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2003年7月15日
高木敏雄HomePage

鼎の軽重を問う  (人の巻)

宮大工 十四代 高木敏雄
◆ 七代 高木作右衛門光規 ◆

 光規は、その父高木兵庫(文化元年没)より二年以前の享和二年(1802)五月、当家に程近い寺院本堂の内陣修理願 (No41) に「願主高木作右衛門」とあるのが初見であり以来七代目として台頭したことが分かるが、終生その業績の内、祖父高木但馬による高田派本山専修寺如来堂(三重県津市、重要文化財)造営の仏縁により、同県内に印した足跡も少なくない。

 それを如実に示すものとして前述の如来堂の完成した当時は、前面道路に面して土塀続きであった同建物の正面に、五十余年後の文化初年頃(元年は1804)、如来堂門の造営が決定し、同六年六月二十九日初木挽が行なわれたとある

(同寺 史料による)

 この事は文化六年以前すでに高木に御下命があったと考えて大過はなく、早速に設計図の作成に次いで木寄(材料明細書)が寺院に提出され、それに基づいて木挽(製材)が始められたものと考えられる。

 このとき募財の目的で作られた「木版」の絵図(平松令三様御提供)によると、当初は瓦葺・桧皮葺の両図が描かれている。(但し、現在は風格を持たせた桧皮葺の四脚門で、三重県指定建造物となっている。)

 棟梁 高木光規は、これを祖父但馬に遜色なき畢生の大業と考え、正面の雨落辺りに立つと扉の開口部に恰も如来堂の容姿が視野に入るよう設計され、控柱は少し「くの字」形に加工し、両側面奥行方向の腰貫・飛貫は、控柱から中央の主柱に向かって僅かに登り勾配とする古式とし、全体に「立ち」の高い雄大な建物に安定感を与えるよう配慮した光規苦心の作である。
 
 註 如来堂門の工事進捗状況は、文化六年六月より木挽に着工する一方、
        現場では文政十年(1827)七月二十九日より、同年十一月三日まで
        千本築(地固め)が行なわれ、十二日後の十五日釿始め、天保六年
        (1835)八月五日立柱、同十五年(1844)、上棟式が挙行されている。

(同寺 史料による)

 さて、光規に関する叙述が前後したが、翻って文化二年(1805)先祖造営による日牟礼八幡宮大鳥居(近江八幡市、県指定)の修理をした翌三年、三重県北勢の敬善寺本堂(桁行19米、二手先組物)造営に着手、同五年、蒲生郡安土町浄厳院裏門(高麗門)の再建(No42)及び同寺書院前の四脚門修理(No43)に次いで、既に同元年に設計、見積書が作成してあった仏光寺八幡別院客殿(No44)の新築を行なった。

 次いで同七年には蓮照寺の鐘楼再建(No45)を、翌八年には当該寺院輪番御出身地の湖北坂田郡、深光寺本堂小屋組及び向拝を中心とする大修理をし、翌九年十月より再び三重県北勢の安行寺本堂大改築に着手している。この改築に関する基本設計資料には、当時「高木式破風」と好評された詳細図もあり、これらに憧れて地元北勢より高木傘下となって技術を取得された人々も少なくない。

 文化年間も終りを告げる同十三年(1816)五月、地元八幡の東福寺本堂及び庫裏の修理(No46)の完成後、年号も改められた文政元年(1818)甲賀郡石部町常楽寺(西寺)の鎮守、三聖神社の社殿新築を、次いで同三年九月、地元八幡善住寺庫裏の再建に着手した。(No47)

  翌四年度の前半期は、地元の興隆寺庫裏再建、(No48)正福寺塀の建替(No49)願故寺表門修理(No50)蓮照寺茶所修理(No51)蓮経寺愛染堂修理(No 52)善住寺表門・付属脇塀再建(No53)(以上同年六月中)と小規模乍ら半年間で六件の作事依頼が山積する。

          ◆ 営業範囲の権利と願主 ◆

 以上、文政四年上半期の受注作事の内で、ご依頼の早かった興隆寺庫裏再建(同四年二月)を当家と同町内(八幡大工町)の大工惣兵衛氏に依頼し、同氏の名義(願主)として全面的に委任した。但し、同氏が中井役所に単独で願書を提出したとしても、中井家では一面識もないことから、光規が署名加印することにより中井家では躊躇することなく「惣兵衛へ」と許可を与え、念の為、八幡向寄(高木と同グループ)の大工年寄役の源三郎・吉右衛門両氏も保証人として加印する。

 これについて当家の陥穽を常套手段として画策する奈文研では故意に誇張した筆致としているが、当家ではその前年九月に善住寺再建や、同時に進行中の雪野寺本堂工事を、中向寄の大工と共同の形であったため、拠ろ無く興隆寺の方は八幡向寄(仲間)に依頼したまでで、第一、中井家が「大工惣兵衛へ」と許可を与えた書状が、それでも当家に現存する事実は彼我に一片の確執もなかった唯一の証左といえる。
 
