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2002年9月12日
高木敏雄HomePage

矢川神社本殿改築について

 矢川神社本殿は旧来の大宮、二宮を別棟とした二社殿並立型を踏襲して、寛延元年(1748)改築される運びとなり、同神社別当周顕師は蒲生郡八幡大工町高木但馬に設計、見積を依頼、同年九月、高木はこれを提出しました。

 註、但し、三年後計画変更により、現在の一社合殿となる。

 この改築について奈文研による高木文書調査報告書(昭和六十二年三月)八十六頁には、
 「地元大工九兵衛と、八幡大工高木但馬との間に本殿改築請負の為の
  論争興り、中井役所に(九兵衛氏が)訴える。(寛延元年)」

 また同報告書九頁にも

 「高木支配の排斥は他方面でもみられる。高木は郡大工組の組頭としての
  強力な地位を利用してか、郡外でも仕事をするようになる。
  例えば甲賀郡矢川神社造営はそれである。しかし高木は地元の
  大工と問題を起こしている。

   矢川神社文書中、寛延四年(但し奈文研によって、この年次は推定と
  記されている。)口上書は甲賀郡深川村の大工年寄九兵衛から中井役
  所に出された写しである。

   これには高木但馬が矢川神社の造営に携わることに対して、地元の
  大工がそれを停められんことを願い出たものである。

    この場合は矢川神社別当からの依頼であるために高木が仕事を
  することになったが、こうした強引なやり方が各地の大工と相論を
  起こすことになったのであろう」

 以上の如く、国立機関の人間であることを嵩にかかった如何にも正義づらを標榜し、裂帛の勢いで根拠のない妄評をしているが、このような筆致では高木は九兵衛氏より寛延元年・同四年の二回にわたって矢継早に告訴されたとの印象を与えますが、その真偽の究明に先立って「寛延四年推定」とする曖昧さについて、幸い口上書の奥書に「未九月」とあり、その干支によって当社殿改築立案の寛延元年(辰年)より、遷宮の宝暦六年(子年)に至る八年間の未年は寛延四年以外ありませんので、これ以降推定を消去して進めたいと思います。

   ◆ 当時の大工組織 ◆

 ここで改めて寛延四年九月、九兵衛氏が中井家に提出した口上書に登場する同職仲間について参考までに申します。そもそも大工頭中井家を頂点とする上方大工集団(五畿内と近江の六ケ国)の大工組織は、大坂(大阪)などの都市大工を除く他は一郡一組で結成され、それぞれ何々郡大工組といった名目で編成されました。

 ご多分にもれず甲賀郡大工組は、池田村の大工佐次右衛門氏が世襲で統師するところでありましたが、享保年中(1716−35)退転し、以来山北、山南、柏木、杣の四組に分裂、大工年寄支配の状況となり、ここに登場する大工九兵衛氏は「杣組」に所属す
る矢川七ケ村の氏子でもありました。
山北組大工年寄同郡新城(庄)村惣右衛門
山南組 滝    村源三郎
柏木組 不    明喜右衛門
杣 組 深  川  村九兵衛


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    ◆ 九兵衛氏の謝り証文 ◆

 前述の奈文研による記述の理非曲直について、社蔵文書中唯一の九兵衛氏口上書を論究とするのは当然ですが、これを更なる達意とするため、文脈は前後するが、口上書の提出より一年後の宝暦二年(1752)十月、九兵衛氏が矢川寺の院主様、七ケ村役人衆中に宛てた謝り状について先に触れてみたいと思います。

  (上包紙題字)     「高木家文書
「矢川大明神宮の事につき、甲賀郡大工組与頭九兵衛謝り証文之写」

  証文の事 (前段の記述)

「去る辰の年(寛延元年)矢川大明神御造工に関する御相談の砌、拙者無調法(ゆき届かないこと)を申し上げ、院主、別当以下七ケ村役人の御方々に背                                    き申し候、しかるところ、今般御両院御挨拶下され候に付て、御了簡(御許し) 下され、忝なく(ありがたく)存じ奉り候、しかる上は私の方へ等と(仕事をさせて欲しい)という事は一切申すまじく候」

 (後段の記述)

「一、この度、当社の御造工について細工一式は八幡高木但馬へ御頼みなされ候、然る上は釿始め(起工式)棟上げの連中(仲間)に加えて下さるよう御頼み申し候ところ、その通りに御了簡下され、(承知して下さり) 忝なく存じ奉り候、しかる上は御指図次第に致し、若し無調法な事(行届かないこと)あれば何時なりとも御申し聞かせ下されば、そのときは一言の異議も申さず早速に退去つかまつり候、後日の為よって一札件の如し(この通りであります)」

                           深川村   九兵衛

  宝暦二 壬申 十月日
   矢川寺 御院主
   七ケ村御役人衆中

   ◆ 口上書の注解 ◆

 年代的には可逆となりましたが、前述の謝り状を論拠として口上書を注解すると、先ず寛延元年(辰年)九月、高木から別当周顕師の依頼による絵図、見積が提出され、それに基づいて氏子中の初会議が開かれたが、施工大工は周顕師御下命の高木であったとしても、九兵衛氏にすれば「地元に大工がいるのに何故か」との訝しさから寄合の席上独善的な発言があったものと推察され、(去る辰年、私無調法申しました)それがどの程度のものであったかは、結果として次回会議には九兵衛氏が疎外されている事実によって容易に理解できる。

