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2009年1月16日
高木敏雄HomePage

事実を改竄した僻見と、理性の欠落

宮大工 十四代 高木敏雄
 
 
  ◆ 国粋の保存と、破壊された歴史的事実 ◆

 良くも悪しくも先祖の来し方を『ボロクソ』に書けば事が足ると有りったけの自己主張を重んじ、身の丈(たけ)を顧みない吉田・細見・山岸の傲岸不遜・悪態嘲罵は、如何なる遺恨に拠るものか?先祖に対する逆恨みは侮蔑・冷罵と化し、剰(あまつさ)え人格まで否定する独善(自分だけは正しいと信じて客観性を考えないこと)や、有心故造(心中に企みを持って故意に行なうこと)は、先祖を謂れ無く味噌糞に書かれた子孫にすれば、必然的に先祖に対する供養も含め、不倶戴天〔命を賭(か)けて報復せねば止まない〕宿敵に値する。

 その愚にも付かぬ事由は、「当家文書を調査して欲しい」と依頼した覚えもなく、只管(ひたすら)嵩にかかって権力を行使し、事実無根、冤罪紛(まが)いの中傷は、有るか無しの肩書に惑溺し、中傷的可能性に過ぎない付け焼刃の知識で臆面もなく、自己はこの世で至高であると錯誤し、江戸幕府の法度について最早秋霜烈日の金科玉条(重要な法律)が空洞化した現代に於いて、概念すら認識しようとはせず、私の入院中もあって一部たりとはいえ折角開示した文書を捏造し、当方の善意を仇で返すという人間味の欠落した手法は、本質を論じる以前の問題であり、常軌を逸した沙汰の限り(言語道断)である。

 その間違いが少なく無い馬鹿げた調査について、大所高所から眼光紙背に徹するまで熟読し、その過程で得た結論を的確に表明すべきところ、細見・山岸は飽くまで主観的な筆法に終始し、先祖が弛まぬ努力で積み重ねた犬馬の労を写実的・具体的に表現することなく、感情の赴くままの攻撃的な敵視調査は代々の先祖を屁理屈で撫(な)で切りにし、逆に自己の無能を自らが曝(さら)けす出す体たらくとなったが、この程度(道理に外れ、人情味の無い)の偏見と無知では迚(とて)も迚も専門知識を踏まえ、観点に立脚した批評とは世辞にも言い難く、真理の追及は鯱(しゃち)立ちしても覚束ない。

 それらの根源は、持ち前の不見識によって文書の紙背が汲みとれず、必然的に読解力の欠落が障壁となり、挙句の果ての筆誅は先祖に対する増悪の念と道理を逸脱した感情を剥(む)き出しにし、事実無根・非人間的な侮辱は止(とど)まるところを知らず、洗練の欠片もない陋劣な誹謗中傷は、権威の濫用と認識が不足した愚の骨頂に他ならない。

   
 ◆ 冷飯から湯気が立つ奇妙な病弊 ◆

 以上の如き枉法(私意を以って法の正理を歪曲する)は、人間性を根刮(こそ)ぎにした臭いもの身知らず(自分の欠点に気がつかない)細見・山岸による先祖攻撃の冒頭に、
『高木の先祖が獲得した大工職は常に安泰であった訳ではなく、慶長16年(1611)には(地元大工)又太夫と相論があったことが知られる』と、真偽を確かめる根拠・証拠もなく、ど素人が知ったか振りで虚構・虚誕を抜け抜けと公刊物に撒き散らし、杜撰な断定(真偽を迂闊に決めつける)に終始する虚仮威し(こけおどし)は、見かけは立派でも内容は実に下らないことを飾り立てる匹夫下郎の愚考では残念ながら、いくら鯱(しゃち)張っても蟷螂の斧の如く然(さ)したる成果は望めない。

  
  ◆ 又太夫による縄張りの侵害と懲罰 ◆

 悶着の根源となった日牟礼八幡宮の神鐘及び鐘堂は、高木初代・兵衛自筆の『八満(幡)御さうく(造工)の覚』に、「かねい(鐘鋳)・かねつき堂、元亀2年(1571)8月より12月まで造工、兵衛仕る」とある通り神鐘の鋳造と鐘堂の造営期間及び、大工名を明確にしている。

 時は移ろい慶長15年(1610)更にこれの再鋳が決定し、大鐘は八日市の鐘大工・市右衛門・三郎左衛門の両氏に、一方の鐘堂は先祖兵衛に依頼された。ところが地元大工又太夫はこれを自分の営業範囲であると主張して譲らず、有ろうことか京都所司代・板倉伊賀守に提訴した。

