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2002年6月25日
高木敏雄HomePage

建造物造営年月の誤謬

宮大工 十四代 高木敏雄

   ◆ 瓦の箆書について ◆

 昭和五十年代後半頃より近世の社寺建造物が注視されることとなり、「価値あるもの」と決定する過程で造営年月の決定などに不可欠とされる棟札、墨書、所蔵文書、瓦の箆書等は重視されるが、反面匠家に保存されている古文書の類が恣意によって疎んじられる傾向にあることは、実に憂慮すべき事態であり極言すれば文化的後退でもある。

 平成六年、高木作右衛門但馬喜連によって造営された本願寺八幡別院表門の修理が行なわれ、その工事報告書に「本堂の屋根瓦が転用されていた」とあり、丸瓦の箆書に、

「元禄十七年より建立ありて(瓦を葺き始めたところ)同年三月改元、年号が宝永と変って、翌二年八月上旬うえい(造営か)終るものなり」と記されている。

 この瓦を転用したとする本堂は当表門を造営した但馬の父、高木作右衛門日向によって元禄七年正月、中井役所に修理願を提出し、当時の幕府禁令の厳しさから「解体修理は不可」とする条件付の許可を得たもので、瓦の新調は容認しているが、あくまで当時でいう「建ち乍ら修理」であるので、この場合は箆書にある建立とか、造営という表現は不適切なのである。

 私は敢えてこれらの粗探しを趣味とするものではないが、心安からぬのは前述の重要な瓦は当然所有者によって保存され、後年必然的に行なわれる当該本堂修理に於いてこれが証拠となり、またもや元禄修理ではなく再建と万人の人々が認識されること必定と考えられるからである。

 例えば昭和四十八年、当本堂を県指定とするについて縁高欄の擬宝珠に享保元年(1716)の刻銘があったことに加え、八幡町史に「高木文書に元禄七年本堂修復とあるので」と、あくまで修復であった事を認識し乍ら、一方では擬宝珠の銘を根拠とした苦渋の選択として「高木文書に修復とあるので、このとき(元禄期)再建」と不可解な決定となっている。

   ◆ 角柱から円柱へ ◆

 柱という字は木偏に「主」と書くくらい建物の中で最重要な分担をさせられている。その角柱、円柱の使用区分について、県下における真宗大型本堂に限っていえば、来迎柱以外すべて角柱とする伝統的手法から、十八世紀になって内陣付近にのみ円柱を用いた本堂を初例として、縁柱以外は円柱とする手法に進化し、これが十八世紀後半ともなると、総円柱とした弘誓寺本堂(高木但馬作)となる。

 このように十八世紀になって円柱が用い始められるが、「正徳三年(1713)には本山に願い出て許可があれば使用でき、この頃以降円柱が普及し始めたようである。

  「滋賀県近世社寺建築」県教委 抜粋

 この論拠によって考えると、縁柱以外は円柱を用いた当該本堂を昭和四十八年、県指定にあたって高木文書を虚仮にした元禄七年(1694)修理ではなく再建とし、今回の平成修理の工事報告書にも、「一度決めたものは変更できない」とする因循な公衙のやり方で同様の記述として憚らないが、それは前述の学説とに大きな矛盾を生ずることとなり、本山による円柱使用許可云々に関係なく、十九年も以前、すでに当本堂は縁柱以外は円柱を用いて再建されていたという理論になり得るのである。

   ◆ 本堂再契約要請 ◆

 宝暦二年(1752)七月、本願寺八幡別院の協力寺院が連判(内二ケ寺は欠印)の上、御坊(別院)の御堂(み堂、本堂)御普請に関し、殻木建(切刻みされた部材の組立作業)に次いで、土居葺(瓦葺にすぐ着手でき得る状態)迄とする工事内容とし、期間はこの節(宝暦二年七月)より、同四年四月迄と限定した上で、
 「これは四年以前(寛延元年1748)一旦提出された見積書通りに契約をしたが、作業が中絶に及び、この度改めて見積内容を詳細に調べ直した上で相対をもって」
とする条件で再契約を示唆する書状が高木但馬に届けられている。

   ◆ 没却された再契約書 ◆

 この高木但馬宛本堂再契約文書は「当別院には関係なきもの」と現在では県によって没却され、寺蔵文書一覧にも掲載されていない。その虚仮にされた理由と考えられるのは、擬宝珠の刻銘に「享保元年(1716)とあるため「このとき再建」との決定が底流となり享保元年再建成就説を誤りなきものとして考えると、「僅か三十六年経過した宝暦二年に解体修理などあり得ない」と判断したものであろう。

 加えて当文書には本願寺八幡別院の表現はなく「御坊」とあるので「何処の御坊かわからない」とし、「御堂」とあるのでは建物の種別が不明であると難癖をつける。

 当家も真宗門徒の末席を汚す、いわゆる「門徒」であり、同宗同胞は異口同音に別院を親しみを込めて「御坊(ごぼう)さん」と呼び、本堂の呼称は「お御堂(おみどう)」なのである。

