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2002年11月8日
高木敏雄HomePage

死ぬまでに書きたかったこと

宮大工 十四代 高木敏雄
◆ 上方大工集団、中井家 ◆
 徳川譜代ともいうべき家康三河時代の三州六人衆や、浜松大工衆に対して外様的な立場で家康に最も重用された奈良法隆寺村出身の中井藤右衛門正清(のち大和守)を頂点として開幕以来御用役作事や、大坂の陣に軍役として華々しく活躍した中井家支配下の六ケ国大工であったが、三代家光の治世になると幕府作事方の設置に次いで、その後に発足した小普請方が小回りの利くこともあって次第に作事方を凌駕するようになっていった。

 このような渦中ににあって寛永十二年(1635)六ヶ国大工、杣が、従来より「権現様御上言にて」と、むしろそれを標榜してきた諸役免除が等閑となったことに対する訴訟の結果、その甲斐あって老中奉書による特権の回復に成功したことは、大工側にすれば従前の功績を幕府に認定させた活気ある一服の清涼剤であった。
 しかし、それとは裏腹に、一方では時代の趨勢により幕府財政面の諸事情も相俟って、公用作事も極端に減少するという奔流には拮抗することができず、明暦の大火(1657)正月以後、中井家は京都に帰着されることになった。

◆ 地域別の大工整備 ◆
 中井家が江戸よりの撤退を余儀なくされると、必然的に大工自身も焦眉の課題として個々の営業活動に帰結することになったが、その悲壮な選択の過程で農村に居住する半農半工の大工に対して、専ら大工のみを生業とする都市大工は、得意先の確保が熾烈となり、そのため中には仲間同志で仕事の横取りによる紛争も多く発生した。

 一方中井家では、当時入札の普及等による生き残り策として、従来の如き大量の大工を動員して幕府の行う諸造営に即応する旧来の方針から脱却した業務転換の必要に迫られ、幕府の公金で運営する公儀の京都出先機関として、六ヶ国大工、杣を従来の江州大工から地域別に細分した「郡大工組」として統師し、個々の大工を保護する手段として仕事の均等や、それによって生ずる利益配分が公平となる規制を定め、また大工同志の縄張り争いの紛争をも調停した。

◆ 寛文の大工法度 ◆
 寛文八年(1668)三月、幕府は度重なる江戸の火災による寺社復旧の過程で、梁間寸法は京間の三間(一間は1,97米)を限るとした五項目に及ぶ建築制限(三間梁制限)を上方にも適用することとし、中井家ではこれを契機に大工の「人別改め」をも実施するよう高木宛に書状が届けられた。
 この人別改めは、前述の如くこれより先、寛永十三年の江州国中大工高調査によって大工人数は把握されていたが、今回はその後に大工になった人の内で、大工組に入らない「もぐり大工」の調査を目的としたものである。
 彼等もぐり大工は賃銀協定を破った安値で雇用に応ずるため、これに呼応する建主側の人々も急増し、剰えその需要を甘受して「他郡への出入りはあるまじき事」の規制を無視し、自由奔放に他郡にまで出稼ぎする傾向となり、これら無法な行為は正規の組大工の障害となったので、幕府による厳しい取締りの対象となったのである。       (高木文書)
◆ 大工頭の戒飭 ◆
一、大工仲間同志の礼節が乱れ、互に普請主を奪いあい、その為に争論に及
び、自分だけの欲望に迷い、他に対する仁(思いやり)を忘れて仲間の作法を破り、遂に自己の非(あやまち)となる事を忘れたり、これ偏にお上を恐れず、その役人を軽んじる事よりおこるなり。仲間の作法を知り乍ら、知人は否定にもてなし(独善な行為をし)普請主に内通して仕事を横取りし、或いは私の遺恨を組一同のように触れ流し、(他人の所為とする)悪事を好む輩(者)あるように聞え、今後このような悪人これあるに於ては申し出るべきこと、(通報すること)
右の状態混乱がましく、直訴に及ぶ者これあるに於ては吟味(調査)の上で、きっと罪科に申し付けるべく、この旨組下の大工共に、きっと申し聞かすべきものなり。