          ◆ 八代 高木作右衛門光一の台頭 ◆

 光一の初名も父光規のそれと同じ兵太郎であったので、子孫の私でさえ輻湊混沌する。ところで光規は前述の如く文政四年六月、善住寺表門再建(No53)を最後に俄然組頭として登場せず、同年九月、仏光寺八幡別院玄関の作事(No54)には代って組頭高木兵太郎となっている。このとき彼(のちの光一)は十八才であり、組頭としては時期尚早の感も否めなくもないが、当時光規は病床にありこの辺に事情があったのかも知れないが、弟の光矩はこのとき四十九才で、若い兵太郎の相談役として営業自体は然程の支障はなかったものと考えられる。

 この屋台骨の重責を担った組頭兵太郎名義の十件の作事、文政四年(No54)から同七年(No63)に至る内訳は、願主兵太郎自身の申請が六件、大工嘉吉氏に依頼したものが三件、同じく源兵衛氏が一件の計十件となる。
 
 その後、作右衛門を襲名した文政七年(1824)円満寺作事(No64)は願主が近親の同姓又重郎となっているものが、一件あるが、蓮照寺茶所作事(No65)以来、同九年八月の浄厳院作事(No70)に至る六件の作事には間断なく光一が願主として申請している。

 ところが専修寺如来堂門の造営が本格的に始められた翌、文政十一年(1828)の仏光寺御坊の作事(No71)より、天保十年(1839)九月の浄厳院作事(No81)に至る十一件の作事の内、光一が願主として登場するのは文政十二年三月、日牟礼八幡宮本殿修理棟札に、高木又重郎と併記されている以外は、大工伊右衛門氏(八幡御所内、当時橋向寄)が願主として五件、大工弥兵衛氏(同長田町)が二件、大工嘉吉氏が二件に加え、珍しいところでは上慈恩寺村(現在安土町、当時同村庄屋安頭氏)が一件、残る一件は光規の弟光矩が願主として申請したものが一件ある。

 この時期弟の光矩に得意先の管理を委任して高木父子が八幡を留守にした理由は、如来堂門造営に主力を傾注したためで、造営途上の天保元年(1830)棟梁光規死去し棟梁職は光一に引継がれて前述の如く天保十五年(1844)(但し十二月に改元され弘化元年)上棟式が行なわれた。

 木工事自体は天保十一年に終ったらしく、同年九月、善住寺座敷の再建(No82)、同十二年十二月、正福寺方丈建替え、(No83)同十三年十二月、浄厳院四脚門連子垣(No84)の作事を最後に弘化三年(1846)光一は早世した。

          ◆ 高木は普請願の手続き屋に非ず ◆

 「疑心は暗鬼を生ず」、つまり猜疑心が強くなると存在しない鬼の姿まで見えてくるという先人の箴言がある。そもそも京都中井役所に提出する普請願の書式(書きかた)及び、提出する方法(例えば持参するのか、郵送?するのか)について、貞享三年(1686)正月、大工頭中井主水正の申渡覚第二項には、これより先、寛文八年の建築制限令を強調した上で、「附」として

 「作事願差図 (図面) に裏書の事、申し来り候節は、銘々の組頭の
     加印つかまつり、持参致すべき事」

と定めている。

これを少し平明に彫琢すると、建築許可申請書(内容により簡単な絵図も要る)に裏書(その書類の裏面に大工頭の許可条項と署名捺印)を必要とする大工は、それぞれの所属する大工組頭保証印のあるものを、

 「願主自身が中井役所まで持参すること」

と定めており、原則として飛脚に依頼することは是認されていない。

 願書には申請年月日の記入したものを持参するが、その上京の道程について、自宅近くの八幡堀から琵琶湖に出て、対岸で下船、逢坂山越えで京都までと、早暁に出立すれば昼頃には中井家に到着する。その為大工頭の事務処理の日付が即日となっているものも少なくなく、奈文研ではこれらの審理の迅速さを疑って「この書状の授受以前に内々の打診をするのか」「内容の検討は高木に委任されていたのか」等と、(これでは遠路上京の要もなく)恒常的に空疎な自説を展開する。

 一方個々の大工が押しなべて営為を重ね、そのことによって糊口を凌ぐ生活基盤、即ち仕事をさせて戴く範囲(大工所という)には、すべからく他の大工には侵されない権利(大工職・しき)が生じ、それを仲間同志が処世上の大工作法の要諦としてきた。

 しかし、時として受注が山積し、僥倖な手詰りとなったときは、仕事を仲間に付託する事もあり得るのである。このような拠ろ無い臨機の措置について、中井家では顧客第一主義で絶えず大工の指導を怠らず、

 「自分が手詰りの場合は信頼できる手透きの仲間を探してでも建主の要請に
    応ずること」

と定め、建主に対して迷惑をかけては不可としている。

 このような作法の一環について、奈文研の職員はこれらの知悉の欠如した揣摩臆測によって、折角、仲間の相互扶助の思惑から、中井家に代願して高木の急場を援けて下さった仲間を「実働の大工」等と、我々の辞書にはない曖昧な表現とし、

