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2004年5月12日
高木敏雄HomePage

虚偽という付会の陥穽

宮大工 十四代 高木敏雄

      ◆ ま え が き ◆

 表題の「陥穽」とは、落とし穴、転じて「他者を失格させる謀略」であり、同義語として、『人を傷(やぶ)る(傷つける)者は、己を傷る』という名言もある。今般、県教委による、謂われなき付会(こじつけ)の説は、当に(まさに)中国の名言、『蜀犬日に吠ゆ』に充当するもので転じて、「見識の狭い者が他の卓越した人の事を疑って、非難攻撃すること」の喩である。
 注 蜀犬とは犬の種類ではなく、中国四川省に存在する「蜀」という村落
 の飼い犬のことで、この地は四周の山が高く且つ雲霧が多いので、太陽を
 見ることが少い故、偶々日が出ると犬が怪しんで吠えることの故事によ
 る。

 近年頓に増加した公衙の無謬神話脆弱化に伴う、人間の尊厳を無視した高木非難の内、(前述の弘誓寺本堂建築願に関する毒筆に次いで)本願寺八幡別院(近江八幡市)本堂修理願に関する論理の体系や、その包括性を欠いた異説に対して、既刊の拙文とは角度を変えた視点からこれを検討してみたい。

     ◆ 修理完成年月の誤謬 ◆

 元来建物の造営年月の決め手となるものに、棟札、墨書、造営関連文書に次いで、副次的なものとして、瓦の篦書き、飾り金物の刻銘が判断基準となる。ここに考察する本願寺八幡別院(金台寺)堂宇は、(寺伝)文禄元年(1592)現在地に移り、以後の営繕記録については残念乍ら不明とされているが、移転より約百年を経た元禄7年(1694)、高木日向は、京都本山ご門主のご下命によって、既存の旧本堂桁行方向に1間半の継ぎ足しを含む解体修理の申請をしたが、京都大工頭中井家は、当時幕府の厳達(建築制限)に鑑み、原則として増建は不可であるが、門跡寺院であるので特別に許可するとし、「但し壊して建直すことは難しい」と、非解体修理(当時の表現では建乍ら修覆)の条件付き許可となった。
                  (元禄7年申請書と裏書許可書)

 この許可条件に対し彼等は、中井家による「理の当然」即ち、「由緒格別に付、許可云々」を、常套の手段で歪曲し、半可通で散々高木を非難した上で、『上納金が動いた』と、建物所有寺院に対しても誠に非礼で、浅ましい懐疑的な揣摩憶測の暴論を、臆面もなく卑劣にも報告書に公表して憚らないが、兎に角も本堂については修理を、付属建物三棟は新築で、申請より6年後の元禄13年(1700)9月10日、本山ご門主のご下向があり、落慶法要が行われた。

     ◆ 修理完成と、宝珠の寄進 ◆

 そもそも、社寺建造物営繕に伴う竣工年月の決定は、「社」にあっては遷宮を、「寺」の場合は本尊遷座に伴う法要を拠りどころとし、それぞれに造畢(ぞうひつ)(造り終る)と決めるのが通例である。

 ところが本件の場合、宝珠に刻まれた年月自体が、そのまま直ちに工事完了年月の証しとなり得るか、否かについて、当該本堂縁高欄擬宝珠には、『享保元年(1716)11月』の銘があり、県教委では、これに心酔して安易に採択し、「このとき修理完了」の誤認なら未だしも、「再建完了」(修理許可で始まった工事が何故再建なのカ)と、漫然とした決定をし、二重の不手際を演じたことが、そもそも蹉跌の始まりである。

 この洒落にもならぬ、徒矢疎かな決定を敷延して述べると、つまり、宝珠の製造年月、または寄進年月の表示に眩惑されたものであり、それを筆者が頑なに否定する理由とは、宝珠の年月(1716)自体、前述の落慶法要(1700)、即ち修理完了よりも16年後に寄進されたものであり、県教委が主張する修理完成年月と、その後の宝珠寄進の年月とを同時期とするには根本的に無理があり、別して、その重大な意義が、筋の通らぬ大誤算では、両者(修理か再建か)を比較考量する以前の自明の理であり、この県教委の決定は、事実とは著しく乖離した、整合性を欠いたものといえる。

