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2009年3月7日
高木敏雄HomePage

人間性が喪失した下種の勘繰り

                             宮大工 十四代 高木敏雄

 昭和62年3月、「滋賀県近世社寺建造物調査」を物怪(もっけ)の幸いと、高木非難の隠れ蓑(みの)にした奈良文化財研究所、細見啓三・山岸常人による悪辣な誹謗・中傷(自己の不見識を棚上げにした先祖に対する増悪の連鎖)を剔抉すると、そもそも高木文書調査とは名目であって、その悍(おぞ)ましい魂胆は事実でないことを事実らしく表顕して先祖の陥穽を目論む陰謀に他ならず、その逆恨みの悪態を箇条書きにすると、

  (1) 古文書の所有者・高木の住所、氏名。(犯罪者でも町名・番地
     まで公表した類例を見ない)

 (2) 西本願寺八幡別院に売却された高木文書の経緯。
 (3) 旧高木文書
(現在某氏が所有する数点の内、2点のみ調査を
     許された)
と特筆した細見・山岸の述懐と、実際の所有者に
     よる間抜けた自家撞着。
 (4) 高木家の作事について。
                (以上に大別されている)

    
 ◆ 弊履の如き扱いをされた高木文書 ◆

 (2)について、
 昭和48年6月、本願寺八幡別院本堂・表門・鐘楼の三棟が県指定となり、裏門のみ一年遅れて指定されたが、このとき寺院では関連文書の全てを紛失し、当家に「古文書無きや」の打診があった。これについて自己の郷里でもあることから愚直に17点を当院の責任役員、太田氏に2・3日の確約で預けておいたところ、有ろうことか当家に無断で盥回しにして返却日を破約し、剰(あまつさ)え文書の年代順を明確にすべく
原本に墨でアルファベット(A~Q)を直(じか)に記入し、この常軌を逸脱した暴挙の始末について各地の表具師さんに相談したが、何れも墨書の消去は不可能との判定により先祖伝来の古文書は紙屑同様となり折角当方の善意を仇(あだ)で返された。

 以来、先祖に対して申し訳が無い思念が募り、悶々と悩む日が続く内、昭和62年3月、またもや別院の太田氏は何食わぬ顔で当時県外に入院中を嗅ぎつけ、県教委の係長を同道し古文書の売却を強迫されたが、前述の如くすでに一文(もん)の価値も無い疵物にしておき乍ら我関せずの無神経な要請に対し、仰臥のまま動けぬ状態では如何ともしがたい苛(いら)立ちと、卦体糞(けたいくそ)の悪さが入り交じり涙を呑んで手放したが、それでも別院に対する怨嗟は現在に至るも払拭できない。

     ◆ 言わずもがなの旧高木文書 ◆

 続いて(3)文書に言及すると、細見・山岸が興味本位に指摘する
「旧高木文書数点の内、2点のみ調査を許された」と愚痴る怪訝の念は、『残る4点の公開は必然的に不都合な眉唾物』と推測でき、その真相は疾(と)っくの昔に把握しているが、忖度無きは人にあらずの教訓を尻目に懸け、遠い過去の出来事に執着して野次馬根性の如く傷口に塩を塗る非人間性の細見・山岸にまでとやかく言われる筋合いもなく、不必要なお節介(調査に関係なき事柄)は却って世間の人々の顰蹙(ひんしゅく)を買い蛇蝎視(だかつし)されるのが落ちである。

    
 ◆ (4) 高木家の作事について ◆

 何事も高木に関することは「ぼろくそ」に書けば事足りると考えている吉田高子一辺倒の細見・山岸による先祖非難は、
『高木は代々作右衛門を名乗り蒲生郡の組頭として建築活動に当った』と前置きした上で、『既に吉田高子が明らかにしているように高木家の活動は平坦なものではなく、江戸中期以降は徐々にその勢力を落としてゆく』と事実無根を書き捲(まく)り、高が知れたど素人の分際で根拠も証拠もなく先祖の来し方に逐一難癖を付け、識見の乏しい吉田に倚(よ)り懸(かか)らねば判断ができない細見・山岸の盆暗が糞生意気に先祖を非難する資格は爪の垢ほども無い。

 それでも細見・山岸は知ったか振りの吉田に翻弄される反面、急に手の平を返し
『高木は実際の建築活動には社会的な地位に左右されずに続いていた』と、気違い染みた行きつ戻りつ、徒(いたずら)に右顧左眄(うこさべん)する一方で即座に前言(先祖非難)を翻然と改める愚にも付かぬ戯言(たわごと)こそ一顧の価値もない物笑いであり、これでも調査したと吐かすのは実にバカげた噴飯ものである。

