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2006年2月13日
高木敏雄HomePage

皮相的な妄説の全貌を発く 

                      宮大工 十四代 高木敏雄

 江湖の普く人々のすべからくは、(当然なすべきこととして)社会の裨益を目的とした学術研究の構想に臨み、それぞれに得意な分野の策定をするのが一般的であるが、取り分け旧時代の大工の生き様の研究には、該博な知識に況(ま)して先蹤(前時代の実例)の内、史策(事実を述作した信憑でき得る古文書)を博捜するのが常套的な遣り方である。

 これについて中国の聖人の名言に、『悉く書を信ずれば、則ち(直ちに)書無きに如(し)かず』とある如く、見掛けはいくら立派な書物であっても、全てに真理(本当のこと)が書かれてあるとは限らないので、著者の肩書にのみ惑溺し、書かれた内容の全てを鵜呑みにするくらいなら、逆に読まない方がよい、という頂門の一針(痛切な戒め)がある。

     ◆ 既刊にみる事実誤認の弊害 ◆

 前述の箴言にみられる「読まぬ方がよい書物」と軽軽に論じることはできないが、昭和2年、甲賀郡の匠家の古文書を出典とした『江州甲賀の大工仲間』黒正巌著には、

『大工はそれぞれが居住する郡内に於いてのみ仕事を営むことを得、他郡に出て大工稼業をしてはいけない規定になっている』

と、大局的に判断することなく、一途に恣意的な解釈をした上で、重ねて、

『大工の営業活動範囲が組限り(郡限りと同義)に限定されていた』と述懐している。

 これについて蛇足を差し挟(はさ)むと、我が近江国は一郡一組の制であることから、謂(いわ)れ無く
「郡外への出向は不可」と分別なく局限することは、裏返しに考えて「他郡の大工の入り込みをも阻却する排他的指弾の視野狭窄ともなり得るが、中井家では徳義を重んずる大工仲間の作法を究極の真理とし、回を重ねてこれの洞徹を組中に触れ流しているが、管見によるとこのような閉鎖的な規制は勿論なく、黒正氏の主唱する郡外作事不可説は偏(ひとえ)に、早計の謗(そし)りを免れない井蛙の見(けん)と考えられる。

     ◆ 基本原則と追而書 ◆

 蓋(けだ)し、(確かに)黒正説には、元文5年(1740)3月5日、当家の祖、高木但馬を含む東近江五郡(栗太・甲賀・野洲・蒲生・神崎)の大工組頭(甲賀のみ大工年寄の代表)が立ち合い、『取り交し(文書の手交)を為(な)す証文の事』と題し、
〔先年以来の申し合せが猥(みだ)りに(だらしなく)なったので、今後も先規の約定を固く守るべく〕という証文を交し 〔このように証文を交した上は以後、他郡への入込み細工(作事)は堅くつかまつるまじく(決してしない)〕とする取り決めをした。

     ◆ 郡外作事の是是非非 ◆

 以上の約定は、いくら刮目しても
他郡への入り込みはしないと誓約した内容であるが、これは飽くまで基本原則であって、続く跋文(あとがき)には、
『今後この旨を守らずに他郡に入り込み、その郡の組頭に相対(あいたい)を遂げず(相談して承諾を得ず)仕事をした者はお上(京都大工頭)に届け、きっと曲事(罪科)の取り扱いとする、後日の証文この通りである』
と決縄し、追記として、
「念の為に右の証文の写しに各人の連判をとり、中井役所に提出する」と結んでいる。

 因(ちな)みに、特別の例として、中井家では顧客第一主義であることから、郡外の建主が郡境を越えて、好みの大工に作事の要請をするとき、それは建主の自由であり、一方、依頼を受けた大工はその応需の作法について、中井家支配下六ヶ国大工共通の作法として、先ず自己の所属する組頭に出向する旨を届け、この付託を受けた組頭は先方の組頭に仕事は今回限りである旨の了解を求め、両者の合議・納得の上で、始めて郡外の出向が中井家より容認されるという、後日の紛争なきよう万全の策を講じていたのである。