 また、この書状は当別院傘下十ケ寺が連判の上で契約金、人足提供、現物支給分等を「この方より相違なく云々」と書かれており、別院当局よりの直接書状ではないので「御坊、御堂」等の表現となったものではなかろうか。

 更に、この連判の十ケ寺までも当別院とは関係ない寺院と決めているが、私も「近江輿地志」(享保十九年)で調べたが、一ケ寺を除く他は西本願寺末寺と確認され、電話帳によっても現存する寺院であることが判明した。
 高木は特注を除いては蒲生郡内の一部、八幡町周辺を営業範囲とし、特に但馬宛の文書ゆえに彼の活動期に限定していえば、当御坊は本願寺八幡別院と断言できる。

   ◆ 宝暦期の御坊普請の内容 ◆

 室町時代以来営業を続けてきた高木文書は絵図も含めて長持三棹に及び、その膨大な数量は閲覧の目的で当家の門を叩いた研究者は口々に「とても一朝一夕では調査不能」と感嘆し、母はまた「その都度数日来宅が続くので応対が大変であった」と小言の連発も私の耳に新しい。

 これらは私宅の狭少さもあって田舎の母に管理させ、私の手元で一部のみ保存してきたが、昭和六十二年、奈良文化財研究所の調査による公表以来、思うところあって田舎の分は母の遺品整理と共に焼却した。

 そのため文書の制約によって断定できないが、本願寺八幡別院本堂関係分を分類すると、先ず元禄七年修理文書を【A】とし、次いで前述の宝暦度御堂再契約文書が【B】続いて造作工程順として内陣天井他、周辺の文書があるべき筈のところ敢えなく焼却済となったものか発見できないので空想的な【C】とし、最終段階の申年四月付の外陣、他の天井積り帳及び、外陣四本柱を含む入側柱(計二十本)の組物積り帳を【D】として私見を述べてみたい。

   ◆ 元禄修理と円柱使用計画 ◆

 先ず【A】の元禄七年(1694)の修理願に記された本堂木口指図(平面図)は簡単な絵図乍ら、このときすでに縁柱を角柱とする(後堂庇は除く)他は総て円柱で表示され、これは前述の「正徳三年(1713)頃以降、本山より円柱使用が許されてのち普及し始めた」とする学説とは少し矛盾するが、それでも当時の家作禁令の内容を熟知した大工組頭の修理申請であり、「朽損した柱を取替したい」とする大修理の過程で、折角の好機に円柱とする時代先取とし、また格式ある西御門跡別所の御堂にこれを使用すること自体、「御門跡御修復なされるについて」であるため、すでに円柱が用いられていた本山の先例に準じ、他寺院を抽きんでて円柱使用を希望した申請をしたのではなかろうか。

   ◆ 解体修理却下される ◆

 しかし、ここでは折角の計画も空しい徒労となったようで、修理願の帰趨するところ、継ぎ足しは認めても解体修理は不可とし乍らも

「若し左様のお好みに候はゞ(解体が希望であらば)重ねて申し来るべきものなり」

と追記し、再申請を示唆した柔軟な回答としている。

 この裏書(修理許可条件)に対して、改めて寺社奉行に再申請をしたか否か、文書の制約から断定できないが、修理報告書では黒白を弁ぜず

 「元禄七年に本堂修復(実際は新築)」と、あくまで修復であるのに新築と明記し、「許可があり次第すぐ着手した」と断定するに及んでは、これでは再申請など論外であり、取り付くしま(方法)もないが、何時の場合も「お上の決定に誤りはない、黙っておれ」というのであろうか。
 これについて修理工事報告書には工事着手当時の進捗について、 

 「修理許可を得て(元禄七年一月末)すぐ着手、翌八年には土居葺まで施工」

と、恰かもその状況を目撃したかの如き刹那的な記述とし、新築の大型本堂が僅か一年余りで土居葺まで完了したと伝える。

 この工程で実現しようとすると、堂宮建築ではその建物によって基準となる柱寸法が異なるため、作成された木寄(材料明細書)通りの挽立材が材木店に予め用意されている訳でもなく、当時は大鋸(おが)による手挽であるため、現在のように短期日で材料は揃わない。

   ◆ 木の話ちょっとだけ ◆

 余談乍ら私の大工修業時代は、良材は製材所まかせにせず、「木挽一升飯を喰う」といわれた常雇の職人さんが、二,三人常勤されていて、例えば当別院クラスの本堂ともなると、柱は欅材で、長さ六メートル直径九十センチ位の丸太を胴割するのに一日では無理であった。(ちなみに当本堂の場合は円柱だけで四十本必要とする。)

