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2004年8月17日
高木敏雄HomePage

斬り捨て御免の暴論

宮大工 十四代 高木敏雄
     ◆ 寺社匠の職分と実理 ◆

 表題の『実理』とは、代々の先祖が公儀御用役大工として玄奥な経験から体得した実際の理論、(原理・原則から出発して道理を論じたもの、縮めて実理)のことで、一方の『職分』とは、職務上の本分、(本来尽くさなければならない道徳上の義務)を果たすこと、即ち自己の持てる能力を遺憾無く発揮した結実の成果であり、平たくいえば、さしずめ身分相応の職責・任務の完遂という事と考えられる。

     ◆ 能力の意義 ◆

 次いで、職分を全うするための根源をなす能力を広義に分析すると、それは取りも直さず各自に与えられた天職に仕える事、(仕事)に必須の作用(働き)や、それを成し遂げる力量であり、この働きこそがそれぞれの職種による「職能」であると、この字義の深い道(理)を(会)得して大過はない。(理会・りかい)
 更に、この能力を二分すると、(1)生育の環境や、教育により享受したものに、基層を成した経験によって習得した、いわゆる「後天的」なもの及び、(2)「素質的」ともいえる人間として本来具有する本能、つまり生得(生まれつき)能力に起因するものとに大別できる。けだし、後者は俗にいう「門前の小僧、習わぬお経を詠む」に象徴される天賦の才によるもので、私如きは、どちらにも属さない半端な大工であるが、それでも唯一、誰にも負けない昂然たる意気地が自負できる。

 以上、何はさておき、それぞれの現業に携わるについて、(1)後天的努力に起因するものと、(2)生得的要因との複合の結果が大工仲間内で上手く融合してこれを形成し、各自がそれぞれに有する才能を適材適所に配備した上で、采配を振るのも大工組頭としての職掌(受け持った役目)の範疇である。

 註 ちなみに、生得以来の素質による潜在的性能を『資質』という。

 以上の客観的な見方に対し、内的に観点を変えた分限・分際(身の程)とは、「一身上の地位として尽くすべき道徳上の義務」でもあるが、この身分については残念乍ら、折節、封建的な時代錯誤も甚だしい、身分差別的な発想により事実誤認に基づく法的な暴論や、『高木は各地で争論を起している』等と、職権を嵩高に悪乗りした侮辱的な発言をする輩も稀に存在するが、彼等は鼻持ちならぬ階級意識の優越感に陶酔して自らの壁をつくり、結果は我々との意志の疎通を妨げるが、彼等の無けなしの矜持に対する代償がどれ程高くつくか、その根源たる他者を罵る(ののしる)行為は、先祖の人格を軽んじていなければできない所業である。若し、立場を変えてこれが主客転倒したとき、果たして彼等は相手を恨まない自信があるのか?このような人間味の欠如した、むき出しの感情を露骨にした権力が、如何に自己妄想(正しくない考え)を生むか、現世で煉獄を体験する子孫として義憤を禁じ得ない。

 互に無関心を装うことで辛うじて保たれてきた安穏、それが今回の中傷の積み重ねや、冤罪紛いの不実なぬれ衣を着せられ、傷付いた先祖の怨嗟の暴発で、その勢威は砂上の楼閣の如く脆くも崩れ去るであろう。

     ◆ 驥の採択と泰山北斗 ◆

 中国の先覚者、(学問・見識のある先輩)の教えに『驥尾(きび)に付す』という名言がある。「驥」とはさしずめハイセーコーのような名馬のことで、「尾」とはいうまでもなく尻尾(しっぽ)であり、転じて驥尾に付すとは、勝れた泰山北斗、(縮めて泰斗で、最も尊敬できる人)の後について砂煙を被り乍ら(後塵を拝する)、尚も追尾して努力を重ねると、事を成し遂げ得るという箴言である。このように人生で最も枢要な事といえば、取りも直さず「驥の採択」であり、誰が才能のある泰斗(たいと)であるか見定める眼力が焦眉の急である。

     ◆ 参考文献の剔抉 ◆

 以上の如く今昔を通じて即応できる泰斗の選択に次いで、一方古文書研究者の大抵は、(1)それぞれの先祖による文明の余沢(後世まで残り伝わる余徳)というべき欽慕(うやまい、したう)の匠家の古文書を渉猟(広くわたりあさる)して実態に迫る方法と、(2)古典の手引きとなる啓蒙書、いわゆる先人による研究論文及び、その著書に依拠するという二つの選択肢がある。

