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2003年4月15日
高木敏雄HomePage

鼎の軽重を問う  (天の巻)

宮大工 十四代 高木敏雄
      ◆ 始めて読んで下さる方へ ◆
 
 去る昭和五十二年頃より全国的に実施された近世社寺建造物の見直しにより、当県でもそれに伴う調査が同五十七年頃から県の文化財保護課の主導で実施され、同六十一年その報告書が刊行された。

  その直後、これの「とばっちり」と考えられる当家の文書が如何様な嫌疑によるものか、県に付託された奈良文化財研究所職員による調査を受け、その結果「高木作右衛門の系譜とその作事」と題して、同六十二年三月各関係機関に流布された。

           ◆ 僻説との邂逅 ◆

 人間長く生きていると色々な不幸に逢着するもので、当調査報告書に書かれた先祖に対する批判は決して事物の理非を明弁したものではなく、只管「江戸時代の大工に関する不都合は、何事によらず高木に背負わせろ」との僻説による論評は、必ずしも確たる裏付けがあるわけではなく、憶測によって事実を歪曲した作為的な虚誕(でっちあげ、事実無根)の説を恰も既成事実であるが如く垂れ流し、不実記載の出版物として伝播させ、世間を誤導しようとする陋劣な手段とした。

 中国の古語に「温故知新」という名言がある。これを書き下すと、「故(ふる)きを温(たず)ねて、新しきを知る」つまり「昔の事を研究し、それによって現代の事を解釈して理解すること」とある。その古い事を本項論説に当てはめると、取りも直さず「江戸時代の大工支配に伴う広範な諸法度(法制)や、それを機軸とした彼等の生きざま」に充当するが、陳腐な旧時代の事(古きこと)なればこそ「餅は餅屋に任せよ」という頂門の一針(教訓)もある。

 一例として餅屋ではない奈文研による論説の曖昧模糊を抽出すると、当家文書の内で慶長十六年(1611)十二月、「是は板倉伊賀守様(初代京都所司代)、中井大和守様(京都大工頭)にて相済申すときの請状」の貼紙を有する文書がある。この書状の作成された経緯について、同年地元大工が高木の有する営業範囲の権利(大工職)を自分のものであるとして提訴、板倉氏は訴えの主旨が大工所のことであるので中井氏に審理を委ね、それを受けて高木に対して詳細な答弁書の提出を命じた。

 中井家では地元大工の訴状と、高木の答弁書を照合の結果、高木の言い分を「ありよう(有様)にお聞き分けなされ」とある如く、偽りのない実際の事情で「実正」つまり確かな事であると結審された。

 ここでの最重要な勝、敗訴の岐路、「有様」を「ありよう」と平仮名で書き、これが旧時代であるため文書には「ありやう」とあるのを奈文研では「あかやう」と解読した。このような体たらくでは、高木の勝訴か否かについて文面全体の理路を把握できる訳もなく、それでも彼等は「高木はこのように各地で相論をしている」と決めつけ、その各地については卑劣にも具体的には挙げていない。

 傲慢な公権力の前に理は存在しないのか、書かれる側の忖度は一切せず、「不確かなことを迂闊に書いた」程度の生易しいものではなく、それらを超越した人倫の根源に背く非人道的な毒手は、悲憤慷慨を超えて情けなくもなる。

 人間は常に平等に自由を希求する権利と尊厳が与えられているが、不幸にも偏執的な猜疑心を具有する彼等によって理性を蝕まれ、抑圧され、侮辱され、それでも頓着しない自己の異常さを、異常と思わない感覚そのものが異常である。

           ◆ 大工組細分化の隠謀 ◆

 奈文研による高木文書調査報告8頁に、吉田氏論文(原拠は当家文書)を孫引きして「大工組分けの動き」について触れているが、すべての因果関係は原因があってこそ結果が生ずるものと考えられ、原因を述べずに結果論のみ無作為に抽出した脈絡では着地点を失なった思索に欠けた姑息なものとなる。

 そこで本項では、寛永十二年(1635)に端を発した大工組の体制を不服とする無役もぐり大工が、当初は静的に隠忍自重し乍らも、これが享保年中(1716〜35)より密かに新組結成を画策する不穏分子が「組頭退役の儀について」とする連判状により提訴するも奉行所では「了見違い」(心得違い)となり、その後も燻り続けて幕末に至るその経緯について奈文研による断片的なものではなく、理路整然とした叙述で挑んでみたい。

           ◆ 郡組の再編成と引高持大工 ◆

寛永十二年(1635)の大工訴訟以降に於ける大工組織形成の要素について、前掲拙文「幕府公用作事と江州大工」で論述した引高持大工の他に、無高大工と弟子株大工の二層があった。

