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2001年10月4日
高木敏雄HomePage

八幡西別院本堂造営に関する一考察

 当院は八幡町史によると、文禄元年(1592)八幡城主豊臣秀次による城下町形成にともなって現在地(近江八幡市北元町)に移されたとあり、このとき本堂以下諸建物がそのままの状態で移建されたものか、またこれを機に現在地に新築されたものか、定かではない。

 以来、約百年の星霜を経た元禄期の上旬頃(1688−92)本堂については修復を、書院、対面所、台所の三棟については再建とする計画が樹立された。

◆  家作禁令と建築願

 元禄七年(1694)正月、当家の祖四代高木作衛門が京都大工頭中井家に提出した建築願いによると、

「梁行十一間半、桁行十間半の本堂を、この度修復仰せ付けなされたので桁行方向に一間半継足をして十二間とし、所々朽ちた柱の取替に加え、総地形(基礎全体)を二尺ばかり築き上げたい」

と概略の修理仕様を述べ、その他書院以下の建物については屋根は「柿(こけら)葺」とした上で、これより先寛文八年(1668)に発令された「家作禁令」(三間梁制限)に抵触しない範囲、即ち本建ち梁間は三間に、庇の梁間は禁令通り一間半を限度として申請している。

◆  御裏判(建築許可)の内容

  前述の通り、寛文八年(1688)に発令された幕府老中下知による家作禁令を京都大工頭中井家より「毎月組下の大工に促がし申すべし」と命じられ、その後も貞享年中(1684−87)にも法令遵守を触れ回し、元禄五年(1693)には組中の定めとして

「御公儀様御法度作事の趣、きっと相守り、いよいよもって組中吟味を致し、いささかにても相背きたる仕事は堅くつかまつるまじく候。寺社は新造は申すに不及申、壊し建直しにても窺い申すべく候」

とする誓約書を提出するに至った。これらは大工組より大工頭に諂ったものではなく大工頭の示した条項に印を押す厳正なものであった。

  案の定、この申請に対して同年正月二十八日、中井家の示した条件は、

「桁行方向の継足しは勿論停止の事であるが、門跡寺院という格別の仔細(理由)であるのでこれを許す」とした上で「他の例にならない」と注意を喚起した上で、「但し壊し候て建直す事は難しくなり申し候」

と解体修理は却下している。

 当該本堂の元禄修理以前の朽損状態について創建年代はいうに及ばず修理された年月も不明であるので推測の域を脱しないが、文禄元年の移建に於いて例えば柱足元などの腐朽を無視して建てたとは考え難いところから、百年後の修理に際し「所々の柱の根継ぎをしたい」のなら理解できるが、「柱を取替したい」とあるのは相当な建物の腐朽が目に浮かぶ。加えて「総地形二尺ばかり高くしたい」の要望あるに於いては可成りの湿地であった事が想像できる。

◆  間(けん)と間(ま)について

 元禄修理以前の本堂規模を知るものとして、元禄五年六月付で当院より在地の代官今井七郎兵衛に宛てた地検に関する書状に*1←クリック

「一、  堂、梁行九間 桁行九間」

と記述されており、この規模で二年後の元禄修理を迎えることとなるが、ここでは前述の如く解体修理は却下されている為、従来の礎石の移動は行なわれず、従って各柱間寸法も同一のままで修理以降に継承されたと考えられる。

 これを裏付けるものとして、明治中頃とみられる本堂以下十六棟を列挙した文書 *2←クリックにも「本堂、方九間」とある。

 この表現は一般にいう「呼称何間本堂」というもので、往往にして間(けん)と間(ま)で混同されるところの九間(ま)であり、それは文禄の移建から元禄修理、宝暦解体修理を経て現在に至るも九間(ま)で、実長九間(けん)ではない。即ち元禄当時でも本建だけで七間に、縁両方の二間が、加わって九間だったのである。

 一方、実長でいうところの間(けん)で考えると、当家の祖高木日向は元禄修理に際して修理前の本堂桁行を「十間半」(但し実長)と記している。

 それは縁を除く本建のみで考えると、中の間が四間(けん)に二間半の脇間が双方で合計九間となるので残る一間半が二分され「双方の縁の出寸法」ということになる。

 但し、当本堂の一間は六尺九寸近くあり、中世の一間七尺から近世の六尺五寸に移行する過渡期を思わせるが、この六尺九寸近い寸法から考えると、当本堂の創建は不明なものの、文禄より少し古い建物と考えられるのは先祖が造営した本堂という私の慾目であろうか。

◆  本堂桁行一間半の増建について

 元禄の修理願で中井役所より認められた桁行一間半の継足しは従来の桁行が十間半であったのに対して、現存本堂は十二間であり、その内訳は前述の如く旧来変更なく維持されてきたと考えられる本建寸法実長九間に加え、現在広縁が広げられて一間半宛の計十二間となっている事実によって知ることができる。

 これに対して修理工事報告書では建築願に書かれた文言のみに早々と囚われて「本堂全体の均衡を破る」と酷評しているが、向拝桁行寸法は本堂中の間寸法二十七尺三寸六分と同一とする手法も多い中で今回の継足しを考慮してか増建の一間半に近似の九尺三寸六分拡げた三十六尺七寸二分にすることによって均衡を保ったものと考えられる。

