌(は)める策略(先祖に恥辱を与える目的で公表した事実)は、逆に自分の足元を掘り崩す愚行となり、官の人間が民の無辜な人間を下瞰する不合理の連鎖は啻に縦割り意識の弊害に他ならず、換言すれば鼬(いたち)の最後っ屁の如き、切羽詰まった非常手段に等しい。

 因みに、山岸説が摘示する郡外作事を列挙すると、
  (1)神崎郡弘誓寺本堂(重要文化財)
  (2)甲賀郡矢川神社本殿
  (3)京都東寺五重塔(国宝)
  (4)大坂東御堂(焼失)
  (5)三重県高田本山・專修寺如来堂(重要文化財)
以上5件を挙げているが、実際は十指に余る。

    【(2)矢川神社本殿造営】

 (表題の(2)に先立って)(1)弘誓寺本堂作事に伴う許し難い中傷(本件では郡外作事の可否)について、回を重ねて縷説したので省略します。
 前置きは扨(さ)ておき、(2)矢川神社本殿作事に至る実相について、奈良国立文化財研究所・細見・山岸説の迷妄した暴論を詮索すると、そもそも先祖の来し方を中傷するについて概念を明らかにせず、当初から高飛車に
郡外作事は不可(因みに高木は蒲生郡・建設地は甲賀郡)等と、見当違いの尻馬に乗った付和雷同が高じ、益々先祖に対する嫌悪感と非難を増幅させ、粗雑な論理で秋霜烈日の幕府規制を歪曲し、『高木は地元大工と相論を起こしている』と狭小な井蛙の見に加え、定見(自分の一定した意見)すら持たない優柔不断な事実誤認により、意図的に先祖の良識を陵辱した。

 それでも一向に恥らうことなき彼等の惚けた感性(印象を受け入れる能力が不確か)により
『地元大工との相論』と軽軽に決め付けた事実無根の誇張と虚誕(でたらめ)を打(ぶ)ちまけると、寛延元年(1748)9月、高木は同神社別当様より御依頼の新築社殿絵図〔但し、このとき旧状に慣(なら)い二社殿並立式〕及び、木材明細・見積書を提出し、早速これに伴う役員諸氏の初回会議が開かれた。

 これに臨席した地元深川村の大工・九兵衞氏のちょっぴり拗(すね)た腹蔵は、
『同神社の氏子である自分を差し置いて、何故に八幡の高木なのか?』の思惑外れにより、強硬な異論があったらしく、(その根拠は、これ以後の会議には疎外されている)事実は、当分蚊帳(かや)の外に置かれる指弾(つまはじき)となった。以来3年間、作事に至る準備(例えば中井家に提出する建築願の手続等)を表面上は足踏み状態乍ら、裏では他の地元大工によって進捗していった。その間に九兵衞氏は京都中井役所に対する愚痴溢(こぼ)しや、八幡高木宅を訪問して(高木の心底を糺(ただ)すべく)善後策に奔走した。但し、高木宅訪問は他行(留守)につき、空でまかり帰り、(無駄足であった)と述壊している。
          (同神社文書・九兵衞氏口上書写しより抜粋)

 (議論は佳境に入り、)初回会議より3年後の宝暦元年(1751)九兵衞氏は省察によるものか?当初の意志を翻(ひるがえ)し、
『恐れ乍ら口上書』と題して「得心難(むつか)しく、御断り申し上げ候」(何故自分に指名されないのか五里霧中の状態で梯子を外された)まま中井役所に本意を断念する旨の書状を提出され、事実上外圧なく、自分自身で心理的な葛藤に終止符が打たれ、更に一年後の宝暦2年(1752)10月、同氏より不調法(行き届かない・至らない)事を認める謝罪証文が提出された。
                          (高木文書)

 以上の如く真面(まとも)な経緯・証拠が現存するにも拘わらず、細見・山岸説では九兵衞氏による
中井家宛口上書(宝暦元年付)の内容を、『郡外作事不可』と身勝手で筋の通らぬ固執をし、『当該口上書は高木に対する造営差し止め請求である』と恣意による解釈をした上で、『高木は郡大工組の組頭という強力な地位を利用し幕府禁令を破って郡外でも仕事をし、その為に地元大工と相論を起こした』と、恰かも先祖が職権を濫用して他者の仕事を横領したかの如きバカ気た喧伝をしているが、それならば何故高木家に『九兵衞謝罪証文が現存するのか』子供でも即断でき得る事由であり、矢張りこの奸計の背後には文章の行間が読めない空虚な蒙昧が性悪な病弊として潜伏している所以(ゆえん)であり、目的達成の為には手段を選ばぬ潜在意識の「おぞましさ」を否応なく見せ付けられた。