 このうち前者(1)奈文研職員、細見・山岸両氏による高木文書調査に関する手法を概説すると、それは理念に基づいたものではなく、さりとて議論が収斂しているとは言い難く、啻に書きたい事を書いただけの胡言乱説であり、道理・理論に適合した根拠を示さないまま全体像の把握に乏しいものとなっている。

     ◆ 先学による論旨の波瀾 ◆

 次いで後者(2)に関連ある先人の研究の内、上方大工集団の組織の実態について、近年頓に研究が萌芽し始め、浩瀚な叢書が発刊されて活況を呈することとなったが、これが昭和初期では史料の制約もあってか、同二年、経済学専攻の黒正巌氏著、経済論叢に併記された『江州甲賀の大工仲間』が先鞭として著名であり、大抵の研究者はこの希少価値ある同書を渉猟した人は少なくない。

 然し、匠家の古文書を原拠とした前述の著書は、専ら江戸時代中期以降に集中しており、そのため全体像の把握には程遠く、肝要な論点の「ずれ」もあるように判断され、残念乍ら、「画龍点晴を欠いた」趣旨のように見受けられる。これについて、私も含め、誰しも過ち得る他者の可謬性を言挙げするものではないが、これを孫引きした奈文研の職員は自己の半可通を棚上げとし、黒正氏論文の一部を作意的に抽出した事実無根の絵空事(物事を偽って大袈裟に書き立てる)とし、その浅慮によって「不都合な事は総て当家先祖の所為」にして、既成事実化するといった悪辣な手段とした上で、それでも飽き足りないのか、尚も吾人の専門分野にまで土足で踏み込み、要らざる干渉をした挙げ句の果ては傲慢な衒学的論難となり、この暴挙は当初(昭和59年の高木非難)以来執拗に回を重ね人倫に悖る嫌悪感と、感情的な非難を集中させた。

     ◆ 郡外作事の否定論 ◆

 前述の黒正氏論文は、衆目の一致するところ、「江戸時代後期に集中し、初期に遡る史料の不足が壁となっている」との見解は、当該論文を読まれた研究者の共通認識である。取り分け本項の重要な論点の隘路・障害となるものは『他郡に出て仕事をなさざる事』と明記した同氏の主義・主張であり、重ねていえば『蒲生郡に居住する高木は蒲生郡外で仕事をしては不可』という曲解である。

 因みに同氏の著、72頁には『後に述べる如く、大工の活動範囲が組限り(近江国の場合は一郡一組であるから、この表現の組限りとは郡外での仕事は不可)とされるに至った』とあり、「後に述べる如く」とは、82頁に重ねて『すでに述べた如く、大工は所属する郡内に於いてのみ、その業を営むことができ、他郡での大工稼業はしてはいけない規定となっている』と論決した上で、大工の営業できる範囲を『独占区域』(専門用語では大工所、又は細工場所という)と表現し、この独占区域の設定は『特権特許』のときより行なわれていたと断定している。

 註 この『特権特許』とは、慶長12年(1607)駿府城造営に際し、家康公
   より大工に与 えられた諸役免除の特権が、のち等閑となり、これを
   不服として大工保護の権利 回復のため江戸に下向、幕府老中に訴訟
   して特権を回復したのは寛永12年(1635)9月のことである。故に黒
   正氏の主張する独占区域の設定時期とは、大いなる誤解であり、これ
   より後、中井家が『一郡一組の制』にした貞享3年(1686)であるの
   で同氏の主張と現実は半世紀余の開きがあり、この論説は信憑性に欠
   けている。拙稿、「幕府公用作事と江州大工」に詳述したので参照を
   乞う。

     ◆ 門外漢の迷論の究明 ◆

 前掲、郡外作事の是非について、大工頭中井家の下知(指図・命令)や、触状(知らせるための書きもの)及び、その裏付けとなる先祖の資料により、「郡外作事は是である」と私見を吐露したが、一方では黒正論文にみられる如く、本質的な問題の在り処を見誤った不徹底な点もあり、枝葉は兎も角も、その大枠について究明してみたい。

 それについて元文5年(1740)3月、東近江五郡(神崎・蒲生・野洲・栗太郡の大工組頭及び、甲賀郡の大工年寄)が一堂に会して鳩首凝議の結果、それぞれに証文を手交する談合があった。その趣旨とは、『東近江五郡の大工仲間は先年(寛文8年、1668を示す)より郡切(郡内限り)に仕事をすることと、五郡の組頭が立ち合いの上で申し合わせたにもかかわらず、今回不届きな事があり、再度五人が立ち合い、古来の通り約定を守るようそれぞれに証文を取り交わし、以後は他郡に入り込んで仕事をしない』という申し合わせをした。

