トップページ
2009年5月11日
高木敏雄HomePage

先祖を欺く盆暗と空理・空論

                              宮大工 十四代 高木敏雄
  


       ◆ 社寺建築工匠・高木作右衛門の萌芽 ◆

 我が近江国は大和・山城の両国に隣接し、往古奈良の都造営の木材供給地として重要視され、特に甲賀の山々に良材が繁茂したのも然(さ)る事乍ら、その運搬には最寄りの河川(杣川)を利用して一旦琵琶湖へ、更に勢多(瀬田)川を南下して泉津(木津)に至る水運に恵まれていたことは文献により明らかである。

 以上の事から江州大工か、奈良大工かと併び賞された所以は、当時では大工と杣(木材の伐採を業とする人々)とは未分化であったことから両者が杣山の麓で荒加工をし、検査を受けたものを筏で流して諸造営の一翼を担(にな)った。

 就中(なかんずく)私の郷里・蒲生郡は、恰(あたか)も東近江の中間に位置し、古くは馬見岡綿向神社・苗村・鎌宮(奥石とも)両神社の建築の他、舟運の便を得て逸(いち)早く搬送し得たことにより観音寺・長命寺等の厳然たる大伽藍や、日牟礼八幡宮の華麗な社殿など、中世以来次第に発展を遂げたのである。

 のち、佐々木氏による観音寺築城、信長公による安土築城、更に豊臣秀次公による八幡築城と、各戦国大名が近江を要害の地と定め、また都に上(のぼ)る足掛りとして此処に自己の居館を造営し、これに応じた大工はそれぞれの為政者より厚い保護を受け、益々繁栄していった。

     
◆ 蒲生郡内で同姓を有する大工 ◆

 (管見による)高木姓を有する大工の初見は、蒲生郡安土町・奥石神社神輿・天井裏の銘文に、
  応永30年 (1423)4月、
      慈恩寺村     高木金四郎
と明記されたものが保存され、往時すでに高木姓を有する名工が活躍された事が判明する。

 この高木氏の住所「慈恩寺村」は、現在奥石神社に遠からぬ安土浄厳院附近で、その村名の由来は、浄厳院の前身寺院であった慈恩寺が存在したことによって村名となり、現在も町名として存在するが、その
寺院名の由来とは、正平年間(1346〜69)近江の佐々木氏によって現在の浄厳院の地に慈恩寺を創建し、法燈を維持するも元亀元年(1570)信長は佐々木氏の本拠を焼き払い、これによって慈恩寺そのものは消滅し、現在の近江八幡市に移住された。

     ◆ 大工座の成立と、大工所・大工職  ◆

 高木金四郎が活躍された時代は室町幕府三代目・足利義満公を中心とするいわゆる北山時代で、同幕府の最盛をもたらした時代でもある。この時代の「座」と呼ばれる大工の集団組織はひたすら寺院・神社に人身的に従属し、その庇護によって仕事を確保していたが、肝心の生活の基盤は単なる施主と大工の関係ではなく、権威者に奉仕して糊口を凌ぐ必要があったが、小規模な仕事は身近な大工を率いて仕事ができるが、大きな工事の場合は集団の力に頼(たよ)らねばならず、中世の大工にとって社寺の仕事を占有するには、どうしても「座」と呼ばれる大工組織を結成せねばならなかった。

 「座」には厳しい職階制及び技能による区別、年令・経験による序列があり、場合によっては領主の都合で他の大工座と協同で仕事をするときは往々にして争いの原因ともなったので、多くは家族集団を結成して他の大工座を排斥し、自分たちの「座」の独占を保たんとした。

 このような大工座の正当さを明らかにする証拠文書を所有することが重要視され、各匠家は「大工相承次第之事」の証文を所持し、これを長子に伝える世襲制度としたのである。

     ◆ 中世末期に於ける高木家大工所 ◆

 以上の如く大工座の成立に伴う大工所・大工職によって職権を有し、その範囲を根拠として生業を営む大工が出現したのは前述の通りであるが、このような分化は農村の生活が発達し、工匠の技術が高度であった江州大工は特に著(いちじる)しく、それ故に大工座として相当な発展を遂げるに至ったのである。

