トップページ
2003年9月12日
高木敏雄HomePage

天保の改革と大工組

宮大工 十四代 高木敏雄
      ◆ 株仲間解散令 ◆

 天保十二年(1841)幕府老中、水野越前守忠邦は、幕府財政の窮乏による改革を旨とした倹約令を発布し、併せて株仲間の解散を命じた。それについて中井家が大工組に宛てた触状によると、

一、 これまで(天保十二年を目安として)組頭・年寄等(を)相心得
   (職務を引き受け)まかり在り候もの(在職してきた者は)以来
   (今後)向寄人数改取締(役と肩書を変更するので、その旨を)
   相心得(承知)申すべきこと。

一、 他国の者(が、中井家支配下の)六ヶ国内へ罷越(入り込み)
   また六ヶ国の者にても(でも)百姓ども新規(に)三職(新しく
   大工、杣、木挽)の稼ぎ致(し)候節(仕事を始めるときは、
   それに伴う法の規制として)其筋(管轄の幕府役人)より、
   当役所(中井役所)へ達(し)有之(通達があったので、
   これに従い)印札(営業鑑札を)相渡候はゞ(交付をするので)
   其旨(意味合いを)向寄人数改取締の者へ申達(申告する)事。

 註 、以上、谷直樹氏研究報告、昭和51年6月、907号(原文)に、
     私の蛇足を付加しました。

      ◆ 株仲間の意義 ◆

 そもそも、今回解散を命じられた株仲間とは、大工仲間の構成に不可欠な大工株を所持する人々のことで、これには持高株と無高株があった。前者は引高持大工と呼ばれ、(前掲、幕府公用作事と江州大工参照)この株を所持している大工はこれより先、寛永十二年(1635)幕府老中を相手とした大工訴訟の結果、以後の公用作事に動員される代償として、個々の大工高から、これに充当する給付分を先ず天引きし、(引高という)差引した残り分(持高株)に適応した課税をするといった諸役免除(職人保護)の政策となったのである。

 この恩典によって、幕府と大工との間には必然的に権利と義務が生じ、即ち、大工は個々の持高に応じた賦課が免除されるといった権利を取得する一方で、公用作事に際しては、持高に応じた金銭を給付する義務が派生したが、これは現場での労務提供を金銭納付により免除される有利な点もあったのである。

 このように寛永十二年以前より(正確には慶長十二年1607以降)公儀に対する貢献をし、代々世襲によって大工をしている匠家は、その由緒よって「古株大工」とも呼ばれ、前述の如き保護の対象となったのである。

 これに対して後者の無高大工は、文字通り株を所有していないので、公用作事に際し、義務として労働の提供を強いられたが、引高持大工同様に慶長期以来「年限久しく相勤め」幕府に協力した功労により、敢えて「古株無高大工」として、大工組頭の下で社寺の請負を許され、生業が保証されるといった特典を与えられていたのである。

      ◆ 株仲間解散の波紋 ◆

 今回の新措置を勘案すると、これまで六ヶ国以外の者を、旧弊によって他所者として排斥し、これらの人々が中井家支配の大和、山城、摂津、河内、和泉、近江の各国へ入り込むことを不可としてきた因循を解き、今後は何処から何方が出入するとも異議あるべからずと、豊臣秀吉による先例(大工所の否定)以来の門戸を開放した自由営業の対策が講じられたのである。

 一方、中井家では、これによって生じる無法大工の入り込みに備えた大工統制を厳重にすべく、旧来通りに中井家が印札を発行して、その所持者にのみ大工活動を認め、株仲間解散に代る向寄組織を一層強化する一方で、大工組の呼称を廃したことによる組頭の肩書も、向寄人数取締と改め、従って印札の交付を希望する大工は、同取締に申告するよう促した。

 更に詳細に検討すると、従来の古株無高大工は引高を有していないので、今回、「新株大工扱い」となって従来の地位が保持できなくなり、また、この改革以降に大工となった者は、社寺の請負が出来ない平大工の地位にとどまったが、これに対して「引高持大工」は、依然として揺るぎない「古川水絶えず」の存在であった。