 以上のように、中井家が微細な点にまで配慮した細目(こまかい条目)を、経済学専攻の黒正説では見切り発車の焦慮に駆られ、折角の先人の来し方を一定の基準で律しようとした。即ち、独善な見解で幕府の定めた広汎な規制を矮小化し、元文5年(1740)3月、五名の大工代表による鳩首会談を唯一の拠りどころとし、抽象的な主観で捉(とら)えているが、事実は案に相違し、これより遡及すること77年、中井家ではすでに寛文3年(1663)大工仲間の作法を六ヶ国全般に周知徹底すべく触れ流した戒飭(かいちょく)を最古とし、以来同8年(1668)・元禄8年(1695)・宝永7年(1710)に次いで、黒正説の元文5年(1740)と、頻繁に同種の触状を公布している。

 取り分け、前述の元禄8年『何れの組もこの定めに候』とする触状は、最も委曲を尽くして述べているが、黒正説に述べるところの、肝心要の内容の真偽を確定する論断の史料は、残念乍ら江戸時代後半にのみ集中しており、迚(とて)もじゃないが同時代全体を踏破するには原拠(出典の古文書)の制約もあってか?論点が若干乏しい杓子定規で御座なりの解釈となっており、敢えて直言すれば一部に於いて事実誤認が散見するのも事実なのである。

 このように、幕府の定めた規制は輻湊に過ぎるので、簡潔な一例(証拠)を示すと、野洲郡に存在する寺院本堂が茅葺であったので、宝暦8年(1758)これを瓦葺に改築する計画があり、翌9年、思いがけず当寺近くの寺院本堂も同時に新築されることとなった。ところが請負大工について、後者寺院の役員諸氏より「野洲郡大工では不得心について」と中井役所に届け出たことから、「二ケ寺共に高木が造工するように仰せ付られた」とあり、この決定に地元大工は及ばず乍ら加勢することに寺院側も納得、高木によって二ケ寺が同時に造営された。

 (木を見て森を見ず)黒正説で主唱する通り、郡外作事が幕府禁制によって不可であるのなら、これを取締る中井役所自体が野洲郡の本堂造営に際し、蒲生郡の高木に下命されるのは辻褄が合わず、理不尽極まる自家撞着といわざるを得ないが、このように大海の一滴の黒正説では生半可な基本原則の皮相にのみ固執し、誤った潜在意識が心中に蔓延(はびこ)って反復出現する正鵠の誤り、俗にいう差し出がましい主観的な誤断ではなかろうか?

     ◆ 道聴途説の口耳の学 ◆

 先人の格言に『一人が虚を伝えると、万人が実を伝う』と諭(さと)している。例えば、一人が道の行き摺(ず)りにいい加減なことを言い触らすと、すぐ様この話(道聴)は実質以上に誇張され、然(さ)も事実であるかの如く、実(まこと)しやかに別の人に説いて聞かせる無責任な不毛の受売り(途説)が、案外世情に通じるという、真にもって憂慮すべき虚実皮膜(事実と虚構との中間に芸術の真実が介在するという芸術論)の捩れ現象を醸(かも)し出すが、この縁木求魚(方法を誤った)の挙句の果ては、大抵が袋小路に行き詰まるのが落ちである。

 この迷妄の打開策たる正しい筋道、即ち斯道の真骨頂を極めるには、毅然としてこれに適応する本物の古文書を学ばねば窮極的な奥義を知り得ず、また、その真価を発揮するにあたり、信義則の観照を用いなければ到底徳義の充(み)つるところを識(し)り得ない。
 
