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2005年8月19日
高木敏雄HomePage

先祖の死屍に鞭打つ非道な弾劾

                               宮大工 十四代 高木敏雄

     ◆  大局観を喪失した印象批評 ◆

 先人の名言に、「巧詐(こうさ)は拙誠(せっせい)に
(し)かず」つまり「口だけ達者であれこれ粗探しをするが、実際に腕前を示したことはなく、(抜かぬ太刀の高名)で他者の作品を巧みに欺(あざむ)く不遜な行為は、仮令その仕事が拙(つたな)くとも、誠意(まごころ)を尽くした作品には迚(とて)も及ばない」という戒めである。

 この格言に類似する事の成行き(大局)を抽出し、県教委(一部の人間)による積年の遺恨(耐え難い塗炭の苦痛)を彷彿させると、「滋賀県の近世社寺建築調査報告書」(昭和61年3月、県教委文化財保護課発行、52頁〜57頁)に、「虹梁絵様の変遷」
(同課、村田信夫氏執筆)と題し、彫刻の紋様を24件掲載している中で、如何なる理由によるものか、その内3件の高木作品のみ非難・攻撃の俎上に載せ、『渦の幅が広くボッテリとし、佳作とは言い難いものである』と、付会の論難を浴びせられた。

 註 完成した作品に言いがかりを付けようと思えば、国宝建造物でも
   難癖が付けられる。

つまり、高木作品は駄作で下らないものであると、得意満面に巷間に垂れ流し、如何にも悦に入って溜飲を下げ、見解の偏向した御託を並べているが、そもそも、このような独り善がりで主観に基づく理不尽な扱き下ろしは、健全で即物的な良識ある者の判断とは考えにくく、只管先祖を下瞰(見おろす)する自惚れにすぎない唯我論と考えられる。

 一方、視点を変えて、
村田氏が完膚無きまでに駄作と公表して憚らない高木作が、他面では識者により出色の作品であると認定され、結果として他の追随を許さない十二棟(鳥居一基を含む)が、現在何故指定されて存在するのか?その眼前の紛れもない事実と、村田氏による判断とが氷炭相容れず、謂れなく先祖を貶め、権力を行使した常軌を逸する偏見は、軈て天の配剤により自らが墓穴を掘ることとなり、益のない不毛の徒労は取りも直さず、唯に先祖をバカにした妄評にすぎない浅慮の致すところである。

 続いて
村田氏、当該調査の本質とは埒外の高木の出自にまで土足で立ち入り、不実の要らざる干渉をした挙げ句、当時の大工組織にも半可通で言及し、「この高木は蒲生上組の頭であった」等と根拠なき出鱈目や、お節介な勘繰りを実(まこと)しやかに公の出版物に誇示した。

 その他、枝葉末節の妄評は枚挙に遑(いとま)が無いので不問に付すとしても、兎に角このような根拠なき放論は迷惑であるのみならず、第一に世統の私が
村田氏及びその同類によって書かれた憎しみの連鎖の誹謗が、真実か否か吟味の結果、これを信じるに足り得る相当因果は些(いささ)かも認められず、他方、官の出版物ならばこそこれを信じて読まれる諸賢も迷惑であり、その愚行は甚だ無責任と言い当てて尚、余りある。

 このように、一部分の官人が他者を排撃するについて指弾の目標を決めなければ面目が立たず、(毛を吹いて疵を求むる如く)大抵の人間は日頃から非難している弱者に罪を被(かぶ)せるのが最も手っ取り早い解決方法と考えているが、これでは報告書という名に値しないのみか、自分で品性を下げる至愚であり、先祖に対する嫌悪感と、非難を集中させた人間味の欠如した非道な筆誅の争点は主観的な誤断が多く、先祖に対する偉ぶった非難とは裏腹に、誠に無様な猿の尻笑いの様相を呈している。

     ◆ 鹿を指して馬となす詭弁 ◆

 孟子の名言に、「全(すべ)て書を信ずれば、則(すなわ)ち書無きに如(し)かず」(どんな書物にも誤りや欠陥があるのだから、紙背や行間を読む力を十分に養ってから読め)という戒めであり、それらを全部鵜呑みにするくらいなら、なまじっか読まない方が良いという頂門の一針である。

 結局、学問の必要性を純粋に意識し乍ら、先学の知識や玄奥な体験を一切学ぼうとせず、それが高じて次第に独善に陥り、中途半端な外題(見せかけ)の識見で先祖を攻撃する虚妄の説は実態の伴わない虚構であり、衆人の誹りを免れない。

