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2011年4月19日
高木敏雄HomePage

幕府の法度と、大工頭の禁令

                    宮大工 十四代 高木敏雄
 
  寛文期(1661〜72)になると五畿内(大和・山城・河内・和泉・摂津)及び、近江に居住する大工は著(いちじる)しく増加の傾向を辿(たど)るのと裏腹に江戸幕府の公用作事が減少し、必然的に個々の大工に重点が移ると、これに纒(まつ)わる紛糾が多発したことから大工頭は『幕府の下知(命令)に叛(そむ)く者は中井支配の外で仕事をするように』と通告する一方、他国大工の入り込みや、素人紛(まが)いの大工を厳しく取り締りしたが、それでも他国者(よそもの)大工は協定を無視して下値(したね)に出るなど、中井家配下大工の妨(さまた)げとなった。

    
  ◆ 大工組の整備と、制度の改革 ◆

 これに対して中井家所属の大工は益々確立の兆しを見せ、大工頭・中井正知氏は固定しつつある公儀の役人として組織の再編を図(はか)り、従前通り大工の動員を命じるだけの遣り方では埒(らち)が明かぬことから、大工組の内部を活性化し、それぞれの営業範囲に基(もと)づく紛争の調停に併(あわ)せて、大工作法や内部の運営を円滑にする規定に改竄された。

      
◆ 幕府による金科玉条と法則 ◆ 

 これに伴(ともな)う幕府老中の法度が中井家を通じて高木家に届けられた。それによると、『この度幕府老中の御下命を上方(かみがた)の大工共に申し付けるべく、大工組頭(高木)と、同年寄を中井家に召し寄せて申し聞かせる。即ち、禁令の条目二通を遣(つか)わすのでこれを毎月組の大工共に促(うなが)し申すべく、若し違反する者は曲事(不正なこと)と見做(みな)すものなり』     中井 主水正  (花押)
     年 月 日
  江州組頭
      八幡 作右衛門かたへ

      
◆ 修理を新築に改竄した池野 ◆

 前述の幕府の命令「梁間3間を越える
新築は不可」を厳守した先例として西本願寺八幡別院本堂の元禄修理は3間梁制限より8間半も超過することから先祖は中井役所に修理願を提出して許可を取得し、制限が解除されるや(縁柱を除く)旧来の角柱を円柱に取り替えた。これについて平成13年3月、同本堂修理報告書(県教委発行・監修・池野保)に、『元禄7年(1694)本堂再建の計画を立て僅か一年後、新築用材の伐採・加工・墨付け・刻み・組立て・上棟を経て土居葺まで施工し、造作は床を張り、側廻りに建具まで建て込んだ』と天狗の孫でもあるまいに一年間で大型本堂が新築されたと豪語する池野の偏狂に空いた口が塞(ふさ)がらない。
                  (報告書・池野の主筆より)

 続いて前述の修理工事報告書3頁に、『高木文書に元禄7年(1694)本堂修理の記があることから、元禄頃より本堂修理または
再建の計画が立てられ、実際は享保元年頃再建が成就したものと考えられる』と、一体全体修理なのか、新築なのか?内股膏薬でもあるまいに、あちらについたり、こちらについたり古文書を虚仮にして恥を曝(さら)しているが、池野の知ったか振りに基づく本堂再建どころか、このとき梁間の制限は解除されておらず、池野による新築説は狐に撮(つま)まれた迷妄に過ぎない。

 以上の如く、惰性が禍(わざわい)して本質的な問題を誤り、それでも我関せずと懸命に赤恥を撒き散らしているが、そもそも古文書の解読は専門職による知識の普及であるべきところ、これを捩じ曲げ、先人の来し方を中途半端な僻見で破壊されては一溜(ひとたま)りもなく、感情の赴(おもむ)くままの誤断に唆(そそのか)されて修理願を侮(ないがし)ろにした天罰により事実と観念とが一致せず、飽(あ)くまで
新築説の強調に余念が無い。

