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2002年5月24日
高木敏雄HomePage

十四代目のひとりごと

宮大工 十四代 高木敏雄

◆ 執拗乍らもう一言いわせて ◆

 変なタイトルですが、頭が変になったのではありません。すでにもともと変なのです。
 近江八幡市の本願寺八幡別院(八幡西別院または金台寺)本堂元禄修理について、高木作右衛門日向光連(四代)は、本山西本願寺門跡様より本堂修理(他三棟を含む)を仰せ付けなされたとして、京都中井役所に建築願(願絵図)を自身で出向して提出した。
 その内容は、桁行十間半(梁間十一間半)本堂の「所々朽損した柱の取替と同時に桁行方向に一間半継足して合計十二間とし、併せて地形(基礎)を二尺ばかり築き上げたい」と解体修理を示唆した申請をしている。

 

◆ 増建に対する奈文研の異議 ◆

 当家保有文書を調査した国立奈良文化財研究所はその調査報告書に、
  「この修理願は問題のあるところで、
   桁行十一間半に一間半の継ぎ足しをやりたいという」
とある。

註 桁行十一間半とあるが、それは誤りで修理願には十間半と記されている。

ここで奈文研が大袈裟にいう「問題のあるところ」とは桁行に拡張するのは不可解であると指摘した上で、

 「それは左右対象形であるべき本堂に対して片側にのみ一間半増建すれば、向拝を中心として外観上当然左右非対象の姿となり、また一間半を二分して左右両方に増建したとしても、中の間対脇間のバランスが悪くなり、拡張後の形が思い浮かばない」

との見解を示している。
 確かにご高説の通りで、対象形云々説そのものに関して私は否定するものではないが、

  「この度修復仰せ付けなされ候に付、
   桁行方へ一間半継足しして十二間につかまつり候」

とする修理願の文言に対して主観にとらわれた見方、例えば「問題である」「拡張は不可解」等は老婆心を超越した言い掛かりである。 
 当本堂修理願は元禄七年(1694)仮初めにも大工組頭の肩書を有する高木日向四十才のときに書いたもので、修理願には簡単な増建計画を含めた平面図が画かれており、「身贔屓だ」とお叱りを受ける嫌いもあるが、一見してバランスの崩れた駄作建物との判断に充二分に足り得る増建計画図ではない。それでも「拡張後の形が思い浮かばない」とあるが、それ程目障りな高木が修理した本堂と知りつゝ、彼等の調査より十余年以前に何故県指定建造物となったのか?「不可解なのは当方である」といいたい。

 

◆ 元禄修理以前の本堂 ◆

 当時では新築は申すに及ばず、修理の場合でも願書を提出し、簡単な平面図を書くのが通例で、それによると中の間は「四間」脇の間が「二間半」で双方の小計五間、合計では「九間」と記され、この九間分は取りも直さず入側柱の真々寸法であり、我々大工のいう「本建ち」である。
 この本建の柱間配置は、当該修理以前も、以後も、現在に至るも変更なく維持されている。一方、全桁行としては願書に「十間半」と明記されており、これより本建九間を差引くと一間半で、これを二分した、つまり一間半の二つ割たる大目が縁の寸法となり得る。
 従って元禄修理以前は広縁は設けられておらず、一般寺院にみられる落縁だけであったといえる。

 尚、桁行十間半と明記されている以上、真宗寺院特有の軒受支柱の存在が認められ、この柱列は入側柱より約五尺外方に縁柱として縁板木口に接する程の位置に建ち、この約五尺の間は化粧屋根ではなく、木口張りの天井板(水平に)が貼られていたのではなかろうか?
 そしてこの縁柱の真々寸法が桁行十間半となっていたが、残念乍ら入側から縁通りまでの距離は何尺何寸かは不明で、あくまでも大目とするのみである。

 