     ◆ 虚偽の申請と嘲罵された素因 ◆

 『月を指(さ)せば、指(ゆび)を認む』つまり、この文意は、「肝心な事は一切理解しようとはせず、実にくだらない不必要な事のみを、彼れ此れ詮索すること」と、解することができる。このように重箱の隅を楊子でほじくるが如き皮相的な行為は、取りも直さず高木忌避と増悪に誘因するものと考えられ、前述の如く事実を封殺した上で、空想と虚妄が混在した虚構(つくりごと)に対し、先祖に成り代って、客観性を担保した上で、彼等による不毛な論述を喝破し、ここに死中に活を求める意を決した。

 そこで、本項最大の関心事である『何処が虚偽なのか』について、熟々その素因を想起すると、当該本堂が指定建造物と認められた昭和48年6月、当時、寺院には造営年月を裏付ける資料がなく、高木文書またこのとき未公開の事態であったので、止むなく八幡町史を引用し、『高木文書に元禄7年本堂修覆の記述があるので』と、ここでは修理を認識し乍ら、一方では宝珠の銘に惑溺して、『享保元年
再建が完了した』と、首鼠両端を持した捩れ現象の杜撰な決定となった。

 翌49年正月、当寺院より「関連文書なきや」の書状が当家に届けられ、それを見分した当時の県文化財係長は、「あんなもの修理の文書だ」と存外な回答をされた。これについて高木文書(私文書)を信じるか否か、それは各自の感性の違いで自由であっても、京都大工頭中井家の修理許可条項までも疑い、諸般の故実を無知の状態で「このとき再建」?の決定は滑稽さえ感じさせ、迚も同日の談ではない論外である。

     ◆ 一年余で本堂再建が可能か、◆

 それについて、最近の同本堂修理(平成13年完)工事報告書には、これより先『高木家の系譜とその作事』(昭和62年3月)の虚誕の論述を、党同伐異の主義からこれを鵜呑みに信用し、
 『当時同様に高木が関わった工事において、修理と称して新築する例は、弘誓寺本堂にもあったことから、修理とする願書は、実際は新築を目論むものであった』そして、
 『元禄7年には本堂修覆(実際は新築)を願い出て許可され、すぐ工事に着手、切刻み、建方、小屋組も完了、翌8年には屋根は土居葺完了、床を張り、入側三方には建具を入れた』
と、賢しら知識で大言壮語するが、そもそもこれ程の大型本堂が僅か「一年余りで建具まで建込んだ」だけでも神業というか、驚愕に堪えない事なのに、彼等の工程表?には旧本堂の解体期間を算入しておらず、取り分け当初計画は、新築ではなかったにせよ湿地であった為か、一旦本堂を解体して、地形全体を二尺ばかり築上したいという計画であった為、新築と豪語するのなら、その盛り土に次いで、当時では「千本搗き」と称する柱下の地固めの後、土が締まる期間を待ち、次いで礎石据え付け等の工期をも加算せねばならず、再建(新築)とすると、僅か二年弱の短期間では到底無理があり、矢張り修理である。それでも頑なに自分の主義主張するのは勝手であるが、このような収拾不能な不条理は我等の辞書には無く、拙稿『特集金台寺非再建論の内、修理説を肯定する拠りどころ』に、7項目に亙って反論した。

     ◆ 本堂の用材調達について ◆

 『鹿を追う者は山を見ず』、当該本堂修理工事報告書(平成13年3月)の執筆責任者は、頑迷に『元禄再建』を根拠もなく主張し乍ら、一方では工事期間が僅か一年余りで一応の完成をみたと、辻褄のあわぬ事をうそぶいて憚らないが、このとき修理とする高木文書を「虚偽の申請である」と、自信有り気にこれを広言した新築?に要する木材が、注文量の多寡に拘らず、よもや当時の材木商の店頭に、既製で陳列されている等と考えているのではあるまい。