     
 ◆ 理性が枯渇した偏見と恥曝し ◆

 元禄7年、京都大工頭・中井家許可済みの高木文書に対して気違い染みた言いがかりを付け、「然(しか)し、この願書(先祖が中井家に提出した修理願)は既に問題点が指摘されている」と、奈良文化財研究所の細見啓三・山岸常人(昭和62年)は江戸幕府の禁令に言いがかりをつけて糞丁寧に(1)〜(4)に分割し、
(1)現本堂の桁行に拡張した痕跡が無い。
(2)桁行に1間半拡張することは中途半端で考えにくい。
(中途半端は細見の頭である)
(3)願書(先祖が出願して許可を得た修理願)に記された桁行は13間
(高木文書には12間と記す)で、これは現本堂の1間を6尺2寸に仮定すると13.2間となり、ほぼ現本堂と一致するとあるが、本件に限り当時の1間は、6尺8寸余である。
(4)当時、高木が関(かか)わった工事で、修理と称して
新築する例は、弘誓寺本堂にもあることからこの願書(元禄7年・八幡別院修理願)も実際は新築を目論むものであると、素人が無能を棚に上げて憚(はばか)らない。                (修理報告書より)

 以上の如く、嘘(うそ)で固めた迷想に有頂天になり、高木文書を虚仮にして真実を極めようとはせず、肝心の文書の行間と裏面に含まれた意義が読めない奈良文化財研究所の細見・山岸に拘泥した滋賀県教委の村田・池野による先祖非難の根元は、日本語で書かれた先祖の文書を、同じ日本人が読解できない奇妙な偏見に呆(あき)れかえる。

 兎にも角にも先祖に対する怨恨か、埒又(はたまた)池野に対する天罰か、即座に化けの皮が剥(は)がれた意味不明の愚論を究明すると、前述の4項目の内(1)、「桁行に拡張した痕跡が無い」
拡張がゼロであれば桁行寸法は現状の12間ではなく、10間半の儘(まま)である。
(2)、加えて「1間半拡張することは中途半端で考えにくい」と、意味不明の気違い染(じ)みた中傷は生意気に桁行の拡張を否定しているが、尤も手っ取り早い証拠は、平成13年3月の県教委修理報告書に、
本建ち61.76尺の両端に、9.38尺の広縁を加えた桁行合計〔9間+(1.5間×2)=12間と明記され、一方、高木文書(修理願)にも「桁行に1間半継ぎ足して12間にしたい」とある如く、双方共に一致する。

    
  ◆ 自己の墓穴を掘る池野の讒言 ◆

 先祖に対する嫌悪と非難を集中し、人間味が欠落した支離滅裂の誹謗中傷は、自分が正しいと錯誤して客観的に考えることができず、先祖を撫で切りにして悦楽を貪っているが、その独善は大局的な視点で物を見ることを忘れ、自分の思い通りにならぬときは先祖の所為にする他罰的な傾向にあり、折角蓄積された文化の結晶を下らぬ事実誤認によって意図的に貶め、整合性を欠いた空想がもたらした虚構により、奈文研や、滋賀県教委という看板だけで威張ってみても所詮は専門的な実質が伴わず、度が過ぎた人権無視は却って文化の剥奪に繋がり、官人としての権限と、有りもしない裁量の拡大を主目的にした先祖の扱き下ろしは、逆に自分の愚かさを表面に曝け出して恥をかくだけである。

    
 ◆ 見当違いの迷妄と、皮相な駁論 ◆

 池野による先祖非難(1)〜(4)の内、(3)によると、『願書(先祖が中井役所に提出した書状)に、10間半の桁行に1間半拡張すると13間
(正しくは12間)と、計算違いを自負しているが、本願寺御門主の御下命は、桁行に1間半継ぎ足して12間にしたい御希望に対し、現本堂の側柱真々の寸法、1間を6尺2寸と仮定すると13・2間であるので(前述の)13間とほぼ一致する』と、子供でも笑う恥曝しに余念が無い。
この1間(けん)の基準寸法について、昭和48年、本堂他が県指定となると、当院の依頼で1間(けん)の基準寸法によって造営年代が判明することから、先祖筆の平面図と、眼前の1間を調査したところ、
    中の間 27,36尺÷4間=6尺8寸4分
    脇の間 17,20尺÷2間半=6尺8寸8分
であったことから当本堂は江戸時代以前の造営である確信(独り善がり)を得たが、昭和62年以後の先祖非難『この修理願に問題がある』と、高木文書を嘲弄した上で桁行11間半+1,5間=13間と、足し算すら出来ない馬鹿丸出しの珍説は、『1間を6尺2寸
(一般的には6尺5寸) とすると13,2間となり、一方梁間寸法も正論は11間半のところを12間である』と、自慢たらしく強調し、それでもほぼ現本堂と一致すると巷間に公表して徒(いたずら)に恥を恥と考えない能天気の細見は、常識的な論理が通じない馬鹿者と、揶揄嘲弄されても人並に立腹する資格はない。