 ここに至って、新株大工、平大工共に、中井家に登録して許可を得ると営業権が与えられたが、それ以外の素人大工、もぐり大工に対しては依然として厳しい規制があったのである。
その他、百姓家の三間梁以上の制限や、寺社制禁の厳守、作事願の届出は忽論、これの出願には向寄取締の連印のあるものを提出することや、向寄違いに出向のときは、証拠として印札を持参し、それを出向先の取締役に提示することは従来通りである、と命じられた。

 更に重要な事として、
一、 他国(六ヶ国以外)へ仕事に出向き、手広く営業してもよい。
一、 雇用は何処の職人を雇っても勝手次第。
一、 その場合は賃金を成可く安くする。
等と重ねて指導している。

 註 以上は川上貢博士著「近世建築の生産組織と技術」の内(前掲中井家
   よりの触状に対して)大工組より提出された「恐れ乍ら御請書」
   天保十四年付、No 40、483頁、所収を参考としました。

      ◆ 改革に伴う営業範囲 ◆

 ところで前述の大工組の請状(案)の末文には、大工が営業活動のでき得る範囲について、「国違い、向寄違いに出向するときは、印札を持参し、それを証拠として出向先の取締役に提示すること」と、定式化した上で、『これは従来通りの規制である』と、改めて強調している。

 この「従来に」拘って年代を遡及すると、中井役所として成立した二年後の元禄八年(1695)正月、大工頭正知氏より、『何れの組もこの定めに候』と前書した定め書がすでに発令されており、それによると、
「一、 大工共、他国へ細工(仕事)に行くときは、その所々の大工組頭に対して、我々共は何々組の大工共にてこれあると断った上で細工すること」
と命じている。

 そこで改正後に営業活動を許容された内の「国違い」とは、当家に限っていえば取りも直さず近江国以外を指し、一方の「向寄違い」は、今回郡大工組という組織の名称停止に代って向寄と改称したことによる蒲生郡以外を指し、普遍的に換言すれば、前者は国外への出向、後者は郡外の出向に充当する。

 次いで、これらの地域に出向するときの作法について、前述二件の傍証の序列が、文章の構成上可逆となってはいるが、前者(天保期の中井家触書)及び、後者(元禄期の同上)との内容を比較すると、改正前は出向先の大工組頭に、改正後は向寄取締に届けた上であれば許されたということであり、加えて天保十四年の触書に、「以上の作法は従来通りである」とあるのをみると、これより先、元禄八年に定められた規制が、自来百五十年間連綿として踏襲され、今回の改正に至ったということが分かる。

      ◆ 高木文書に対する虚構と僻論 ◆

 このように、大工が個々に有する大工所以外の作事に際しては、国外、郡外を問わず、中井家の定めた手続き(作法)を踏まえた上であれば容認されたこの規制は、如何なる権勢を以ってしても揺るぎのないものであった。

 ここに於いて、大工組結成以来の長たる者の職責は、幕府老中経由の中井家規制に対し真摯に順応して、これを組中に触れ流し、公用作事に必要な人員を揃え、個々の営業に当たっては三間梁制限や、その申請方法等を率先して範を垂れ、仲間の意志の疎通を謀ることが職務であった。

 然るに奈文研の細見、山岸両氏は、以上の如く容認された作事に対して、当家の関与した建造物を羅列した上で、「高木は幕府の掟・法度を破っている」と、恰も確証があるかの如く、公権力を恣意的に乱用して罵倒をし、一方では郡外作事までも禁じられていると、勝手な酷評をし、その悪辣な噴飯に値する自己主張は、官の人間という独善な深層心理に陶酔した人倫上許せない定義づけとしている。