 また、大工座の結束は大工営業の「株化」をもたらし、それ故に「株」の如く売買もされたが、多くは重要文書としてこれを子孫に伝承し、高木家では永正9年(1512)9月、当時の名匠藤原光吉氏より『譲与大工職之事』とする譲状の原本は、親父が封印した長持三棹に他の重要文書(非公開)と共に私が保管している。

       ◆ 中井家の支配形態と、江州肝煎衆 ◆

 江戸時代に於ける初期の大工支配「江州大工組」の成立は、大工頭・中井家が五畿内・近江六ヶ国の大工以下諸職人を支配下に治めた慶長も末年以降のことで、初期の形態は矢張り京都所司代・板倉伊賀守の介在による間接支配であり、「所司代」という行政ルートを通じて(高木を含む)各地の有力な大工を選出し、これらの人々を通じて在地の大工を支配する形式をとっており、これら有力大工は『江州肝煎衆』と呼ばれた。

 以上の肩書「肝煎」(きもいり)とは世話人のことで、例えば高木に対して江戸城の修理に「大工50人差し出すべし」の要請に対して期日までに大工人数を揃えるという世話役(当家の書状には「きも入」とある)のことで、幕府が行なう諸造営に中井家を通じて国役作事を強制的に命じ、幕府に対する従属を諸役免除の特権(工匠保護)を与えることによって動員の代償としたのである。

     ◆ 諸役免除の等閑と特権回復訴訟 ◆

 一方、当初の肩書「肝煎」の職責を果たす過程で、大坂の陣に大勝した東軍(徳川方)の領主はそれぞれ論功行賞に伴う所領替えに現(うつつ)を抜かし、各地の大工に対する諸役免除の特権が等閑(なおざり)になった。この事実は必然的に幕府御用を務める公用大工にすれば不満(税金の二重払い)が続出し、先祖を含む幕府御用役大工は御多聞に洩れずこれを不服として大工頭・中井家に申し立て、近江の郡代官(現代でいえば県知事)の触状を得て各地の代官所の門を叩いたが膳所城主・本多氏以外はこれを否定した。
                      (高木文書)

 これでは埒(らち)が明かず、今度は江戸城に出向して老中と直談判すべく、五畿内・近江六カ国の内から8名の代表を選出、寛永12年(1635)正月、京都を出立(しゅったつ)し、3月19日の老中会議に直訴したのを切っ掛けに以後10回に及ぶ折衝を重ねた結果7月6日、「大分(おおかた)の言い分は御聞き分けなされ」とある如く、大工側に有利な展開となり、9月7日小堀遠江守・五味金右衛門両氏が相談の上で「五畿内・近江六ヶ国の大工・杣の高役は前々の如く御赦免なされ候」の証文を得て、ここに諸役免除の特権(工匠保護)が復旧し、高木は同12年11月、(引高帳作成に基づく)江州中の大工・杣が所有する石高の調査を命じられた。 
                (同12年11月26日・高木文書)

 斯(か)くて、翌寛永13年11月、石高調査が完了し、高木は『江州国中大工石高帳』を奉行・小堀権左衛門に提出した。 
                 (同13年11月石高帳(写)

 一方、当時の先祖の肩書に言及すると、これより先慶長18年(1613)7月の京都御所作事を命じた中井家の書状には「江州きも入衆」と宛て、元和5年(1619)の書状にも「惣大工のきも入・高木作右衛門へ」とあり、更に前述の幕府老中奉書〔寛永12年(1635)6月付〕にも「江州国中大工肝煎衆」と宛てているが、5ヶ月後の11月6日付の書状には「江州大工組頭・高木作右衛門殿」とあることから、このとき肝煎から大工組頭に変更されたことが判明する。

