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2003年3月4日
高木敏雄HomePage

建築願に対する謬見

宮大工 十四代 高木敏雄

       ◆ 序にかえて ◆

 前掲「歪められた実像」の拙論に関わる平成十三年三月、「本願寺八幡別院本堂(以下八幡西別院と略記)修理工事報告書」(滋賀県文化財保護課建造物係、副主幹池野保氏監修)の文中に当該本堂元禄修理に際して高木が提出した「江州八幡西御門跡御堂修復」の出願に対する批判は大いに歓迎するが、その趣旨に暗に相違し、表現の自由を超越した場違いの論述は、当家先祖の人格尊厳を侵す危険を胚胎した曲論による迷惑な記述であるのみならず、これを複眼的な冷静さを逸脱した表現とした揚げ句、剩さえそれでも飽き足りないのか当家には豪も関係なき(法的にも)神崎郡弘誓寺本堂建築願までも半可通な知識で言及し、これも八幡西別院本堂建築願同様の欺瞞的手段の出願であると無作為に決めつけた同報告書の内容とし、これを御一読された諸賢をして「高木の先祖は恰も幕府禁令破りの無法者である」との印象を与えしめる充二分な現前の事実として、公衙の出版物に不実の記載をした。

       ◆ 建築願の意義 ◆

 池野氏はその職権を嵩高に「高木は先ず虚偽の申請ありき」と常套手段の如く軽佻に宣うが、そもそも書状の提出先である京都大工頭中井家が、元禄六年以降は江戸幕府公金で運営さるる公儀出先機関中井役所として成立以降の提出書状は取りも直さず「公文書」であり、それらの熟知どころか組下大工に毎月その法度の様式を徹底指導する責務の大工組頭高木が浮薄に虚偽の申告をすることは、我々在野の者共よりも「止ん事なき御身分」の県職員ならば、その行為の能否は自明の理であるものと考えられる。

       ◆ 官臭の漂う迷論 ◆

 八幡西別院本堂修理願に次いで槍玉に挙げられた弘誓寺本堂(現重要文化財、高木但馬作)は「奈良国立文化財研究所」(以下奈文研と略記)による高木文書調査より一年以前の昭和六十一年三月、一旦県指定建造物となった。それの査定に伴う事前調査と考えられる県の書類には、このときすでに「高木による虚偽の申請」と明記され、不条理で調査音痴な不所存者に暗然たる気分となり、以来彼等を怨敵視するようになった。

 続いて一年後、奈文研細見、山岸両氏によるあの忌わしい高木文書調査があり、一方これに前後して一連の現地調査による弘誓寺本堂造営関係文書のうち、宝暦五年十月付で「高木ではなく」地元大工によって出願された「奉願造作之事」と題する本堂建築願を檢分した調査員は何を血迷ったものか、高木には申請義務がない(そのため願主名は高木ではなく、地元大工名となっている)のを知り乍ら、非現業で知ったか振りの官職特有の机上理論によって、故意に高木を仮想の悪人とし、下卑た攻撃性の高い付会の愚論(高木による虚偽の申請)とし嘲罵する公表とした。尚、山岸氏は前述の邪説を平成六年にも執拗に出版した。
 次いで同十三年三月、今度は県文化財保護課池野氏は修理工事報告書作製の過程で「渇望の書類を捜し当てた」と、前述の奈文研による高木文書報告を無責任に精査もせず、掲載にあたって当家に連絡するといった一片の常識も具有せず、只管承前の形で自己は痛痒を感じない不可知論を厚顔無恥な剽然たる公表とし、「能事すべて終れり」と悦に入った。

       ◆ 弘誓寺本堂普請願 奥書の注釈 ◆

右、図面及び書付の通り住職、講中より地頭(在地の小領主)に本堂建立の申告をして了解を戴きました。
さて、大工に関しては、設計図(積算、木材明細書作成を含む)本棟梁は蒲生郡大工組頭(八幡住)高木但馬が相勤め、諸事にわたって指図を致します。これにより本来ならば高木の方より建築申請書を提出(京都大工頭中井家宛に)すべき筈のところ、高木は蒲生郡大工組であるのに対して、建設地は神崎郡であり大工組が違いますので(当時では法の定めによって、高木の本棟梁的立場に関係なく、申請に限ってのみ地元の大工にその義務がある)私(地元佐野村大工)が助棟梁の立場ではありますが申請人となって、大工組の違う意味(僭越的な顧慮も含めて)を弁明申し上げます。この上は本棟梁、助棟梁の立場の区分を超越して入魂に(懇意に)心を一つにして無事に本堂が建立できるよう努めます。細工してもよろしいか?お伺い申し上げます。