 それは、木の繊維に沿った墨かけとするため、ああでもない、こうでもないと木を転がして、木に対して礼を失しないよう、そして挽き立てた結果、最良の杢目がでるように、最初の重要な受け面の決定に終日費すこともあり、これが決定しても作業唄に合わせて挽くという、ゆったりとした時の流れの中で、必要な構造材の順に挽く。

 次は大工の出番で、挽き上がった木を正確な寸法に削り上げる。現在のように自動鉋に突っこんだら終わりというものではない。例えば座敷柱などを木挽さんから「大工さんこの面は三ミリ以上削らないで」と聞かされ、それを守らないと必ず節が顔を出す。つまり木は生育の過程で弛みなく枝払いをすることによって節を包んで表面は無節の状態となる。その極限を木挽さんはチャンと知っておられ、つまりレントゲンのような目をしておられる。

 少し話が横道に入ったが、次なる切刻み作業も済ませ、現場入り直後に旧本堂の解体、廃材処分、基礎の二尺築き上げ、そして建方、上棟、野地、土居葺に至る驚異的、神技ともいえる進捗は無理と判断する以前の暴論と考えられる。
 一方本堂と併行して書院、台所、対面所、は幕府禁令に順応した小棟造り、屋根は柿板葺とし、梁間は禁令通りの京間(六尺五寸)の三間に、庇は錣庇として、その出は一間半とした。

斯くて「元禄十三年九月十日、本山御門主寂如尊師御下向ありて御堂再興慶讃御執行なり」と堅田本福寺旧記が伝える通り、前述の三棟も完成したことが判明するが、本堂は現存する瓦の箆書によって屋根は土居葺の状態で法要が行なわれたが、瓦葺は少し遅れて法要より五年後の宝永二年乙酉夭(おさえふさぐ)(修理工事報告書には「天」とある)に次いで八月上旬迄にうゑい(造営)終るとあり、天ではなく押え塞ぐと理解した方がよさそうである。

   ◆ 本堂修理その後 ◆

 本堂瓦葺も終り、享保元年(1716)には縁廻りも完成したようで、外観上の体裁は整ったものとみられ、当本堂を修理した高木日向は同七年五月に没し、以降五代目高木作右衛門が抬頭する。

 享保も終りを告げる同十九年、表門の造替が計画され、旧門より六尺大きく、桁行十八尺の藥医門で中井役所に申請、同年九月二十九日、中井家はこれを許可している。但し、のち計画変更されたものか現在の表門は四脚門である。

 次いで同年十月十六日、本山より「国名但馬」の名乗りを許され、以後高木但馬を実名とした。

   ◆ 円柱はいつ建てられたか ◆

 当本堂の造作に関する【D】文書、申年四月付、外陣四本柱及び同入側三方の柱(計十六本)の組物(出組)と、弥頼の間、外陣、広縁の各天井見積書について修理報告書に「外陣天井墨書、宝暦八年九月」とあるところから、この見積はその直近の申年たる宝暦二年に充当する。

 これに対して【C】と空想される内外陣境より後方の内陣、余間、他の見積書は焼却の内に入ったものか発見されないが、同じ天井吊木に「宝暦五年九月」とあるので、寺院のご都合上見積としては内、外陣に分類したとしても、提出したのは両見積共に同時期頃と考えられる。

 一方、ここで注目すべきは「入側丸柱十六本」の記述についで「但し何れも出組の柱穴あり」とある事や、虹梁上の蟇股七枚の見積について、柱に関しては、内陣廻り二十本、外陣廻り二十本、計四十本の丸柱が、この見積提出以前にすでに準備されていた事を示し、当然虹梁等も用意されていて、そのため蟇股のみの見積となった訳で、加えて外陣廻りでは出組で早くから計画され、そのため挿肘木の穴も丸柱に掘られていたことが窺えるが、ここでの課題は、この丸柱がいつ建てられたかである。

 ここで県に忌避された【B】文書、御堂御普請再契約に着目すると、高木但馬宛の書状の年次は宝暦二年七月で、前述の外陣天井他の見積書より三ケ月後となるが、その内容は『これより四年以前の寛延元年(1748)御坊御堂御普請を殻木建までの条件で相渡し候えども(契約を締結したが)作事中絶に及び候について』とあり、これは「見積金額などで妥協できなかった」ではなく「一旦工事に着手したが何らかの事情で中断した」と解釈できる。

 この一旦行き悩んだ内情の詮索はとも角として、本堂の元禄修理が完了したとする享保元年より僅か三十二年後に単なる小修理ではなく、工事契約期間を二十一ケ月の巾とし、殻木建、土居葺までとする契約は、とりも直さず解体であり、元禄修理申請で解体不可となって温存されていた円柱の使用を、半世紀後の十八世紀中ば頃(寛延元年1748)になって実現し始め、更に数年後の宝暦七、八年頃になって今度は総円柱として弘誓寺本堂(五個荘町)が高木但馬によって実現されてゆくのである。  (現在重要文化財)



PN   淡海墨壷