 これを受理された板倉氏は訴えの趣旨が大工所のことであるので大工頭・中井大和守と合議され、併せて高木には(在宅のままで良いという条件)で、返答書を送付するよう命じられた。

   
 ◆ 所司代に送付した高木の返答書 ◆

(1)江州八幡宮(近江八幡市・日牟礼八幡宮)の大工所(高木が所有する営業範囲)は、代々我等の仕来り(以前からの慣例)であることは、地下(じげ)〔その土地に永住する(八幡山麓)十三ケ村の人々〕や、八幡町中(市制以前の近江八幡町の人々)に、その「かくれ無き」周知の事実であり、その上先祖代々の譲り状(証拠文書)も我等(この複数表現は、返答書筆者の兄弟を示す)が所持しているにも拘らず、(地元大工)又太夫はこれを自分の権利と申し立て、これ以前にもこのような事を申しましたが、徳川政権下(関ヶ原戦以降)になって八幡町の初代代官・井出殿、そのつぎ間宮殿・また権太殿と三代にわたって大工職(前述の大工所が権利化したもの)を我等に仰せつけ下さいました。

(2)特に二代目間宮殿のときは、社人衆(同神社に仕える人々)を呼び出し、また十三ケ村の年寄共を召し出して兵衛(高木初代で、当返答書筆者の父)に仰せ付けなされた事実を紛れなきよう「一札」に書き付けて戴きました。

(3)取り分け(三代目代官)権太殿のとき、彼又太夫はいたづら者(無頼漢)であることから成敗(こらしめの処罰)をすると仰せられましたが、八幡町中、また十三ケ村の者共(仲間)として又太夫を預かり置くという寛大な措置も町中が周知のことであり、以前の如く我等にて落着、(決定し)相済みました。

(4)工匠保護(諸役免除の特権を与えられている)ことに対する(御大工役)の無沙汰について申しますと、我等の親(兵衛)は年令八十に及び、慶長8年(1603)隠居し、以来我等にて御公儀の御役を油断なく仕り、その上江戸・駿府両城の作事まで御役儀を懈怠無く果たしているにも拘わらず(又太夫が)このように申すのは何とも迷惑に存じます。

(5)大御所様(家康公)より八幡宮へ造営費用を寄進なされたとき、御代官・間宮殿がそれぞれ御配分なされ、別当・社人なみに我等にも下さいました。然らば(このような経緯から)この度、八幡宮・釣鐘のいなおし(再鋳)について、これより先元亀2年(1572)の鋳付け(刻銘)にも我等先祖の名「大工・兵衛」とある実証を社人及び町衆、その他十三ケ村の年寄共を召し出して御尋ね下さり、御確認の上で仰せ付け下さいますれば忝(かた)じけなく存じ奉ります。
      (慶長15年) 11月朔日
                 大工(高木)作右衛門  略押
    中井大和守様

    ◆ 中井信濃守に提出した又太夫の請状 ◆

 江州蒲生の郡、八幡の大工所について又太夫は作右衛門に対して不届きな事を申し立て、これについて板倉伊賀守・中井大和守は又太夫の言い分と、高木の返答書の双方を吟味の結果、有り様(実際のことである)と御聞分け(納得)なされ、大工所は作右衛門に仰せ付けなされた事は実証(偽り無きこと)であると断定された。

 然るところ、(そうであるのに)右の大工所、又太夫には権利が無いにも拘わらず色々と理不尽なことを申しかけ、(高木側の)依頼の趣旨は又太夫を曲事(不正なこと)に仰せつけ下さるべく、重ねて(高木の)傍輩衆(仲間)にまで意趣返し(恨みを返す)をした真偽は、この請人の者共を証人として御究明下さい。

 一方、又太夫の悪業を吟味して戴いた過程で(別件の)公方御役儀(国役作事)を懈怠していた事が露見した廉(かど)により、又太夫は入牢(監獄入り)仰せ付けられましたが、それについて(又太夫が) 本来果たすべき義務の代替としてこの請人の者共を御算用(数の内に入れて戴き)無沙汰(入牢中の又太夫が果たせない国役)は、この請人の者共が埋め合せ致します。そのような訳で右に記した通りであります。

    慶長16年亥12月12日
         うけにん          市左衛門(野洲)
         うけにん          右衛門兵衛(蒲生)
         うけにん・神崎のこふり   兵太夫
         甲がのこふり        甚右衛門
         くりもとの郡(栗太)    三右衛門
  中井信濃守様