    【(3)東寺塔五度目の重建 】

 洛南の偉観国宝・東寺五重塔(正保元年1644完)は、境内東南隅に聳え建ち、本邦最高・最大を誇る木造五重塔婆は、
先祖、二代目高木作右衞門が一翼を担った畢生の大作である。これの重建について、弘法大師による曳材造営(御在世中には成就せず)より四度目の塔が、寛永12年(1635)12月7日焼失するや同16年春、三代将軍家光公は明正天皇の詔(みことのり)を奉じ、自らが施主となって、これの再興を中井家に命じたのである。

 当時は未だ積算技術が然程(さほど)精密ではなく、「いれふだ」と称する世間入札の形式が採用され、中井家もこれに参画したが、結局は中井家棟梁の今奥氏に落札し、大工を中井五郎助正純(二代目大工頭幼少による後見)、棟梁を今奥五郎太夫(和泉)に決定した。このとき今奥氏を含む中井家頭棟梁衆の多くは京都御所(寛永内裏造営)の途上であり、
高木は中井家の指示によって半年早く現場入りし、実質的な棟梁を勤めた。(後代の証拠と末筆された絵図・記録による)一方、造営費は『御入用銀937貫642匁余は、大坂御金蔵の銀相渡る』とあり、紛れも無く家光公が施主となり、幕府公金による『中井家直営工事』であったことは何人も否定できない。

 以上の事象が明白であるにも拘らず、頑迷固陋な細見・山岸説では何が逆鱗に触れたものか、自己の蒙昧を顧(かえり)みず、先祖を「ボロクソ」に書く以外は物事を知らず、唯に、中井家の指示による直営工事に参加した事実を
『幕府禁令を破った郡外作事』と、ぬけぬけとほざくが、そもそも一日分の労務賃金を設定し、その稼動日数に応じた大工手間支払い契約による関与が『幕府の掟破り』というのなら、本塔造営着手以前の幕府公用作事、即ち、江戸・駿府両城の修築・二条城造営・大坂仮御殿(三代将軍宣下に用いた仮殿)造営・大坂の陣による茶臼山の家康本陣の軍事施設・江戸城内紅葉山東照宮造営・京都御所造営等は、何れも高木が居住する江州蒲生郡以外の作事であり、これらも掟破りと宣うのか?

 一方、視点を変えて、当時中井家による大工規制は元禄時代(元年は1688)頃になると、一般にいう元禄景気は大工数の著しい増加をもたらしたが、反面中井支配を拒否する不穏の輩(もぐり大工)が横行し、正規の組下大工の保護を目的とした
郡以外に於ける大工仲間の作法(元禄8年・中井主水申渡覚)がここに至って公布されたものであって、法令実施より半世紀以上遡る寛永18年の直営工事に参加した事実が「何処が禁令破り」なのか?バ気た下種の勘繰りは「へそが茶を沸かす」笑止千万(気の毒な体たらく)であり、何でも彼でもど素人が先祖の来し方を悪態嘲罵すればよいというものではなく、猿が王冠を被(かぶ)っているかの如き看板倒れの調査では、根本的にどだい無理であり、大阪言葉でいうならば「阿呆ちゃう(違う)か」の一言に尽きる、常道を逸脱した支離滅裂の喧騒であり、馬鹿も休み休み言うのが大変よろしかろうと存ずる。

    【(4)大坂東御堂と、(5)専修寺如来堂】

 順序不同乍ら、(5)の寺院は三重県津市一身田・浄土真宗高田派本山・重要文化財・専修寺如来堂(高木四代・五代作)のことで、この両堂の造営についても執拗に、細見・山岸説では高木の居住地・江州蒲生郡以外の作事であることから阿房の一つ覚えの如く、
『両堂共に高木が幕府禁令を破った郡外作事である』と、自己の墓穴を掘る蒙昧は、事実無根の虚妄(うそ、いつわり、でたらめ)の害毒を巷間に垂れ流し、恬然として恥じないが、この作事は伊勢国であるので京都大工頭・中井家支配は及ばず、残念乍ら論外である。