 このうち引高を与えられた人々は、御用役大工又は公役大工、略して役大工と呼ばれ、幕府の手厚い保護が加えられ、たとえ、大工を廃してもこれを所持している以上その権利の変更はなかったのである。また引高は「株」のようなものであったので、世襲によって持株を代々継承し、ときとしてその権利を売買することも出来たが、寛永十三年以降、この権利を有する家筋(匠家)の人々は、その古い由緒によって後代になっても「古株」または「古株大工」とも言われた。

 ところが前述の訴訟の翌十三年新機軸により折角江州大工組として発足したものの、時を隔だてず幕府財政面のこともあって、明暦の大火(1657)後中井家が江戸を撤退して京都に帰着されると、我が近江国は一郡一組として再編成され、大工頭中井氏を頂点として前述の高役赦免の特権擁護と維持を必須の主眼とし乍ら、改めて幕府公用の作事団体と化したのであった。

           ◆ 郡大工組頭と大工仲間 ◆

 そこで彼等は京都大工頭中井氏―郡大工組頭―大工年寄―組下大工に至る、いわゆる縦方向のつながりを重視し乍ら、もう一方の仲間同志の横のつながりを緊密にし、相互扶助や営業統制を目的とした組合的なものを起ちあげた。

 即ち、その運営に当たっては大工組頭が権限を明らかにして組の統師に任じ仲間の単独行為を禁じ、中井家よりの触状を周知徹底させる責務を負わされ、時には組下大工からの反発を喰らうといった、いわば中間管理職ともいうべき立場のありがたーくない存在でもあった。

           ◆ 仲間の規約 ◆

 大工仲間は寄合に必要な会所を設け、古株大工がこの運営の牛耳を執り、その配下に大工職人や徒弟が従属したが、一方統制の目的で親方衆による互選によって大工年寄、年行司、月行事役が申し合せや、仲間の定め等の規約をつくり、これを仲間中が厳守することを義務づけた。

 一方、特筆すべきは当時では同業者が無制限に増加することは取りも直さず彼等にとっては不利であったので、これの継承については仲間以外の者が新しく大工を始めることを抑圧する排除の規定をつくり、仲間内のみの独占的な権益を守らんとした。

           ◆ 無高大工と弟子大工 ◆

 無高大工といっても技術の優劣による差別ではなかったが、その萌芽の究明をすると、前述の大工高調査を契機とし、このとき先祖の恩恵による田地を受動的に所有することで引高帳に記載され、それを世襲制度によって継承すること自体は中井家の示す原則であっても、この権利が長子にのみ継承される旧時代にあっては、一例としてこのとき第一子、第二子、共に大工になることを希望したとしても、第二子は親から株を譲渡されない無高大工の身分であるので止むなく在地の大工組に所属し、組頭の下で生業は保証されるが、引高持大工のように社寺建築の請負は許されず、その為に一般の町家屋を得意先として営業を重ねても、所詮は無高であるので在地領主による夫役は果さねばならず、その暮し向きは引高を有する大工と比べて大変な差異があった。尚、これら無高大工という呼称は、寛永十三年を契機としたものであったので、これ以前の古株大工に対して「新興大工」とも呼ばれた。

 一方、技術の習得を目指す弟子は、親方と称する人に年季奉公をし、一人前の大工となって仲間の集会で親方に保証され、多額な金で株を取得して弟子株大工となったとしても、この権利はその者一代限りであるので、大抵はこれを諦め、日雇いの賃仕事に甘んじたが、これに対して古株の大工は世襲によって益々永続せしめる性質を与えたのであった。

 これら閉塞感漂う独善的な仲間の規約は、如何に時勢の然らしめるところであっても、現在自由に社会活動ができ得る吾人の感覚では、即断で理解し難いことであるが、当時の趨勢は江戸幕府の基本理念事態が陰湿な鎖国という排他主義であり、これが職人世界にまで如実に反映したものと考えられる。

           ◆ 大工相承次第之事 ◆ 

 江戸時代に於ける大工相承(次々に大工を受け継ぐこと)は、引高持大工が大工職(営業範囲の権利、俗にいう縄張り)と引高(株)を世継の者に譲ることを原則としているが、特に大工組頭の隠居願に際して、
 「若し実子が不調法(その資格を有しない者)であったり、実子に恵まれない場合は大工組内で相談し、同職の者より吟味(よく調べて選ぶ)すること。」
とした上で、条件として
 「但し、願絵図の裏判(建築願とその裏面の大工頭の許可条項)を代々所持している者の中から選ぶこと。」
と定められている。              (貞享三年1686正月中井家申渡覚)

 註1、このような願絵図、裏判の所有数の多寡は、直ちにその匠家の営業実績の来歴であり、重要文書として各匠家は競って自宅に保存したのであった。これについても拙文「建築願に対する謬見」の内、弘誓寺本堂の申請方法に関する反論と奈文研の虚誕とを対照して是非ご一読を希う。