 これについて卑近な例を示すと、敢(あ)えて過去に拘泥する必要は無いが、文化財建造物修理を業(なりわい)とする以上は旧時代を知る格物致知(事物の本質を究めて知識を深め、物事に正しく処することを目指す)が必須の条件であり、例えば先人の来し方に対して半可通な賢しら知識で徹頭徹尾道理に合わない難癖を付ける倒行逆施(道理にさからって事を行うこと・ごり押し)や、理性の枯渇した猜疑及び憎悪の愚にも付かぬ感情論ではなく、実践的に貴顯の人々の知識の享受を必然として幕府が定めた建築統制や大工仲間の規制等を研究・反芻し、その上で啓発された主知論で論ずべき筈のところ、この低次元の憶測に満ちた貧困な発想では、残念乍ら「人を叩く前に、先ず己を知れ」の一語に尽きる。

 つまるところ、多面的に先人の知識を蔑(ないがし)ろにし、それでも飽き足りないのか、横溢した矛盾の論理(屁理屈)で準則を無視し、味噌も糞(くそ)も綯(な)い交ぜにした暴論で、差し出がましく旧時代の先祖の領域に物知り顔の土足で踏み込み、正鵠を誤った洞察に乏しい場当たり的な手抜きの高木非難は、大所・高所から見れば度し難い、単なる自己矛盾であり、決して世辞にも「論理的思考による的確な判断」とはいえない噴飯に値(あたい)するものである。

     ◆  人身攻撃と冤罪の根源 ◆

 「敵を知らば百戦危うからず」今回図らずも県教委、文化財保護課の
村田氏・他により、真っ当な真実味も、信実と信じられるそれ相応の理由もなく、徒らに被(かぶ)せられた根拠なき無実の罪、〔元禄6年(1693)以降は江戸幕府の公金で運営された公儀出先機関・京都中井役所に提出する書状(公文書)の内容を、先祖が捏造した(虚偽の申請をして建築許可を得た)と、証拠も無く断定して公表された嫌疑〕について、彼等はこれに関する幕府法度(法令)の無知蒙昧を棚上げとした浅ましい事実誤認の誹毀に対し、先祖が残してくれた五百年に渉る営業実跡の証し(古文書)の内、私自身による積年の古文書解読の成果を参考(盾)に、故なき濡れ衣を払拭する手段として、ここに論駁を加えるものである。

 これについて(相手側の)所行を裏付けるに足る証拠として私の手許に、先祖に対する論難第一号というべき「滋賀県」と印刷された専用紙(B5判)に書かれた弘誓寺(神崎郡五個荘町)(所在地は当時のまま)本堂調査報告書(全14頁)があり、これは去る昭和59年秋、
村田信夫氏より私に手交された来歴を有するもので、案ずるにこの小冊子は当該本堂を県指定建造物に答申するについての事前調査の報告書である。

 註 因みに当本堂は昭和61年3月、県指定に、翌62年6月、重要文化
   財に、昇格されている。

     ◆ 造営文書の内実と報告書の違和 ◆

 
村田氏・他が前掲の報告書に記載した現存本堂の実態調査報告の内容及び、同本堂(指定建造物)に付随する『附文書』(宝暦造営関係文書4点)の内から、恣意により争点の論拠となるものを摘録すると、次の2点に要約される。即ち

(1) 宝暦5年10月、「奉願造作之事」(写し)1巻。
(2) 同 6年5月、「本堂素立、平物・角物木寄」1冊

以上の(1)・(2)文書の内、論点となる(1)の文書を先ず客観的に敷衍(ふえん)すると、そもそも当文書は本堂造営の嚆矢(第一次案)であった大坂(阪)天満御坊の旧堂を拝領し、(建立地のご都合によるものか)桁行を2間切縮めて9間(間口)にし、腐朽材を取替え、(一部は埋木・矧木等の修理をし)建直しする計画で取替材・再用材の調査を行い、次なる策の建築許可願(前述の(1)文書、「願い奉る造作之事」に充当する)の提出については中井家の定法に準則し、
高木ではなく、本件は神崎大工組に申請義務があることから、成り行きとして地元大工が願主となり、(飛脚に依頼するのは不可)願主大工自身が中井役所に出向するのが仕来りである。

