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2005年10月26日
高木敏雄HomePage

事の本質を見誤った粗悪な論理 

                               宮大工 十四代 高木敏雄
 
    ◆ 悪態嘲罵の高木非難 ◆

 公務員という立場を盾にして権力に浸る不遜は理性を歪め、客観的に物事を考えず、その事象は江戸時代に於ける諸事の不見識が蹉跌をもたらし、また学ぼうともしない惰性によって、先祖の来し方を味噌糞に公表して悦楽を貪るが、肝心の本質の在り処を見誤った無様な鼻つまみの唯我独尊は、遂に大局的に物を見る事を放却し、そのため先人によって蓄積された文化の結晶を意図的に貶(おとし)めて恬然としているが、その傲慢は官の無謬性に大胡座(あぐら)を組み、倫理感や人間としての情味の片鱗すら見つけ出すことが不可能な、虚実綯(な)い交ぜの雑駁な論理は、必然的に独善主義が高じて現実を無視した抽象・空想の観念論(屁理屈)となり、世辞にも真面(まとも)な調査報告というには鳥滸(おこ)がましく、バカ気ていて逆に物笑いの種となることは否定できない。

 これらを如実に示すものとして、前述の拙稿『新組結成の連判と謀反大工』(宝暦元年の向寄故障)の余憤に重ねて言及すると、当時の中井藤三郎正武氏は、前年9月、大工頭に着任早々の弱冠にも満たぬ18才であったことや、このとき受理した案件は特殊な大工組内部の悶着であることが両々相俟って、中井家ではこれの運営に精通した同業者を招いて内部事情を参考聴取すべく、野洲・神崎両郡の大工組頭にこれの仲介を依頼したが、
結審では古格を重んずる方針により法度を破った大工の願出を却下した。

 この当を得た成果は当家先祖にすれば取りも直さず「時の氏神」というべき両大工組頭による仲介の労であり、当然これに報いるべき義理のある恩情であった。また一方組頭同士として、幕府公用作事に際し東近江五郡は絶えず一丸となって気脈を通じ、同業互に和(やわ)らいで交誼を結ぶ、実力伯仲の盟友でもあった。

 時は移ろい、これより3年後の(宝暦5年)神崎郡の弘誓寺本堂普請願の申請について、高木は本棟梁であっても蒲生大工組であり、当該申請は先年恩義を受けた神崎大工組頭に義務があるところから、地元大工は申請書の後筆に、それぞれの所属大工組が違う訳柄を明記したが、何事も悪意にしか解釈できない細見・山岸説ではこの文言に無頼徒の如き難癖をつけ
『蒲生郡・神崎郡と大工組が違うのでと、これにわざわざ前文をつけているのをみると、その経緯は必ずしも平穏であったとはいいきれない。そこに高木一流の政治力が働いた』と、事実を捏造し、両大工組は恰も虎視眈眈として、『造営着手以前から居丈高の喧嘩腰であった』と気違い染(じ)みた公表を正気の沙汰でしているが、この常軌を逸した調査報告は、事実を歪曲し、恰も当時代に自己が生息して裏をとったかの如く出鱈目の文言を網羅するが、このように恥を恥とは考えない人間と知り乍ら、わざわざ調査を依頼した滋賀県教委にも責任があり軽率であったといっても過言ではない。  
                       (細見・山岸説)

     ◆ 証拠まで捏造した細見・山岸説 ◆

 凡そ、文物とは文化の所産、つまり芸術・学問・宗教・法律など、文化に関するものを指し、これらは須(すべか)らく先人から受けた恩恵の賜物(たまもの)であることから、職業柄私はこうした昔の文物や、制度を尊(たっと)ぶ尚古主義者でもある。

 さて、ここでいう証拠とは取りも直さず高木文書を示すが、この事物について私は敢えて『古文書を見せます』と看板を掲げ、一風変った常態化としている訳でもなく、一途に相手の方から閲覧を希望しておき乍ら、結果は何が彼等の逆鱗に触れたものか、不実を交えた下らない発表内容は、剥き出しの感情を露骨にし、味噌も糞も綯(な)い交ぜに先祖に対する冷(ひや)やかな侮蔑や、私の善意を蹂躙し、恬然として恥じない悪意の棘に満ちた懐疑の感情論に終始しているが、古文書の価値の基本的概念すら理解することなく、書かれた内容の一切を否定し、只管(ひたすら)先祖の来し方に対して如何様な遺恨によるものか、拗ね者もどきの品性の卑(いや)しい雑駁な知識でこれを貶(おとし)め、蔑(さげす)み、腐すことに汲々とし、それでも飽き足らず高木は公文書の偽造を行使した等と、先祖を犯罪者扱いとするなど、本末転倒した彼等のバカ気た愚行は妄挙という以外適切な言葉は見出せない。