                                                                                 利兵衛(佐野村)
           宝暦五乙亥年
                                                                                  太郎右衛門
                                                                (神崎郡大工組頭)
  中井主水様
                                                                                       (高木家文書)

       ◆ 建築願奥書の質義 ◆
                                        

弘誓寺本堂修理願奥書

 前述の筆者による蛇足を加えた奥書の注釈によって明らかなように、神崎郡に存在する弘誓寺本堂造営に際し、寺院より白羽の矢を立てられた大工組頭高木但馬は幕府の大工統制組織による蒲生郡大工組であることから、本棟梁という肩書きや職責には一切関係なく地元の大工が申請をすることと定められており、従ってこの種の申請業務に関してのみ、高木にはその義務はないのである。

 このような法の定めるところにより、宝暦五年(1755)十月付で高木ではなく「地元大工」が建築願を京都中井役所に提出した裏書(裏判と称し、中井家当主による許可条項)が同寺に保存され、県の関係者はこれを検分しているにもかかわらず、奈文研の細見、山岸両氏による昭和六十二年三月、「高木作右衛門とその作事」106頁、弘誓寺の項には、

「建立願書には本棟梁として高木但馬をあげ、それに神崎郡大工組の
 佐野村利兵衛、塚本村勘兵衛を助棟梁にすえている。そして組頭太郎右衛門も
 連署する」

と記され、ここで地元大工二名が登場するものの、この人々の立場は助棟梁とあるのみで、当本堂の建築申請人であったとする説明はしておらず、つまり細見、山岸両氏の眼中にその認識はなかったといえる。続いて、

「然る上は本棟梁、助棟梁の差別を互いに相守り入魂につかまつり、
 無事に建立これあるようにつかまつり候」

とあって、地元大工と高木が相協力して工事を行うことを約している。(と、ここまでは普遍的に読解している。)
 ところが、誠に惜しみても余りあるのは折角ここまでは即実的に事理を理解し、一廉の研究学者を標榜していた両氏が突然に豹変して、

「しかし乍ら、神崎郡、蒲生郡と大工組が違い申し候に付とわざわざこれに
 前文をつけているところをみると、その経緯は必ずしも平穏であったとは
 いい切れない」
と揣摩臆測によって事実を歪曲し、両大工組が工事着手以前から恰も犬猿の仲であったが如き常套の表現とするが、これらは地元大工が申請人であった等とする専門的な見識は毛頭なく、一途に高木が申請をしたとする軽薄な誤断によるものであり、更に明確な事実はその書状の末尾に地元大工とそれを保証する神崎郡大工組頭の名はあっても、高木の名は書かれていないのを知り乍ら、それでも「高木が虚偽の申告をした」と無頼漢の如き言い掛かりに終始一貫する。

 総括していえることは、幕府法度の精髄の一部ともいうべき「郡外での作事は不可である」の法令の誤断による先入観が絶えず底流をなし、「高木は押しなべて禁令を破っている悪逆人」と、彼等の逆鱗に触れたことがすべての実情の直視を見誤り、それに官人特有の倨傲も加わった放逸な邪論は、私の先祖を完膚なきまでに冒涜した未来永劫、彼等に対して怨嗟の消えぬ不実記載にまで発展した。
 今少し表現の自由を超越した非人道的な記述や、書かれた側の忖度もしない不徳義な専断に至る以前に活眼を開かねば、本質(特に江戸時代の広範、多岐にわたる法度)を見極めることは到底無理であり、この程度の調査報告では隔靴掻痒の感は否めない。

       ◆ 文化財保護課の次元と帰謬法 ◆

 前掲の如く県の文化財保護課の一部の関係者によって味噌糞に書かれている私先祖の駄作まで含めてと厚顔なことをいわないが、往時の匠が名もなく、貧しくとも「仕事」即ち、その事につかえることによって「モノづくり」としての腕を磨き、生命を賭し、心血を注いで生産した「モノ」は、彼等先人の営みの証左として見事に存在し、それは軈て価値あるものとして、県指定、重要文化財建造物に認定される。