 註 参考までに信義則とは、権利の行使や義務の履行にあたり、社会
   生活を営む者として、相手方の信頼や期待を裏切らないように、
   誠意をもって行動することの私法上の原則である。
                   「広辞苑 第五版」より

     ◆ 木から落ちて溺死した猿 ◆

 猿が池の水面(みなも)に映る月を取ろうとして(猿猴取月)木から落ちたように、人間にも他者より抽(ぬき)ん出て過去の事を知ろうとする貪欲があるが、度が過ぎた身の程をわきまえぬ知ったか振りの高望みは、ともすれば大失態を演ずるものである。

 古文書の解読も御多分に洩(も)れず、書かれた内容を熟読玩味することによって真の姿を探求し、そのことによって蓄積された知見を巷間に普及すべき筈のところ、江戸時代の物事を皆目知らない蹉跌、そして、これを知ろうとしない怠惰による不見識や、非合理な賢しらは微温的で、(物事が中途半端で徹底せず)遂には為(な)す術(すべ)を知らない体たらくとなり、挙げ句の果ては不誠実な胡乱(うろん)者として自分で墓穴を掘ることとなる。

 即ち、高木文書の内容を並外れた怨恨によって故意に逆手に取り、自己の至愚を棚上げにして、先祖に対する嫌悪感と非難を集中させた、人間味の欠落した卑劣な侮蔑は、調査をする資質と、適格性を欠いた鳥滸がましい醜態を曝け出し、その現実を無視した抽象的・空想的にしか考えられない観念論に終始するが、それは、自分に都合よく事実を歪曲し、捏造した偏狂者であり、下らない感情論ではなく、今少し大人びた主知主義で論ずべきである。

     ◆ 猫に小判となった公開文書の本質 ◆

 親父宣(のたま)わく、高木作右衛門を継承する者は、本質的で最も価値ある思索として『先ず先祖伝来の古文書を悉く暗記するまで読破すること』と、至難の業を厳命し乍ら、自らは寿命を既知していたかの如く無責任に夭逝したが、熟読を奨励した理由は在生中に当家文書を出典とした蒲生郡志・八幡町史が発刊され、後者の一部に千慮の一失の記述があったことから『今後は絶対に他見あるべからず』の遺命により、稀覯文書を始め、大半を封印して現在に至っている。

 註 このような憂慮すべき事柄は、早くも寛永期(1624〜43)の半ば、
   現存する洛東清水寺本堂造営に関する大工の逸話を、のち江戸中期
   の本草学者(薬草の研究)松岡元達(1668〜1746)が、当家に関する
   不実を木版(瓦版のような方法)で公開したが、高木兵庫はこの悔
   恨の情を子孫の戒めとすべく書き残している。

 以上の痛恨の極みから、私は古文書の公開・非公開の峻別について、設計技術部門の木割・支割の奥儀、社堂秘記、極秘伝等は非公開とする他、象牙の塔と異称され、現実とは没交渉で、それでいて論には負けない非学者の閲覧申し入れは敬遠した。
 一方掛替えとして、枯れ木も山の賑(にぎわ)いとなるように、他見に供しても故障(さしさわり)なき文書や、延宝期(1673〜80)以降、建築申請制度となって京都大工頭中井家に提出した書状100点は、何事も懐疑的にしか物事を考えない彼等に見せても当り障りのない確信をもち、この種の文書のみ公開したが、それでも結果は完膚無きまでに味噌糞に書かれ思慮分別なき匹夫の報告書として公表された事は前述の通りであり、当初から先祖に対する嫌悪感と非難を集中させた、人間味の欠落した支離滅裂の態様は文化の破壊に繋がる。