 彼等は調査という美辞を隠れ蓑(みの)とし乍ら我々の専門分野にまで曖昧な知見によって土足で踏み込み、曖昧で中途半端な論旨を十分推敲することなく、その為に『角を矯(た)めて牛を殺す』愚鈍を、只管曖昧なままに世間に放り出すという曖昧かつ無責任な方法で能事足れりとほくそ笑むが、確実な認識の出発点として『我思う、故に我あり』という世界的な名言がある。

 即ち、色々な物事に疑いをもつことは勝手であるが、それを疑っている偏狂な自分自身の存在まで疑うことはできず、不幸にも生涯これを伴侶として止むなく信じざるを得ないが『餅は餅屋に』という通り自己の分際に相応した、身の丈に合う世渡りを忘れ、知ったか振りで奇を衒(てら)う愚挙は、遂に眠れる獅子を起して逆に自己が恥をかく醜態をさらすこととなり、ここに小説ではなく、先祖の証拠文書を基底に据(す)えた正論を披瀝してその理非を先哲の教えに訴えるものである。

  
   寺院の改築と門徒大工の助力

 安永3年(1774)及び同6年、高木の得意先の寺院(匿名)が先ず本堂を、続いて3年後に庫裏の改築をされるにあたって、高木兵庫(六代目)は中井役所に両度にわたって修理願を提出し、その許可書が当家に存在する。このとき異例のこととして、木に協力して下さった本堂作事の大工の呼称を「旦那大工」(3名)庫裏の方は「門徒大工」(3名)と、木が願書に併記し、願主は共に「組頭木兵庫」名義で申請をし、修理許可は木兵庫へと記されている。
              (註、両者の大工の称号は同義である)

 これについて、昭和62年3月、『木作右衛門の系譜とその作事』奈良国立文化財研究所(細見・山岸説)には、旦那大工・門徒大工の表徴について例の如く賢しら知識により、筋の通らぬ難癖をつけた。

 即ち
『この事は木の独占的な大工支配が薄れてきた証拠である』と、浅学によってこれを一方的に決めつけ、『この時期の他寺造営の場合は木単独で申請書の授受を行なっている』と、不充分な調査でこれを証拠がましく誹謗し、ますます虚勢を張り、『このように実働大工の力が強い場合は門徒大工という呼称からして、これは大工としての個人的な力ではなく、教団の力を背景にもっていたのではないか、それで申請書に名を出すようになった』と臆面もなく自己の無能の恥を曝(さら)け出し、付会の説を滔滔と捲(まく)し立てたのである。

 このような出鱈目の発表は、一途に先祖を陥穽せんとする有るか無しかの矜持の極り文句であり、例えば
『教団の力』などと驚愕極まる不穏当な文言は取りも直さず木を愚弄するものであり、知ったか振りで実質以上に誇張して、下らぬ大口を叩く割には、中途半端で趣旨の徹底しない不毛の論理となり、それは決して理念に基づいたものではなく、さりとて議論が収斂しているとは世辞にも言い難く唯に、思い上がった自惚れの短絡思考に基づく粗雑な愚考の先祖攻撃以外何ものでもない。

 因(ちな)みに当該寺院の宗派は浄土真宗であり、かく申す私も不思議な因果により真宗門徒の末席を汚す者で仏縁によるものか、歴代造営物の殆どが真宗寺院及び浄土系の御縁が多い。
 そもそも、『旦那』(檀那も同じ)とは、仏に帰依し僧に布施する信者のことで、檀家はその施入をする人々の家であり、逆に所属する寺院を檀那寺と呼ぶ。また『門徒』は、その宗門の信徒(信仰する人)であり、真宗ではこの人々を門徒といい、故に旦那大工も、門徒大工も同宗派の檀家大工である。

 この門徒大工が願書に名を留(とど)める訳合いについて、当改築に着手する一ヶ月以前、当寺院御住職以下門徒総代、役員諸氏が本山に具申された書状によると、
  
「当寺破損につき、近年再建を心掛けておりましたが、門徒困窮につ
   き見合わせておりましたところ大破に及び、この度諸方(あちらこ
   ちら)の他力(他人の助力)をもって再建したく、御表(門主様)
   によしなに仰(おほ)せ下されば云々」
とあるのをみると文面で推測する限り大工賃銀も本山が負担され、木にすれば門徒大工が自己の使用人でないその辺も忖度し、今回の異例の事情に鑑(かんが)み、このような書き振りにしたものと断定して大過はない。