 しかし乍ら、一方では戦後の教育理念の廃退によるものか、それらを調査する人間の心も頓に荒み、妬みか、嫉みか陰湿な輩が希に存在し、死馬に鞭打つが如き悪化の兆候が顕在する。

 それは畢竟するに、一つの物事の解決にあたって旧時代のことなどは一知半解の状態で、当て推量で物事を解決し、折角具有する蘊蓄を傾けようとはせず、残存する古文書にも公権力を援用して難癖を付けた上で、仮想の悪者を演出することにより、文化財の保護を標榜する立場の人間までもが窮余の一策として、本来ならば自己の責任なのに他人の所以としそれで心理の安定を計ったなどと大見得を切る。
 例えばすでに説明した如く本願寺八幡別院本堂の平成十三年三月の修理報告書作製にあたって、これより先、昭和四十八年県の指定となり、以来県による元禄再建説、及び、高木文書による修理説とが並立していたものを県の池野氏は、党同伐異の方策で従来の元禄再建説を主張し、一方高木文書による元禄修理説は虚仮にしてその矛盾を解消した。

 ここまでは見解の相違とやらで、この手法が県の次元というものであろうが、その決定の不得要領は「高木文書」は虚偽の申告書であると池野氏は決めつけ、前掲の奈文研による無知と誤断による荒唐無稽の記述を鵜呑みとしたのみならず、高木による虚偽の申請を立証すべく本堂の桁行寸法を改竄して辻褄合わせとした事は前掲のHPで述べた通りである。

 ちなみに帰謬法とは「背理」(道理に反くこと)であり、池野氏によって二米以上もの寸法を誤魔化した報告書の発行も過去にその例を見ず、それでも「お上の決定」は正しいのか?お陰で当家の文書は紙屑同然となったが、そんな価値のない高木文書の写真をそれでも報告書の末尾に掲載しているのは無実な先祖に虚偽の申請であると嫌疑をかけたことに対する良心の呵責であろうか、何れにしても捏造した不誠実なものは血税による保存修理の報告書にはそぐわない。
                                                                                                                        
     ◆ 修理工事報告書に対する祖述 ◆

 寺蔵の八幡別院に関する高木家文書には、元禄七年の「江州八幡西御門跡御堂修復」がある。これは本堂修理願書の写しで、内容は、本堂の柱が「所々」腐朽したのでこれを取り替え、さらに桁行方向に本堂を一間半拡張したいとするものである。しかしこの願書については既に問題点が指摘され、それによると、

 1 現本堂に桁行拡張の痕跡がない。

 2 近世において基本的に左右対称の浄土真宗本堂の桁行に一間半
   拡張することは、中途半端な平面となり考えにくいこと。

 3 願書に記された拡張後の桁行寸法は十三間で、これは現本堂の側柱真々
   寸法を一間六尺二寸と仮定すれば十三、二間となって、ほぼ現本堂に一致すること。
 4 当時、同様に高木家の関わった工事において、修理と称して新築する例は、
   弘誓寺本堂にもあったこと。

以上のことから修復とする願書(元禄七年に高木が提出した願書)は実際は新築を目論むものであった可能性が高いとしている。

 以上の如く、元禄七年高木が提出した建築願について、「問題あり」と慢心の自信で公刊の書物に興味半分で当家先祖を揶揄する目的で指摘された四項目について、これを「他山の石」とし乍ら祖述の上、私見と対比してみたい。

      ◆ 2 について ◆

 当本堂に「1,5間拡張することは、左右非対称な中途半端な平面となって考えにくい」と、着工直前ならいざ知らず、以来三百年も経過した平成十三年現在、御高説を頂戴しても「如何とも致し難い事」であるが、当時に於て本山御門跡の御下命を拝受した大工としては至善の営みであり、それの具現にあたって、当時では3間梁以上の建物は新築を禁じられている法令なども充二分に考慮した上で、あくまで修理の工事であったと懐古し、結果としてその作品が駄作であっても現在では県指定建造物ともなり得た先祖の心血を注いだ建物に対する以上の指摘は迚も老婆心とは理解し難い、官人特有の不遜の論述と考えられる。

     ◆ 3 について ◆

 高木文書によると、従来10,5間であった本堂を、元禄修理に際して1,5間継ぎ足して合計桁行12間にしたいと出願し、結果として解体は不可であったが、増建は許可され、現在は「入側柱間9間+広縁(1,5間×2)=12間となっているのは、現前の紛れもない事実であるにもかかわらず県の池野氏は、如何なる理由によるものか、桁行寸法を誤魔化して「願書に記された拡張後の桁行は13間である」と誤った愚論を展開した上で、
 「これは現本堂の側柱(縁柱から同柱まで)の真々寸法を、1間6,2尺と仮定
 すれば13,2間となって、ほぼ現本堂(実際は12間である)に一致する」
と独善的な無味乾燥の計算をして嘯く。