   宝永七年(1710)五月
                中 主水判
 尚、附として、「この御定は四十七年以前に発令したものであるが、その後年月も経ち、紛失した者もあるので今回再発行する」旨の記述があり、宝永七年より四十七年逆算すると、寛文三年のこととなり、中井家が帰着された直後の大工仲間の混乱を示す貴重なものである。
           (近世建築の生産組織と技術)
                   昭和五十九年、 川上貢博士

◆ 郡外作事の是、非論 ◆
 中井家では前掲の如き秩序の乱れに腐心し、寛文八年三月付の「幕府老中下知申渡覚」の梃入れによって、「この度、江戸より仰せなされた法度(法による規制)を、上方の大工共にも申し付けるよう御下知(言いつけ)があったので、組頭と年寄を召集してこれを申し聞かせる」とし、その上で「御定(定め書き)の両通の写しを分かち与える」とあって、一通は「三間梁制限」で、残るは「人別改め」を命じたものであった。
 そして「御条目(箇条書)の内容を、組の大工共に毎月促し申すべし」に対するその周知徹底の手段は、大工組によって多種であったらしいが、組頭高木作右衛門(三代光吉)は、大工人数改帳」とする表題として、次の五項目を呈示した。
1、 今回発令された建築制限の厳守。
2、 公用作事に対する日限の遵守。
3、 「先年の如き大工作法を守るべし」とあり、これは五年以前に出された
   前掲の大工同志の作法が前提となっている。
4、 従来より保有しているお互いの営業範囲を確認すること。
5、 他郡への出入りあるまじき事。
                             (高木稿本)

 以上の内で第五項を先学者の多くは曲解し、「仕事の範囲は郡内に限定されている」とか、「他郡での仕事は禁じられている」等と、半可通な机上空論を述べたものが少なくないが、これらは「木を見て森を見ず」というもので、当初はあく迄も無法な「もぐり大工」に対する「細工場所を郡切に」とする規制であり、一方、正規の組大工に対しては保護を目的とした原則であって、いくら排他的な江戸時代でも理由の如何を問わず、「他郡の仕事はするナ」と無定見な規制はしていない。
その証左として但し書き、又は附(つけたし)として、正規の大工は中井家の定めた基本方針として「郡外作事に出向のときは組頭に届けて許可を得ること」と定めている。
 この届出を義務ずけた最大の理由は、当人の他郡出向により不在となった場合、公用作事の緊急動員を予め想定し、その連絡のための止宿先(仮住い)を明確にすることを必須の条件とし、連絡に支障ある程の遠地に行くときは、一時的に先方の大工組に移籍し、その大工組に営業税を払えばよいのであるが、(この方式は中井家支配内に限る)多くは連絡し易い隣郡程度にとどまった。
 尚、郡外に行く旨の届けを受理した組頭は、出向先の組頭に対して、当人を保証する旨の依頼状を二通作成し、一通は当人に持参させ、残る一通は保証人たる組頭が先方に直接送付し、これを当人が持参した書状と、両方の印鑑を先方が照合するといった厳正な手段とした。  (高木兵庫(六代)雑記)
◆ 甲賀大工組研究論文を斬る ◆
 巷間伝えられるところの先学者によるこの種の研究発表「大工統制」の内、その死活問題である営業範囲について、個々の大工が居住する郡以外で仕事をすることの是非を、中井家の定めた規制の追而書を無視した原則のみに拘泥して「その行為を非である」と無分別に決めつけたものは少なくない。
 これに関する公知の研究発表として先鞭をつけられた「江州甲賀の大工仲間」黒正巌氏、昭和二年は、同郡の匠家の古文書を原拠として、
 「大工はその所属する郡内に於てのみ営業をすることができ、他郡にでて
  大工稼業をしてはいけない規定となっている」
と明言し、郡外で作事することの一切を否定し乍ら一方では、
 「しかし、このような独占区域の設定(仕事をする範囲の限定)をすることは、
  その業者の生産範囲を限局(せまく限定)するので却って自分の
  不利益となり、と角この規定は侵犯され易い」
と、ご自身の見解を示唆した上で、その規定の実施時期について、
 「これの設定は特権特許のときより行われていた」
とあり、次いで、
 「大工仲間がその特権を認められたのは、寛永十二年、九月である」
と重ねてその年月を明確にし、このとき大工の活動範囲が組限り、つまり郡内限りとせられるに至ったと記述しているが、これは大いなる錯誤であり、正しくは江州大工組から一郡一組とする大工組に細分された二十八年後の寛文三年(1663)のことなのである。
◆ 元文期の申し合わせ ◆
 次いで歴史の叙述を超然とした(百年以上一足飛びとなった)後年の規制に関するものとして黒正氏論文には、
 「大工の増加と共に違犯者も次第に増加し、元文年間(1736〜40)以後
  これに関する紛争が発生し、その都度組頭が合議の上で規約を変更し、
  これを遵守すべきことを誓約した。」
 「そして、この種の古いものとして元文五年三月の証文を掲げることができる。」
とある。
 そこで同氏が指摘される元文五年に当家の祖高木但馬を含む五郡の首長が手交した証文の内容を掌握し易くするため、原則と、特例条項たる但し書きとに二分して考えてみたい。