 それは現在、一般住宅の新築ならば、既製品を短期日で揃えることも可能であるが、これが、寺院本堂となると、間口寸法によって各部材の寸法は異なり、材木商にすればそれらの寸法を予知し、挽立て材として顧客を待つことは「百年河清を待つ」如く不可能である。故に社寺特殊寸法の別誂えは、大工が材木商の木場に赴いて、原木で選出したのち、それぞれの馴染み(親しい)木挽きさんに依存するのが一般的である。

 それらに即応すべく、当時では三職(大工・杣・大鋸)の職制があり、取り分け本堂等の大材・長尺の調達はすでに作成された『木寄せ』(材料明細)を基いとし、山中に分け入った棟梁の目通しにより杣職によって伐採され、杣道(木馬道)まで引き出される。

 このような調達の過程で、因みに当本堂の場合は主要円柱だけで(来迎柱を除く)38本を必要とし、特に高木式は耐震に重点をおいた「立ち登らせ柱」方式となる為、原木の木取りは長さ26尺(8米弱)の長尺となる。但し、その材種は、真宗寺院では金箔で荘厳されるので、38本全部が欅柱とは断定できない。

 一方、山で選別された原木は、木場に運ばれ、水中に漬けて乾燥を待つ。水に浸して乾燥とは可笑しいと思われるであろうが、この手法は樹液を吐き出すのが早く、結果として効果を強める。

 これが欅(広葉樹)の場合は乾燥が不充分であると、製品にした後で狂い易く、そのため最低三年は水中に浸すことにより一層素直になり、次いで陸に揚げて雨ざらしにし、辺材(白肌部分で径の2割程度)が腐って(爪をたててボロボロとするくらいになって)から、大鋸(木挽さん)の出番となる。

 余談乍ら、私の幼年期には自宅の仕事場に木挽さん三名が常勤しておられ、木挽頭は同町内の「善介」という人で、私の知っている通称「木挽の善サン」は、現在県指定となっている当該寺院表門(高木但馬作)の巾広扉板を挽いて当時美談となった代々善介さんのご子孫である。
                     「高木六代目兵庫雑記より」
 私が大工を習い始めた昭和15年頃は、西沢さんという木挽さんが常勤しておられ、前述の『木の話』は、休憩の都度「お談義」として同氏に教えて戴いた受け売り話である。それについて「明治以降は製材鋸があった筈だ」と異議があるでしょうが、高級上質材ともなると文明の利器も木挽さんの「墨かけ」には勝てなかったようである。その他、直径2尺以上の柱ホゾともなると、大工の鋸では挽くことができず、木挽さんに援けて戴くなど、私と木挽さんとの交りは、昭和55年頃まで続いた。

     ◆ 観念と事実との不一致 ◆

 私の余計な懐古談で迂回したが、肝心の工程の本質、即ち、彼等が根拠もなく一年余りで修理ではなく再建が完了したと豪語する虚誕の説と、私見、欅用材調達期間だけで合計五ヶ年に、木挽さんの手挽き期間をも加算したその是非について比較思量するまでもなく、修理工事報告書の執筆者は、この両者の違いを如何説明するのであろうか。多分、手足れの同職の人々ならば抱腹絶倒されるであろう。

 これについて、『一頭狂えば、(連なりを乱せば)千頭の馬が狂う』と、先人の教訓を地で行くように、『元禄7年再建着手、23年後の享保元年再建完』の愚論が、徒矢(あだ矢、少しも当たらない矢)となり、これに対する私の主張(正論)は、第一期応急修理工事、(元禄7年着手、同13年完)、次いで、第二期解体修理は、(旧来の角柱を円柱に変える)自、寛延元年(1748)至、宝暦4年(1754)4月、(但し木工事のみ完了)の通算7年の裏付けとなる当家文書を、『こんなもの他寺のもので関係ない』と虚仮にし、この愚挙によって結果としては「千頭の馬が狂った」のである。その理由は前述の如く享保元年新築完成と妄信している以上、「僅か32年後に解体修理などあり得るか」というご託宣であろう。

