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2006年11月24日
高木敏雄HomePage

誼を糺し先祖の遺芳を百世に流す

宮大工 十四代 高木敏雄

     ◆ 難波別院と(大阪東御堂?)◆

 大阪が誇る数多のビジネス街の内、取り分け北区の梅田新道から、浪速区の難波に至る南北方向のメーンストリート(全長4・4キロ)は、沿道の大伽藍、北の御(み)堂(浄土真宗本願寺派・津村別院)と、これより南方に甍を並べる南の御堂(真宗大谷派・難波別院)の両御堂に因んで『御堂筋』と名付けられ、何れも昭和20年太平洋戦争によって炎上したが、同27年道路が拡張され、現存する難波別院は同36年、鉄筋コンクリート造で再建された。

 この『大阪のお東さん?正しくは南御堂』の異称について、昭和15年5月発行の『八幡町史』上・中・下巻の内、上巻760頁に『光連(高木四代目)による大坂東御堂の建立』という眉唾物の記述があり、添書きとして大坂東御堂寸法(書)(一字欠字)の事由を、『これは光連が棟梁ニ而(て)被建立(建立なされ)』と町史は注釈しているが、この原拠通りに筆写されていない誣説を詮索すると、(私が十四才のとき)当該町史が発刊され、その内容の一部、前述の『大坂東御堂作事に関与』云々は勿論のこと、他にも首肯できない内容の不備が親父なりに腑に落ちず、取り分け致命的な大打撃は、何と言っても家宝の高木絵図『東寺五重塔五拾分之一比例』の掛軸に、八幡町の役人が万年筆の「インク」を零(こぼ)し、この取返しのつかぬ大失態が慨嘆に堪えられず、親父は、『以後何人に拘らず絶対他見を許すな』と、汗牛充棟の古文書を自らが重要文書(長持三棹)に区分けして封印し、私もこの遺命を拳拳服膺して堅守し、以来、田舎の親戚に管理を依頼している。

 就中に、前述の他家の文書と思(おぼ)しき「大坂東御堂木割書」及び絵図が当家に実在する訳柄について先祖が遺した史策文書(時事解説)を繙(ひもと)くと、宝永3年(1706)8月、当時高木光連は、三重県津市・浄土真宗高田派本山・専修寺如来堂の設計中であり、このとき本山同士の御交誼により、同寺の作事方が難波別院より入手された前掲文書二点を、如来堂設計の参考とすべく高木が頂戴し、それが子々孫々に伝来して現在に至る旨を確認した結果他を抽(ぬきん)出た容易には見られない稀覯文献であることが明白となった。

     ◆ 知らざるは知らずとせよ ◆

 知らぬなら、なまじ書かない選択肢もある。知らないことは正直に知らないと言明することが必然の結果物事を真に識(し)るという事であり、奈良国立文化財研究所や、県教委という看板を標榜し、虎の威を借る狐の如く見掛けだけの虚勢を張ってみても、所詮は実質が伴なわず、度が過ぎた先祖に対する人権無視は却(かえ)って文化の剥奪に繋がると宣言しても過言ではなく、もう少し自分を謙虚に省察し、知性的な大人(おとな)びた判断、つまり、『自分が間違っているかも知れない』と、遜(へりくだ)った思惟をすることが知性であって、『自分だけが正しい』と思い込み、他者まで強迫するのは知性ではなく、それは意固地な独り善がりである。

 元来、事象の本質を碌(ろく)すっぽ探求せず、取るに足らない事柄に拘泥した官界の愚にも付かない今回の調査は、幕府規制(自己の居住する郡以外での作事の可否)に惑溺した無知蒙昧な人間が物事に絡む弁識能力も無く、剰(あまつさ)え歴然たる故事来歴(難波別院宝永再建の参考資料)を蔑(ないがし)ろにし、有ろう事か、
奈文研・山岸説では自己の著書『建物の見方・しらべ方』に、見当違いの邪推によって無辜な先祖を中傷して憚(はばか)らないが、その悪辣な常套手段は止(とど)まるところを知らず、『高木は幕府の禁令を破って郡外(大坂東御堂)の作事をした』と、阿呆の一つ覚えの如く先祖を貶(おとし)め、故意に事実を歪曲してこれを巷間に垂れ流した奸策は、私の反駁(当を得た支証の発表)により虚誕であったことが露見し、『天網恢恢疎にして漏らさず』(天は我等を見捨て給うことなく)、逆に山岸説の虚妄(うそ・いつわり)は、無様な体たらくを曝(さら)け出す自業自得の奈落に陥(おちい)った。