     証文取り交わしの事

一、「東近江五郡は先年より郡切りに細工することと、五郡の組頭並びに組中で
   立会って互いに制約をし、以来それを厳守してきたが、この度不届なことが
   あったので、またまた五郡の組頭が立会い、相談の上でこれを改め、
   いよいよ古来の通りに守るべき旨の相対(第三者を介入させない相談ずく)
   (あいたい)が済み、ここに証文をとり交わすこととし、この上は以後他郡に
   入り込んで細工をせぬことを誓約する」
 以上の黒正氏による原拠となった古文書の注釈は、必ずしも全体を網羅したものではなく、残念乍ら原則のみで一旦打切りとし、肝心の追而書を省略しているため、「他郡に出て大工をなさざる規定となっている」と決めつけておられるが、実は証文の記述は更に続いており、「但し書き」とする特記、特筆の類の表現はないが、「今後はこれを守らずに他郡に入り込み、その郡の組頭へ相対を遂げずに無断で細工する者これあるときは、中井役所に申し上げて罪科の御願を申し上げる」以下略
    元文五年三月五日
                五郡の首長の署名捺印
 
この郡外作事に関する白熱した是非論をぶちまけるについて、この追而書の内容は最重要課題であるので、責任上眼光紙背に徹するまで耽読すると、
 「自己の所属する組頭に対する届け出は勿論のこと、その郡(出向先の郡)の
  組頭の了解を得ず(相対を遂げず)無断で入り込んで仕事をする者に対しては」
と記されている以上は屁理屈ではなく、手続きを踏まえた上でならば許されたということであり、またこの事実は四十五年以前の元禄八年(1695)「何れの組もこの定めに候」とする中井家の覚書によっても明白である。
 黒正氏が、この追而書の記載を何故省略したのか、その理由は知るべくもないが、瑣末な事乍ら、この拙文をもってその包括の不足部分に対する充足の一助としたい。
◆ 大工組頭の責務 ◆
 以上の如く一部の先学者は不充分な原拠によって遺憾ながら僻見した千言万語を費やすが、そもそも中井家大工支配の複雑多岐にわたる諸々の規制は、幕府作事奉行―大工頭中井家―大工組頭―組下大工に至る組織的体系、つまり縦(上下関係)方向のつながりと、大工仲間同志の横方向のつながりとに大別できる。
 その内、前者にあっては高圧的に抑制されるお上の権力など屁とも思わぬ技術を誇りとする職人は、これら不得要領に対して潔しとせず、一方後者の仲間の掟に関しては、元来相互扶助の精神から自主的に率先して順応するという風潮にあった。
 これら多彩な掟の内で後者に属するところの「お互いの縄張りの不可侵」は刎頸の仲間同志の作法の第一義たる「仁と義」つまり人間としての行なうべき道徳として揺籃期より孔孟の教えである徳育をされ、長ずるに及んでは一郡の大工の頭目として率先して実行することの規範意識となり、その掟は互いに「金科玉条」(一番大切な禁じ手)として守られ普遍的な基本理念として代々伝承され、戦前の後塵を拝する教育を受けた私自身も人後に落ちない心算である。