 「高木は、これらの大工の申請業務を多目的に吸収して、その業務を行なった」

 「形式上は高木が工事の事務手続の責任者となっている」

等と、衒学的筆致としているが、これらの推測による発想は、とりも直さず文学の世界、つまり知覚、(根拠もなく感覚のみで知り得る)形而上の問題と考えられる。

 その「高木に吸収された」と書かれている大工とは、六代目高木兵庫の弟子、七代目光規の弟、四代目以来の近親者高木又重郎、八代目作右衛門の初名兵太郎等、何れも「高木傍輩衆」である。その他、血縁以外の人々は、高木と同町内の仲間や、光矩の知遇を得た御所内の伊右衛門氏も名を連ねる。

 
  これら高木の親族、他家有縁の人々により、高木に対する協力をして戴いた普請願に役目上これに加印するのは、中井家の取り決めに順応したまでの事である。それは前掲の西照寺作事について門徒大工が登場することで、「高木の大工支配が薄れた」と決めつけ、今回文政度の奈文研がいう実働大工の出現は、益々高木は駆逐の状況となったと愉楽し、揚げ句の果ては

 「このように高木は建築統制力を失ってしまったのである」

と断じる。これらに逐一反論するのも馬鹿らしいが高木の縄張りを侵害せんとする大工の普請願に保証人となる馬鹿が存在するであろうか。

 そこには原因があってこそ結果が生じる因果律の根拠もないことや、原因の不見識から派生する独善や、視野の狭窄による偏狭が凝縮されている。

 前述の西照寺本堂・庫裏両作事以後、奈文研の妄評による「統制力を失った」高木に対して、半世紀後の天保三年(1832)二月、同寺より本堂増建の御下命があり、このとき高木光規及び、その子八代光一は前述の三重県専修寺如来堂門造営中であったので、留守居役の光矩(光規の弟兵次郎)がこれを担当させて戴いた。(No76)

 その後、天保十二年(1841)今度は西照寺本堂の縁側修理及び、水屋・茶所の建替を計画され、同年八月、八幡大工安兵衛氏及び同向寄の年寄新平氏、他一名の連名で高木に宛てた書状によると、当初安兵衛氏は右作事の普請願いの加印を、年寄新平氏に依頼したところ、

 「西照寺は元来高木氏の大工所であり、同家の承諾がない限り、
    奥印(年寄の保証の印)は難しい」

と、この事実を西照寺役員諸氏にも連絡、同役員中より安兵衛氏を中井役所に出訴、その審理中に当家に対して(右の作事に限り)との誓約書を一札書かされて事なきを得た。

  奈文研では、これら刎頚の仲間作法の不見識により、「最寄の関与が明確になってくる」とか、「これの関与は実効力のあるものである」等と、恰も「高木が斜陽の一途を辿った」が如く巷間に喧伝し、前述の「高木退陣要求」を年代を捏造してまで付会の説とし、吐き気を誘う程の毒筆とするが、それは調査を付託され、「何かしなければ」という焦燥による歪んだ正義感が激越し、冷静さを忘れた感情論に片寄っている。このような根拠に乏しい付和雷同の説は如何なものであろうか?

          ◆ 非難の矢表に立って ◆

 「百様を知るとも、一様を争うことなかれ」という名言がある。つまり、何でも知っているつもりでも、知らないこともあるのだから、専門家の意見は素直に聞くのがよい、という戒めである。

 残念乍ら、奈文研による「高木文書調査報告書」は、百家争鳴といえば聞えがよいが、それは社会の通念とは異なる価値観を持った虚構とし、そのことによって「木を見て森を見ず」の事態に陥り、現在小さく勝っても、やがては大きく負けることにもなりかねない。

 そもそも他人のものを批評するには、それなりの批評眼力が必要と考えられ、それらの不見識な状態で批評するときは、単なる誹謗・中傷となり逆に自分の品位を下げるこのような危惧すべき誤断は、抗弁する範疇を逸脱した偏向な卓上論ともなっている。

 即ち、一貫して自己に理があると誇大に過信し、誤った判断によって、枢要な決定を否め、多様性を欠いた画一的な思惑は、当家の先祖に対して公文書の偽造行使をしたと根拠もなく痛罵し、県文化財保護課の池野保氏もこれに加勢するが、このような公権力による抑圧と要らざる介入は、公務員という身分保証に悪乗りし、その地位を嵩にかかった行為といわねばならない。

 奈文研や池野氏は、当家の先祖を百円均一の技術屋の如く愚弄するが、現在の大工の腕が先人のそれよりも少しでも勝っているとしたら、それはその人々の恩恵を享受しているからであり、さらに技術水準を向上させようと念ずるならばその文化活動に対する尊敬がなければならない。


PN   淡海墨壷