 註2、高木家の大工相承について、奈文研による当家文書調査(昭和六十二年)十四頁に、
 「高木家は基本的に嫡流で家系を継いではいるが、嫡流は必ずしも長男に継がれている訳ではない」
と一知半解によって論じているがこれも大きな誤断である。
 例えば、四代目高木日向光連は三代目光吉の二男であるが、この場合は先ず第一子として女子が出生し、次いで第二子として男子(のちの光連が)出生すると、現在の戸籍では当然本人は長男であるが、当時では「宗門改め」の関係もあってか「二番目に生まれた男の子、」つまり二男なのである。
以下これに準じ、第一子から第六子までが女子で、第七子として男子が出生したことにより戸籍上「七男」と記載されたのちの高木但馬も現行表現法では長男であっても当時では「七番目に生まれた男」と記載されたのである。
                                                                       (六代目高木兵庫雑記より)

           ◆ 無役の大工 ◆

 無役大工とは中井家が表現する「もぐり大工、はずれ大工、抜け大工」と称する同家に届けない大工のことで、彼等は
1、 大工組に所属していないので仲間の規約を守らない。
1、 幕府公用作事の動員に応じない。
1、 大工組の作法を無視して自由に行動する。
1、 中井家に対する槌代(営業税)を納めない。
1、 同家に対する年頭の御礼(扇子料)の出費も不用
といった有利な点?があった。これら無役大工の出現する素地は前述の古い由緒を標榜する古株大工が自分の立場の権益を守らんとした大工組の体制自体にも問題があったといわねばならないが、これらの大工は協定された賃金より下値で他郡に出てまで需要に応ずる為、中井家支配下の正規大工の営業障害ともなったので、寛文八年(1668)の触書で、
「無役な大工を雇い、付き合い(交際)など決して致すまじく(してはいけない)」
であったが、一方建主までも、
「村方にては無役な者を雇い、(そのため)役大工共の家業の害になり、みだらの儀(仲間の作法を破る)けしからぬ行為である。」
と訴えている。                                 (大阪市史)

           ◆ 印札交付制度 ◆

 以上のような渦中にあって、元禄六年(1693)中井家は幕府の出先機関たる「中井役所」として発足し、大工組では銘々に「大工組中の定め」を作成した。これについて「谷直樹氏の研究」に「中井役所で概略の書式を定め、これを組中に納得させた上で役所に提出させた傾向が強い」としておられるのを勘案すると、「大工で作成した」のではなくて、「させられた」とする感が否めない。つまり、この事実は前述の大工仲間の横のつながりにより自主的に派生したものではなく、縦方向の圧力によるものであったと考えられる。

 一方中井役所では無役もぐり大工の排除・摘発の手段として、支配下の大工に対して引高(古株)、弟子株の有無を問わず、(無高の大工も含む)中井役所に届けさせ(登録して公式の帳簿に記載する)た上で印札(営業鑑札のようなもの)を与え、これによって無法大工と正規大工との識別を容易ならしめ、これの所有者にのみ大工営業を認めたのである。

 尚、これの携帯は「作業中は腰にぶら下げること」と決められており、これを怠ると大工渡世が出来ないだけでなく「もぐり大工」として幕府の取締りの対象となったのである。
 前述の中井役所に対する営業登録は、享保六年(1721)十月、幕府の申渡覚により
「諸職人仲間を究め(結成し)月行事を相定めること」(徳川禁令考2913)
が六ケ国大工に触達され、
「先立って組合に入った者の他に、その後新規に加入した大工あるときは、届け出て帳面(前述の登録名簿)に記入すること」
と促し、
「帳面にも付けず(登録もせず)組合にも入らない者(もぐり大工)これあるときは、仲間中で相改め(調査をし)申し来るべきこと(報告せよ)」
と督促したが容易に徹底せず、元文四年(1739)
「いよいよ札(印札)これなき職人は雇い申すまじく」
と規制し
「右の職を致すことは勝手であるが、」とした上で、
「印札のない大工は紛らわしいので銘々で印札を請けとり候上で」
と柔軟な姿勢で臨んではいるが、これらの不満分子は引高持大工の運営することを打破する目的があり、秘かに新組結成の時期を狙っていたのである。

 印札は木製で、天地15p、横巾12cm強、厚3cmの将棋の駒形で、表面には所属大工組名を、裏面には住所、姓名、引高石数が記入されている。
尚、中井役所に登録して交付された印札は現在の運転免許証のようなもので、時々「印札御改め」(更新)があり、その都度槌代(営業税)を納めさせられた。

 註、以下は(地の巻)として、次号に掲載します。

PN   淡海墨壷