 以上の如く呆(あき)れが礼に来る程の井蛙の見を後ろ盾に、素性の違う止ん事無い御身分の彼等と意志の疎通を測(はか)るのは、迚(とて)もじゃないが事実上不可能であり、次第に意識の乖離を醸(かも)し出し、その体得技術の差異により必然的に寛容性が失われ、事象の成立が覚束ない(不安な)羽目となった。

 それでも門外漢の連中は、頑強に思考が短絡化した理念無き御託を並べ立て、物事の真の姿を見極めることなく、混濁した思考による先祖非難の筋書きは、唯に証拠(不揃いの社・寺蔵文書)を当て嵌めれば事足りると安易に信じて疑わない偏頗な判断を焦眉の急務として疎外・敬遠し、鳥許(おこ)がましいが、史観に基(もと)づいた実相を表顕し、この拙文が論理の繋がらない軌道修正の一助にと、只管(ひたすら)に希求するものである。

     ◆ 本願寺の流転と天満への移寺 ◆

 『難波別院由緒』及び、『顕如上人(本願寺第十一世御門主)余芳』によると、天正8年(1580)織田信長と合戦の拠点であった石山本願寺を余儀なく退去して鷺森(和歌山市)に移転、続いて同11年(1583)今度は貝塚(大阪府南西部)に移られたが、更に同13年(1585)5月、豊臣秀吉が天満に寺地を寄進したので、同年8月、阿弥陀堂を造営してここに移り、翌14年(1586)には御影堂も上棟されたが、同18年(1590)1月、秀吉は再々度京都に移ることを命じ、翌19年8月、現在地(京都市下京区堀川通七条)に移転、結局本山が天満の地に在住した期間は、天正13年8月から、同19年8月までの6年間であった。

     ◆ 教如上人による天満御堂の創建 ◆

 前述の如く、天正19年(1591)8月、本山本願寺が天満から京都に移転されると、大坂の門徒は准如上人(本派)と協議して『渡辺』(現在の天満橋と天神橋の中間に淀川を挟んで北渡辺・南渡辺があり、その中間に渡辺の津があった)に天満御堂を建立され、
続いて教如上人が文禄5年〔同年7月改元され、慶長元年(1596)に同じ〕渡辺の地に『大坂本願寺』として創建された。その規模は、「難波別院由緒記」によると、
   桁行・梁行共に11間、
   向拝桁行5・5間・同梁行2間
   前方、正側面三方の広縁出巾、10尺、
   同、三方落縁の出巾、1間、
   背面の縁巾、10尺、と明記されている。
 註 
当該建物は、のち弘誓寺本堂再建に食指が動くことになる。

     ◆ 弘誓寺本堂の造営過程 ◆

 神崎郡志『弘誓寺の項』によると、正応5年(1292)犬上郡に本堂を創建、のち、慶長3年(1598)現在地(当時は神崎郡)に移り、45年後の正保元年(1644)3月、本堂が朽損したので『大坂で古堂を買求めて再建』し、更に110年後の宝暦5年(1755)10月、『大坂天満に存在した本山(東本願寺)の古堂を拝領して再々建す』とある。

 また、これより2年以前の宝暦3年(1753)5月、同寺院より寺社奉行に提出された『恐れ乍ら書付を以って申し上げ候』とする文書に、「往古の本堂(創建)は、正面6間・奥行7間」と述べ、只今(宝暦3年現在)の本堂は、代官小堀遠江守支配の正保元年3月、大坂の古堂を買求めて建替した旨を報告し、(この寺社奉行宛の文書には、再建本堂の規模は記入されず)庄屋・年寄各一名が、『弘誓寺が申し上げなされた通り相違なく云々』と、署名している。
                (弘誓寺文書より抜粋)

     ◆ 拝領本堂に纏綿する実情と改変 ◆

 弘誓寺(浄土真宗大谷派)本堂再々建について、宝暦5年(1755)10月、地元大工が中井役所に提出した普請願の原拠(高木文書)には、『在来本堂が大破したので再建致したく、この旨を当該寺院より本山(京都東本願寺)にお伺いなされたところ、幸い摂州大坂、天満の御坊に先年より畳置きなされた(解体して片付けてある)梁行11間・桁行11間・前三方に幅10尺の広縁・同1間の落縁(他は略す)を本山より拝領云々』とある御堂の来歴を探求すると、真宗大谷派の始祖・教如上人が、慶長元年(1596)大坂天満(渡辺の地)に『大坂本願寺』として創建され、同3年、秀吉による町制改革によって現在の地(難波)に移されたが、このとき当該建物は旧態依然として天満に残したまま、同13年(1608)の天満御坊屋敷替によりこれを解体して収納し、宝暦5年に至り前述の如く白羽の矢が立ったもので、この千載一遇の栄誉は始祖による創建から教えて実に159年後の事であった。

