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2002年11月8日
高木敏雄HomePage

付記 江州大工組について

宮大工 十四代 高木敏雄 
◆ まえがき ◆
 江州大工、杣の組織について「日本建築工匠技術の一研究」(近江大工とその
技術)(昭和九年四月)に、藤島博士が当家文書を含めた研究発表をしておられ、
それによると古くは奈良の都の造営に際して甲賀山、田上山より産出する良材を、
杣川(甲賀郡)瀬田川を筏流しによって泉津(現在の木津)に至る水運の便を得て
供給し、その為河口付近には斧で荒加工をする(当時では縦挽鋸はなく杣と
大工は未分化であった)良工を多く輩出した。

 近世になると、天正四年(1576)信長による安土築城に際し「江州甲賀山にて御材木伐り申し候」とあることや、同十四年、秀吉による方広寺大仏殿造立について「駿河国富士山にて材木伐りしなされ、当国より連日杣共七十人で材木伐り出し申し候」とある。
 また大工、杣による造営は、秀吉による京都聚楽邸、大坂城普請、(天正十五年)や、文禄元年(1592)朝鮮出兵による筑紫名護屋城(福岡県)築城に関与し、その貢献によって朱印状を下付されている。     「高木稿本」
◆ 江戸時代初期の江州大工 ◆
 本項でいう江戸初期とは、のち京都大工頭初代となる中井藤右衛門正清が家康に重用された関が原の陣後を指すものではなく、中井氏の支配力が江州大工にまで浸透した慶長十二年(1607)以降のこととして拙稿を進めてみたい。
 そこで慶長期(十二年〜十九年)に於ける高木文書による幕府公用作事は、二代目高木作右衛門が中井家に宛てた返答書(同十五年)に
 「江戸、駿河までまかり下り御役つとめ申し候」
とある後者は同十二年暮に焼失した家康の隠居城たる駿府城の再建(同十三、四年)であり、前者はその前年(十二年)の江戸城天守作事を示す。その他、同十八年の禁裏造営に次いで、大坂の陣にも軍役として参戦している。(これについては累次の機会に発表したい)

 当時は江州大工も御多分にもれず、平素はそれぞれの郷里にあって領主の統制下にあったが一方、幕府の行なう諸造営ともなると、領主の支配を超越して御用役または公役とも称する夫役を課せられ、この二重支配による工匠保護の方策もあったが、それらは有事に際して時日を要さずに大工の動員を可能ならしめる組織であって、そのため幕府の強力な指令によって規制されていたが、次第に黒白を弁ぜずといった状況となり、それでも「若し違反これあるに於ては曲事たるべし」という恐々とした様相であった。
 元和元年(1615)大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、一国一城令によって築城や、領主の居館造営も極端に減少し、加えて戦後の大幅な所領替によって、大工の有する諸役の免除が新領主に継承されず、その特権は次第に等閑となって、これを不服とした訴訟をおこすこととなった。

 これの提訴について、織豊時代以来の諸職人保護に関する朱印状を所持しているのは六ヶ国の中で江州大工のみであったので、中井家の応援を得て、近江の国奉行、北見五郎左衛門の書状を申し受け、高木作右衛門が江州中の代官所を巡回するも、江州一ヶ国のみの単独訴訟であったため不調となリ、寛永十二年(1635)今度は六ヶ国の大工、杣の代表が江戸詰めで幕府老中を相手どり膝詰め談判の結果、念願の諸役免除の特権回得に成功した。

