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2003年1月14日
高木敏雄HomePage

近世初期の大工役

宮大工 十四代 高木敏雄
 大工役とは在地の領主による自己の居館造営や城下町形成に際し、支配下の大工以下諸職人は好むと好まざるとにかかわらず動員され、その代償として職人保護を目的とした諸役の免除を与えられた。
 江戸幕府も織豊時代のこの制度を踏襲したが、その公用作事には平時に於ける築城及び社寺の造営に動員される「御用役」と、有事に際して徴用される「軍役」とがあった。
 ◆ 織豊時代の公用作事 ◆

 内容の具体性には少し欠けるが、「近江国大工・杣・木挽高御触書之写」(以下略して公用作事一覧、高木稿本)によると、、「信長様御代に御朱印被下候事」と、天正四年(1576)十一月の朱印状下付にともなう安土築城の材木伐出し作事に貢献したことを記述し、次いで天正十一年八月、「太閤様御代に御朱印下さり、その後諸方の御陣所の御役勤め申し候」とある作事の内容とは、、聚楽第造営(天正十五年完)に次いで 、大坂城(豊臣製)築城(天正十四年十月、天守・本丸完)、伏見城造営(文禄三年1594の第二期工事完了に充当か?)、方広寺造営による材木伐出し作事、、秀吉による朝鮮征伐の拠点たる肥前名護屋城(佐賀県松浦郡鎮西町)の造営を述べている。
 註 当城は「、高麗御陣のとき、名護屋に御城しなされ候」云々とあり、
    天正二十年(十二月に改元されて文禄となる)四月、秀吉は京都より
    ここに移り征韓の指図をしているのでこのとき本丸のみ完成し、
    翌文禄二年(1593)五月、ここで朝鮮使節と 一旦和睦をしたとあるから
    遅くともこの年完成したものと考えられる。

    ◆  駿府城築城 9 ◆

 慶長十一年(1606)家康は前年に将軍職を秀忠に譲りここを隠居城と決定、翌十二年正月より第一期工事が始まり七月三日本丸殿舎が完成した。このとき天守の方は石塁のみであり、引続き十一月十八日になって二の丸も完成したが、それも束の間の十二月二十二日失火によって全焼した。

    ◆ 家康による諸役免除と再建 ◆

当時御大工中井大和守正清は、仙洞御所が完成して在京中であったが、駿府城炎上の報に接すると二日後に駿府に下り家康より直ちに再建の命を受け、江戸城作事を一旦中止し、翌十三年一月一日用材を急拠駿府運送に振替るよう諸国の船改めをし、一月八日先ず本丸殿舎急造につき、木材調達を木曽山・熊野山・伊豆山に命じた。
この素早い措置に喜んだ家康は、
「駿府御城始めの炎上のとき、中井大和自ら京都より三日で馳せ着く、御褒美として千石にして下さり(従来の正清の禄高は五百石)その上五畿内、江州六ケ国の大工田畠の高役御赦免「中略」大工の高役成り、六ケ国大工安堵(諸役免除の権利を与えられたこと)の御高恩忘るべからざるものなり」
                                     (愚子見記)
と記されており、同様に高木作右衛門六代兵庫の日記にも、
 「予の家に先祖より所持致し来り候大工高役の儀について御折紙(保証書)
  下され候板倉伊賀守様は慶長年中(1596〜1614)京都所司代の
  節下しおきなされ候ものなり、御名は勝重公と申す御方也」
とある、(ちなみに同氏の所司代在任は慶長六年より元和五年(1619)まで)

 公用作事一覧(伏見城造営の項参照)
「東照権現様御代に御書(諸役免除の保証書)頂戴つかまつり候事」
                                        (高木稿本)
は所司代板倉氏から八幡町在地の代官経由で当家に届けられたものである。
 一方再建工事は焼失後直ちに着手、翌慶長十三年申年(1608)二月十四日、早くも本丸殿舎上棟、三月十一日家康移徒、引続いて天守・諸櫓の構築が進められ、八月二十日天守の上棟式を挙行するに至り、工事は翌十四年にも及んでいる。
 公用作事一覧 
「駿河国府中ニ御城しなされ候とき、申・酉両年(慶長十三年・四年)御普請御役相勤め申し候」                                 (高木稿本)