     ◆ 宗派による大工棟梁の選択 ◆

 一概に断ずることはできないが、旧時代に於ける有り触れた暗黙の了解として、伽藍の中軸たる本堂造営に采配を振る棟梁の選択は従来の縄張り(営業範囲)の埒を越えて、造営を企画される寺院の宗派と同じ宗派の大工の中から、人物・才能などを詳しく調べ選出することが従来の仕来り(習慣)であり、その事由とは、それぞれの大工が普(あまね)く仏様の教えを、その宗派の創始者を通じて信じる仏教徒として具有する信奉・崇敬の念が、他宗の人に比べてその度合に差があり、取り分け菩提寺の作事となると、心底から報恩の真心をこめて与えられた仕事に没頭できるからである。

 因みに、当家は先祖代々浄土真宗門徒であることから、開祖・親鸞聖人や、のち東西分派による真宗大谷派の始祖・教如上人を信奉・崇敬する仏縁により、同宗派の弘誓寺より今回の本堂造営に際して高木但馬に御下命戴いた事実は、
強(あなが)ち郡外作事可否に抵触するものでもなく、一途に奈良国立文化財研究所、細見・山岸説、県教委、村田信夫・池野保説の如く、素人判断によって揶揄嘲弄される覚えは微塵も無く、『総ての道はローマに通ずる』一つの心理の発露であり、彼等の浅薄な判断は、自らが天に唾し、自分の足元を掘り崩す愚の骨頂である。

 以上の如く建主(寺院側)が郡境(ぐんさかい)・国境を超えて好みの大工に仕事を依頼されるのは建主の自由であり、第一に京都大工頭中井家自体が顧客第一主義であることから、受注が集中して大工側が手支えとなり応需不可能なときは、「知己の信頼できる仲間に依頼してでも建主の要請に応ずること」と定めており、例えば高木よりこれを依頼された仲間の大工は、中井家に提出する建築申請書に組頭高木の承諾印のあるものを提出し、その許可済の書状は高木に返却し、仕事だけをするという慣例から必然的にこの種の書状が多く当家に実在する事由を、
細見・山岸説では知ったか振りにより、『高木は組頭という権力を行使して、多目的に他の大工の申請業務まで吸収し、その証拠としてこの種の書状が多数高木家に存在する』等と、下種の勘繰りによる間が抜けた誤断の端緒とは、仮令(たとえ)古文書が読めたとしても肝心の内容が把握できず、取るに足らぬ偏頗な愚論は客観的な実在性を欠き、一途に先祖を誹謗中傷することにのみ汲汲として溜飲を下げる度し難い虚構(事実でないことを事実らしく書くこと)は、物事の実相を極める力量も無く、とどのつまりは高木文書の内容を捏造した虚妄(うそ・いつわり)が増幅され、筋の通らない低次元の短絡思考により、『高木作右衛門の系譜とその作事』と題する調査報告・他に先祖代々を惚けた感性で愚弄し、下らない先入観に誘発された虚誕(でたらめ)や、付会(こじつけ)の説は古文書の内容を逐一逆手に解釈し、自己の至愚(極めておろかなこと)を棚上げにして先祖を踏みにじる陋劣な報告書は、調査する資格と適格性を欠いた感情論となり、それが増長した争点は主観的な要素が多い支離滅裂の駁論(先祖を非難して攻撃する)の成れの結果はバカ気ていて、みっともない世間の物笑いであり、至上(この上もない)の恥曝しでもある。

     ◆ 事実を踏まえたプロの考察 ◆

 古人の箴言に、『腐木は柱と為(な)すべからず・非学者を主宰と為すべからず』(人はそれぞれに向き・不向きがあるので、人選については充分考慮すること)という戒めである。古文書の調査も同様で、幕府規制すら無知な面々が、殊勝な心がけで先祖を論(あげつら)い、懐疑的・没論理傾向の危惧な矛盾を深刻化させた挙げ句の果ては、事実無根の無責任な公表をして恬然とする読解力の無い連中や、知性の欠落した人間を選ぶこと自体が最大の恥辱であり、押し並べて、古文書の解読に直接関わりを具有する当事者意識と、社会的に責任がある重要な自己の立場を認識して与えられた重責を果たすには、古文書の深い意味を味到した上で、事の本質を洞察する能力の薀蓄が肝要である。