 以上の如く先祖を貶(おとし)める謀略に対して徒(いたず)らに拱手傍観していた訳ではなく、(当時県教委)の村田信夫に事実無根の訂正を求めたが、
「一旦のせた(掲載した)ものは変えられない。今(現在)は何を書いても自由である」と、柳に風と受け流すど素人村田の非人情的な暴挙は宛(さなが)ら砂漠に水滴を垂(た)らすが如き徒労と、背中合わせの皮相を漂(ただよわ)せる直視不能の盆暗集団による空虚(頭の内部がからっぽ)では暗闇の中の微(かす)かな光明に過ぎず、先祖の正道を歪曲し、否定する下劣な細見・山岸は軈(やが)て正しい道義まで放棄していることに覚醒するであろう。それは自己の保身と、力量が不足した感情論に拘泥した次元の低い論調を恥を恥とも思わず表現の自由とは実(げ)に笑止千万な話である。

 それにつけても高木文書に対する背徳行為の予防として親父の遺命〔長持三棹〕を封印した古文書は絶対に他見を許すなと頑(かたく)なに堅守したことが功を奏し、毒牙にかかった九牛の一毛は物怪の幸いであったが、回想すれば所蔵文書全てを公表しなかった些事(さじ)よりも、古文書を見せる価値の無い有象無象が大半であった事実に慄然とし、背筋が寒くなる省察を覚える。

      ◆ 
地元大工に申請義務がある異例 ◆

 細見の奇抜な判断によると、先祖が中井家に提出した文書は総て問題点があると、「でたらめ」の弥次馬根性(1)〜(4)の内(4)に、「高木が関った工事で修理と称して
新築する例は、弘誓寺本堂にもある」と、誹謗・中傷する細見の無知蒙昧を暴露すると、弘誓寺文書・高木文書(修理願)共に筆者は(地元)神崎郡の大工2名と、同郡大工組頭1名が連署した修理願を地元の大工が中井役所に提出し、許可を入手した。    (高木文書)

     
 ◆ 助棟梁が申請人になった内実 ◆

 地元の大工が許可を得た条文に『大工の職分について設計・本棟梁を八幡の高木が指図を致します。これにより高木が中井家に願書を提出すべきところ、神崎郡と蒲生郡とでは大工組が違うので私共(神崎郡の地元大工)が助棟梁乍ら修理願主となり、大工組の違う訳を立て申します』以下略
              神崎郡大工二名
              同大工組頭一名
     宝暦5年10月
  中井主水様

      
 何事にも難癖を付ける細見 ◆

 細見の中傷によると前述の神崎郡大工が中井役所に提出した後文に、「然る上は本棟梁・助棟梁の区別を守り無事に建立するように致します」とある如く、地元大工と高木とが協力して工事を約束しているが、神崎郡と蒲生郡とでは大工組が違うと、わざわざ前文をつけているのをみると、その経緯は必ずしも平穏であったとは言い切れず、そこに高木一流の政治力が働いたと、知ったか振りで逆に恥をかいているが、大工頭・中井家の法則は、(人員整理の都合上)新築・修理を問わず、例えば神崎郡内の仕事は同郡内の大工が直接中井家に申請する義務があり、新築・修理を問わず先祖の名は不用である。

     
 ◆ 人間性が欠落した盆暗と迷妄 ◆

 宝暦5年(1755)10月、拝領本堂の修理許可を入手したものの、7ヶ月後の同6年5月、先祖は「本堂素建までの平物・角物の木寄」を弘誓寺に提出した。
(1) 宝暦5年10月、    古堂の修理願。
(2) 同 6年 5月     素建までの新築願。
 細見の偏見によると、@は修理願、Aは現存する本堂(新材で拾い出した木材明細書)に加え、残る一方は新材で造営された眼前の本堂について新材で申請すると不許可になる畏(おそ)れがあることから修理の名目に変え、
「つまり虚偽の申請をして許可を得た」と、馬鹿を丸出しにした性悪な細見による意味不明の魂胆(こんたん)は、中井役所の与(あずか)り知らぬところなのか?知っていながら特別に目溢(めこぼ)しをしたのか?・俄(にわか)に決め難いと威勢を張ってみても、所詮は実質が伴わず、細見による先祖の扱(こ)き下ろしは、逆に自分の愚(おろ)かさを表に曝け出すだけであり、「人を呪(のろ)わば穴二つ」葬(ほうむ)るべき穴は二つ必要なことになる。
 
PN   淡海墨壷