 加えて報告書執筆者の資質が問われるのは、元禄7年の建築願に付随した、大工頭中井家許可条項まで疑ってこれを虚偽文書と愚弄した上で、私先祖の死屍に鞭打つが如く、同報告書の末尾にこれを掲載した暴虐は、旧時代罪人の市中引き回しの上の「さらし首」と同様の手段であり、人格侵害に抵触する愚の骨頂である。これについて『長鞭馬腹に及ばず』という格言がある。つまり「長い鞭(公の権力)も長すぎては、肝心の馬の腹に当たらない」という、以って瞑すべき名言である。

このように、他者の論述を覗き見した程度の謂われなき高木に対するバッシングは、すでに歪曲された自己の観念(想像概念)に、倫理感の鈍磨が加わって、徹頭徹尾当家の攻撃に専念するが、それは自分を顧みない間に合わせの弥縫の愚策であり、それでも自己はすべてに優れているとの幻想に陥るとき、如何に感懐・知覚より進んだ想像概念でも、軈てその間違った知覚は錯覚に変化してしまうのである。

 人間誰しも(私も含めて)故意に誤謬する人はいないが、それを途中で防ぎ止めるのが知性である。それでも抑止する事ができず、当初は箍(たが)の緩みから、終に底の抜けた状態となり、浅慮によって虚偽の申請をしたと愚弄された濡れ衣や、それに伴う塗炭の苦しみに対して必ずや理性は復讐するであろう。
  注 参考文献
  滋賀県指定(平成13年3月発行)
   本願寺八幡別院本堂修理工事報告書
     滋賀県教委、文化財保護課建造物担当
              副主幹 池野保(氏)

     ◆ 火宅の娑婆を生き抜いて ◆

 少々慎みのない言説で憚りもあるが、一つ覚えの表現方法として、『葬礼帰りの医者話』という諺がある。つまり、お葬式の帰路「別の医師に診(み)せておけば助かったのではないか」等と後悔しても今更始まらないという喩(たと)えであり、所詮は「覆水盆にかえらず」、今後何処から古文書閲覧の要請があろうとも、絶対他者に見せては不可と、妻と自戒の毎日である。

 その濫觴は、中世も終りを告げる頃、江州の片田舎にあって、当時近江の豪族、佐々木氏の庇護により、宮大工として「一衣帯水」、素朴で外連味のない堅実な営為による古文書の類いは、半端ではなく、その量は長持三棹以上に及ぶ。

 今般図らずも、県教委の調査は、如何様な遺恨によるものか、余すところなく事実無根、味噌糞に書き立てられたが、結果としては実効性、公益性共に皆無で、好奇心を煽る隔靴掻痒、空理空論を否めない、天に唾する体たらくであった。
 一方、視点を変えて、寸善尺魔の糞面白くもない現世にあって、元来田舎の母に管理を依頼してあった長持三棹分は口外せず難を免がれ、自宅に保存の半分を、これで全部と見せ、調査の毒牙に罹ったのは僅か一握りで、大難が小難で済んだことは、先祖の必死の加護によるものであった。

 かく申す私は、そろそろ死が垣間見える年令となった。若し生まれ変れるものなら、今度は古文書を引摺る十四代高木ではなく、初代として、敵視されない滋賀県以外の地で、のんびりと、再度妻と苦労してみたい。最後に私の苦悩を察して妻が教えてくれた名句、
    『頼りないのに頼りにされて、
           頼る頼りが頼りない』
この内、頼りないのは私でしょうか。当家文書を「ボロクソ」に書いて「したり顔」をしている県の職員でしょうか。