 翻って前掲の「蒲生郡大工人数改帳」の第四項「互いの営業範囲の確認」と、仲間同志の「縄張りの不可侵」は複合的なものであり、一方第五項「他郡へ出入りするナ」は、組大工以外のもぐり大工、素人紛いの大工に対して出された掟であったが、これが元禄頃の景気高揚と共にその需要に応ずるべく、組内大工まで掟を破るといった従前の外患から内憂に変化して利欲を貪る者が増加し始め、中井家ではこれらを識別する手段として「印札」の交付を制度化する一方で、一郡内を五分割(これを向寄という)して、これに各一名宛の大工年寄を配し、この小組の範囲で互いに違反大工を見破り易くする方策とし、親、兄弟たりとも発見次第に大工年寄に報告せよと定められた。

 古今東西を問わず、いつでも、何処でも上司に媚を売って諂う浅ましい大工が存在するもので、この制度は一方では些細な事でも競って大工年寄に密告して自己の手柄とする」獅子身中の虫を育む結果ともなった。
 これは功罪相半ばする失政ではあったが、正規の組大工であれば衆人環視の中で、仲間の掟を破ってまで郡外に出て働くことや、逆に他郡より入り込むような危険を犯さずとも、双方の組頭に届ける(前掲)だけで済むことであり、まして奈文研の職員が指摘するように率先垂範すべき立場の組頭高木が、この掟を破っていてはこれが十八世紀初頭頃より密かに新組結成を目論む不満分子と一触即発の不穏な渦中にあっては到底組の秩序の維持はおぼつかない。
◆ 高木家文書の調査について ◆
 去る昭和六十二年三月、国立奈良文化財研究所の職員による当家所有の古文書調査について過去五世紀近くに及ぶ先祖代々の社寺造営に関する積もり溜まった古文書は長持三棹に及び、これらは田舎の母に管理させ、現在私の手元にあるのは僅か一握りであったが、これを所用ありとして調査は半分で打切りとして調査員を帰らせたのは、これ以前すでに当家に対する不都合な事を県の刊行本に書かれた理由によるものであった。

 その調査による「高木作右衛門の系譜とその作事」と題する報告書は、前掲の如く大部分が調査とは美名に過ぎない常軌を逸脱したもので、当時病床での呻吟を勿怪の幸いとして、私には連絡をせず、これを公表されたが、反論するにも入院中では如何んとも致し難く、得手に帆をあげ調子に乗った彼は、今度は平成七年「建物の見方、しらべ方」(ぎょうせい出版)と題する出版物に高木による郡外作事として、

 神崎郡 弘誓寺本堂、 甲賀郡 矢川神社本殿
 京都市 東寺五重塔 大阪市 東御堂  三重県 専修寺如来堂

を列挙し、「郡大工組の規定では郡外作事を禁じているが「高木はそれを破っている」 とした上で、矢川神社ではそのため地元の大工と争論をおこしている」として懐疑的、攻撃的に完膚なきまでに悪意の棘に満ちた中傷誹謗をされた事に対して、膨大な文書を何時でも取り出せる自家薬籠中の物とした成果によって論駁したい。
 この不毛な論述に対して逐一汎論するのも鳥滸がましいが、最も抱腹絶倒すべきはの東寺五重塔造営で、これは例の禁令発布より二十二年以前の寛永十八年(1641)着工、中井家直営の工事に参加したことが何が問題なのカ?「馬鹿も休み休みいえ」といいたい。

