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2003年10月24日
高木敏雄HomePage

寄進造営と大工所

宮大工 十四代 高木敏雄

      ◆ ま え が き ◆

 奈良文化財研究所による高木家文書調査報告書を通読し微意の存するところ、折角の汗牛充棟の関係資料を、多角的に検証することもなく、只管一部の先学者の中井家法制の突破力に欠けた、誤断の入り交じる記述に翻弄されたと考えられる大工営業の許可範囲の規制と、その作法即ち、「郡外にて仕事をなさざる事」とする戒めは、無役もぐり大工に対する取締条項であるにもかかわらず、それらの信憑を曲解したことが淵源となり、その懐疑的な積年の厭悪が沈殿し、やがて当家に対する憎悪は、不幸にも「高木は幕府禁令破りの常習者」とする嘲弄となり、その不興が今回の喫緊の事態になったものと考えられる。

      ◆ 自普請に対する営業範囲の設定 ◆

 そもそも、江戸時代に於ける中井家支配下の大工個々の作事(中井家では自普請と表現)の内で、前述の如く自己の営業範囲以外に出向するときの大工作法について、元禄八年(1695)正月、中井家は、
 「何れの組も、その定めに候」
と、大工仲間の定め書(五項目)を発令した。
その第二項を抜萃すると、
『他国へ大工共細工(仕事)に参り候はゞ、その所々(各自の出向先)の組頭に対して、「我々共の儀は、何々郡組の大工共にてこれある」の由を一応相断り、その上で細工仕るべく候、この方(大工頭)よりも国々在々(この表現は国外及び自己の居住する郡内、外も含まれる)の大工組頭へ、その断り(応対、交渉)をしない大工共には、猥に(軽々しく、矢鱈に)細工を致させない旨を、申し渡しおき候事』
と定めた上で『右の如く悉く承知せしめ、(組下大工に触れ流して周知させ)物事神妙(すなお)に相勤め申すこと、若し我儘なる者これあるときは、此方(中井家)へ申し来るべく候、きっと吟味を遂げ(良く調べて)申しつけるものなり』、と命じている。

 以上、この定書は元禄八年(1695)に出されたものではあるが、文中には「前々よりこの定めに候」、「右不埒に付」「この度改め」、「その後みだらなる儀これあり」、の語があるのをみると、容易には徹底せず、結局はこれより二十七年以前の寛文八年の大工法度が、その母胎をなしていることが分かる。

      ◆ 寄進造営と出入り大工 ◆

 以上のような自普請における大工作法とは裏腹に、寄進造営に関する特別条項として、
『建主は、従来出入の大工を決めているであろうが、社寺の場合は、寄進による造営が時々あり、この場合は寄進者の推薦する大工に造営の権利があり、たとえその社寺に大工所を有する大工が存在したとしても特例として認められており、それにより出入大工ある場合は良く話し合い、双方理解をした上で、その出入大工に対して、「今回限りである」旨の証文を一札手交し、またそれには大工年寄も証人として連署すべきこと』
と、定めている。

 それでも、この定法を逆に悪用し、寄進と称して他人の得意先を奪う大工もいたらしく、中井家では、「出入大工あるところへ、寄進などと、まぎらわしき事を申し立て、入るまじき事」と規制しているのは、このような大工がいた事を示唆するものである。

      ◆ 紛争となった類例 ◆

 これらの定法の内で、訴訟となった一例を紹介しょう。「高木家文書」によると、寛文の大工法度より四年後の同十二年(1672)七月、私の郷里に遠からぬ蒲生郡南津田村、(現在近江八幡市南津田町)に存在する寺の山門が、地元大工によって寄進造営されることとなった。

 ところが、定法が充分に浸透していなかったのか、同寺に大工所を有すると主張する次郎左衛門、他二名の在地の大工は、寄進の大工に仕事をさせないのみか、剩え地元の農民を味方にし、彼等の日常の普請まで我々の大工所であると妨害したため、寄進大工はこれを中井役所に提訴した。

 中井家では次郎左衛門、他の大工の行為は我儘で不届きであるとし、「この門については理不尽(道理をわきまえない)なことを申さず、寄進の大工に仕事をさせるよう組下の大工共に申し聞かすべきものなり」と、同年七月七日付で中井家より当家(三代目光吉)に触状が届けられている。

      ◆ 寄進造営の大宝神社表門 ◆

 当神社は縁起によると、大宝年間(701〜04)栗東市小平井に創建、のち旧中山道に沿う現在の地、(同市、綣)に遷され、このとき大宝天王の神号勅定、江戸時代の正徳四年(1714)同社の別当、神応院応珍師は「法橋」の官位を受け、ご祈祷の関係もあって京都百々御所(宝鏡寺の別名)への館入を許された、とある。
 二年後の享保元年(1716)五月宝鏡寺より現在の表門(四脚門、正面柱間4.8米強)及び、築地塀を寄進する旨の沙汰により、同三年中に造営された。この輪奐の美を誇る表門は、当初桧皮葺、棟のみ瓦葺であったものが、幕末になって総瓦葺に改められ、このとき当初の桧皮用野地に瓦を葺いた関係もあってか、部材寸法が細く、去る昭和五十八年修理されることになり、従来の梏木兼用登り梁、桁、垂木等を新材と取替、筆者はこの修理を担当させて戴いたことから、神社より当表門造営関係文書の写しを頂戴した。

 註 大津市、坂本河村屋根工事店請負、

      ◆ 隠微されていた工人棟梁 ◆

 修理にあたって屋根部分を解体したところ、化粧屋根板上端より墨書を発見、それによると、京都宝鏡寺の頭棟梁、大宮伝兵衛氏より差し回しの現場工人棟梁服部宇兵衛満康氏、及び同氏に統師された大津の大工九名、その他、石部、京都より各一名の総勢十二名であることが確認された。