 さて、提出された願書の内容を吟味した当時の京都大工頭六代目、中井藤三郎正武(主水)氏は、『梁行11間の作事は元来御制禁(寺社奉行による梁行制限)ではあるが格別の子細(旧堂の建直し)であるので御許容云々』と、柔軟な対処とした上で、「大工誰々へ」と表書きして
願主大工に書状を手交し、同氏また、一件でも多くと希求する自己に有益な勿怪の幸い(営業上の実績)として、これを未来永劫自宅に保存、子子孫孫に伝承したのである。
                 
(故に正本は寺に存在しない)

 このような往事の煩雑な仕来りについて、更に蛇足を加えると、高木は先ず中井家に提出する作事願の書式が無案内である地元大工の代筆として二通を作成し、一通は代筆した責任上自宅に持ち帰った現存高木文書、(幅、2800粍、長さ440粍)であり、残る一通は上京する地元大工に託したのである。それ故に許可を得て願主大工が持ち帰った文書は、大工頭の黒印のある正書、高木文書は副書となった。

 ここで作事願の来歴を整理すると、最も信憑性が高いのは何と言っても
地元大工家が所持する正書であることは言を俟(ま)たないが、大工頭の裏書なき高木文書に次いで寺蔵の(1)の文書は、後日地元大工所有の正書を寺院関係者が筆写した単なる写しが、何故に正書を抽んでて現在重要文化財本堂の「附文書」に認定されているのか?そのこと事態、本末転倒の腑に落ちない不得要領であり、物事の真の姿を探求して見極めることなく、無責任な御座なりで関係省庁に誤って答申した、いい加減な文化財保護課の忸怩たる恥部でもある。

     ◆ 室に入りて矛(ほこ)を操る ◆

 『相手側の喧伝(やかましい非難)を梃子とし、時には鼠も虎になって論駁する』前掲に続き
村田氏による報告書10頁には、残る(2)の文書、即ち宝暦6年5月、「本堂素立、平物・角物木寄」、〔本堂造営着工から上棟を経て瓦葺に着手できるまでの入用材(寄進木材を除く)全て新材で拾い出した材料明細書〕に固執し『これには、代金まで記載されている』と、現存本堂の新築説に傾注し、これに対して(1)の文書には、『大坂天満御坊の古堂を拝領して再建とあるので、高木が虚偽の申請をしたものである』と、深読みすることなく、浅慮によって単純に決め付け、糅てて加えて筋の通らぬ偏狂な自説を標榜し、『現本堂には古材を使用した形跡はない』と、包括的に見当違いの妄説を頑(かたくな)に主張して憚らない。

 つまり
村田氏は普く知ったか振りで、対象物に真摯に正対することなく、唯に先祖を貶(おとし)める目的により、(1)の文書は古堂修理の申請であるのに対して、現存本堂は全て(宝暦造営に於ける)新材を用いた建物である事実により、両者の辻褄が合わぬ事に惑溺し、それが禍して本質的な問題の在り処を見誤り、自己に与えられた印象に基づく主観によって、先祖に濡れ衣を着せるといった非人道的な観念論(屁理屈)を追及してみっともない矛盾を重ね、理念なき御託を並べて悦に入るが、残念乍ら斯くの如き事実の断片のみを安易につなぎ合わせた内容の伴わない早計は、全体像の把握には乏しく、この程度の範疇でしか考える事ができないのであろうか?

 これら一連の驕慢に浸りきった
村田氏による高木非難は、取りも直さず先祖をバカにした高慢な御都合主義による誤断の集積に他ならず、それに起因した高木嫌悪感の数々が道理の理解を拒否し、荒寥した筆致で先祖の来し方を悪し様に(冤罪)書きまくる倣岸不遜は、実に度し難い、哀れさえ止(とど)めるに十分な、私にすれば反吐(へど)を吐く程に耐え難く、受忍限度を越える矛盾・対立・葛藤の動的な展開から、怨嗟に至る悲劇でもある。

     ◆ 敵視された非難の矛盾を突く ◆

 今般、客観的な真理を懐疑とし、また高木に対する正当な判断は排他的に差し控える嫌悪・排斥とし、只管
『高木の先祖は各地で幕府禁令を破る怪しからぬ奴』と、この指止まれ式に抜き差しならぬ、間違いだらけの公表をした虚誕の非難は、倫理感や忖度の片鱗さえも見られない虚実綯い交ぜの観念論で一束に絡(から)げ、先祖の来し方を足蹴にする卑劣な行為は、古文書を調査する適格性と、資質の欠如した妄挙と言わざるを得ず、その筋の通らぬ振舞いは、実在性を欠いた主観的判断による幻影に過ぎない。