     ◆ (大工の石高)引高帳について ◆

 そもそも大工高とは、一般の農民の人々による一年分のとれ高と同じく大工(半農半大工)のとれ高のことで、引高とは、幕府公用を務める代償として年間のとれ高から諸役免除分を差し引きし、残った石高(現在風にいえば必要経費を差し引いた課税対象額)を意味し、すでに差し引いたことにより引高帳というが、この課税台帳は蒲生郡の場合、高木がこれを管理した。

 この措置(税金)は一般農民の半分という優遇であり、引高を有している以上は大工を廃しても納税義務はあるものの、この待遇は土地まで退転することもなく、引高を有している以上は課税額も農民の半分で済むのである。その他当家は幕府より毎年18石3升5合の石高を与えられ、その田地の耕作は地元の人々が交替でこれの耕作を命じられ、如何なる土地の領主もこれに対しては年貢(税金)の徴収ができず、当初高木家の田地は耕作無用のストライキもあった。
    
     ◆ 江州大工組から蒲生大工組へ ◆

 前述の特権回復より21年後の明暦3年(1657)1月、江戸本郷の本妙寺より出火、江戸城本丸を始め、市街地の大部分を焼き払った振袖火事により中井家は京都に帰着された。当時中井家は(京都御所の作事を除く)幕府公用作事が極端に減少し、一方これに対して大工数が増加したこともあって、五畿内・近江六ヶ国の内、大坂・京都の都市大工を除く大工編成は「一郡一組」の制度、つまり「郡」を単位とする地域別に組分けした。

 これの「証」として大火より11年後の寛文8年(1668)3月、中井家から高木に宛てた差紙(出頭命令)に、『江州組頭・八幡・作右衛門方へ』とある如く特別に「八幡」という地域名を付し、4年後の同12年7月付の触状(通達書)には『蒲生郡・大工組頭・作右衛門殿』とする等、以後は直接に
『蒲生大工組』と宛書している。

     ◆ 寛文の大工法度と梁間寸法の制限 ◆

 先祖を非難した奴をど素人と揶揄嘲弄して余りある根源は此処にある。即ち、寛文8年(1668)3月、中井家は従来の大工統制を一新すべく江戸幕府による
『3間梁制限令』を制定し、頻発する火災の対策とした。このとき中井家は高木に対して「大工年寄を一名宛同道して上京すべし」と命じた折紙『御老中御下知(命令)の趣、申し渡し覚』〔新築建物の梁間寸法は京間三間(19尺5寸)を限る〕の他、詳細を箇条書きにした「覚」と2通の書状を手交された。              (高木文書)

 註 1、後述するが、この制限令
(梁間寸法が3間より大きな建物の
     新築は 不可)
を皆目知らない数多の有象無象(世の中にい
     くらでも生存する種々雑多なつまらぬ連中)は、発令より 
     26年後の八幡別院本堂応急修理(元禄7年1月申請、即日
     
修理許可)に対して『高木文書にある修理許可書は名目で
     あって、実際は新築である』
と強調するが、さりとてその
     証拠(新築許可)を明示せず、修理であればこそ大工頭・
     中井家が許可したものであり、制限より8、5間も超過した
     八幡別院本堂の
新築が許可される訳もなく、このような
     連中を没分暁漢(たちの悪い分からず屋)という。

 註 2、前述の先祖の肩書
1、江州肝煎2、江州大工組頭3、蒲生
     大工組頭
の変遷について、山岸常人による素人判断『高木
     は江州大工頭の如く主張しているが、実際は蒲生郡だけの
     組頭であった。』
等と、人間性が貧弱で不道徳極まる山岸
     の駁論 は、奈良国立文化財研究所という肩書だけが独り
     歩きし、社会通念の上で普遍的に認められている真理を、
     山岸独自による持ち前の不見識によって埒外に置き去りにし、
     恣意的な裁量に基づく虚誕・虚構は捧腹絶倒の極みであり、
     この上なき恥の上塗りである。