 そのため入側通りの柱位置と向拝柱が睨まなくなっているが、これは増建に伴う苦肉の策ではなく、各地によく見られる手法でもある。

◆  宝暦期の大修理

 八幡西別院造営に関する一連の旧蔵高木文書の内、宝暦二年(1752)七月の年次を有する当院より高木但馬(当家五代目当主)に宛てた文書の内容を検討すると、先ず文章の冒頭に「御坊御普請」とあり、更に四年以前の四文字に続いて「御堂」の記述があるので、この建物は紛れもなく五十八年以前の元禄七年先代同姓日向によって修理された同院本堂を指すものである。

◆  最初の修理契約

 『御坊御普請四年以前(寛延元年1748)御堂かり木立の趣(見積書の内容)をもって相渡し候へども作事中断に及び候』とあり、『御堂かり木立』とは続く文面に『かり立て、土居葺まで』の記述あるところから四年前に一旦切刻=建方=上棟=野地=土居葺までの契約が交わされたことが推測されるが、何故中断に及んだのか詮索は兎も角も、ここでは新造か修理かは別として、当本堂を一旦解体して我々大工仲間でいう「締め直し」の必要に迫られていた事実がこの文面により充分察する事ができる。

◆  再契約の要請

 そこでこの度(宝暦二年七月現在)改めて四年以前の契約書を吟味(よく調べ)し、委細(詳細に)算用(金額を計算)の上、相対(互いに制約しあって)の上で、工事契約期間は此節(宝暦二年七月)より戌(同四年)四月まで(通算二十一ケ月)と決め、工事の範囲は、かり立=土居葺までとしている。

◆  工事費について

 最も重要視すべきは契約金額で、「銀高二十一貫九百匁相渡し申すところ実正(証)也」として別院傘下の十ケ寺(内二ケ寺は落印)が連署して確かな証拠であるとしている。

  尚、他に寺院側より人足及び材木小屋、工作小屋の提供や、縄、筵等の現場支給も明示されている。

註 「かり木立」又は「かり立」

 前述の八幡西別院より高木但馬に宛てた書状に「かり木立」又は「かり立」の語がみられるが、これは「愚子見記」にいうところの「殻木立」つまり切組された部材の組立作業を示す物と考えられ、専門用語の「から木」と寺院の示す「かり木」では少し違うが、建築専門職でない寺院よりの書状であり、この「かり立」に続いて「土居葺」とあるのをみれば矢張り「部材の組立」つまり現在でいう建方と解釈しても支障はないであろう。

  尚、当家ではこの組立作業を「素立」と表現する。

◆  他寺の見積り金額との比較

 今回寺院側の再要請で工事契約が締結したと考えられる(大工のいう野地降り)までの契約金額によって、この工事が新築か、単なる修理に終わったか、他の見積り金額と対比してみたい。

 幸い、これより先延享元年(1744)高木但馬が赤野井西別院(滋賀県守山市)本堂新築に際して提示した見積り金額は「銀九十二貫」とあり、これは八幡西別院の約4,2倍に充当し、念のため「但し、内造作を除く素立の積り也」と明記している。ここでいう「素立」とは当家が何処の契約にも使用する工事の範囲、つまり前述の寺院側よりの書面にみられる「かり木立」又は「かり立」を意味するもので、工事契約範囲は八幡西別院の土居葺までと同じである。

 但し、本堂の規模については、赤野井別院の桁行は、八幡別院のそれよりも約三メートル小振りで、他に柱廻りも来迎柱以外は角柱であるのに対して、後者は縁柱以外は円柱であるので当然ランクも上であり、約4.2倍とする比率はもっと大きくなるものと考えられる。

 尚、細かく検討すると、八幡西別院の場合は寺院側より人足提供や現場支給も考慮せねばならないが、延享元年の見積当時と、八幡別院のその当時(寛延元年1748)の五年間では大坂米相場もさしたる変動もなく、結論として考えられることは両寺ともに同じ工事範囲で、赤野井別院の四分の一以下の金額では八幡西別院が宝暦期に新築できる筈もなく、前回の元禄修理に際し解体を却下されたため、充分の修理に至らなかった分の「締め直し」を重点とした修理と考えられる。

◆  結章

 以上 当本堂を造営させて戴いた末葉として、先祖の足跡解明や、江戸時代の大工支配制度について、過去四十年に亘って研究し、その拙い成果に立脚して私見を述べさせて戴いた。それ故に「我田引水だ」との謗りを招くかも知れないと考えても居ります。

 例えば報告書では、元禄七年の本堂建築願について、

「この度、修復を仰せ付けられたので」

との記述に対して「高木文書に修復とあるので再建」云々と回を重ねて記し、このとき再建と考えられるのは各人各説で勝手であろうが、

「新築で申請すれば不許可になるので高木は虚偽の申請をした」

と故なき事を出版物(報告書)として公表するに至っては実に情けない限りである。  ご多忙のところをこの拙文をお読み下さいました皆様方、何卒ご異議がありますれば頂戴致したく伏してお願い申し上げます。

参考文献*1*2共に、本願寺八幡別院縁起録より抜粋 戻る

住所 滋賀県甲賀郡水口町下山 693−261  高木敏雄