 九兵衛氏は初会議列席ののち、収拾の盡き得ぬ腐心から仲間の惣右衛門、喜右衛門両氏と相謀り、京都中井役所に陳情することとしたが、これに先立って高木と胸襟を開いた示談をと、喜右衛門氏と二人で高木宅を訪問するも合憎当人不在の為徒労に終ったものの、とに角中井役所に対して自己の主張を
「申し上げ奉りおき、在所へ帰り候」
となった。

 その後、九兵衛氏は改築に関する(未否(ママ)の儀)について自宅待機をしながら、一方では高木との面接を旨とする動向を模索する内、(八幡の様子が知られざる内に、)唐突にもこれまで志を同じくした(上京して共に陳情するなど)仲間の惣右衛門氏によって建築申請一切が完済したと神社からではなく、会議の帰路九兵衛氏宅に立寄った役人からか聞かされ、すっかり蚊帳の外におかれた九兵衛氏は失意の内に大工頭に対して「納得難かしく御断わり申し上げ候」と寛延元年の申し立てを取り下げた形となった。

   ◆ 九兵衛氏口上書と奈文研報告書との齟齬 ◆

 前掲九兵衛氏口上書は、社蔵の当人自筆の副書を奈文研職員が筆写したもので、その記述内容自体は筆写のときに過りがない限り信憑性は高いものと考えられますが、問題はそれを「高木作右衛門の作事」と銘打った調査報告書に掲載するについて、内容の咀嚼が稚拙なのか、故意に高木の陥穽を狙ったものか、九兵衛氏の苦悩を如実に反映した文脈とはなっておりません。

 例えば、報告書八十六頁には
「改築をめぐる論争により九兵衛氏は中井役所に高木を訴えた。(寛延元年)」とありこれの裏付けとなる文言を口上書に求めると、辛うじて、
「普請の儀について、先達って(大工頭に)申し上げ奉りおき」
                                     (口上書冒頭)
「先達って惣右衛門、喜右衛門、私三人で御上様(大工頭中井主水)に申し上げ候は」
と記されているのみで、九兵衛氏とその仲間が中井役所を訪ねたのは明らかでも、その期日や、何を申し上げ奉ったのか、漠然とした筆致では高木を訴えた等とする大袈裟なものではなく、単なる請負をめぐる羨望愚痴程度ではなかったのか?
 それは奈文研が僻目で考える程の虎視耽々たる両者の仲ではなかったと考えられるのは、九兵衛氏の謝り状に「高木と共に仕事がしたい」によって、氏の心底が充分察せられる。

 続いて同報告書九頁にも

 「寛延四年、九兵衛氏が中井役所に提出した口上書の写しには高木が
  矢川神社の造営に携わる事に対して、これを停められん事を
  願い出たものである」
と謬見があり、これは九兵衛氏が高木に対する造営の差し止め請求を中井役所に出されたことを意味するものとなりますが、奈文研職員自筆の「口上書写し」をいくら耽読しても聊かの真実をも含んでおらず、彼等の一知半解による付会の舞文曲筆と判断するに充分な記述と断定できます。

   ◆ 郡外に於ける作事について ◆

 その他、「高木は大工組頭という職権を濫用した強引な手法が各地の大工と相論を起こすことになった」と詭弁を弄して罵倒し、二世紀半以前に没した当家先祖を蛇蠍の如く忌避する程の逆鱗に触れた素因とは

 「組頭としての強力な地位を利用して郡外でも仕事をするようになった」

との早計により高木が法度を破ったかの如く、澱みなく衒学的な論旨としているが、それは決して正鵠を射たものではなく、「餅は餅屋に」と申す如く彼等の半可通な机上理論では到底理解でき得るものではありません。
 例えば甲南町小山様文書を論拠とした谷口氏の論説にも当改築に触れ、「地元大工に仕事を廻してやって欲しい」にもかかわらず、「高木の勢力が強過ぎたので」と、少し顧慮的な表現となっているものの、これは細工場所を郡切に」とする法度の曲解であり、いくら排他的な旧時代でも「故なく他郡に出て仕事をするな」と闇雲に取締ったものではなく大抵の研究者は本文に付けた例外条件「但し書き」を誤認した残念な記述となっている。
 第一、本件の場合は、寛延元年暮、すでに九兵衛氏は中井家に告訴?などの強硬な手段でなかったにせよ、このことによって中井家では郡外の高木が造営することを把握していた筈である。

 九兵衛氏と高木との間に漂う機運は奈文研が味噌糞に批難する程の劣悪なものではなく、それは折角高木但馬が造営した矢川大明神の加護によるものか、天は我等に味方して神社にも保有されない九兵衛氏の謝り状が当家に存在する事実であり、それによると高木が当改築に強引に割り込んだものではなく、当初から別当周顕師のご依頼によるものであったとする自分の非を認めて謝罪した上で、高木と共に働きたいと希望され、高木またこれを快諾しているところに男心の琴線に触れる感動が、子孫ならばこそ現在もひしひしと伝わって参ります。

                            宮大工  高木作右衛門
                                十四代 高木敏雄

PN   淡海墨壷  


 追記、奈文研による最大の癌はやはり「郡外作事の規制」であり、この是非についても拙文HPに掲載しておりますので、よろしかったら御一読下さい。