 以上の前文は啻に『郡外では仕事をしないように』とする原則であり、この文面だけを狭義・愚直に解釈すると、断簡(切れぎれになって残っている書きもの)では、黒正氏でなくとも「郡外作事不可の禁令」と理解するのも無理からぬことである。

 しかし、以上はあくまで原則論であって、続く文言(但し書き)には『今後他郡に入り込むについて、その郡の組頭に相対(あいたい)をせず、みだりに仕事をする者は「お上」に申し上げて云々』とある。

 この文中の「相対」とは双方が「相談の上で」という意味で、「お上」とは勿論大工頭中井氏の敬称であり、紙背まで勘案すると、出向先の組頭に打診して、了解があれば郡外の作事でも『可』ということである。
 註 この迂遠な方法は当時大工組に加入しない「もぐり大工」、「抜け大工」が無視できぬまでに増加し、ここでストレートに「他国・他郡の出入は可」と安易に門戸を開くと、もぐり大工の跳梁の収拾がつかず、この方法は正規の組内大工を保護するためでもある。

     ◆ 急変した大悟徹底論 ◆

 ところで、黒正氏論文82頁には氏の見解として『他郡に出て大工稼業をしては不可』とし乍ら、84頁では前言を覆し『若し特別の事情によって郡外で働く場合は組頭に報告して承認を得る必要がある。承認を受けずに仕事をした場合は中井役所に申告して越度(あやまち)を申し渡す』とあり、82頁説と比較すると急拠逆説となっているが、この後者84頁説はいみじくも元文5年3月に手交した証文内容と概ね一致する。

 この奇妙なまでに不可から可とする急変について黒正氏は『このような制度は、例えば建築をなさんとする建主の居住地域に上手な大工がいないとき、隣郡から上手な大工を召来することができず、巳むを得ず、拙劣な腕の大工に甘んじなければならない』と述懐しておられる。

 このような氏の憂慮と、中井家の基本理念とは決して矛盾せず、本来中井家の方針は顧客第一主義であり、建主に迷惑をかけぬ様にと絶えず組頭を通じて大工の指導を怠らず、特に農村大工組では普請が農閑期に集中して手支えとなったとき、知己の大工に依頼してでも建主の要請に応じる事と促進し、別して『郡外』の建主より依頼があった場合、『貴家は他郡につき、お断りします』等とバカ気たことにならなかったのである。

     ◆ 大工頭の対処と結論 ◆

 元文5年の郡外作事に関する規制に見られる通り、一旦は原則のみを網羅し、但し書きには「特別な事情これあるに於いては」等と、迂遠な「行きつ、戻りつ」の書式は当時お上の慣例であり、情けと威光が同居している。一例として、「御制禁のところなれど、特別に許可する」等と威張りまくって散々恩にきせ、その上で「ありがたく思え」等と、さながら明治生まれの私の頑固オヤジを彷彿させるような許可条項である。本件の郡外作事についても、あらん限りの御託を並べた上で、それでも組頭に届けるだけで許可される制度であり、認識の甘さを露呈した奈文研の郡外作事不可論は根拠の不確かな中傷どころでなく、事実を歪曲した愚論である。

 それについて黒正氏の論述を再考すると、当初は首鼠(心がきまらない)の状態で、虚実入り乱れた理屈から、次第に建前から本音に移行し、とどのつまりは「象牙の塔」の学者らしく、真理の奥底に達した悟りによって、当初の否定論から『郡外作事肯定』説に急変し、私にすれば、正しく(まさしく)空谷の跫音であった。

 さて、ここでは紆余曲折の物議は兎も角として、喫緊の大工頭による重かつ大なる決定論を述べると、元文5年の申し合わせより半世紀遡及する元禄8年(1695)すでに、大工頭中井主水正より『何れの大工組も、この定めに候』とする申渡覚(大工が郡外に出向するときの作法)には、大工共は国々在々の大工組頭に届けることは勿論、出向先の組頭にも、『我々共は何々大工組の者にてこれある』と、その理由を断り届け、(知らせる)その上で仕事をするようにと定め、一方、念のため各郡の組頭にも『それぞれの組頭は組下大工が郡外に出向する旨を事前に当方(京都中井役所)にも届けること』と定め、大工頭また、この届に呼応して『当方からもその旨を伝えておく』という、後日の紛争なきよう配慮した万全の策を講じていたのである。