     参考図書
       駿府築城図屏風の内、慶長期の駿府城
                  内藤昌著より

   ◆  江戸城築城 8・13・16・19・20 ◆

 江戸城造修営に関する公用作事は、高木文書・高木稿本によって整理番号8・13・16・19・20の五件に分類できる。これを年代及び建物別に羅列すると、
  8 慶長十一年(1606)家康による秀忠のための本丸造営
    (同年九月二十三日秀忠移徒)
 13 元和三年(1617)家康の江戸城内紅葉山霊廟造営
    (翌年四月十七日正遷宮)
 16 寛永十一年(1634)七月二十三日夜、西の丸焼失による緊急動員
    (但し本格再建は同十三年中)
 19 寛永十四年(1637)家光による本丸改築(同年九月十九日家光移徒)
    (手直しを含む)
 20 翌十五年寛永造営天守作事、七月着手、同十一月完成、
    (推論ではあるが、寛永十四年九月本丸は完成しており、
    一旦帰郷して翌十五年六月再び下京したものと思われる。

    ◆ 名古屋城築城 10 ◆

「尾張国名古屋に御城しなされ候とき、御材木を信濃国木曽山にて御伐りしなされ候に付、六ケ国杣共御役相勤申候事」
                       (高木稿本の内、 公用作事 10)
 名古屋城は慶長十四年(1609)一月、家康は東海道の要として名古屋に築城と決定、同二月普請奉行と大工棟梁を決定した。材木伐出しは前述の如く二月初めから着手されたものの、同年五月三日「木曽川大増水につき名古屋への材木流水する」との記述によって、木材の現場到着はやゝ遅延したものと考えられる。
 慶長十五年八月末、天守土台が完成して助役の大名はそれぞれ帰国、翌十六年七月には穴太衆が小天守普請に関する扶持を申請しているので、この頃石垣のすべてが完了したことが判明する。
 同十七年一月末、家康は名古屋に入り二の丸新殿を座所として本丸御殿の作事を命じ、五月になって作事(地上建物坦当)奉行衆・大工頭中井正清を交えて上方の職人の作料を決定するも、七月の段階でも前述の理由で材木は遅着の為木工事は本格化せず、八月二十日頃になって釘・鎹の入札があって工事もようやく軌道にのったようで、十一月には大部分の漆喰塗りが終わって、同月二十一日天守上棟、同二十九日天守作事が完成した。
 この天守作事に動員された江州の組頭級の大工は、甚右衛門(甲賀)清左衛門・左衛門・三右衛門(栗太)喜左衛門(野洲)兵太夫(神崎)の名がみられ、元和元年(1615)二月には本丸殿舎も完成して義直が移徒している。

             参考図書
               名古屋築城史料
                     岡本真理子

 11、「禁中様御殿、度々の御普請相勤め申し候」とある御所作事の年月は記述されていないが、序列として慶長十七年の名古屋作事と、同十九年の大坂の陣(軍役)との間に書かれているので、当御所作事は同十八年七月立柱、十一月上棟の内裏作事と断定でき、「江州より大工きも入衆に宛てられた差紙(出頭命令書、旧高木文書)とも符号する。

   ◆  大坂城(徳川製)の造営 14 ◆

 慶長二十年(1615)(同年七月、元和と改元)五月八日、大坂夏の陣で秀頼以下が自害し、焼跡・市街整備が進められ、元和五年(1619)将軍秀忠は藤堂高虎に同城の縄張りを命じ、普請(土木工事)は翌年三月一日より着工した。

   ◆  仮御殿の移築 ◆

 元和八年(1622)六月、予定通り外郭石垣・諸城門・諸櫓などは完成したものの、殿舎は一切建っておらず、翌九年には家光が上洛(将軍宣下)する予定であったためやむなく仮御殿を造営するよう小堀遠州に命じ、取りあえず伏見城本丸御殿の一部を移建した。
 当時の基礎工事の進捗状況は、寛永元年(1624)一月五日天守台・本丸・山里丸・等の主要曲輪を盛土して築き直すことを決定し、翌二年に始って七月一日には作業丁場を引き払うといった状態であった。