     ◆ 先入観に誘発された吉田説 ◆

 『東近江五郡の郡組について』昭和51年10月、(吉田高子編)に述べるところの五郡とは、琵琶湖の東に位置する神崎・蒲生・甲賀・野洲・栗太を指す。ところが吉田説では表題の案に違(たが)い、蒲生・野洲・甲賀三郡の実態以外は述べておらず、史料の枯渇によるものか?蕪雑で大風呂敷を広げた僭越の論説は如何とも腑に落ちないが、このように既知の誤断を一番手柄の焦慮に駆られて一層増幅させ、断片のみを繋ぎ合せた整合なき弥縫策の論述は、信憑性を強く疑わしめるものがある。

 これに関連する道義的な筋道として、高木文書を調査した?と、大言壮語して憚らない連中より、世間の「芥」の如く指弾されているモノヅクリの私が、他者の論述を論(あげつら)うが如き差し出がましい干渉は場違いであるとの凡慮から、心の葛藤をも生じたが、一方先祖の汚名を挽回すべく視野を変えてこれを包括的に論ずると、この喫緊の要諦たる先祖の中傷は、書く側にすれば興味深く、溜飲を下げたであろうが、血縁の私にすれば、彼等の愚にも付かぬ憶測の推論を、只管(ひたすら)血涙を溢(こぼ)してまで拱手傍観するに忍びず、況して、これの根幹をなす事柄自体、前述の論点無視の誤謬(郡外作事不可説)を、当該吉田説でもこれを丸呑みにし、その為に味も素っ気もない観念的な判断に基づく事柄を、恰(あたか)も鬼の首でも取ったかの如く、これぞ高木非難の論証であると錯誤し、折角の古文書に邂逅し乍ら深読みすることなく、取り付く島のない窮余の策の孫引きとし、
『仕事場所を郡限りとし、他郡へは立ち入らぬ事とした』と、二番煎じの身も蓋もない論説を滔滔と捲(まく)し立てるが、斯道の根本法則(幕府規制全般)を精査することなく、さりとて先人の拠(よ)って立つ(よりどころとする)奥深さを理解することなく独り善がりの土足で介入し、浅薄な中傷をして憚からない、呆れ果てた筆誅は、返す返すも遺憾である。

     ◆ 虚構と捏造が混交した吉田説 ◆

 京都大工頭中井家支配下の江州大工は、大坂、京都の都市大工に比べ、農村地域の大工組(半農半大工)であり、それ故に各人が居住する「郡」を単位として編制された、いわゆる一郡一組の制度であった。その成立の時期について、吉田説では昭和2年の黒正説を引用した寛永12年(1636)説を妄信して憚(はばか)らないが、残念乍らこの異説は両者共に大変な見当違いである。

 このように、誤った生半可な固定的観念に基づく郡大工組の初期の形態を吉田説では、
『成立後いくつかに組分けされ、(1)幕末まで存続したもの、(2)完全分立したもの、(3)内部分立したものと、それぞれ異なった状況に変化する形をとった』と条理を逸脱した珍説を述べ、恬然として恥じないが、(1)組頭の相続は成る可く世襲が望ましいと希求する中井家の意向を尻目に、頻(しき)りに組頭の交替をみた野洲郡大工組に比べ、(2)甲賀大工組は完全分立したと、確固たる根拠もなく決めつけた吉田説とは裏腹に、現実は同郡池田村住の佐治右衛門が、享保20年(1735)組頭を辞されるや、補佐役の大工年寄が代理を勤め、幕末まで甲賀大工組として存続したことは明白で、疑う余地のないところである。

 それでも吉田説では狷介な自説に固執し、
『甲賀郡の場合を見ると、これが表向きにも五組に組分けされてしまう』と存続説を否定し乍ら、一方では『年寄が組頭に代ってその役を勤め、甲賀郡は蒲生郡より早くから五つの最寄りに分かれていた』と、最寄の制度(後述する)を認識し、大工組の存続を肯定したかと思うと、結論では『五つの大工組に分立したのである』と猫の目の如く否定・肯定をくり返す曖昧な論述はますます迷想し、紆余曲折した不得要領の虚誕を、さも自信有りげに捲くし立てる。