 それについて、物事を大所・高所から多角的に分析・検討し、必然的に実務の均衡を保つプロの知識が求められるが事実は案に相違し、愚にも付かぬ途方も無い誤認によって中核的な根拠を否定し、非合理な判断で先祖を非難しているが、それは永い伝統によって蓄積された傲慢な構陥であり、権威主義による縦割り行政の弊害以外に何物でもない。

     ◆ 他郡の本堂建築願と問題提起 ◆ 

 弘誓寺本堂再建(さいこん)の経緯を覆考すると、正保元年(1644)『大坂で古堂を買求めて建替云々』に次ぐ100余年後の宝暦再々建(元年は1751)の事象について、高木但馬は大坂天満御坊に片付けてあった古材の内から、再用材と取替材を峻別した上で、中井役所に提出する建築願を当時の定法に準則した代筆をし、宝暦5年(1755)10月、
地元大工が願主としてこれを中井家に持参した。取り分け近江国の管轄は、大工頭が直接これを審議する慣例に従い、『大工・利兵衞へ』と書き付けた修理許可書(高木但馬代筆の願書に大工頭が裏書をしたもの)を願主の大工に手交された。

 これについて高木は願書の執筆責任(後日の証拠)として予(あらかじ)めこれを2通作成し、
(1)1通を地元佐野村の利兵衞氏(脇棟梁)に依託したが、この中井家の裏書を得た原拠の文書は当為〔正(まさ)にそうあるべきこと〕の暗黙の了解として、利兵衞氏が自宅に永久保存し、残る(2)大工頭の裏書の無い副書が当家に現存する。

 一方、弘誓寺に実在する
(3)文書は、寺院関係者が後日(1)の文書を筆写した単なる覚書であり、以上の(1)・(2)・(3)文書の価値をそれぞれ検討すると、当然(3)文書は最も低位といわざるを得ないが、何故か?メモ程度の当該写しが『重要文化財・弘誓寺本堂の附文書』に認定され、況(ま)して宝暦5年10月、許可を取得したものの時を移さず本堂が新築に計画変更され、当初の古堂修理案は必然的に御破算(最初の白紙状態に戻る)となり、反古となった(3)の当該文書を鹿爪らしく(もっともらしく)文部大臣に具申する一方、翻(ひるがえ)って眼前の本堂が宝暦期の新築である事実から益の無い物事、即ち両案を対比し、『これぞ高木が虚偽の申請をした証拠〔(3)の文書〕である』と、自己の浅慮を棚上げにし、鬼の首でもとったかの如く一方的に捲(まく)し立てる理不尽は取りも直さず子供の作文にも劣る整合性を欠き、世辞にも矛盾が無いとはいえない本末転倒であり、名有りて実のない連中によるその場逃れの無様な体たらくは、到底喧喧諤諤の難を免(まぬが)れない群衆心理の愚考と嘲弄されても尚、余りある。                 
          (奈文研・細見・山岸説、県教委・村田・池野説)

     ◆ 識見を曲解する卑劣な愚策 ◆

 『積毀〔謗(そしり)が積る〕と骨をも鎖(しょう)す』つまり、讒言(ざんげん)〔先祖を貶(おとし)める目的で、故意に事実を捏造し、また、これを偽(いつわり)り、剰(あまつさ)え、不実を公表して名誉を傷つけること〕も多く積れば、遂に骨までも溶解してしまう。即ち、物事の本質を洞察する力量の欠落した連中が、御座なりの常套により高木文書の内容を歪曲し、恬然として恥じない
細見・山岸・村田説に惑溺して判断力を失い、党同伐異に諂(へつら)って理非を分別することなく、これに追従した池野説を交えた活字の暴力(事実無根の冤罪を書き立てた悪辣な手段)を比喩した先人の格言である。