 以上の事から、何時の時代も進取の気象に富んだ江州大工、杣の活躍は目ざましく、その為職人史を語る上では不可欠の存在であり、早くからこれの研究者の物議を醸成し、取り分け甲賀大工については「江州甲賀の大工仲間」(昭和二年黒正巌先生)は比較的早期の研究として顕著であり、以来これを参考とした先学の研究も少なくない。
◆ 甲賀大工組 ◆
 甲賀大工組については、元禄五年(1692)の「甲賀郡大工組中定帳」に組頭池田村佐次右衛門とあり、当時同郡の組頭であったことが判明する。その後の業績に関するものとしては、同氏の記録に郡中の大工高吟味を行った元禄十三年(1700)が最も早く、以来宝永四年(1707)、正徳元、二年(1711〜12)と続き、その職掌については、
 「古大和守様より組頭に仰せ付けしなされ候」
とある。               (谷直樹氏研究報告、昭和五十一年)
 この古大和守とは当家の古文書に散見されるところの元和五年(1619)に没した大工頭初代中井大和守正清(中和州)を指すところから、その儘の意に解釈すると、佐次右衛門氏は初代大和守在世中に組頭に任命されたこととなるが、組頭という肩書き自体これよりのち江州大工組として編成され、一郡一組として組頭という呼称がみられるのは寛永十二年(1635)以降のことで、それ以前、つまり初代大和守在世中の一郡の頭目はあくまで「江州肝煎」であって、それを裏付けるものとして、東近江五郡の肝煎が請人となった高木文書(慶長十六年1611)には、「甲かのこふり(郡)甚右衛門」とあり、ここでは佐次右衛門氏の名は確認されない。
 それが明確になるのは、前述の高役赦免の特権を回復した翌寛永十三年、引高帳作成の目的で高木作右衛門、他が江州中の大工高調査を行なった「江州国中石高之帳」に高木と並んで甲賀佐次右衛門の名があり、この事実によって佐次右衛門氏は、さしずめ甚右衛門氏の後任と考えてよさそうである。

 尚、この大工高調査を命じたのは、大工頭二代目の夭折によって三代目正知の後見をつとめた中井五郎助正純(初代正清の弟)で、当人も兄の正清と同じく大和守を名乗り、またこれより先、寛永八年に没した二代目正侶も大和守であったので、同名の輻湊により自己の記録に「古大和守」と迂闊に記述されたものであろう。
 ともあれ佐次右衛門氏は、この大工高調査以来役引高を有する有力な大工であって、甲賀郡大工組として整備された寛永十二年に中井正純(大和守)から「組頭に仰せ付けしなされ候」となったと考えて大過はない。
◆ 水口藩の作事と大工組頭 ◆
 寛永十二年(1635)先人の渾身の努力によって折角回復した特権は、六ヶ国全体の傾向として十七世紀後半頃より、またもや各知行主によって侵され始め、役引高を有する公用大工にまで一般農民なみの夫役を課せられるようになり、(税金の二重払い)これが郡内最大の水口藩では元禄十三年(1700)以来頻発の状態であった。

 享保十五年(1730)これの交渉には勿論佐次右衛門氏があたったが、彼を中心とする大工組の幹部が組中でよく相談もせず、「一分の了簡」(自身の面目を立てる考え)の理念から、本来の組下大工の利益を守るべき立場を離れて、逆に領主側に立った事で郡内で不満が続出し、翌年奉行所に訴えたが、組頭が謝罪したので一旦は解決をみた。

 ところが、四年後(同十九年)またもや組頭が夫役を受け入れる証文を書いたことで、翌年組下大工は再度訴訟沙汰となり、組頭は二律背反(あちらを立てればこちらが立たぬ)の孤立した状態となった。
                      (谷直樹氏研究報告、昭和五十一年)
◆ 元文期の五郡の凝議 ◆
 元文五年(1740)三月、東近江五郡の首脳が一堂に会して連判の証文を手交した。その申し合わせの内容は次項の跋文に特筆するが、ここで注目すべきはこの書状に神崎、蒲生、野洲、栗太の四郡は大工組頭が連判しているのに対して甲賀郡のみ「大工年寄惣代」とあり、甲賀郡は組頭佐次右衛門の地位に変動があって、大工年寄の支配に移行したことが窺える。
 その原因はこれより先享保十六年(1731)及び同二十年の組内部の紛糾により組頭に対する問責が佐次右衛門氏に必ずしも有利な展開とはならず、そのため同二十年(1735)に退転したものと考えられ、以後一郡の指導者の統制を失って動揺した甲賀大工組は五年後に「この度不届のこと御座候につき」と、その善処について五名の鳩首会談を行ったものであろう。
◆ 寛延期の大工組の分立 ◆