◆ 高木日向の増建構想 ◆

 一間半の増建について修理願に「広縁九尺」との記述があり、その外方に落縁と書かれ、旧来の約五尺の木口張りの縁に代って一間半の広縁が設けられ、ここが縁柱の柱列となる。但し、広縁の柱間は「県の修理工事報告書」によると九尺三寸八分とあり、これは垂木割の関係で当初計画より三寸八分拡げられたものである。

 そこで拡張後の桁行は、九間(本建ち)の左右に一間半宛の広縁が設けられ、合計十二間となり、「十二間につかまつりたい」とする修理願と符合し、奈文研のいう十三間ではない。

 尚、拡張によってバランスが崩れると危惧された件については、これの解消法?として向拝柱間は本堂中の間と同一とする手法もある中で中の間寸法より九尺三寸六分広い向拝柱間とし、その調整をしたものと考えられるが、これとて苦肉の策ではなく、各地によくみられる手法でもある。

 

◆ 間(けん)と間(ま)について ◆

 当本堂は呼称九間であると書くと「前述の十二間とは違うやないか」とお叱りをうけそうである。この違いを如実に示すものとして京都東山の蓮華王院本堂が挙げられる。この本堂は柱間が三十三あるので三十三間堂として有名であるが、実際は六十間以上あることでご理解戴けるであろう。
 そこで当本堂は本建が七こま、(柱によって七分割されている)つまり建築の本に登場する「アイダ」であり、この両端に一こま宛の広縁が加わって全部で呼称九間なのであり、構造形式としては九間で、実長の十二間とはいわない。

 

◆ 改竄された桁行寸法 ◆

 奈文研の調査報告には
  「文面(修理願)では桁行十一間半
   梁間十二間の本堂が大破したので(中略)桁行方向に
   一間半の継足しをやりたいという」

  「修理願によると完成後の桁行寸法は現状十一間半
   一間半継足したいのであるから十三間となり、
   ほゞ現在の本堂と一致する」

 このように修理以前は桁行十間半であった本堂を、あくまで頑強に「十一間半」と力説するのは単純なミスではなく、その奥に秘められた魂胆が見え隠れする。その根底をなす論拠とは

  「拡張という名目とすれば修理工事で通用する」と前書きし、
  「修理という願書は実は中井役所に差し出す際の便法であり
   実際には新築を目論むものであった」

  「高木が修理と称して新築する例は弘誓寺(神崎郡五個荘町)
   本堂にも見られ、新築の申請では不許可になるところから、
   故意に修理、修覆ということにしてその目的を変え、
   つまり虚偽の申請をして無理に許可にこぎつけた」

と、自信ありげに明記するが、これらは中井役所に提出する建築申請や、家作禁令等の不見識によるもので、そのため当家の祖は恰も幕府法度破りの極悪人であるが如き印象を与えしめ、加えてその出版元が国立の機関及び県教委となると、故人の事とはいえ由々しき大問題である。

 つまるところ彼等は両寺院共に「高木による虚偽の申請で造営された」と強調し、貶める目的で事実無根の言掛りをつけ、公金で運営される中井役所を欺く手段として、本山御門跡のご依頼である増建はなかったと決めつけ、そのため

  「現本堂に拡張の痕跡はない」

と大言して憚らない。
 次いで彼等は高木による欺瞞行為を証拠立てんとし、

  「現本堂の桁行寸法は縁柱真々で八十一尺一寸八分あり、
   一間を六尺二寸と仮定すると十三・二間にあたる」
  「修理願による完成後の桁行は十三間で
   ほぼ現在本堂寸法と一致する」

と、これらはあくまで「修理とは名目であって増建はなかった」との誤った見解がその底流をなすもので、実測(昭和六十二年)の結果両者の数値の一致をみるに至り、「然(さ)も有りなん」と自己満足したものであろう。

 しかし、この論理は一般的には理解不能である。何故ならば後者では高木が修理願に記した修理後の桁行寸法(十二間)と、自分で測定したものと対比している事実で、増建の有無について論じるならば修理以前の桁行寸法(十間半)と修理後の寸法について論じるべきであって、これは論を俟つには至らず自明の理である。