 その郡外作事の一例を挙げると、甲賀郡矢川神社本殿造営について、『高木は他方面で排斥されているにもかかわらず、郡大工組頭という強力な地位を利用してか、郡外でも強引なやり方で仕事をし、それがため地元大工と問題を起している』と、職権を乱用した違法行為と決めつけ、当家に対する場違いの憎しみを増幅させ、心胆を寒からしむる鳥滸がましい牽強付会の説とするが、この作事は甲賀大工組頭、佐次右衛門氏失脚後、体制が脆弱化し、そのため大工年寄が郡中の庄屋に訴えられるといった渦中に、同神社の別当様より高木に対する御下命であったが、地元大工九兵衛氏はそれでも当初より難色を示され、それがため建設委員中より疎外されるに至るが、結局は自己の非を恥じ、高木に対して謝り証文一札を入れ、証拠として神社には存在しない九兵衛氏の証文が当家に存在する。

 細見、山岸両氏は何が当家に対して不快なのか、伝える努力さえ卑劣にも怠惰であり、根拠もなく、只管書きたい事を書いただけの夏炉冬扇の謬見とするが、折角先祖が積み上げた過去を、このような粗雑な表現で壊されては一たまりもない。

 一方、口を開けば生半可な知識で、郡外作事は不可と衒学的にうそぶくが、ならば、郡内は何処でも自由奔放であったと、支離滅裂な主張をするのであろうか? 当時の掟は仮令自己の居住する郡内であっても、断りなく仕事が出来たのは、自己の大工所のみであり、別して組頭が仲間の秩序を紊乱することは許されない。

 そもそも古文書調査の使命は蓄積された知識によってそれを読解し、真実が追究されたものを江湖に普及することであるが、このような感情論に終始した非合理な判断による調査報告は、それらを阻害するのみならず、況して権力による抑圧と、要らざる介入は必ずしも良い結果を生み出した例しがない。

 彼等は批判も非難も自由であると履き違え、無辜な当家の先祖を棄灰の刑に貶しめるが如き人倫に悖る所業は、未だ夜郎自大から抜け出せない人間の業が澱みの如く凝縮されている。詮ずるところ、その露悪な虚妄説が、揚げ句の果ては自分自身を追い詰め、とどのつまりは言い逃がれの権利まで剥奪されてしまうであろう。それは取りも直さず、「真理は只一つ」ということであり、「天網恢恢疎にして漏らさず」の報いは文化の破壊者として必至である。

 元来、公衙の役人であることを嵩高に、「高木文書調査」という大儀の下、傲岸不遜な要らざる勘繰り、独断と偏見による虚構、即ち内容の根幹が全て真実ではない蕪雑な表現は、結果として当家の先祖を冤罪として完膚なきまでに侮り、卑しめ、それが為に社会的評価を低下させた事実は、最も憎むべき行為で、常識の埒外である。

 それでも唯我独尊的に調査を強行する権利があると考えているが、重要なことは、その調査自体が餅屋以外の人間による不見識では、本来の意味を曲解される危険もあり、それらの防御にあたって、見せる側にも事実を歪曲された部分は、公表させない選択の権利もある。それ故に、事前に所有者の承諾を得た上で、発表する礼儀ぐらいは、人間として最低の条件であると考えられる。
 ここでは何故か、調査報告とは美名に過ぎない、高木に対する恨み節が先に独り歩きをし、無闇矢鱈な感情論は、その調査の目的を五里霧中とし、この程度の報告書では、その曖昧模糊な内容が社会通念上、公益性を有するものではないことは、この論争の岐路であり、概念として自明の理である。

 奈文研の細見、山岸両氏は、先人の追い求めたささやかな幸福に対し、冷やかな侮蔑と、他人を不愉快にする悪意な棘に満ちた非人道的な中傷誹謗をし、剰え現代の人々では知るべくもない江戸時代の掟、規制等について、一部の専門の人間のみが知り、万人が知るべくもない概念について、自分が知らないということを自覚することもなく、まだ知らないという事実を認識せんとする努力を重ねようともせず、その不遜は次第に汗顔の至りから、忸怩たる想いとなり、やがては「他人の中傷をするときは、批判の手間を惜しむな」と、批判する資格さえ、自ら放棄するに等しい、凋落の極みとなることを自覚せねばならない。


PN   淡海墨壷