は大阪御堂筋に現存する西の御堂(浄土真宗本派)津村別院に対して東の御堂(難波別院)を指し、当院は大坂三郷の名匠、山本屋太郎兵衛氏の縄張りで、私先祖の如き江州の田舎大工が取り付くしまもなく、それと思しき絵図、寸法書を参考書として所有しているのは事実でもそれは相手方の要請によって賃仕事として応援したのなら「郡外で他人の縄張り不可侵」に抵触することもなく、掟を破って当造営を行なった等とする記述は言い掛かりである。(この関係書類は彼等に見せていない) については拙文HPに掲載し、重複するので割愛します。
 残る の重要文化財、専修寺如来堂(延享五年1748高木但馬)は、中井家支配地域外であり規制自体は論外である。そもそも当院伽藍は、火災による再建にあたって、当時の領主藤堂氏の盡力により幕府の名匠、江戸の坂本氏により先ず御影堂が建てられ、次いでこれに遜色なき如来堂建物をと、御門主の御下命によって但馬の父、高木日向によって設計され、施工にあたっては御影堂造営時の幹部級の地元大工もおられた関係で重大な儀式に、高木は正棟梁として列席する以外は現場には常駐せず、(完成までに地元のみでも五棟を上棟している)図面上の質疑には殆ど書面で応答している。

 註 前述の難波別院絵図、他はこれの設計にあたって本山同志の交流により
    入手されたとも考えられる。

 その折節の往還は一身田(寺院の所在地名)御殿奉行による「道中人足支配之事」と題する「一身田御用ニ付」の先触が先行し、長持二棹、宿駕籠の行列は大工組頭の貫禄を充二分に誇示するものであっても、知ったか振りをする奈文研によって掟破りの悪逆人の如く公表されては、先祖も今頃さぞ苦笑していることであろう。
 つらつら惟んみるに以上のような門跡寺院や、著名な神社より僅かに抜きん出た才能を認めて戴いての御下命は、大工にすれば栄譽なことであり、また顧客第一とする基本方針で、組頭を通じて大工の指導を怠らない中井家が、「郡外よりの注文は断ること」ではなく、よしんば依頼があったとしても「先に出入り大工あるときはよく両者相談の上で」とあり、また一例として何十年以前より出入りの大工であっても、不都合あったときは建主の意向によって大工の変更をされるのは勝手、自由であり、その場合は従前の出入り大工や建主と話し合いの上で契約すること」と定められており、あくまでも仕事の奮い合いによる紛争のない様に配慮されたものである。
◆ 普請願の提出について ◆
 当家先祖による蒲生郡以外に於ける作事について、奈文研が生半可な知識によって指適するところの前述の社寺建造物五件以外に、私の管見では同種の作事は十指に余るが、それらが全て掟を破った違犯行為であったとしたら、すでに首と胴が分離していたであろう。
 その中で、先学による「事情の有無を問わず郡外での仕事は不可」と原則のみに固執した異論に対して、複合的な特別措置もあり得ると主張する私見を如実に傍証するものとして、野洲郡に現存する二ケ寺の本堂造営を挙げてみたい。
 その造営について二ケ寺共建設役員諸氏(旦那中)より、「野洲郡大工中不得心について」との申し出を受理した中井家の下命によって両寺とも蒲生郡の高木が造営させて戴いた事実もある。
                     (六代目 高木兵庫雑記)
 但し、このような例外でも中井家に提出する普請願だけは、高木の棟梁的立場に関係なく、建設地が野洲郡であるので、地元の大工が願書を提出するよう定められている。
 これと同様の手続きで造営された建物が神崎郡五個荘町に現存する重要文化財弘誓寺本堂で、設計、本棟梁は高木但馬であっても、前述の如く普請願は地元大工が提出することになっており、高木にその義務はないのである。
 さて本堂の建立は当初大坂天満御堂の旧堂を拝領して建立する予定であったため、高木は旧堂古材の再用、非再用の区分けを精査した上で、願主は法の定めるところにより地元大工が普請願を修理名目で提出し、その写しが当家と当寺に残存する。
 その過程に於て、あくまで推測の域を脱しないが、一旦は古材で計画したものの、高木による腐朽状態の調査によると、軒廻り材や、向拝階段、縁廻りの取替は当然乍ら、来迎柱が要根継ならまだ分かるが、二本共取替となると、腐朽もさること乍ら、解体後の保存の不充分さが目に浮かぶ。それらを修理したとしても、建立地の関係で旧堂を切縮めせねばならず、この修理は結局は割高となって、いっそのこと全部新築でと計画変更され、中井家には新築で再申請をし、現在みらるる通り宝暦当時の新材で建てられたということであろう。

