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2008年9月17日
高木敏雄HomePage

先祖の陥穽を目論む下種の逆恨み

宮大工 十四代 高木敏雄
   
 『知らざるは知らずとせよ、是(これ)知るなり』〔知らない人の半分も知らない癖に、宛(あたか)も人並以上に知っているかの如く見せかけたりせず、知らないことは素直に知らないと言明することこそ、本当の意味で識(し)るということである。〕  論語

     ◆吉田説を過信した山岸常人の迷妄 ◆

 昭和60年、国宝・長寿寺本堂の修理が完成し、次いで三重県津市に甍を並べる重要文化財・専修寺如来堂(高木四代設計・同五代施工)の修理に着手した61年3月、滋賀県教委より『近世社寺建造物調査報告書』が送付されたが、結果としては此(これ)見よがしの当て付けであった。その内容たるや案に違わず「近江八幡の大工組頭・高木家」(筆者・山岸常人)と題する空前絶後の先祖非難は、持ち前の賢しら知識によって論理の体系を無慚に破壊し、完膚なきまで嘘で固めた誹謗・中傷は、先祖の来し方の全てを愚弄・無視した事実無根を羅列して憚(はばか)らないが、この馬鹿げた虚構 (事実で無いことを事実らしく仕組んだ作り事)の経緯をほじくり出すと、当該報告書が私の手元に郵送されたのは前述の如く昭和61年3月であるのに対して、のち奈良文化財研究所の細見・山岸が高木文書を覗(のぞ)き見したのは、更に1年後の62年3月20日である現実に鑑(かんが)み、これより1年早い61年に山岸が上梓した評論は時期的に辻褄が合わないが、摩訶不思議な的外れの根源を糾明すると、我劣らじと焦燥に駆られ、鼻元思案で各地に点在する文書を渉猟した継ぎ接(は)ぎだらけの吉田の自著に山岸常人が翻弄され、単に吉田による高木非難を濡れ手で粟と引用し真偽を糾明することなく無闇矢鱈にに巷間に害毒を撒き散らした配慮の無さが今回の軋轢を生じた嚆矢といえる。

     ◆ 負の連鎖を定着させた吉田・山岸説 ◆

 前掲の歪んだ構造(全体を構成する諸要素の対立や矛盾)に対して、猫も杓子も挙って自己の判断が正しいと誇張するが、そのこと自体は可能であっても大抵は確かな処方箋を明示することができず、挙げ句の果ての屁理屈や先祖非難は全て浅薄な判断力に由来する。

 その不遜な振舞いの根源は、自分自身が置かれている一定(じょう)の常態(立場・職位)を媒介として自己の分際・価値・能力・などを知る自我の意識、即ち自覚の欠如によるものであり、それに纏(まつわ)る判断基準は概念を前提とするが、その概念また幾つかの判断によって成立し、その中から二つ以上を選(よ)り出した明断によって真っ当な結論が導き出される。

 その判断を文章にしたものを命題というが、その先を読むのは一筋縄ではゆかず、世にいう「海のことは漁師に問え」「餅は餅屋に」と言われる所以であり、そこに我々「プロフェッショナル」と、彼等「スペシャリスト」との差が自ずと生ずるが、別して江戸幕府の大工法度や規矩準縄の欠片も知らぬ素人が先祖を非難するのは薄氷を履むが如き無謀であり、以っての外の気違い沙汰と立言しても決して過言ではない。

     ◆ 郡外作事は不可と嘯く吉田の妄説 ◆

 京都大工頭・中井家支配下の江州大工(農村大工組)は御多分に洩れず半農半工の人々が多く、中井家はこれらの大工を郡単位に分割して一郡一組の組織を形成し、その中から大工組頭及び、大工年寄を各一名宛配置したが、元来中井家の基本方針はあくまで顧客第一主義であったので、他郡の建築主が郡境を越えて好みの大工に作事を依頼されるのは自由であった。一方、それに基づいて白羽の矢を立てられた大工は、その旨を先ず自己の所属する大工組頭に届けて郡外への出向を容認する旨の一札を申し受け、これを出向先の大工組頭に提示することにより手続きは完了するが、以上の客観的な中井家の規制と、吉田による(郡外への出向は不可)という閉鎖的かつ「でたらめ」の無責任論とは氷炭相容れず、迚(とて)もじゃないが同日の論ではない。