     ◆ 底が割れた蛇足判断の暗愚 ◆

 批評するにはそれなりに物事の真偽・善悪(よしあし)を峻別する該博な知識が必要であるが、定義、定見もなく唯に官人による特権性・排他性を駆使し、偉ぶった思い上がりで人間としての真実(まごころ)を忘れ、先祖の来し方を襤褸糞(ぼろくそ)に書けば事足りると雀躍するが、書かれた側にすれば釈然としないものがあり、生涯骨髄に徹する恨みが残る。

 それらの片鱗さえ具有しない人間が人並(ひとなみ)に先祖を攻撃するとき、それは批評などと聞えのよいものではなく、単なる喧嘩腰の誹謗中傷であり、この無謀こそ自分の品格を下げることに気付かない底が見え透いた愚かな茶番でもある。

 「人を呪(のろ)わば穴二つ」という戒めがあるように、前述の先祖非難(木は教団という偉大な力によって支配権を横奪された)云々の根拠のない暴論の末筆に、

 
『(1)安永頃の上述の動き(大工支配の喪失に充当する)は、
  (2)具体的に木家の組頭退役要求となって表れている』


と不見識による不実を公表するが、これを分析すると、
(1) 前述の寺院作事(1774年)及び(1777年)に関連のある協力大工の動向が、
(2) 宝暦2年(1752)の組頭退役要求に影響したという意味不明の論旨であり、以上のような不得要領かつ理不尽極まる物笑いの非難を平気でするが、これは子供でも即断でき得る抱腹絶倒の究極であり、先祖の粗探しに焦慮する余りの大醜態である。つまり、
(1)(1774年)及び(1777年)の動向が、これより22年歴史を遡(さかの)ぼる(2)(1752年)に、如何様に悪影響を及ぼすのか?誠に奇妙な物語りであり、これは地球の回転を逆に回し、大陽が西から出て東に沈むようにしなければ不可能な、バカ気た話である。

 尚、(2)の組頭退役云々の論述は(吉田説による)とあるが、この吉田説自体、これの時期について『18世紀前期から後期にかけて』と表現する漠然としたものであり、多面にわたる不確かな吉田調査の発表を、細見・山岸説もこれを信じて鵜呑みにし、共に木の扱き下ろしに共鳴したが、それは事の本質を無視し、自分に一定の見識もなく、他説に賛成するといった、付和雷同の最も愚かな次元の低い行為である。

   
   文政度の仙台領大工の謀反 

 「門前の虎、後門の狼」(一難去って、また一難)前掲の宝暦度に於ける向寄故障(蒲生郡下、尾張領の大工叛乱)以来しばし沈黙を保っていたが、文政時代になって今度は同郡内、仙台領の大工が、組の分立を企画した。これの究明について、前者の内実は中井家の役人から木に宛てた顛末書の役人独特の書き振りは、生来凡慮の所為(せい)もあって、これの解明に難渋した点も少なくなかったが、これに比して後者は、木の門人の筆の流れであることから素早く総括し、これは『先規(以前の掟)に対する向寄故障』であるとの筆調から勘案し、詮ずるところ前・後者ともに謀反の本質は同じであることが明らかとなり、これを大局的に俯瞰し、先祖個人としてではなく、大工組の頭としての執(とら)え所から種々の局面に対処した、先祖の犬馬の労に対し、子孫として有り勝ちな我田引水ではなく、これを客観的に追懐するものである。

(1)文政初年頃(元年は1818)蒲生郡仙台領下に住む大工が、蒲生大工組を離脱して新組を結成しょうとする計略を木は逸速(いちはや)く察知し、中井家に『組下大工が組分けを願い出候とも許可しないように』という事前の手回しが功を奏し、『何れの大工も心得違いである』と大工頭の叱責をを受け、その結果「従来通り大工組に加わりたい」と申したので印札(大工営業鑑札)を改めた上で一件落着とした。

(2)今度も同仙台領分の内、西羽田村(当時は蒲生郡)大工七左衛門、その他が組の集会には一切出席せず、諸入用も支払わず、また改正の印札も取得せず、(鑑札の更新)加えて寺社の請負をしても中井家に届けることなく、この無法を木は組頭の立場から看過できず、中井家に注進した。大工頭は七左衛門以下を京都西奉行所に提訴し、文政6年(1823)9月、双方を奉行所に招致して吟味の結果、大工は全て心得違いと謝罪したので木は中井役所に事後の報告をして結審した。