 結論としていえることは、子孫の私にすれば糞面白くもないこの大問題を惹起した当初計画(旧堂修理)の修理願が寺に残存し、これに対して木材明細は高木によって新材で拾い出され、現建物もすべて新材となると、調査員の凡慮では高木が虚偽の申請をしたと早計で断定するであろうが、事実は改められた第二次計画によって新築で再申請している筈であり、勿論中井家の許可状は高木のものではなく、さりとて寺のものでもなく申請人たる地元大工に所有権があり、一件でも多くと希う自己の実績を示す貴重文書として自宅に虎児の如く代々大切に保存され、一方寺院に現存する当初の普請願は造営の経過を示すものであっても、地元大工にすれば自宅にわざわざ持ち帰って保存する価値もない紙片であり、寺に放置したものであろう。

 注 これ程の大建築ともなると、中井家直属棟梁と、与力二名の検査があり、
   虚偽申請など論外である。        (高木文書)

 ところが調査報告は惨胆たるもので、普請願は修理名目であるのに対して、現本堂は全て新材であることの矛盾が究明できず、高木による虚偽の申請と明記した上で、その奥書の内容に難癖をつけて不条理な空論を展開する。
 それについて地元大工がその奥書に、「高木但馬は設計、本棟梁として指図つかまつり候」と、それぞれの立場を明確にした上で、本来なら高木が願主であるべき筈のところ「組違い申し候に付私が御窺主になって」とその事情を説明した文言に対して、
 「しかし乍ら蒲生郡、神崎郡大工組違いに付とわざわざ前文をつけているところを
  みると、その経緯は必ずしも平穏であったとはいいきれない」
と牽制し、奥書の署名は誰が見ても地元大工名であるにもかかわらず、県の文化財保護課の人間まで無頼徒の如き言いがかりをつける。
 その素因と考えられるものは、自己の一知半解を棚上げとし、当方の先祖を虚偽申請や、郡外作事禁令破りの常習犯の如く決めつけ、歪んだ思惑は無碍に高じて冷静な判断ができず、それ故に揣摩臆測による仮想で次元の低い禍根を増幅させた誹謗中傷とし、自分だけの価値観を当方に押付けるが、これでは学術とやら申す調査報告が台無しの安手の読み物に過ぎない。

 来年は、またもや県文化財保護課によって、極悪人高木が造営した弘誓寺本堂修理が完成する。その修理報告書には何を書いて戴けるのやら。それは以上の如き公衙の連中に対する怨嗟や、先祖に対する懐旧の情に絶え難い暗澹たる気持とは裏腹に、これでは落ち落ち惚けている暇もないくらい忙しい。

 総括的にみて重要なことは、戦後私達が営々と培ってきた民主的な理念の成熟による研究の自由、表現の自由は「書かれたもの」を読むことによって知識を拡げ、そのことによって豊かな社会が構築される。
 しかし、その表現方法を前掲の如く自己の不見識から当方に中傷誹謗の痛みを押つけ、それを不服とする当方の訂正要求に対しても、それは自由であると厚顔無恥にうそぶくが、基本的な理念として先祖の駄作が、如何間違ったものか、重要文化財や、県指定建造物となったことによって、調査、修理に携わり、祿を食み、家族とも共安穏に暮らせるといった巡る因由による互いの恩恵を忘れ、書かれる側の忖度もせず、逆にそのことによって溜飲を下げ、それでも表現の自由を標榜して免責の材料とすることは到底許されまい。その公権力による行き過ぎた行為は、去る九月二十四日の最高裁のお考えでも明らかである。

PN   淡海墨壷