 更にこれを敷衍すると、前掲の手続き(規矩準縄と畏敬すべき規範・法則)は、金科玉条として最も大切に守らねばならぬ法則であることは言を俟(ま)たないが、更に重要な事由として京都御所の造修営の内、時として焼失に及ぶ緊急作事は各郡の大工組頭が組中の大工を招集した上それぞれが着工中の自普請に対して一時中止を勧告し、即座に中井家が割り当てた大工人数を揃えて京都御所に馳せ参ずる義務があった。従って組頭は常に郡外に出向する大工の止宿先を把握する必要があったのである。

 これを裏付ける文書、「取替をなす証文の事」に先祖・高木但馬を含む東近江五郡の大工組頭が合議した証文に、郡外に出向するときの仲間の作法を誓約させた上で、『その郡(出向先)の組頭の合意を得ずに、みだりに仕事をする者は御上様(大工頭・中井氏)の判断を戴き、曲事(不正)として処置する』とある如く、双方の大工組頭が容認すれば郡外への出向は容易であった。

 これについて何事も知ったか振りで横槍を入れる吉田は確たる根拠も無く一方的に「他郡への出向は不可」と、下らぬ虚言を巷間に垂れ流して世人を誤導せんと画策し、これを鵜呑みにした山岸常人は先祖による蒲生郡外の作事を選(よ)り出して鬼の首でもとったかの如く「高木はこのように幕府の禁令を侵している」と馬鹿の一つ覚えの駁説を自慢たらしく自著に喧伝しているが、当家は開幕以来「幕府公用大工」である退(の)っ引きならぬ責務により当然郡外作事を数え上げれば枚挙に遑(いとま)が無く、逆に「衒学的な井蛙の見」と揶揄されるのは、大海を知らぬ山岸だけである。

 とりわけ捧腹絶倒すべきは、山岸が指摘する僅か5件の郡外作事の内に、東寺五重塔造営(京都市)がある。そもそも本塔は明正天皇の勅命により三代将軍家光公が中井家にその作事を命じられたが、このとき中井家は御所造営の途上で手が離せず、取り敢えず高島郡の大工と高木がそれぞれの配下を連れて他の大工より半年早く現地入りした事実は、家宝・東寺五重塔絵図や、中井家の賃金支払台帳により明白である。それでも『高木は幕府禁令を破った』と吐かす不見識の山岸は、「高木の事なら取り敢えず味噌糞に書けば事足りる」と、愚にも付かぬ「でたらめ」は、へそで茶を沸かす無様な体たらくに他ならず、自分で墓穴を掘る醜態と嘲弄しても過言ではない。『言悖(もと)りで出ずれば、また悖りて入る』(先祖を非難すれば、他者からも非難される)自業自得である。

    ◆ 江戸時代の常識と、現代の非常識 ◆

 『雉(きじ)も鳴かずば打たれまい』(父は長良の人柱と続く)先祖を非難するについて、余計なことさえ書かねば、恥をかかずに済むという戒めである。

 今回、県教委の村田・池野及びこれに雇用された奈文研の細見・山岸による度が過ぎた先祖攻撃は『將を請いて酒を得』、(希望したもの以上のものを得た)にもかかわらず、先学の吉田説を妄信したことにより正論は雲散霧消し、逆に公権力を後楯に自己の僻見をしゃかりきに主張する間抜けた支配が本流を占め、それに感(かま)けて肝心の問題意識を蔑(ないがし)ろにした矛盾に満ちた論述は、有ろう事か下らない屁理屈が先行する恣意的な浅慮と化し、肝心の準則(のっとるべき重要な規則)の無知蒙昧により江戸時代の常識を皆目知らぬ場当り的かつ其の場逃れの愚論は単なる自己満足であって、決して論理的な思考による的確な判断とはお世辞にも言い難い。

 このように、事実を偽ってまで先祖に対する憎しみを増幅させた不毛の連鎖は、知ったか振りで吾人の専門分野にまで介入し、要らざる干渉をした挙げ句の果てに独善主義が高じて自分だけは正しいと身勝手な解釈をし、高木文書の一切を否定する懐疑に満ちた印象批評によって事実を捻じ曲げた有象無象の誤断は、肝心の本質を探究することなく、また、その力量も無く、定見を持たない差し出半学によって雪駄の土用干しの如く反り返って威張り捲り、意図的に先祖を貶(おとし)める人間味の欠落した敵対調査の手法は、物事の真理や道徳的な価値を認めず、その為に論点を空虚にし、因って伝統的な既成の文化までも破壊せんとする真(まこと)に憂慮すべき傾向に堕落した。
PN   淡海墨壷