 のち、埃にまみれた化粧棟木の上を歩く内、足の裏に微かに感じるものがあって、刮目すると正式な棟札ではなかったが、打ち付けられた薄い板片に、
  享保三年(1718)五月上棟
   当所天王御門
     工人棟梁、京都住 服部宇兵衛満康
     裏判取、地元大工、(匿名とします)
を発見した。(現在 神社に保管されている)

      ◆ 県教育委員会による調査 ◆

 門の修理は木工事のみ秋に完成し、翌年には滋賀県の近世社寺建築緊急調査が行なわれ、大宝神社の建物も、その調査報告書に記載された。
その社殿群のうち、当表門の調査担当は奈文研の細見啓三氏で、氏の見解として、
「享保棟札の桧皮屋は京河原町とあり、□□□(地元大工名が記載されている)は当時京大工であったのかも知れない。そうでも考えないと当地方でこれのみ(この門だけ)突出した新様式をもつことが解明できない」

と、門の意匠が京風であることに感嘆する一方で、建設地は僻陬の地であることに対する辻褄のあわない怪訝な思いが交錯したのであろうか?
 それでも同報告書の「近世大工名一覧」には
 
「大宝神社表門 享保三年(1718)
  大工棟梁 同村 住人□□□(地元大工名)

と、事実とは相違する発表となっている。
 註 往古よりの「大宝天王宮」「神応院」の名称が大宝神社と改め
   られたのは、神仏分離の慶応四年(1868)四月であり、
   享保三年当時に大宝神社?は可笑しい。つまり、当時のものでなく、
   明治以降に作為的に書かれたものと考えられる。
   その似て非なる謎の解明は本項末文に明示してあります。

      ◆ 地元大工の立つ瀬 ◆

 前掲の県教委による、意想外の異存「大工の領袖は地元大工」云々は、全然根拠のないものではないが、それの究明にあたって、一旦白紙撤回とした上で、当神社文書を原拠とし、改めて全体の状況を瀬踏みすると、

1、 享保元年、宝鏡寺より表門の寄進が確定すると、通常は京都中井役所
   に作事願の提出(寄進造営の場合も必要)が刻下の急務となるが、
   神社側におかれては、これの申請人(願主)を「くじ引き」で
   決定したとあり、これに当選した人が、さしずめ今回の話題の人、
   地元大工であった理由(わけ)である。

2、 享保二年の冬、神社では別当師、宮総代、当門寄進の仲立ちをされた
   高井惑悦氏及び地元大工が鳩首会議の席上、折節、京都宝鏡寺の
   頭棟梁、(服部氏の上司)大宮伝兵衛氏が来訪され、このとき
   地元大工は大宮氏に対して「自分は田舎者で不勝手である」
   ことを理由に、大宮氏に作事願の請願を依頼する。

3、 享保三年二月、地元大工は棟梁と誇張して神社に対し、手間賃
  (彫刻手間、飯料を含む)及び期間を同年お盆頃完成の契約で請負う。
  (但し、この見積額は宝鏡寺作事方の提示額)

4、 その後契約の締結した地元大工は、応援の大工探しに奔走するも、
   容易に集まらず、同村の友人と二人で請負額について計算すると
   当初の契約額より頗る高値となり、高井氏に相談するも
   「そんな筈はない」と一蹴される。

5、 地元大工は再度大宮氏に対し、現場で指導してくれる大工を回して
   欲しいと要望、同三年春、早速服部氏が下向、氏は地元大工宅で
   寝食を始められ、工事は軌道に乗るかにみえたが、ここに至り
   地元大工は非条理にも作料の事で宝鏡寺に異議の書面を送付、
   この愚挙に宝鏡寺役人は一分(面目)が立たなくなり、
   立腹した服部氏は帰郷する。

6、 前述の如く含むところあって帰郷された服部氏の行為に周章された
   神社側と地元大工はそれぞれに謝罪状を京都に送付、その後に
   神社別当師と高井氏が上京され、大宮氏と鼎談の上、服部氏は
   辛うじて復職された。

7、 この児戯に悖る地元大工の行為は、現代の感覚ではすでに棟梁職を
   喪失したものと理解せざるを得ないが、それでも工人棟梁服部氏
   自筆と考えられる棟札?には自己の立場を明確にされた上で、
   その脇に「裏判取地元大工」と書かれたのは武士の情けと
   いわねばならない。
   それは彼の建築申請人(裏判取)とする立場は、名目に過ぎない
   形骸化したものであって、事実は大宮氏の盡力によるもので
   あったからである。

8、 享保三年五年、門は上棟、秋口に木工事は完成したが同年九月、
   地元大工が今度は手間賃の確執により神社を奉行所に訴え、
   驚愕された神社側は翌十月答弁書を提出された。その書状には、
   「地元大工は裏判元ではあるが、大工の家筋であっても当人は
   素人であり、「 普請方は埒明き申さず」とある。

 地元大工は、それでも自身保全の為か、「大工棟梁誰々」と身勝手に僭称した板札を遺し、これに惑わされた県の調査員が、そのまま鵜呑みにし、通り一遍の発表としたものであろう。
 「芳(かんばしい、誉高き名声)を、百世に流さざれば、臭(不名誉)を万年にのこす」という格言がある。私は工人棟梁服部宇兵衛満康氏の後塵を拝する同職の者として、ともすれば、隠微されそうになる服部氏の芳名が、万年の後まで残るように念じ県教委の発表に反駁してこの拙文を発表した。一方地元大工氏は現在後継者もおられる関係で敢えて匿名としたことを御理解下されば幸甚です。


PN   淡海墨壷