   ◆  天守・本丸作事と江州大工 ◆

 これより先寛永元年十二月には本丸の石垣も完成していたので五味金右衛門が本丸と西丸の作事奉行(地上建物担当)に命じられていたが、このとき二条城行幸(後水尾天皇)御殿にも意を注ぎ、同時進行の状態となって大坂城の方は本格的に着手していなかったようで、寛永三年正月になって小堀遠州が天守と本丸の構造奉行に任命されると工事は着々と進み、天守台(基礎石垣)はすでに完成していたので同三年五月十八日、早くも天守の立柱が行われた。
 この立柱直前の四月二十五日小堀氏より江州大工に宛てた書状には、
 「当寅年(寛永三年)大坂御城の御天守・御殿の作事の手伝い(応援)を
  江州にも千石夫仰せ付けなされ候、それについて江州大工・大鋸は
  これを迷惑として訴訟をし、夫役をつかまつらず候、今回の事は後々の
  例にはならないので夫役を相勤め申すべく候、
  先年より夫役つかまつらずの由、北見氏(小堀の前任の近江国奉行)
  板倉氏(京都所司代)の折紙もこの通りである」
                                  (旧高木文書)
との権力を行使した税金の二重払いを強要されたが、結局は(公用作事一覧14)にみられる如く、
 「大坂御天守亥・子(元和九年・寛永元年)両年にしなされ候、則相詰御役相
  勤申し候」
となった。                  (高木稿本)
 尚、これを裏付けるものとして「小堀家譜」には「寛永三年十二月より
翌四年十二月まで大坂御城の天守並に御本丸仰せ付けしなされ候」
とあり、本丸は寛永四年(1627)十二月に完成したことが知られるが、工事期間は元和六年に始って寛永六年に終わっているので通算十年を要したことになる。

      参考図書
        高木関係以外は「大坂城の歴史と構造」
             松岡利郎氏著、名著出版を参考としました。
 
   ◆  二条城 築城 15 ◆

   「二条城御普請丑・寅両年(寛永二・三年)相詰御役相勤申候」
                    (高木稿本の内、公用作事 15)
 江戸幕府による二条城の築城は、当初家康による創建に次いで、二代秀忠の女御御殿修築を経て、三代家光が大改築を行うが、前述の江州大工が動員された二条城本丸作事は、元和九年(1623)将軍の座についた家光が後水尾天皇の行幸を迎えるにあたって翌寛永元年より着手したいわゆる行幸御殿の増築のときに現在の規模に改められたもので、家康による創建時より城域を西方に張り出して初めて本丸が設けられたが、天皇の行幸は同三年九月と決められておりこれによる緊急の動員であったと思われる。

        参考図書
           二条城の内、家康の二条城
                     中林玲著 小学館

 17、18、「勢州(三重県)亀山御城・近江国水口御茶屋御普請しなされ候とき御役」云々とあるこの作事は共に城というよりも将軍上洛時の休息所で、前者は寛永十年(1633)後者は同年六月より翌年正月まで動員されたもので、共に御茶屋御殿と呼ばれるものである。

   ◆  江戸幕府による軍役 ◆

 前述の「高木稿本による公用作事一覧」に私の蛇足を加えた拙文は、平時に於ける御用役を羅列したもので、これに対して本項を終わるにあたり有事に動員された「軍役」の一例について述べてみたい。

   ◆  洛東方広寺の造営 ◆

 軍役にまつわるものとして慶長十九年・元和元年(1614〜15)の大坂冬・夏の陣を惹起した方広寺鐘銘事件の素因となった大仏殿の造営は、豊臣秀吉による初建から、秀頼による再建・再々建に至る経緯の内、その初建に関するものとして、天正十四年(1586)六月、秀吉は麾下の木食応其・寺沢志摩守を通じて二十一ヶ国の給人に対して助役を命じた書状には、
 「大仏殿大工、杣、木挽の事について大和、紀伊他二カ国より諸職人の動員について、よくよく改めた上で召し出すこと」
と前書した上で、下手な大工を代理として出頭させる事を禁じ、また無沙汰の輩(動員の命令に応じない者)は世人の見せしめとして曲事とする旨の恐々たる記述としているが、(蒲生郡志所収)この作事の動員について江州の大工は触れられていないものの、杣・木挽に関するものとして、

 「大仏御建立しなされ候とき、駿河国富士山にて御材木御伐りしなされ候に付、江州・杣共に仰せ付けなされ、当国より杣七十人余り御材木伐り出し申し候事」
                         (高木稿本、公用作事 5)
とあるが、当時秀吉による公用作事はこれより先、大坂城、聚楽第、伏見城と連年動員されているので、今回の方広寺造営に限って大工は免除され、杣、木挽のみの動員となっているが、こののちの文禄の役による肥前名護屋造営に動員されているのは前述の通りである。
   
   ◆  大仏殿の再々建 ◆

 秀吉による初建の大仏殿は完成が予定より遅れて文禄四年(1595)にその完成をみたが、翌慶長元年の地震で倒壊したため、秀頼によって再建に着手するも、工事中に火災で焼失した。
 再々建は同十七年(1612)三月、大仏殿、他が完成、このとき京都釜座住、名越三昌作の大梵鐘も完成した。
 大仏の開眼供養は同年八月三日と定められたが、その鐘銘に不吉ありとの家康の異儀により供養日は延期、これを切っ掛けに事態は大坂の陣へと向かうことになった。
        