    
 ◆ 先祖を愚弄した付会の説と妄想 ◆

 (4)『高木家の作事について』の内、当家文書を捏造した細見・山岸による虚誕(でたらめ)・虚構(つくりばなし)は、御多分に漏れず元禄7年、八幡別院本堂の修理に纏(まつ)わる京都大工頭・中井家の裏書まで筋の通らぬ難癖を付け、
『この申請は法度違反であるにも拘わらず子細格別に許可されたのは例外の措置と明記されている』と、江戸時代と雖(いえど)も日本の文字で書かれた許可条件の紙背が日本人であり乍ら何故か理解ができず、『このことは法度違反であっても特別の事情があれば許可され、その際上納金納入等の何らかの取引が行なわれたであろうことが推測される』と度が過ぎるバカ丸出しの素人判断と、根性が捻(ひね)くれた偏見とが相俟(ま)って取るに足りない感情論に終始し、呆(あき)れが礼に来る貧困な発想に感(かま)けて自己に有利なように高木文書の内容を改竄し、先祖の英知に対して無益な抵抗を試みる無能・無策こそ愚の骨頂である。

   
  ◆ 中井役所の修理許可との比較 ◆

 前述の細見・山岸による病弊に対して正論を開示すると、
『表絵図の本堂を御門跡より修復なされるについて、今回桁行方向に1間半増建することは勿論御停止のことではあるが、格別に許可され但し他の例にはならない。また本堂を一旦解体して建て直すことは難しく、もしそのような好みならば重ねて申し出ること。』とある如く、古文書が読めない無能者、細見・山岸の僻見と、中井役所が高木に下付された前述の許可条件とを比較すると、「格別につき許可云々」は、本山西本願寺御門主の別院である特別の配慮であり、それでも頑なに法度違反と決めつける細見・山岸の捻くれた判断が正しいとしても法律違反と知りつつ幕府がこれを許可する訳もなく、況(ま)して上納金納入の「こじつけ」は、やっぱり木端役人と首肯できる所以である。

      ◆ 古文書調査の人選を誤った蹉跌 ◆

 〔自分の無知を自覚することが真の知に繋(つな)がる出発点(無知の知)である〕という自己反省を何処吹く風と細見・山岸による調査の遣り方は、『(高木家の)室に入り、(そこにある)矛を操る』〔つまり文書の内容を捏造して事実を捩じ曲げ、それが障壁となって文書の裏と行間が読めない嘘偽りの調査手法〕を事前に察知した成果と、亡父の遺言とが両々相俟(ま)って毒牙にかかった文書は僅少に止(とど)まった。
 
 それでも憶測を逞(たくま)しゅうした偏見と常軌を逸脱した先祖非難は肝心の論点や、本質を蔑(ないがし)ろにした妄評を網羅し、物事の真相や要点を見極める心眼が乏しい固定観念が思考を妨(さまた)げ、縦(よし)んば文字が読めたとしても江戸時代の大工法度が咀嚼(そしゃく)できない不見識が高じて伝統的な先祖の来し方を味噌糞に扱(こき)き下ろし、逆に自分の品位を下げる跳梁跋扈(勝手気ままな振舞い)は、文化財保護の職にあり乍ら既成の文化まで否定する獅子身中の虫に凋落した醜態は実(まこと)に嘆(なげ)かわしく滋賀県の恥である。

 このように細見・山岸は、先学の吉田説に迎合し、普遍妥当性の幕府法度を歪曲してまで先祖を貶(おとし)めんとする謀略を拱手傍観していた訳でもなく、執筆責任者・村田信夫に冤罪擬(まが)いの不当・不合理な部分を訂正する旨の書状を送付したが、馬耳東風、当方に対する罵声は、
『今は(現在は)何を書いてもええ(よい)のと違うのか』と、雪駄の土用干しでもあるまいに偉ぶった独(ひと)り善(よ)がりの一喝は取りつく島もなく、突慳貧(つっけんどん)な応対は、当方の真っ当な申し入れに対する当意即妙には程遠い気違い沙汰であり、役人根性を丸出しにした目に余る所業以来、意思の疎通を欠くこととなった。