註 この彼等の論理は修理前と修理後の桁行数字が同一であった場合に於いてのみ、増建はなかったといえるのである。

 更に首を傾げるのは、縁柱真々を間に直すについて六尺二寸で計算しているが、当該本堂桁行寸法を勝手に改竄して十三間とし、その辻褄合わせの目的で六尺二寸で割って十三・二間になったというが、これらは単なる数字合わせであることは否めない。

 そもそも江戸幕府では大工頭中井家を通じて寛永初年、すでに一間を京間六尺五寸(一・九七米)と定め、そのため同十八年先祖の関与した東寺五重塔絵図にもこの高さを一旦は間で表わし、但し尺に直していくらと記入しているがこれも計算すると一間は六尺五寸である。その後明暦大火の復興、寛文八年の三間梁間制限に次いで当該本堂修理願提出の前年の触書等々何れも一間は六尺五寸である。

 ちなみに当該本堂桁行は正確には八十尺五寸二分で、これを六尺五寸間で割ると十二・三八七間となって十二間より少し多いが、その理由は本建間の一間は六尺九寸近くであるのに対して、広縁は間に直して六尺二寸五分強となっているからである。

 

◆ 中井役所の修理許可条件 ◆

 元禄七年正月、高木が持参した修理願に対して中井家当主はその裏判に、  「表絵図通りの御堂を御門跡が御修復なされるについて」
と門跡様の依頼による修理であることを認めた上で 
  「今度桁行の方へ一間半継足しすること自体は
   勿論ご停止の事ではあるが」
と、これより先の寛文八年の三間梁制限による厳しさを指摘し乍らも、門跡寺院である格別な由緒を重視し
  「子細格別であるのでご許容の間、細工してもよい」
と、一間半の増建を許可している。

註 ここで中井家当主が「御許容」と表現しているのをみると、対外的、つまりこれは寺社奉行の許可である。

但し、
  「もっとも他の例にはなるまじく」
と特別の措置であって、他建物の引例にはならないと注意を促した上で、
  「但し、壊して建直す(解体修理)ことは難しい」
と解体修理は一旦禁じているものの、
  「若し左様の(そのような)お好み(希望)であれば
   重ねて申し来る(再申請)べきものなり」と結んでいる。

 

◆ 修理許可に対する奈文研の異議 ◆

 中井家の裏書で見る限り、誰が考えてみても解体は禁じているものの増建は認可した修理と判断できる。それについて奈文研の報告書には、
  「子細格別ということで許可されたのは例外措置であり、
   この事実は法度違反の申請であっても特別の事情があれば
   許可されたとし、それは上納金の取引があった」
と明記され、小判入りの菓子箱を受取る悪代官を彷彿させるような筆致としている。
 昔の格言に「非理の前には道理なし」というが、公衙の職員ならもう少し透徹した理論がないものかと唖然とし、情けなくもある。

 まず寛文八年に家作禁令が江戸幕府より触れられて、のち上方にも適用されることになったが、【A】このうち寺院関係分を抽出すると、京都には御所を中心とした公家住宅や、宗教関係では大本山たる寺院、門跡寺院が多く、これらにまで屋根形状は妻飾りを禁じた小棟造りに、梁間は京間の三間を限度、柱上は舟肘木造り以上の結構は不可とする規定を上記の建物にまで適用するのかとの矛盾が生じた。【A】
 そこで二年がかりで上記の点を追及、結果としては当該建物は西御門跡寺院であるので「子細格別につき」とする特例となったもので、奈文研が指摘するが如き法度違反でもなく、それらを知り乍ら中井役所が許可する筈もない。

 揚句のはての「上納金云々」は論外であり、また申請書の授受に日時を要していないと疑っているが、これは願主自ら京都まで持参する方式であり、早暁近江八幡を出立すれば午前中には中井役所に到着する。