     ◆ 本堂寸法の事実誤認 ◆

 本願寺八幡別院本堂に関する論述(昭和62年3月)、68頁〜78頁の内「本堂の沿革」の文中に
 江州八幡西御門跡御堂修覆、元禄7年正月の高木文書は、
問題のあるところで、文面では桁行11間半、梁行12間、(当家の文書には御堂桁行十間半、梁行十一間半とあり、因みにこの寸法は修理着手以前の寸法である)が大破したので、これを修覆すると同時に桁行方向に1間半ほどの継足しをやりたいという。

 もし、これをそのままの意に解釈したとすると、
(桁行寸法は1間、梁間0、5間の捏造をし乍ら、何処がそのままの意?なのか)修覆するのはいい(良い)としても、『桁行に拡張するのは不可解である』とし、『現本堂に桁行拡張の痕跡がない』と断言する。

(その根拠として)当時の本堂がいつ建ったのかは、明らかでないが、もしこれを八幡城下町の形成と同時とすると、『当然平面は左右対象であるはずで、片側にしても、両側にしても1・5間は中途半端な寸法となり』拡張後の形が思い浮かばない。

 以上の如く真顔で宣うが、これには矛盾があり額面通りに考えると、当本堂は左右非対象の中途半端な駄作と愚弄されたものであり、今回の発表(S、62年)より10余年以前のS、48年6月、県指定に認定するについて、「価値あるものと認む」とはならなかった筈で、第一、290年以前の既製建物を今更非難すること事体、屋上屋を重ねる不毛の論である。

 現本堂の桁行寸法は、縁柱真々で81・18尺(正しくは80・52尺)あり、1間を6・2尺と仮定
(新築と豪語するのなら、当時幕府の定めた1間は6・5尺である)すると、13・2間にあたる。

  注 高木絵図には元禄7年修理着手以前の桁行は、入側柱間が9間、総
 柱間では10・5間とあり、これが修理に際して入側の外に1・5間の広縁を三
 方に廻らしたので、入側柱間9間+広縁巾(1・5間×2)=12間となり、
 現在も変わることなく12間なのである。

 (ところが報告書には)先の文面では修理完成後の桁行寸法は11・5間+1、5間=13間であるから、ほぼ現在の本堂寸法(独善で決めつけた13・2間)と一致すると、うそぶく。
(これにより、当初桁行13間で、現在も13・2間であるので、始めからか拡張はなかったと愚考した)

 以上のことから、修覆・拡張というこの願書は、実は中井役所に提出する際の便法であって、
実際は新築を目論むものであったとの疑いが成り立つ。修理と称して新築する例は他にもみられ、(例えば弘誓寺本堂)ことに中井役所開設後間もないことを考慮すれば、こういったこともまかり通った可能性が高い。したがって、ここではこの願書は本堂新築を果たすための願とみておく。(以下略)

    滋賀県近世社寺特別調査
     「近江蒲生郡大工組頭
           高木作右衛門の系譜とその作事」

          奈良国立文化財研究所
                 細見啓三
                 山岸常人
              昭和62年3月


     ◆ 結   章 ◆

 以上、彼等の主張は、アクセルとブレーキを同時に踏み込むような暴論で、極言すれば子供でも正否を即答してくれる理屈である。この種の漫罵は氷山の一角にすぎず、B5版140余頁の内、古文書の内容が把握できないままに憶測によって我等の領域に介在し、精随を端倪することなく、事実を誤認した発表をした。
 端的にいえば、江戸幕府の規制、中井家による大工法度の故実を生半可な知識で、侮蔑、悪意のこもった高木扱き下ろしとなり、憤懣やるかたない釈然としないものがある。

 それらはは昭和61年3月以来四回に及び、事実無根の訂正を、請願(文書二回)に次いで直接の話し合い三回に及ぶも、「何を書いても自由」「一旦掲載したものは変更できない」の一点張りの他、虚言もあり、誠意は微塵もみられず、残る選択肢は只一つというのも誠に悲しい窮みである。


PN   淡海墨壷