 其(それ)につけても村田信夫の公権力を盾にした言いたい放題は正道を歪曲し、思い上がった傲慢は次元の低い難癖に他ならず、
『一旦のせた(掲載した) ものは変えられへん(変更不可)の有りったけの無様(ぶざま)な抵抗は児戯に等しく、笑止千万・鳥滸(おこ)がましい偏狂者と揶揄嘲弄して尚、余りある。これが立場を変えて(村田が)当方と同じ憂き目に遭遇したとき、果たして相手を恨まない自信があるのか、詰問するのも「けったくそ」が悪く、反吐(へど)がでる。

    
 ◆ 本願主による造寺と門徒大工 ◆

 安永3年(1774)より着手された伽藍の改築について、江州蒲生郡北の庄村・浄土真宗木辺派・西照寺住職(本願主)及び門徒総代が、本山錦織寺に提出された口上書によると、
『当寺破損について近年再建を心掛けておりましたが、門徒困窮について見合わせている内に頗(すこぶ)る大破し、拠(よん)どころなく諸方(あちこち)の他力(浄土門では阿弥陀仏の加護による仏果)によって再建致したく存じます。これについて早速に地頭(その土地の小領主)にお願いしたところ、本山のお許しがあれば勝手次第とお聞き届け下さいました。就(つ)きましては以上お願い申しました通り御前様(本山錦織寺門主様)にしかるべく、(そのように)仰せ下さり、御承諾下さいますれば有難く存じます。  以上』
     御本山 御役所
                        (西照寺文書より)

    
 ◆ 本山差し回しの門徒大工と他力 ◆

 以上の本願が適(かな)い、大破した本堂を一旦解体し、間に合う古材は再用、朽損した部材は取り替える計画で高木兵庫は中井役所に申請、同3年9月これを許可された。

 一方庫裏は従来茅葺であったが今回瓦葺に改める解体修理の申請をし、同6年3月許可を与えられた。これについて高木は本堂の願書に、
『西照寺旦那大工、勘七・徳兵衛・喜兵衛』一方、庫裏の願書には『西照寺門徒大工、又衛門・勘七・喜兵衛』と、高木と同宗門の人々の面目を保つ書き振りに言掛かりを付け何事も悪意に解釈する捻(ひね)くれ者、細見・山岸は人間としての普遍的特性を否定した愚考によりこの実態(旦那大工・門徒大工の登場)こそ、高木が没落した証拠と決め付けているが、この表現方法は本山錦織寺より派遣され高木と共動する大工の処遇〔つまずく石も縁の端(はし)〕と各自の人々の地位・立場を慮(おもんぱか)り、加えて高木配下ではない斟酌(しんしゃく)もあって表現上の技巧、つまり本山の御好意に対する『言葉のあや』である。

  
   ◆ 事毎に貶(けな)す度し難い悪趣味 ◆

 俗諺(ぞくげん)に『恥を知らねば恥知らず』(恥を知らないことこそ、実は最も恥かしいことである) これについて奴等の無知を暴露すると、
「高木単独名の申請は西照寺造営で崩れる」と喧伝しているが、そうだとすると申請者は誰なのか?これについて、『西照寺旦那大工』若しくは『門徒大工』の名が見えるが、(旦那大工も門徒大工も同じである)このことは高木の独占的支配が薄れてきた可能性を窺(うかが)わせると、先祖を虚仮(こけ)にする一方で、この時期他寺の造営は高木単独で申請の授受を行なっている。と本件のみ特別な事情であったことを塾知し乍ら、『このように実働大工の力が強い場合、〔西照寺の場合、門徒大工という呼称からして大工の個人的な力ではなく、教団の力を背景にもっていたのではないか〕それで申請書に名を出すようになったものである。と、自己の無知蒙昧を丸出しにしているが、高木文書で見る限りあくまで申請人は高木兵庫であり、申請書の表書きにも『大工・高木兵庫へ』と明記された大工頭・中井氏筆のものを私が保存している。

 以上の如く下種の勘繰り(細見・山岸による先祖の扱き下ろし)は、西照寺造営に次ぐ
『安永8年の円満寺造営以降は、高木単独名での申請は多数見出せる』と、手の平を返す戯(た)わ言を並べて先祖を愚弄しているが、もう少し大局観が持てないものか?この程度の不見識をぶら下げて糞生意気に先祖を攻撃するバカの一つ覚えは止(とど)まるところを知らず、益々自己顕示欲を助長させる馬鹿げた愚考と化し、取るに足らないど素人と揶揄されても尚、余りあるが、いくら反り返って威張ってみても所詮素人は素人でしかあり得ず、傍(かたわら)に人無きが如く度が過ぎた先祖非難は客観的実在性の欠落した単なる寝言以外何物でも無い。 
PN   淡海墨壷