嘘で固めた虚構と修理報告書

    
     ◆ 状況判断が出来ない印象批評 ◆

 
 「空気を読む」の本来の意味とは、文書をじっくり読んで理解することであるが、江戸時代の大工法度を皆目知らぬ輩による印象批評(客観的な標準を用いず、自己に与える印象に基づいて主観的に非難する)理由なき中傷が、不見識や杜撰であると必然的に理不尽な迷論となり、起るべくして起った皮相(真相を極める力量もなく、表面のみを見て下す浅薄な判断)による観念論(屁理屈)となって行く手に立ちはだかり、これが妨(さまた)げとなって真っ当な批評の筋道は生半可な知識の外に押し出され、残り滓(かす)即ち不適切な潜在意識と、有るか無しの理念は傍若無人の暴論と化し、無実な先祖の来し方を理由も根拠もなく悪し様に書き立て、恬然として省察することもなく、その悪因悪果(悪い原因には悪い結果が伴う)は、天に向かって唾(つば)するが如く、当然自分自身に振りかかる応報(むくい)と覚悟せねばならない。

   
  ◆ 調査能力の低劣と事実誤認 ◆

 これら誤想の濫觴(物事の起源)である批評眼力の欠落は、対象となる古文書が難解(平仮名すら真向に読めない)であることから機能不全となり、江戸時代の法度(はっと)(おきて)を皆目知らぬ素人判断の誤謬に加え、文化財保護課建造物係長以下挙って自己の認識不足を認めない往生際の悪さが大手を振って常態化し、看過できない妄想により屁理屈を捏(こ)ね回す疎狂(常識はずれ)に成り下った挙句の果てに、高木文書の内容を故意に逆手にとり、自己の至愚(極めておろか)を棚に上げてまで先祖の来し方を踏みにじる卑劣な行為は、古文書を調査する資格と適確性を欠いた暴挙であり、謂(いわ)れ無く先祖に対する嫌悪感と非難を集中させた人間味の欠落した争点は主観的な要素が多く支離滅裂である。
 
 以上の如く、生半可な知識で調査と称し、取りとめのない意識の希薄さを露呈して自らが精査することなく惰眠を貪(むさぼり)り、吉田高子の論旨を覗(のぞ)き見した誤謬は、浅見(浅はかな見識)による思い込みや、曖昧模糊な思考により古文書の内容が大幅に事実と異なり、奇を衒う軽はずみな報告書は嘘八百の安手の読み物に成り下り、満天下に恥を曝(さら)け出すことに余念が無い。

     ◆ 巷間に恥を曝け出す池野の妄想 ◆

 『一犬影に吠(ほ)えると、百犬その声に吠える』一人がいい加減なことを言い出すと、多くの人々はそれを嘘とは知らず真実として世間に伝えるものである。

 この格言を尻目にかけた類例として、平成13年3月、滋賀県教育委員会発刊『県指定建造物・本願寺八幡別院本堂修理工事報告書』監修・文化財保護課建造物担当・副主幹・池野保・1頁に当本堂の建立
(実際は応急修理である)について、元禄7年(1694)頃から再建計画(再建である証拠は一切無く、高木文書によると、本山から1間半の継ぎ足しを含む修理を依頼された)を立てて工事に着手し、翌8年土居葺を施工、造作は床を張り、側回りに建具を建て込んだところで工事は一旦休止したとある。