 その他、修理名目とした虚偽の申請というが「建物によっては見分の者さしつかわす」と実地検査に来られるので彼等のいう公文書偽造等出来る訳もない。
 国立の機関に勤務され、止ん事無き身分で要職に就いておられる方なら、もう少し充二分な調査の上で書けないものであろうか?。

【A】〜【A】=谷直樹さんの論文を参考にしました

 

◆ 元禄修理か改築か ◆

 本願寺八幡別院本堂が元禄修理か否かについて私自体どちらでも良い事であり、またそのことについて干渉する権利も資格もない傍観者の一人である。とは申し乍ら、その修理申請にあたって、

  「高木は実際は新築を目論み乍らそれでは不許可になるので
   名目を変えた修理工事であるとし、つまり虚偽の申請をして
   無理矢理新築許可を得た」

と、最も信憑性の高い公衙の出版物に各地で幕府の法度破りをした悪逆人であるかの如き印象を与える記述をされたとなると唯々諾々と黙殺は出来ず、私の生ある限り先祖に代って極まりなく争わなければならない。
 それについて執拗と蔑まされようと、嘲笑されようとも当家として不都合な部分の訂正を申し入れるも「一旦掲載したものは変更できない」と一蹴されたことに対する天誅としての合法的挑戦をしたい。

 私見ではありますが、当家文書によると当該本堂は元禄修理に際し当時の幕府法度によって解体修理は容れられず、その後江戸中期ともなると従来厳しかった制限もやや弛緩の傾向となったようで、寛延元年(1748)寺院側より修理計画を樹てられたが不調に終わり、更に四年後の宝暦二年(1752)修理工事費及び寺院よりの人足提供分、現物支給分を明記した再契約を要求する書状が高木但馬宛に届けられている。

 昭和四十八年六月、私にすれば幸いというか、今回の件を踏まえていえば不幸といいたいが、当本堂は県の指定建造物というありがたーいお墨付となり、その指定条項の一部、つまり修復年代について、
「元禄七年正月、御修復仰せつけなされた」とする高木文書を出典とした八幡町史の記述と、擬宝珠の銘に享保元年とあるところから「元禄頃より本堂再建計画がたてられ、享保元年頃再建が成就した」と判断され、昭和三十年代半ば頃から当家古文書の研究に没頭していた私にすれば到底理解出来ぬ県当局の決定となっていたのである。

 一方当別院におかれては、この頃同じ高木作品なのに、すでに重要文化財指定の建物が存在したことから当該本堂も同じ指定ランクにと奔走された役員さんが当家を探しあて、このとき関係文書を貸与した。(S 49,1,10)

 この高木文書探しは当別院に対する県の要請でもあったため、以来これを中心に当事者の折衝もあったが、何分両者が当家文書を目にされたのはすでに県指定となった七ケ月後のことで、これ以前に「再建」と県で決定した以上、回を重ねて寺院より陳情されるも 
  「あれは修復の文書だ」
との返答に役員さんが愕然とされた事実もあり、つまり当該本堂は如何なる理由によるものか、県指定となった当初から高木文書の範疇でみる限り元禄修理を裏付ける証拠文書を無視し、棟札は紛失、寺院関係文書皆無、解体はしていないので墨書の発見もない状況下で「元禄再建」に決定するという捩れた判断となり、当家文書は単なる紙屑同然のものとなってしまった。
 そもそも最重要とされる造営年次の決定に関して真っ先に証拠、根拠を優先する方針であり乍らも私にすればこの決定は県の勝手であり、義憤の涙は禁じ得ず、かといって物言いはつけられず、地団太をふむ糞面白くもない日日が続くうち、平成十三年鶴首して待った当該本堂修理工事報告書が発行されたが、その内容の一部の体たらくに魂消た。