 ちなみに現本堂の縁柱真々は実測で80,52尺で、12間で計算すると6,71尺となり得るが、これを池野式計算法13,2間とした上で、(1間を6,2尺と仮定すればとあるがこれは間違いで、実際は6,1尺となり)先の1間の誤りに次いで、これも誤りである。

 この6,2尺、または6,1尺の錯誤もさること乍ら、重大なことは、当時幕府の定めた1間は京間寸法の6,5尺であり、間(けん)に換算するときは当然6,5尺の基準で計算すべき筈なのに、無理矢理6,2尺で計算したら、偶然13間に近似の数字となっただけの事である。

 註 私の見解では、縁柱真々寸法80,52尺÷12間=6,71尺となり、(全桁行寸法の平均値)一方、入側柱間61,76尺を9間で割ると、6,86尺強となって、両者共に京間寸法より遥かに大きな寸法となる。これが県の池野氏が指摘する「元禄再建」とすると、中井家では、これより先の建築制限令発布にあたって1間は6,5尺と定めており、これに対して当本堂の1間は平均値6,71尺、入側柱間では同じく6,86尺である現実は、元禄は修理であったとする明らかな証拠であり、県の池野氏の主張通り再建であったとすると基準の1間は6,5尺として現存している筈である。

 少し迂回したが、更に不可解なのは事物の究明の原則として(3)に記されている如く、
 「拡張後の桁行寸法と、現本堂のそれが一致する」とあるが、これは誠に可笑しい論理であって、この両者の寸法が同一であることは子供に質問しても即座に答えてくれる至極当り前の愚論であり、寧ろ拡張以前の桁行10,5間と、現本堂の12間の寸法差について争うのが賢者の筋道である。ところがこれを究明すると(12間−10,5間=1,5間)となって彼が主張する「1,5間の拡張は名目だけで実際は拡張がなかった」とする主張がくずれるのである。

     ◆ について ◆

 1  「現本堂に桁行拡張の痕跡がない」
 
  「高木が修理と称して新築する例は弘誓寺本堂にもあった。」
  「以上のことから修復とする願書は実際は新築を目論むものであった可能性が高い」
  「元禄七年に本堂修復(実際は新築)を願い出て許可され、すぐ工事に着手、以下略」

 以上の如く、自己の計算違いは棚上げとして当家の事のみあげつらい、「1間半拡張したい」という申請とすれば、中井役所では修理の名目で通用するとし、実際は新築であるので勿論拡張の必要はなく、従って「桁行に拡張した痕跡がない」となったもので、結果としては「修復の名目で申請をし乍ら、実際は新築であった」つまり高木は事実を偽った不正な申告であると、流石は県の役人らしい底意地の悪い発表をした。

 このような懐疑的で次元の低い卓上論でも過去再三にわたって抗弁したので、最早ここでは割愛致します。私は敢えて議論そのものを否定するものではなく、むしろ互いの持論を諤諤と口角泡をとばして議論し、練り直した結果重要な真理が顕在化し、それを江湖に発表してこそ文化が生まれるものと考えております。

 彼等は「大工風情奴が」と愚弄し、重要な事物を歯牙にもかけず、その段階を踏まえることもなく、挑発的に「高木は中井役所に対して欺瞞の申告をした」と公表されては、その文化の破壊者に対して残念乍ら議論から論争に転じ、その為に互いの論駁による証拠の明示が肝要と考え、それの提出を要求するも相手はこれを一切無視し、勿論それらを収奪されない為には何よりも知識(江戸時代の大工支配、幕府法令など)が必要であるが、卑劣にも相手はその要求には一切応じない。

 奈文研による「高木文書調査報告」はB5版で140余頁に及び、その内、県指定八幡西別院本堂、重要文化財弘誓寺本堂、未指定矢川神社本殿の究明が終わったところで、引続きその他の事実と相違する不都合な論述に対して生ある限り究明し、それが不実の記載により鬼哭啾啾の先祖に対する何よりの供養と考え、併せて前車の覆轍も私の責務と考えております。

PN   淡海墨壷