     ◆ 荒唐不稽の懐疑論 ◆

 江戸時代の下級武士でもあるまいに、昭和59年、県教委の関係者(歪んだ見解の郡外作事否定論者)により一通の古文書(弘誓寺文書・高木但馬筆)が調査され、その判断基準は、理の当然たる例証に依るものでもなく、さりとて正当な類推に依拠したものでもなく、飽くまで自己の不見識な想念による門答無用、切り捨て御免の条理なき異存であった。  (高木非難第1号)

 この晴天の霹靂ともいうべき胡思乱量(筋の通らぬ考え)は、権力や自己裁量の拡大を主目的とした、高木排撃の指弾(つまはじき)と考えられ、その鳥滸がましい誘因は、前述の黒正氏論(郡外作事の是非)の早計により、客観的事実を放棄した、不所存者による偏見であり、加えて当該寺院は神崎郡であるのに対して、高木は蒲生郡であるため『幕府による郡外作事規制に抵触するものである』と一方的に誤断し、剩え、『高木は禁令破りの怪しからぬ奴』と、独善な決断をした。

 これの証拠となるものに、平成6年7月、『建物の見方・しらべ方』ぎょうせい出版、『山岸常人氏』(高木非難第4号)172頁には、高木による郡外作事に触れ、
(1)神崎郡弘誓寺本堂、(2)甲賀郡矢川神社本殿、(3)京都東寺五重塔、(4)大坂東御堂、(御堂筋、難波別院)、(5)三重県専修寺如来堂の作事を列挙し、『郡大工組の規定では、郡外での作事を禁じており、
高木はそれを破っている』等と事実無根の自己独特の規制を作り、『矢川神社の造営では、それが為に地元大工と相論を起している』と、不実な垂れ流しをして世間を誤導した。

 このような毒筆を尻目に、小気味よく先祖による郡外作事の件数を検討すると、その実績は山岸氏のいう五件どころか、十指にも余るため足の指まで必要とする有様で、これが禁令を破った作事であったとすると、信賞必罰の厳重な旧時代に於いて、先祖の首は余すところなく、疾っくの昔に胴から離れていた筈である。このような半可通な知識で、なまじ高木を非難して大怪我をし、逆に恥をかく位なら『調査の手間を惜しむな』この程度の範疇でしか考える事の出来ない的の外れた指摘や、事実を曲げた中傷誹謗は、縦割り意識の弊害であり、そこには独善や、視野狭窄に陥った哀れな人間の蹉跌が、奥深く潜んでいるのである。

     ◆ 罵詈雑言の集大成 ◆

 妄りに分を越えて権威を挟み乍ら、「民」に対峙する傲慢な「公」に、私は敢えて抗う気は毛頭ないが、「雉子も鳴かずば射たれまい」の喩えの通り、『白璧の微瑕』と胸中秘かに自負する先祖の余光に対して、県教委の依頼による職員は自己の不見識を臆面もなく棚上げとし、それでも自分を顧みない得手に帆を上げた妄評の内から、当家に対する不徳要領の妄論を抽出すると、

(1)『高木は冒頭に虚偽の申請(建築願)ありき』

(2)『幕府による、郡外作事禁令を破り、大工組頭としての強力な地位を
    利用した強引な手段により、郡外でも仕事をするようになった』

(3) 例えば、甲賀郡矢川神社造営がそれである。そのため地元大工と問
    題を起している』

(4)『こうした強引なやり方(手法)が各地の大工と相論を起こすことと
    なった』

(5)『高木支配の排斥は他方面でも見られる』
等と、事実無根の中傷誹謗、冤罪紛いの毒筆を自己省察することなく、無責任な大言壮語の公表をした。

 これについて文書に書かれた要旨と、本質を見極める能力(読む力)が欠如した彼等の論述に対して、注釈するのも鳥滸がましいが、
前述の(1)について、『本願寺八幡別院本堂・弘誓寺本堂』の修理に際し、前者は京都本山御門主のご下命による解体修理の申請をしたが、大工頭中井家は当時の建築制限の厳しさから、非解体の条件付(応急修理)の許可を与えられ、その関係文書が残存するにも拘らず、県ではこのとき『新築である』と頑迷に豪語して譲らず、この愚挙によって修理名目の高木文書は『虚偽である』と児戯にも悖る不条理な判断をして恬然としている。

 後者の弘誓寺本堂は、高木が虚偽の申請をした云々以前の論外で、所在が神崎郡であり、高木は蒲生郡であるので、中井家による郡違いのときの申請定法により、本件は地元大工に申請義務があり、事実、申請書の奥書きには願主地元大工に加え、これを保証する神崎郡大工組頭、伊庭村、太郎右衛門氏の署名捺印があるにも拘らず、字が読めないのか、『高木が虚偽の申請をした』と決め付けているのは無作為な素人紛いの言い掛かりである。