  「修理に伴う調査の結果、詳細な経緯が明らかとなった。
   それは元禄七年から八年の本堂再建計画から工事着手まで」

の序文に始まる記述は、当家の祖による修理申請の実態を指すものであり、恰も鬼の首でも取った如く欣喜雀躍し乍ら執筆したであろう県職員の姿が目に浮かぶ。
 それは先年当家の「修復」とする証拠文書を虚仮にし、元禄再建と決めておき乍ら、またもや奈文研による高木文書調査報告書に洗脳された県の職員が、ここではすでに不必要となっていた紙屑状の高木文書を再び揶揄の目的で卑劣にも前面に出し、
  「今回の修理で我々が建物を精査した結果あくまで元禄再建であり、
   これに対して高木が修理の目的で虚偽の申請をした証拠の文書が
   これである」
と言わんばかり徹頭徹尾、ひたすら当家に対する遺恨を込めたペンの暴力ともいうべき筆誅とした上でその写真を掲載して
  「高木文書に修復とあるので、このとき(元禄期)再建」
と子供の作文より劣るような不可解な記述とし、続いて、 
  「元禄七年に本堂修復(実際は新築)を願い出て許可され、
   すぐ工事に着手、云々」
と、わざわざ括弧内に実際は新築であったとするなど、当方が法度違反と知りつつ悪意で虚偽の申請をしたと再三強調している。文面は更に続いて、
  「元禄八年には工事が順調に進み、建方、野地完了、床を張り、
   建具をはめた」
としているが、これに対して瓦葺は十年後の元禄十七年より葺き始めたとある。
 これを彼等の主張する新築として、工事の進捗を額面通りに勘案すると、これは幕府法度を無視した違反建築であり、拙稿「郡外作事は是か非か」に述べた通り当時では蒲生郡を五分割した向寄制度の中で、五名の大工年寄を頂点とする大工同志で互いに同業者意識を育くむ事となって、郡外作事を含む違反事実を互に牽制しあう浅ましい状況下で、向寄の大工年寄から当家(組頭)に告知(違反建築を)する位は上等の方で、中には奉行所に直接訴人する奴もいた。

 このような然もしい環境のもと、天下の法を犯してまで奈文研や、県当局が指摘するような法度違反が可能かというより成し得たか否か、私は声を大にして「馬鹿も休み休み言え」と言いたい。そういう人を故事ことわざに「白河夜舟」というそうな。仮令これらがクリヤしたとしても瓦葺に着手するまで十年の空間があり、この状態で建具をはめることは雨漏りの心配もある。また土居葺が完全無欠であったとしても屋根に荷重をかけぬ間に新しい建具をはめるには無理があり、それらが事実であったとすると、修理工事による従来の古い建具ではなかったのか。新品の建具を瓦の葺けぬ状態ではめるような間抜けな大工は存在しない。

 私が新築を否定する最大の理由は、本建の柱間の基準の一間が現在も六尺九寸近い寸法となっており、これが新築説とすると、幕府及び中井役所は京間の六尺五寸と定めているのは前述の通りで、現在の本堂もこの寸法となっている筈である。
 加えて寺院側よりご希望の解体は当時の幕府禁令によって禁じ乍らも役目によって止むなく究極の選択として修理の許可を与えて下さった中井役所の裏判まで宙に浮く事となり、大工頭まで虚偽の許可を与えたというのであろうか。
 何れにしても昭和四十八年六月に元禄再建と決定された県当局に反論した覚えもなく、またその決定は見解の相違としてあり勝ちな事であるが、餅は餅屋にといわれる如くお互いに技術を尊重して共存するのが社会であり、自分の正統さを主張するために片寄った主観や独善的判断で三百年も経過した現在、当家の先祖に冤罪紛いの言掛りをつけ、無抵抗な故人に鞭打つ非人道的な仕打ちに対して、その子孫の怨嗟による代償は決して安くはない。それは神仏や天が私共を見捨てたまうか、将又救済して下さるか、未曾有の賭けと考えている。


PN   淡海墨壷  

本堂増建計画図