 註 この呆(あき)れが宙返りをする池野の妄説に抗(あらが)うと、
   池野の前説に
再建計画とあることから愚直に梁間11間半・桁行
   12間の大型本堂
再建の仮説をたてると、高木は杣職の人々と共
   に杣山に分け入り、高木が適材を選出したものをカラスを追い
   払って伐採し、間髪を容れず、水が滴り落ちる生木を一旦貯木
   場の水に付けて樹液を吐き出す暇を与えることなく、木挽さん
   に平物・角物・板等に挽きたてを依頼し、切刻み、立柱・上棟を
   経て土居葺を済ませた上で床を張り、内法(鴨居・敷居)まで入
   れて外回りに建具を建て込んだとあるが、幾ら何(なん)でも
   元禄7・8の2年間では如何(いかん)せん、太閤さんの一夜城で
   もあるまいに新築では無理であり、第一、樹液も吐き出してい
   な生木を使用するバカな大工を雇う間抜けた建主はいない。

 一方、同報告書(池野説)3頁に、建立年代
(実際は修理の時期)について、縁高欄擬宝珠に享保元年の刻銘があり、高木文書には本堂修理の記がある等と一体全体修理なのか、新築なのか、虻(あぶ)蜂取らずの首鼠〔穴から首を出して進退を窺(うかが)う鼠の如く〕「元禄頃より本堂の修理または再建計画を立て、実際は享保元年頃再建が成就した」と、二律背反(二つの命題が互いに矛盾して両立しない)つまり、あちらを立てればこちらが立たない意味不明かつ無責任な迷論を池野は恥らうことなく公衙の出版物を媒体として世間に害毒を垂れ流したのである。

     ◆ 解体せずに増建した先祖の英知 ◆
 

 この
修理について池野より少しだけ頭が良い先祖高木日向は中井家に対して解体を示唆する願書を提出したが、『他の例にはならない』と前置きした上で、『御門跡の別院であるので1間半の増建は特別に許可するが、但し一旦壊して建直しすることは難しい』の条件付きであったので解体は断念し、本建ち(入側柱から対面する同柱までの範囲)には一切触れずに増建する手法は、従来の縁巾「大目」(1間半の二分の一)(0・75間)を更に拡げて1・5間の広縁にする以外に術(すべ)はなく、十四代目の子孫の凡慮によって旧の縁巾を算出すると、修理前の桁行10・5間に対して入側柱間は高木絵図に9間とあることから、その差1・5間が双方の縁巾の合計であり、従って修理以前の縁巾は0・75間(台目または大目)であったことは何人(なにびと)も否(いな)めない修理以前の実態であった。

 一方、増建の許可を得た修理後の桁行は12間であるのに対して入側柱間は旧態のままであることから、総桁行12間と、入側柱間9間との差を二分した1・5間が増建後の広縁の巾といえる。

 このような先祖の英断を虚仮(こけ)にし、『明るければ月夜だと思う』実に単純な愚考の細見・山岸・池野による先祖非難は
『高木文書に1・5間継ぎ足したとあるが、その形跡は何処にも見当たらず、従ってこの元禄修理願は偽りであり、実際は新築である』と、脳漿(脳みそ)が枯渇した無知蒙昧の連中は、先祖を徹頭徹尾疑って愚弄するが、自分の頭の悪さは全く疑わない独り善がりに「へそ」が呆(あき)れて宿替えする。

     ◆ 擬宝珠の刻銘に惑溺した盆暗 ◆

 以上の
元禄修理は同7年1月着手し、6年後の同13年9月10日、京都本山より御門主・寂如尊師が法要を執行された。当時は『空木建て』と称する躯体工事と、造作とを分離した契約であったが、本件は解体不可の小修理であり、躯体の修理は必要ないものの、朽損した野地(屋根を形成する部材)を取替る部分修理をし、土居葺が完了したところで一段落した。

 その後の造作の進捗は詳(つまび)らかでないが、確実なことは本山なみの広縁の外方に切縁を設(もう)け、高欄を廻らした擬宝珠の刻銘に享保元年(1716)とあるだけで
本堂再建と早合点して嘘八百を捏(こね)回し得手に帆を揚げているが、これが真実とすると、小論の冒頭に述べた梁間寸法制限令の如く、現存本堂の梁間寸法は僅か3間の筈であり、加えて屋根の形状も現状の如き入母屋造りではなく、小棟造りの筈である。また柱間を1間に直した基準寸法は、江戸時代の1間基準寸法6・5尺より大なる寸法、つまり現実態は室町時代の基準寸法であり必然的に安土からの移建説が益々濃厚となる。