(2)では前掲で述べた如く、他国作事でも出向は『可』であり、彼等の指摘は荒唐無稽の出鱈目である。

(3)矢川神社造営については次項に詳述します。

(4)この文書に対する非難は抱腹絶倒すべき愚の骨頂であり、慶長16年12月、蒲生郡の地元大工「又太夫」に対する裁決(入牢処分)に請願した大工仲間(先祖も含む)の請状(服役する仲間に対する保証書)であるが、肝心の内容が解読不能によって把握ができず、それでも廉恥の心が喪失した『高木は各地の大工と相論を起している』の頑蒙な解釈は、調査資格のない不調法であり、折角の文書を閲読し乍ら、その意義を知らざる粗忽は、逆に自分の品位を下げるだけである。

(5)は、高木支配を嫌忌した不心得な大工による組頭高木排斥と曲解し、(4)と同様に『各地の大工と相論云々』と謀計し、独善で悦に入っているが、これについて特に大工数の多い(当時では、近江の大工数の三分の一が蒲生郡大工)であり、組大工の中には親組から離脱して新組結成を目論む不穏な大工も存在したが、中井家は原則として『組分け』は許可せず、この愚計は二回とも不発に終った。のち中井家より当家に宛てた折紙には『今般組下大工(一部)より高木退役の儀ついて』と書かれた布達を覗き見した彼等はこれを高木排斥と曲解し、ここでも自己の半可通を露呈した天に唾する愚論となっている。

     ◆ 終  章 ◆

 以上の酷評は専門知識(旧時代の大工支配に伴う規制等)の無知と傲慢の暴走に他ならず、一途な先祖の来し方に対し、事実を歪曲した不的確な表現は、実態以上に悪し様に誇張され、その作為的な中傷は無根の虚偽説を流布させ乍ら、更に誤断を増幅して垂れ流し、世間を誤導しょうとした。

 一方、良くも悪くしも自己主張を重んじ、身の丈を顧みない意趣返しともいうべき暴論は、先祖に対する侮蔑な冷罵や、人格まで否定した希代の思い上がりであり、有意故造による嫌疑は、私にすれば不倶戴天の痛恨の極みである。

 これらの調査に伴う一連の高木非難の主因である、大工組頭の職務を弁別すると、その職掌は五項目に分類され、更に各項を細分すると十六節となる。これらは中井家経由の幕府下知・法度・掟・制度に次いで、大工頭による仲間の掟・大工同志の作法・触れ書の徹底などであり、これらは斯道に生きる吾人の普遍的に認められる真理である。

 これを尊大に調査と称し、官人としての信頼に乗じた単なる憶測による抽象的可能性に過ぎない付け焼き刃の知識で、自分はこの世で至高の存在と錯覚し、取り分け前述の幕府法度、規制等については最早、人倫の空洞化した現代に於いて、(知らるるが無きを知る)つまり、知るべきも無い概念(例えば郡外作事の是非など)すら認識しょうとはせず、徒に折角の善意で開示した文書を、仇で返すが如き人間味の欠如した、粗探しに汲々とする異様な事態では、物事の是非を論ずる以前の問題であり、その範疇を逸脱した「沙汰の限り」である。

 詮ずるところ、幅広い知識によって古文書の内容を正確に把握した上で論理的に考え、その過程で得た結論を的確に表明したものでなければならない。それは下らぬ主観の丸出しに終始し、折角先人が弛まぬ努力によって積み重ねた過去の事実を、写実的、具体的に表現することなく、感情の赴くままの攻撃的な物言いは、代々の先祖を不毛な屁理屈で撫で斬りにし、逆に醜態をさらけ出すこととなった。何れにしても書きたい放題ではなく、正当な道理の観点に立った批判でない限り、真理の追及は鯱立ちしても覚束無い。

     ◆ 追 記 ◆

 本項では起草当初より懸案の重要課題、『郡外作事是否論』について、浅学非才の身を省察することなく抗議して参りました。その理由は、すでに諸兄のご賢察通り、先祖の来し方に対し根拠もなく味噌糞に書かれた要因が、取りも直さず郡外作事可否のバカ気た誤断であり、これの徹底究明に微力を傾注し、そのため煩雑な文章となった事も自覚しております。
 今回は紙幅の制限もあり、次善の策として、矢川神社本殿造工にまつわる潔しとしない暴論に加え、先般弘誓寺本堂報告書が発刊された内容、(深い余情の残らない)一部について、老婆心乍ら小賢しい愚論を呈したく存じます。そのような訳で、後日HPで拝眉の節はよろしく。
   
PN   淡海墨壷