 これについて吉田説『近世建築生産組織と技術』(昭和59年)に、本件は大工七左衛門以下の叛意であるにもかかわらず、これを木に摩(す)り替えた本末転倒とし、即ち
『作右衛門(木)に対し参会には出席せず、諸入用銀は不納、改正印札は取得せず、請負の許可も受けないというものであった』と明記した事実は『木に対し』とあるところから、奉行所に呼び出されて「心得違いでありました」と謝罪したのは木であると、これを読まれた人々は理解されたであろう。このように吉田説では木文書を捏造し、かって古文書閲覧をさせた当方の善意を忘れて、これを仇で返し、後脚で砂をかけたのである。

(3) 次いで「下手な鉄砲も数撃てば当たる」というものでもあるまいに、執拗なまでに同仙台領の大工清八は、蛇溝村(当時蒲生郡)の寺院本堂の新築を木が請負い、無届けで着工したと不実を中井役所に申し立て、これに事寄せて(口実にし)、仙台領の大庄屋、久保内蔵頭の添書を拠りどころとし、木の組下を離れたいと申し出たため文政9年(1826)中井家は木を呼び出して審問の結果、前述の本堂造営は木ではなく余人であると申し開きしたが、大工清八の訴えを一切咎(とが)めることなく、全て偏向な判断によって恰も木に落度があるかの如く取り計らい、逆に大工清八には有利な展開となった。

(4) 得手に帆を掲げた仙台領の大工共は、無法にも同領内限りに新組を結成せんとし、他領の大工は排斥する行動に出た。その上で大工清八と馴(な)れ合い(共謀の大工)善兵衛・惣吉と申す者より、八幡町内の本堂及び隣接する寺院の水屋普請を、木は許可を得ずに着工したと申し立て、これを中井家で吟味の結果、本堂作事は木ではなく、他の大工の手になり、水屋の方は木が弟子に一任し、その許可書は当家に存在した。

     ◆ 賄賂に惑溺した中井家役人 ◆

(5) それでも担当の役人は、尚も含むところあり、木の事情は一切参酌しないのみか、訴人大工の申し立て以外の事まで不実を吹聴し、木を非に貶める阿漕な取計いをした。そもそも、このような理不尽な裁許を誘発した張本人は、中井家指定宿の主人、鍵屋久兵衛と申す者が利欲に惑わされ、貪欲に金子を以って内分を繕い、筋の通らぬ取持ち(斡旋)をした事実(証拠)を木は慥(たし)かに承知していると、奉行に抗告(不服申し立て)をしたが、一方、この卑劣な手段(贈収賄)に激怒した木は『大工組頭を自らの意志で辞退したい』と嘆かわしく言い始めたが、その素因は裁可の全てが常道を逸脱したことを平気でする鍵屋久兵衛の卑劣極まる病弊した判断の所為であり、過去四代の先祖に仕えて協力して下さった門人大工弥兵衛氏が、身命を賭(と)して『恐れ乍ら事の次第を正路に御吟味下さいます様に』と、文政10年5月、京都奉行所に駆込み訴(直訴)した副書である。

 訴状の文面で見る限り、謀反大工から鍵屋久兵衛を媒介して中井役人に不正な金子が動いた事は事実であっても、これが中井家当主(大工頭)に渡ったとは書かれていない。それ故に木が大工頭から「クビ」を切られたか否かについて門人が代理で奉行所に哀願したものではなく、辞職は飽く迄当人の意志である。

 それにも況(ま)して現在木文書調査にあたり、吉田説では長さ2.500粍の長文の当該関係文書を、内容の反芻が欠如した刹那主義により一部のみつまみ食いした結果、
「木はこれ以降失脚した」と揶揄し、一方、吉田説を覗き見した山岸説では根拠もなく「木は組頭を追われた」と嘲弄するが、木の事後の事蹟から考察して自分の意志で組頭を辞したことは事実であっても、現在風に言えば希望退職であり、吉田・山岸説の如き懲戒免職ではなく、自分に関係ない事は無責任・興味半分に書き立てる野次馬根性は、勝ち目の無い空論に終始し、思考停止の状態に陥った御里が知れるというものであり、その思い上がりは黎明に「自分が啼くから夜が明けるのだ」と考えている寓話のニワトリに過ぎず、物事を実質以上に誇張し、先祖を虚仮にする彼等こそ前門の虎、後門の狼と心得る。

 因みに、当時、木は先代が造営した専修寺如来堂(三重県津市、重要文化財)正面の唐門(四脚門)の千本築(基礎固め)の途上であり、文政10年11月15日、釿始め(起工の儀式)の直前の多忙な時期に下らぬことで逐一京都から呼び出されては、忌憚のないところ疎(うと)ましく感じたであろう先祖の胸中は、血の通った子孫ならばこそ察するに余りある。

 その後、同唐門は順調に進捗し、天保6年(1835)8月立柱、同15年(1844)4月上棟式挙行、現在三重県指定建造物となっている。
   
PN   淡海墨壷