 そこで前述の「最寄」の本質を究明すると、年毎に増加する大工数に伴い、中井家では京都所司代経由の幕命の伝達を、従来の一郡一名宛の組頭と大工年寄のみでは、その規制が郡の隅々の大工まで周知徹底せず、その対策として、中井家の意向により一郡を五分割とし、(それぞれの大工宅の近隣グループで、最寄、または向寄という)一つの向寄に大工年寄を一名宛配し、この五向寄の五名の大工年寄の頂点に組頭一名が存在したのである。

 これについて蛇足を述べると、この向寄制度は、当初一段と勝(すぐ)れた案であったが、次第に弊害をもたらした。即ち、五つの向寄内で違反事実を見付けた者は、その当事者が親・兄弟たりとも大工年寄に密告せよと命じ、中井家の走狗になり下った年寄が、逐一これを中井家に報告して媚(こび)を売るといった、年寄り同士で浅ましい同業者意識を醸し出し、これによって元来親密だった大工仲間相互の隙間風は他所他所(よそよそ)しい雰囲気や、疎遠・対立の兆候をも生ずるに至ったのである。

 つまるところ吉田説では、実態を把握することなく、取り留めのない抽象思考によって、折角成立した瑕疵なき郡大工組を恣意により、
「五組に組分けされた」「五つの大工組に分立した」等と、非現実的で実体のない幻想を、事実として大言しているが、その身勝手な解釈は、従来の一つの組が五つの組に増殖されたという貧困な発想によるものである。

 私が敢えて吉田説に反駁する正当な根拠とは、貞享3年(1686)、大工頭中井家申渡覚第一項には、『六ヶ国の大工組頭は、組分けに(郡内別に)五人組を申し付けるので、不作法なきように五人組の内にて吟味し、御公用(幕府公用作事)を大事に努めること』とある。これは前述の如く大工組の運営に際し、今回五分割した小班として編成し、従来組頭と大工年寄とで果してきた機能が、大工人数の増加によって支配に差し障りが生じ始めたので、五班に分担し、活性化させようとした、のちの最寄・向寄の「さきがけ」的なものである。

     ◆ 吹毛求疵の誹謗中傷と吉田説 ◆

 『百様を知って一様を知らず』(博識ではあるが、大切な所が抜けている)前述の吉田説では、物事の根底に存在する実体を探求し、これを理知的に判断することなく、客観的・実在性に欠けた観念と、蓋然性がもたらした「吹毛求疵」(毛を吹いてまで他者の傷を求める粗探し)は、逆に自己の欠点を曝(さら)け出す愚挙となり、その独善の深層は、先祖の来し方を激しい論調で愚弄した極限の誹謗と言い得て尚、余りある。

 一方、憶測を逞(たくま)しゅうした陋劣な手段は、亀毛兎角の中傷となり、真実と信ずるに足り得る相当な証拠もなく、一途に社会的に許容でき得る限度を超えた感情論で先祖を指弾し、不実の公表をしたのである。

 前掲の事象に関連する焦眉の急の案件とは、先入観に惑溺した謬論に基づく観念、即ち、現実から乖離した主観的な構成による屁理屈が、直観思考による形式論となり、史料の涸渇によるものか?見掛け倒しの机上空論に拍車を掛けた文飾を施し、挙げ句の果てに、真偽が混同した弥縫策は、潜在する固定観念に制約され主観の所産に専ら依存するという意味合いでは、迚(とて)も普遍性を具有する客観性には程遠い噴飯ものといわざるを得ない。

     ◆ 大工組を細分化した向寄制度 ◆

 これより先、十七世紀後半〔寛文3年(1663)〜元禄13年(1700))〕の中井家による大工支配体制は、幕府が定めた建築制限令を各大工組の組頭を通じて組下大工に周知徹底する一方、頻繁に大工の人数改めを実施したが、その目的は、当時の農村大工組では諸役免除の特権を有する高持大工に対して、無高大工(平大工)の割合が著しく増加すると、その時宣を得て彼等は一つの集団を形成し、中井家支配下大工組より分立(もぐり大工集団)を主張するまでに増長していった。