 この理不尽な吹毛求疵について
如何なる意趣遺恨によるものか、自己の井蛙の見を棚上げに、高木文書の内容を須(すべから)く逆手に解釈し、折角、先祖の微力によって蓄積された文化の結晶を瞬時に瓦解させるといった愚かな判断の過程に於いて、人間としての他者の痛みに対する感受性の欠落と、自己の能力を過大に評価させようとする意図が読みとれるが、このような、先祖を敵視した度が過ぎる感情論は人権的にも問題があり、職権を行使して根拠無き事を公刊物で発表する事は、少なくとも公益を図る目的でない事は明白であり、無実な先祖の尊厳を屈辱するものである。

     ◆ これでも虚偽の申請と宣うのか? ◆

 芭蕉翁の名句に「物言えば唇(くちびる)寒し秋の風」つまり、中途半端な知識でなまじ物を言えば逆に禍を招くという意味で、これを敢(あ)えて行えば自業自得(自分でつくった悪行の報いを、自分自身で受ける)自縄自縛という戒めである。

 今回、
村田氏に煮え湯を飲まされた究極の痛恨の極みは、謂われ無き先祖の非難について、「今は何(どのような事)を書いても自由である」と、尊大にうそぶき、筋の通らぬ主張をするが、そもそも故意に捏造した公文書を、臆面もなく公儀役所に提出するバカ気た無法が、果たして無難に罷り通るか否か、言うまでもないが、一方、これの是非について村田氏自身が是であると肯定し、私の先祖を絶対悪にすることで自分を善に措(お)くといった呆れ果てた思考により、抜け抜けと意味不明な事を公表するが、現代に比して厳しい桎梏(束縛)を巧みに潜り抜けて天下の御大工頭中井氏をまんまと騙(だま)す不法は、一つ間違えば首が胴から離れる暴挙であり、それでも先祖を犯罪者として巷間に垂れ流した怨恨に対して、いよいよ眦(まなじり)を決し、先祖の奥許し(おくゆるし)を紐解いて真偽を分折した箇条書とし、先哲のご賢察を仰ぎたいと欲するものである。

(1)
村田氏は何を血迷ったものか「高木が虚偽の申請をした」と、軽々に断定するが、それ以前の問題として、本件は建立地が高木の居住する蒲生郡以外での作事であり、その為高木に申請義務はなく、証拠として宝暦5年10月、寺蔵「附文書」にも、願主の地元大工に次いで、この人々を保証すべく神崎郡大工組頭も連署されている事実により、高木でないことは明白である。

(2)幕府の定法として、「品により見分の者を差し遣わす。(派遣)」とあり、「品」とは建物の程度であるが、願主が高木であれ、地元大工であれ奉行所から与力2名に加え中井家より頭棟梁1名の検分があり、このような厳正・無私の情況下、虚偽の申請など容易に遂行できる訳もなく、門外漢が邪推するほど秋霜烈日の幕府法度は、甘っちょろいザル法ではなく、道理に暗い者の余計な勘繰りである。

(3)それにも増して最も棒腹絶倒すべき前代未聞の椿(ちん)事は、前述の報告書1頁に、指定本堂の「附文書」4件の内、宝暦5年10月付の「奉願造作之事」を価値あるものと答申しておき乍ら、同じ報告書10頁ではこれを
「高木による虚偽文書」と、手の平を返す如く嘲罵しているのは如何にも物事の筋道が立たず延(ひ)いては建物所有者に対して無礼であるのみならず、1頁と10頁の同じ論理に食い違いが生ずるのは、自家撞着も甚だしい本質を逸脱した偏狂であり、海賊が山賊を非難するに等しい。

(4)また前掲(3)に示す「奉願造作之事」文書が、(村田氏の恣意的な解釈に無闇矢鱈に感動して)
高木による虚偽の申請文書と仮定したとすると必然的にこれに拘泥した波紋の拡大は止(とど)まるところを知らず、大工頭の裏書(許可条項)にまで抵触する。即ち、当該本堂は「梁延びであるので本来ならば(幕府による)御禁制のところ、子細が格別であるので許可云々」の勿体(もったい)を付けて条文を下付した大工頭の行為そのもの(仮想)が、高木の謀略を看破し得なかった不手際となり、一方では地元大工が京都から持ち帰った作事願いの正本を筆写するに際して捏造したのでは?との仮説も成り立つが、何れにしても疑心暗鬼の下らぬ村田説に惑溺することなく鯱立ちしても、実践不可能な暴説は無視し、信義を旨とする世上の道徳を守ることこそが賢者の筋道と考えられる。