     ◆ 角柱を円柱に取替えた解体修理 ◆

 
元禄応急修理の証(あかし)となる法要(同13年)より34年後の享保19年(1734)表門を建て替えるべく中井家の許可まで取得したが、前掲の如く肝心の本堂が応急修理の延長線上であったことから矢張り門を後回しにし、これがェ延元年(1748)になると三間梁制限も弛緩の傾向となったことから柱の取替を主眼とする解体修理の契約で着手したが、作事は中断し、改めて宝暦2年(1752)7月、今度は別院傘下の10カ寺が連判し、工期は同4年4月までに土居葺を完了する契約が締結して第二次解体修理が完了、このとき縁柱を除く全ての角柱は円柱に取替られた。

 ところがこの解体修理について建造物係長は高木文書を蔑視してこれを認めず、その理由は
元禄7年に再建された本堂が、50年を満たずしてまたぞろ(またしても)解体修理などあり得ないと、途轍も無い妄想により自分だけは正しいと信じて客観的に考えず、加えて高木に宛てた契約書の文中に御堂(みどう)とあるのを(おどう)と読み、『(おどう)ならば何処にでもあるので必ずしも当別院の契約書とは限らない』と理不尽な言掛りをつけるが、浄土真宗では本堂を(みどう)と呼称し、一方この文書に連判した10ケ寺は全て本派(西本願寺)の協力寺院である。

 このような素人紛(まが)いの偏狂な愚考は、当本堂が県指定となった昭和48年、当時の係長も高木文書に対して
「あんなもん(あの文書)は修理の文書だ」と意味不明の発言があったが、苟(いやしく)も(身分不相応にも)先祖は本山御門主の御依頼による本堂修理について、京都大工頭中井家に修理の申請をし、大工頭は制限寸法より8.5間梁伸(はりの)びといえども修理であるので許可された修理の文書に対して「あんなもん修理の文書だアー」は如何(いかん)とも私の凡慮では到底理解できないがその執拗な魂胆は元禄新築説が払拭できないからである

 案ずるに、猫も杓子も(どいつも、こいつも)自己の不見識を棚に上げ、擬宝珠の刻銘にのみ惑溺して恥を曝しているが、問題の年月はこれが作成された年月、または寄進された年月であって、
『享保元年に本堂も同時に再建した』と書いてある訳でもなく一方、ど素人でもあるまいに『3間梁制限を知らなかった』では調査する資質も資格も無い半可通と嘲罵されても人並に立腹する資格は無い。

 一方、彼等の赤恥は御念が入っていおり、余りにも(法外に)先祖を非難する焦慮に駆られ八幡別院本堂の桁行寸法と梁間寸法とを取違えてその醜態の帳尻合せに躍起になり、
『1間を6尺2寸として計算すると、13・2間となり、ほぼ13間に近い』と糠(ぬか)喜びしているが、この場合6尺2寸云々は関係なく、また寸法の測定にほぼは無く、当本堂修理以前の桁行10・5間に1・5間継ぎ足すと12間ですよと学校で先生に教えてもらったが、この程度の計算も出来ない盆暗が生意気に先祖を非難するのは鳥滸(おこ)がましく、馬鹿げていて、みっともなく10・5間+1・5間=13間では「生兵法は大怪我のもと」世間の物笑いである。

 註 文化財保護課の御偉方は高木文書(元禄7年・八幡別院本堂修理
   文書)を虚仮にして
新築説を強調し、その為に第二次解体修理
   自、宝暦2年7月、至、同4年4月土居葺完了の契約は事実上雲散
   霧消となるが、ならば眼前の円柱は何時角柱から円柱に取替ら
   れたのか?是非御返答を乞う。

PN   淡海墨壷