  
  ◆ 表題まで改竄した自己顕示と撞着 ◆

 前述の請状に『是は慶長16年、板倉伊賀守様・中井大和守様にて相済申すときの請状』という貼紙があるにも拘わらず、これを無視した細見・山岸は
〔これは(高木の)八幡大工口上書控である〕と恣意的に改竄して本質的な議論を有耶無耶にし、加えて肝心の本文を14ケ所も誤読した体たらくが障壁となって裁決の内容が把握できず、それが禍(わざわい)して文言の構成を妨げ、恥を恥とは意識せず、『これは双方の縄張りに関する相論である』と惚(ぼけ)けた感性により(前述の如く)『高木の大工所(縄張り)は常に安泰であった訳ではなく、又太夫と相論があったことが知られる』と古文書の行間すら読めない無能者が、人並に鬼の首でも獲ったかの如く巷間に害毒を垂れ流し、先祖を愚弄することに余念が無い。

 そもそも本件に於ける議論の要点「請状」の趣旨は、又太夫との争いが第一義ではなく、寧ろ当人による国役作事の懈怠が露見したことによる制裁処分が先決であるが、それでも先祖を敵視して止まない細見・山岸は没分暁漢(わからずや)の分際で衒学的に「ボロクソ」に書いて溜飲を下げる浅薄な思慮・判断は、逆に自分が恥を曝すだけと自覚することこそ焦眉の急務である。

  
  ◆ 先祖に対する罵詈讒謗と侮辱の連鎖 ◆

 以上の如く如何なる遺恨によるものか?先祖を味噌糞に書くことを興味本位とし、そのことによって生き甲斐を感ずる偏狂な細見・山岸は止(とど)まるところを知らず、
『高木の先祖は江戸初期に高木姓を名乗ったか否か、少なくとも今回調査した史料では名乗っていない』と、収拾がつかない事を平然と書き捲る奴等の常套的なやり方は、御里が(おさと)が知れる尤(もっと)も卑劣な「下種の勘繰り」と揶揄嘲弄して尚、余り有る。

 これについて『江戸の備忘録』磯田道史氏筆、朝日新聞出版、2008年10月発行の内、『名字をもっていた江戸の庶民』に、「江戸時代の百姓・町人は、多くが非公式に名字をもっていた。名字が名乗れないのは建前であって、領主あての公文書の中で名字が使えなかっただけで、私信を書いたり、寺社に寄進したりするときはかなり自由に名字を使っていた。教科書では、庶民は名字を名乗れなかったように教えているが、実情をみる限り江戸時代の名字制限は緩(ゆる)かったといってもよい」以下略
 註 名字は代々伝わるその家の名で、氏(うじ)と、姓(かばね)
   とを併せた名前と述べておられる。

 これにまつわる真実の事柄として高木文書に、元和元年(1615)4月10日、二代目・作右衛門光喜は、日牟礼八幡宮の地主神・大島神社を造営、これに『大工高木作右衛門』と明記し、「付」(つけたり)として慶長19年(1614)11月から12月にかけて大坂冬の陣に参戦、同12月19日、豊臣氏と和睦の成立をみたので帰郷して当該社殿造営に着手、完成の翌年5月、今度は大坂夏の陣に参戦したと載録している。
 
 一方、県指定建造物・八幡宮大島居の棟札にも『元和2年(1616)10月10日・御大工・高木作右衛門』と記されているが、このように前・後者共に
江戸初期に高木姓を名乗っていなかったのではなく,人並に名乗っているが、この年次について、奈良文化財研究所・細見・山岸の見解は『元和初年(元年は1615)は江戸初期ではない』と咆哮するのか?

 尚、序(つい)でに述べると、何事も横槍を入れる悪趣味の一言居士細見・山岸は、
『高木は直系で継承してはいるが、必ずしも長男が継いでいる訳ではない』と常套的なやりかたで余計な大言を吐いて恥をかいているが、当時代では例えば一子・二子・三子と続いて女子が出生し、四人目に待望の男子が生まれると、(現代では当然「長男」であるが)往時は『四番目に生まれた男子』つまり戸籍上は四男であり、当家では七男が継承した例もあるが、これが古文書の調査と如何様な関係が有るのか?空樽は音が高いというが、馬鹿も休み休み言うのが恥をかかずに済み、「奈良国立文化財研究所」という看板にも瑕(きず)が付かないというものである。
 
            
PN   淡海墨壷