 以上の如く、『小人窮すれば斯(ここ)に濫(らん)す』(思慮の浅い人間が窮すると、したい放題の事をする)の戒めの通り、先祖を中傷するについて
(4)大坂東御堂のみの間が抜けた愚策を弄し、無責任で漫然とした手抜きの記述、即ち、「何時・何処で・誰が・何をした・」の子供の作文にも劣る原則を歯牙にもかけず、これの詮索を、大阪中の島図書館に求めたが、当該寺院は存在せず、但し、自分なりに腹蔵する寺院と同一か否か、曖昧な発表は有りもしないプライドが許さず、今少し煮詰めて得心を得たとき、堂々と表顕する予定です。

     ◆ 高邁なプロの物指しと素人判断 ◆

 『毀誉褒貶』(きよほうへん)の内、「毀」・「貶」は(そしる・けなす、)その他は誉める・褒めるの意で、一般常識を具有(双方相半ばする)した人々による偏頗なき世評のことである。
 今回、県教委による一連の調査の内で先祖作品に限って言えば、先入観に拘泥した粗探しに執着し、文化財保護法という方針を忘れて愚にも付かぬ非建設的な感情を内包し、肝心の論理(物事の筋道)や概念を熟知せず、一途に恣意的な操作による中傷を超えた讒言は、折角その道の専門家に古文書を解読して戴き乍ら、たとえ字が読めたとしても内容が把握できず、その為に理非曲直を明らかにしないままに、下らぬ事実誤認によって先祖を悪し様に非難して憚らない細見・山岸・村田・池野説による紋切り型(ステレオタイプ)の過小評価なら未だしも、
先祖を幕府禁令を破った大罪人と決めつけ、公刊の書物を媒体として世間を誤導した。

 然し、一方では先祖による駄作の内、
重要文化財・県指定建造物に認定された作品が他を抽ん出て少なくないのも彼等による悪態嘲罵とは裏腹に、誠に矛盾した理解しがたい出過ぎた余計な干渉でもあり、代々の先祖に根拠もなく屈辱を与えしめた中傷は、確証のない奇を衒(てら)うが如きでたらめの虚説であり、度が過ぎた愚挙は軽率の謗りを免れず、思い上がった冷笑主義による無様な退歩は、焦眉の急として、専門家による高次の育成が必須であることは既に縷説した通りである。

     ◆ 「桂馬の高上り」の入口論を暴く ◆

 高木文書を調査したい旨の諾否について、事前に県教委より発刊された「近世社寺建築建造物調査」に書かれた先祖非難により、調査員の人品をある程度察知していた事や、親父の遺命〔封印した文書(長持三棹)は絶対他見は不可〕を頑なに堅守した事が功を奏し、実際に毒牙にかかったのは九牛の一毛であったことは勿怪の幸いであったが、回想すれば全部の閲覧を承諾しなかった些事よりも、今となっては文書を見せる価値の無い人物であった事に慄然とし、背筋が寒くなる省察を覚える。

 『一犬影に吠ゆれば、万犬その声に吠ゆ』(ひとりの人が間違ったことを言うと、多くの人がこれを信じて本当の事だと思うようになる。)(三人虎を成す、と同義)これの最たる〔程度がもっとも甚だしい〕抱腹絶倒すべき筋の通らぬ暴評は、『本願寺八幡別院本堂』が去る昭和48年、県指定建造物に認定されるや、当時の建造物係長N氏は歴然たる根拠(高木文書)を無視し、元禄応急修理を
新築と大言して譲らず、続く細見・山岸説では理を非に捩じ曲げて『新築で申請すると不許可になるので故意に修理の名目とし、実際は新築した』と内容を捏造し、『つまり、高木は虚偽の申請をしたものである』の暴論では飽き足らず、京都大工頭中井家より高木宛の修理許可条項まで、無頼徒の如き難癖を付け、『この修理許可を得るについて、上納金が動いた』と豪語し、その14年後に発刊された『同本堂修理工事報告書・監修・文化財保護課建造物係・池野保』でも自己の信念や定見の欠片もなく、徒に付和雷同の鵜呑みによって思慮分別なく、写実的にバカ気た妄誕を重ねた。これに関する論点(争点の中軸)は回を重ねて縷説したので省略し、ここでは刎頚の友人による理性に気脈を通じ、細見・山岸・池野説の理不尽な入口論、(即ち、愚にも付かぬ論外の愚論に興味があるので、是が非でも詳述して欲しい)の友人の希求に呼応すべく、その荒唐無稽を暴き出し、人並に先祖を論(あげつら)う彼等の涙ぐましい努力の結晶をここに披瀝してみたい。