 前述の元文五年の合議より十年を経た寛延三年(1750)春、甲賀大工組では、従来郡内の何処からでも建主の好みの大工を自由に雇って普請してきたのに、今回、一郡内を四分割とし、その小組内に居住する建主は、雇用する大工までもその範囲に限定するといった窮屈な制度に変更された。

 この四分割された小組とは、同郡内の山北、山南、柏木、杣の四組で、これより先貞享三年(1686)正月、中井家の申渡覚による五人組の設置がこれの母体をなすもので、佐次右衛門氏在職中の元禄五年(1692)の「組中の定め」に「在々にて遠方といえども手透次第に建主の雇用に応ずること」の定めはあくまでも顧客第一主義で臨んでおり、一方中井家また広域な郡内を組頭一人では、年々増加する大工数との対応にも無理があり、幕府、中井家の触状の周知徹底も考慮して、向寄と称する近隣グループに分割して大工年寄を一名宛配置し、違反事実等を、この小さな範囲で看破するといった一助とし、一方では組頭の職掌の軽減をも図ったものである。

 以上のことは中井家による時代に即応した規定ではあるが、一方の建主側にすれば元来農家の普請は農閑期に集中する慣例から前述の制度では大工が不足して建主が困惑することから、庄屋の代表が四組の大工年寄を訴えた。
 審議の結果は山南組の大工が組の賃金協定を破った安値で他の向寄の得意先まで奮い取る独善的な画策をしたことが判明したが、一方の建主にすれば手間賃の安い大工を希望するのは当然であっても、これでは大工仲間の秩序が保てず、裁決によってこの大工には詫証文を書かせて一応、一件落着をみた。
 尚、彼が出入場所の拡充を始めたのは十年以上も以前とあるから計算すると丁度元文五年頃のこととなるのである。

 これをもう一度包括すると、つまり享保二十年に組頭が失脚し、組の体制が弱体化した時期を狙って山南組の大工による得意先拡充の独走が始まり、そのことによって元文五年には五郡の首脳が立会って凝議をしたが、その後も違反行為は止まず、寛延三年十月訴訟となったが、それ以降も組の秩序を破った大工の所属する山南組と、他の三組が疎遠となり、これが四組全部で協調し揃って登場するのは、寛延三年以来実に五十年以上の年月を経過した文化三年(1806)のことであった。
 翌四年になって先年(元文五年)の規約を徹底する目的で組頭が集合せんとしたが、蒲生郡のみは「その必要なし」と欠席したので他の四郡で合議したとあるが、それは佐次右衛門氏の失脚以来延々七十二年間に及ぶ一部の大工による秩序を乱した行為に一般の建主までも共鳴しての郡中が紛糾した経緯を見聞した高木作右衛門光規の心情を、末葉の者として忖度するとき、小田原評定にも似た画餅の会議を欠席するのも「如何にも宣(む)べなるかな」(もっともなること)と頷けるというものである。

 以上、谷直樹氏の研究論文をも参考に、総轄していえることは甲賀郡では大工組頭が失脚して統師力を失い、組内が最も脆弱した渦中に矢川神社本殿が造営されたことになり、それについて普請願は地元の大工によって中井役所に提出されたが、その文中に「造営は高木但馬に相頼み」とあり、これに対して中井家では蒲生郡の高木と容認して許可を与えている。奈文研による高木に対する悪評とは大いなる矛盾を生じるが…?


PN   淡海墨壷