 これに纒(まつ)わる問題意識、換言すれば単純には結びつかない関係にある二つの物事を簡明直截に結び付けようとする間抜けた短絡思考を排斥し、前述の拝領した本堂を修理して建直す計画が、急遽新築に改変された過程の中核を逸早く透察した結果、意識に上(のぼ)る
〔従来の県教委の調査では何人も気付かなかった実態を見定めて、改変の事由を弁識し、彼等による不健全な調査事項を確実かつ明白にし〕常軌を逸脱した素人判断を徹頭徹尾蔑(さげす)み、先祖の確然たる奥義を参考に奈文研・県教委による杜撰な調査をここに剔抉するものである。

     ◆ 新築に改変された事由の探求 ◆

 折角の由緒ある古堂改築案が急遽新築に変更された理由(わけ)の第一義とは、案ずるに建設地の都合に拠るものと考えられ、その焦点とは従来の拝領本堂桁行を2間切縮めて9間堂に造り替える事が主眼であったことに基因する。これにまつわる退(の)っ引きならぬ問題点を高木但馬の血縁の者として思考し、これを列挙すると、そもそも11間堂と9間堂では自ずと柱の直径寸法に差があり、特に本件の如く古柱を再用する場合は、厳密に言えば9間堂に見合う柱の太さに削らねばならない。

 続いて桁行寸法の切縮めに言及すると、本建ちの柱間(入側柱から対面する同柱までの距離)を縮めるについて、それぞれの中の間・脇の間寸法が、9間堂に相応した按分比例が生ずるため、該当する柱位置の移動を余儀なくされ、これに伴って桁行横架材の内、特に虹梁等は切縮めにより両端の彫刻部分が切断されて採用不可という憂き目を見ることになる。

 また、高さ(矩計り)関係、即ち柱長さの差障りについて柱の上・下の切断は容易であっても喫緊の要事として、当初の基本設計に際し、先ず建物の間口(外観)に比例した柱径が決定され、それに基づいて縁高が定まり、これの寸法比例で軒高が決まるという社寺建造物特有の制約による内法(鴨居から敷居までの距離)の縮小対策は、埋木以外に方法・手段とて無く、その他、向拝桁行にもこれが波及し、次いで入母屋の縮小は妻飾りにも影響し、これを怠るときは妻から妻までの距離(見端)が9間堂に比例した全体の均衡まで崩すこととなるが、それでもモノツクリを自負する者として改築不可能という文字は我が辞書には無いが、反面、経済面からいえばこの改築は相当な割高となり、高木はこれを寺院に建言し、合議の結果新築に変更されたものである。

 一方これを改変と決め付ける根拠とは、宝暦5年10月、一旦修理許可を取得したものの、高木但馬は翌6年5月、すべて新材で拾い出した木材明細書を寺院に提出しているが、これ自体一朝一夕で作成できる訳もなく、その翻意は新築に決定した直後間髪を容れず、改めて新築本堂絵図の作成に着手し、矢継ぎ早にそれに基づく木材明細に次いで素建ちまでの請負契約書まで作成した期間を勘案するとき、以上の書類を寺院に提出した時日は当初の修理許可入手より7ケ月後のことであっても、これを逆算すると、遅くとも宝暦5年暮までにこの改築が本決まりとなり、
地元大工は再度新築許可を取得し、高木はこれを確認した上で新築用の書類作成に着手したと考えて大過はなく細見・山岸・村田・池野説による下種の勘繰り、即ち、『新築の申請では不許可となる可能性があるところから故意に修理・修復という事でその目的を変え、つまり虚偽の申告をして無理矢理許可にこぎつけたとするのが妥当なところであろう』
『しかし乍ら、蒲生郡・神崎郡と大工組違いについてと、わざわざこれに前文を付けているのをみると、その経緯は必ずしも平穏であったとは言いきれず、そこに高木一流の政治力が働いた』
等と、作為的な虚誕(でたらめ)や、条理に外れた底の浅い誤断で先祖を論難し、道理に悖逆した不見識な怪訝の弁(不思議で合点がゆかない真偽の弁別)は、肝心の論旨が曖昧であり、真理や道徳的価値を認めず、伝統的な文化や、その制度を破壊しょうとする蕪雑な論難は、確たる裏付けがある訳ではなく、単なる憶測の垂れ流しは必ずしも理念に基づいたものでもなく、さりとて議論が収斂しているとは世辞にも言い難(がた)く、稚拙極まる中傷の積み重ねで傷ついた自尊心の暴発により脆くも崩れ去る捧腹絶倒の噴飯の至りである。惜しむらくは、もう少し脳漿を絞って物事を考える事ができないのか?その異常さを異常と思わない感性こそが甚だ異常である。

PN   淡海墨壷