             国史美談中巻 北垣恭次郎氏著 所収 大正八年三月

   ◆  大坂の陣と江州大工の参戦 ◆

 「大坂御陣寅、卯、の冬と春両度の御陣相勤め申し候、権現様(家康)住吉より茶臼山へ御陣替しなされ候ときは申すに及ばず、大御所様御本陣に大工、杣七百人、御上様(将軍秀忠)御本陣には大工、杣五百七十人、井伊掃部頭(直孝)御陣場へも百五十人、掃部頭仰せ付けなされ候ところのせいろう(井樓)矢倉(櫓)、筑山の下にかねほり(金堀り)人足切通しなされ、切立込まで我等大工を召し連れ仕り立て申し候、その上、茶臼山(家康の最前線)の御矢倉(陣小屋及び戦況監視のための櫓)は立て込み'(こみあう)戦場に候へば昼夜を限らず(昼夜兼行)相働き、五日の内に人足共御座候得ども(人足もいるにはいたが)上方の大工や杣千人ばかりの者を召し連れ、仙波(船場)の蔵や家々をこわし、大工、杣共にて運搬し、茶臼山に我等棟梁にて御普請滞りなく相勤め申し候」
                           (高木稿本)

 この記述は慶長十九年の大坂の陣に軍役として江州大工、杣が召集されたことを示すものではあるが、当時に書かれたものではなく、これより二十一年後の寛永十二年(1635)諸役免除の特権回復に際し、五畿内、近江六カ国の大工、杣の代表が江戸に下り、江戸幕府老中に訴訟した書状の覚書であるから、内容自体はその提出先を勘案するとき、非常に信憑性の高いものであるといわねばならない。

   ◆  江州大工、他の任務の内訳 ◆

 その任務の内容を分節すると、「家康が住吉より茶臼山へ御陣替しなされ候とき」とある通り、慶長十九年十一月十八日、一旦住吉に布陣した家康が茶臼山(天王寺区茶臼山町)に陣替するについて、十二月一日、中井正清に対して「船場の町家を壊してこれを運び陣小屋を造るべし」との命によって茶臼山に陣小屋を構築し一日に着工して四日には屋根を葺き、十二月六日には家康が陣営を移している。
 次いで井伊直孝の仰せ付けによる井樓櫓を造り、「その筑山(後述する杭道掘りの土による小山)の下に金掘りをし」とあるのは、十二月十一日、家康は「もぐら戦術」を打ち出した。これは「もぐら攻め」という戦略で隧道を掘るについて、当時家康は武田信玄の死後甲州金山を支配下としておりその金掘り人足を呼び寄せて「切通し」(坑道掘り)を命じた。
 それに次ぐ「切立込み」こそ大工、杣の出番で、坑道の幅三米、高さ二,五米を金掘人足が掘り進むにつれて丸太、角材等で鳥居型に入口より一米位の間隔に立て込み、天井、側面を厚板をはめ込んで行く作業で記録によると、百米程掘り進んだところで和睦が成立したという。
 ちなみに和睦交渉は十二月八日に始って二十二日に誓紙の交換をし、冬の陣を終っている。
            参考図書
               大坂城物語 岡本良一著より

   ◆  鐘銘事件の根源 ◆

 前掲、方広寺鐘銘の内、「国家安康」「君臣豊楽」等々に対する家康側の異儀によって、大仏開眼供養日が前日になって京都所司代板倉伊賀守より差止めの通達がなされ、大坂の陣が惹起したことが元来通説と成っているが、更にその根源をなすものは、棟札の記載事項にあった。
 方広寺大仏殿、他の造営に際して、京都大工頭中井大和守正清や、配下の「御扶持人棟梁」と称する有能な工事監督的立場の人が五名いたが、棟札を書くにあたって豊臣家の重臣大野治長は、「大工頭や、五名の監督は徳川家の人々であり、何れも大した身分ではないので、棟札にその姓名を書くには及ばない」と指図したので、筆者の清韓長老はこれを省いてしまった。
 これを潔しとしない中井正清は、棟札の写しと、奈良興福寺他三ケ寺の棟札の記載例の写しに加え、鐘銘の写しを共に駿府の家康に送って「方広寺の再建は、徳川家滅亡祈願の意味ある為か、五名の監督や棟梁名を棟札に書いてない」と訴えた。その鐘銘に難癖をつけ、大坂攻めの口実としたのは衆知の事実である。
国史美談 中巻 北垣恭次郎所収
    大正八年三月実業之日本社発行

PN   淡海墨壷