     ◆ 理性が失墜した乱脱な池野説 ◆

 理性とは真偽・善悪を識別でき得る能力、つまり、物事の筋道を立てて考え、正しい判断ができる心の働きであり、これを失うと文意(文章の意味)が通じない「乱脱」となる。これについて、彼等の主張する半可通で論点のずれた入口論(私意による仮定)は誠に烏滸(おこ)がましい(バカ気ていて、みっともない)が、必然判断として、事理に悖る一顧の価値もない醜い部分の池野説に反駁を加え、因って
先祖に対する汚名払拭の一助としたい。

 そこで「縷説多謝」と一応断った上で傍題、即ち、本願寺八幡別院本堂・桁行寸法(問題提起の入口論)を詮索すると、第一義というべき昭和48年6月、県指定有形文化財認定に伴う構造形式の「桁行九間」という数字は、実際に測定した寸法ではなく、個々の柱と柱の距離の大小に拘わらず、柱間が全部で九間(ここのま)あるという、古書にある(アイダ)の意味であり、その内訳は吾人がいう「本建ち」(入側柱から同柱までの柱間)即ち外陣間口の内、先ず中の間を三分割した三小間に加え、両端の脇の間は、二小間が双方に存在することにより外陣の小計は七小間となり、更に両方の広縁二小間が加わって、合計では九小間となったもので、この数値は建物の大小を問わず奇数である。

 一方、実際の寸法は高木文書によると、
応急修理に着手した元禄7年(1694)以前の桁行は10.5間であり、これに1.5間継ぎ足すようにと本山御門主様の御下命により、10.5間+1.5間=12間となったものであり、現在に至るも桁行寸法は12間を膠着したままである。

     ◆ 一間(けん)も誤算した内実を暴く ◆

 以上の如く、万人が認める現実態に対して頑迷固陋な細見・山岸・池野説では如何なる根拠によるものか?
これを13間であると、筋の通らぬ自説を枉(ま)げず、剰(あまつさ)えその証拠立てとして、『縁柱から同柱までの寸法が81.18尺(正しくは80.52尺)であるので、一間の基準寸法を6.2尺と仮定して計算すると13.2間になった』等と間違いだらけの屁理屈を並べ立て、懸命に自己の恥を曝す事に努力しているが、彼等が増建後の桁行12間を13間と、恣意によって大言する世人の物笑いの根拠は、高木文書に梁行11.5間、桁行10.5間と明記されているにも拘らず、梁行11.5間+1.5間=13間と、つまり、梁行と桁行を間違えたことによる大失態の根源がここに潜んでいるのである。

 それでも先祖の非難に拘泥し、物事の本質を誤った天罰覿面の省察は、
13間と決め付けた以上は引っ込みがつかず、増建後の桁行13間であることの証明に苦渋を味わう必要に追われ、人を呪わば穴二つとある如く、彼等は自己の墓穴を自分が掘る破目になったのである。

     ◆ プロによるプロの洞察と、プロたる所以 ◆

 普遍概念に基づく当時代の一間(けん)寸法は、幕府規制によって6.5尺と制度化されており、これを条理に逆らって6.2尺で計算した結果、
13間ではなく「13.2間になった」と、あっけらかんとしているのは重過失の笑止千万であり、第一、大言する癖に無様な0.2間の誤差は如何様に釈明するのか?また、当本堂柱間に限って言えば、縁柱真々寸法(80.52尺)を十把一絡げにした6.2尺や、当時代の6.5尺で計算したとしても、先祖を愚弄する以外に物事を知らぬ次元の低い思考では、計算の整合を保つことは不可能である。

 その理由は、同じ外陣四周(柵の内を含む)の柱間22ケ所の内、20ケ所が柱間8.6尺で設計され、残る2ケ所は、この比率では割り切れず、加えて広縁の出巾また同然であり、結果は個々に三区分した数値で柱間を計算しなければ整合は覚束ず、況して、
6,2尺で計算云々とする素人判断では終生を費消して計算しても意を得ず、この程度の複雑さを見破る力量の無い人間が、生意気に先祖を論(あげつら)い、自己の無知を棚に上げて犯罪者扱いするようでは、微弱な力量を顧(かえ)りみず隆車に向かう蟷螂の斧の如き無益な抵抗であり、未だ嘴が黄色いと貶(さげす)まれても、立腹する資格は毛頭無い。

PN   淡海墨壷