 省みて
私の信条とする「批評に対する概念」とは、それぞれの専門分野に沈潜して、きめ細かな感性(体験内容)と、鋭い洞察力を享受し、自分の経験・知識で切実に受け止めるだけの力量及び、視野の広い該博な識見が求められるが、このように他人の先祖を撫(な)で切りにして悦楽を貪る悪業は、人間として極限とも言うべき非難に値(あたい)し、挑戦的な数多(あまた)の中傷は、逆に職権乱用の誹りを招き、自分の愚かさを表面に曝(さら)け出す最低の過誤でもある。

     ◆ 文書は真(ひた)むきに真実を語る ◆

 故意か、迂闊か、彼等は生半可な素養
(江戸時代の大工法度)が、障壁となり、五里霧中の状態で心が頓(とみ)に定らず「最早文化が閉塞するのでは」と、私が、杞憂するに十分な高木文書調査(前述の村田氏論に次いで、昭和60年3月、奈良文化財研究所、細見・山岸両氏論)は、学術調査とは美名に過ぎない看板倒れを醸成し、徒に先祖に対する憎しみを増幅させる不毛の連鎖に成り下がった感が否めない。

 即ち、躊躇なく通説を覆し、万人が唖然とする
(事実無根)の虚誕の内容

(イ) 高木文書を中核とした冷罵的な調査報告書の公表を媒体として、
    その行為が果たして社会全体に正義(正しい筋道)を、もたらし
    たか否かの公共性。

(ロ)その行為が社会に対して、公平な利益となり得たか否かの公益性

(ハ)(イ)・(ロ)を第一義として、これに相当するか否かが訝
   (いぶか)しく、信憑性を強く疑わしめる。

 以上、
先祖の扱き下ろしに現(うつつ)を抜かし、人間としてあるまじき人倫の空洞化した傲慢で、思慮分別が暴走した匹夫の勇は、古文書の読み解きに臨み、仮令「文字」が読めたとしても、肝心の行間及び紙背が読めず、趣意の不徹底は理性を拒(こば)み、一例として前述の弘誓寺本堂造営に伴う奥書についても、書かれた内容の玩味不充分が如実に顕在し、内容を逆手にとった挑戦的な付会の妄説となって、余すところなく無様な醜態を演じたのである。

〔作事願の概説〕(高木但馬自筆文書)

当本堂の作事について、大工は絵図本棟梁を蒲生郡、高木但馬が相勤め、諸事の指図を仕ります。これにより、高木方より御伺い、(京都中井役所に出向し、作事願を提出)申し上げるべき筈のところ、
高木は蒲生郡大工組、建設地は神崎郡大工組と、それぞれの所属大工組が違いますれば、(地元大工)が助棟梁を相勤め、御伺主(願主)となり、ここに大工組の違う訳(理由)を立て(立証)申します。
                地元大工、神崎大工組頭、(在判)
    宝暦五年十月

 
〔事実を歪曲した解釈〕(細見・山岸諭)

(前書略)「然る上は(そういうことであるからには)本棟梁、助棟梁の差別(立場上の違い)を互いに守り、入魂(じっこん、親密)にし、無事に本堂の建立これあるように仕るべく云々」とあり、地元大工と高木とが相協力して工事を行うことを約している。然し乍ら(このように)
『蒲生郡・神崎郡と大工組が違うので』と、これにわざわざ前文をつけているところをみると、その経緯は必ずしも平穏(おだやか)であったとはいいきれない。そこに高木一流の政治力が働いたこと、矢川神社の例がよくそれを物語っている。

 註 「矢川神社の例」の指摘(中傷誹謗)について、拙文『捩じ曲げら
    れたプロの本懐』をご参照下さい。

 そもそも言語「言(こと)の葉」を文章の綾(いいまわし)として表現するとき、取りも直さずこれが媒体(なかだち)となり、読まれた人はそのことによって物事を把握されるという、
筆者にすれば責任ある基底となるものである。

 取り分け旧時代の文書ともなると、それ以前の問題として文字が難解であり、よしんば「字」が読めたとしても、文章の意味が読めないのが通例である。かといって、前述の細見・山岸論の如く自分の無知を棚に上げ、無味乾燥の言いがかりを付けるのは如何なものか?それは自己の所属する「教育」という名の組織に対する瑕瑾ともなり、その愚かな行為に恬然として恥じない獅子身中の虫でもある。
PN   淡海墨壷