 中井家では、これらの幕府権威に反逆する造反大工に対応すべく、貞享3年(1686)各大工組内に五人組(のちの最寄・向寄)の編成を命じ、次いで元禄期(元年は1688)になると組毎に「大工組中の定め」を制定すると共に、
組の分立を画策する「穏(おだ)やかならぬ不満を腹蔵する分子」に睨(にら)みを利かす役目を与え、その主謀者に対して大工職を差し止めて切り捨てる厳しい方針で対処したのである。

 一方、これに関連する大工統制の大局観は、開幕当初の幕府の権威は秋霜烈日の厳しいものであったが、これが江戸中期になると、支配体制の箍(たが)が緩(ゆる)みはじめ、更に宝暦期(元年は1751)に至っては、大工頭自身の収賄が露見し、これを不服とした大坂大工2000人が蜂起して京都中井宅にデモをかけるなど、下克上(下位の物が上位の者の地位や権力をおびやかす)下層階級が台頭してくる社会風潮の再来となり、これが両両相俟って大工仲間にも蔓延していった。

 この兆候は、特に幕府直轄領を除く、私領に住む大工にその傾向が顕著となり、遂に中井家支配を離脱して、新組の結成を目論む大工が跳梁(のさばる)し始めたのである。中井家ではこれらの大工を抜け大工・はづれ大工・もぐり大工と区別して、正規の組下大工の保護に努(つと)めたが、取り分け、蒲生大工組は領域が広く、大工数も多いことから、その紛擾は宝暦初年及び、文政初年(元年は1818)の二回に及んだのである。

     ◆ 不満分子が徒党化した矛盾 ◆

 このような造反者による背に腹はかえられぬ反逆、(宝暦の難・文政の難)の真相を詳(つまび)らかにすると、『常に機会あらば組頭の支配から離れたい』と、虎視眈眈(たんたん)と狙う動機とは、排他的な陋醜に起因する宿命的な相互の較差、即ち、諸役免除の特権を与えられている高持大工に比べ、一方の無高大工(平大工)に対する処遇とでは、雲泥の差があり、たとえ能力があっても評価されず、終生低い地位に甘んずる時代の悪弊ともいうべき土壌に誘因があるといわねばならない。

 一方、彼等の僻目(見そこない)は、中井家と組下大工との狭間に介在する組頭の職掌を、単に幕府禁令を厳しく喚起する以外は、何の取得もない威張りまくった法の番人であるかの如く曲解し、その屈折した逆恨みから、高木の存在自体が疎(うと)ましい「目の上のたん瘤(こぶ)」と嫌忌し、遂に思慮分別なく決起し『高木を退役させろ』と、提訴に及んだものと考えて、然(さ)したる大過はない。
 
     ◆ 中井役所の判断と顛末書の説義 ◆

 以上のような飼い犬に手を噛(か)まれる無様な椿事は、このとき高木でなくとも、誰しもが遭遇する予断を許さぬ身の不運と考えられれる。高木文書によると、宝暦元年(1751)冬、(個々の向寄代表、大工年寄に煽動され)高木支配に不満を腹蔵する人々が、それぞれの溜まりに終結して連判状を作成、これを中井家で吟味に着手した。然るところ、(それにもかかわらず)神崎・野洲の組頭が当表(中井家)に至り、双方を「さばきなされ」(仲介の労により)和睦したと述べている。「翌2年8月付、中井家より高木に届けられた顛末書より」

この書状の核心を抽出すると、当該争論について、
  
当初より組頭退役願の連判に納得しなかった者これあり、または、
  一旦連判をしたものの、その後連判を取り除いた者もこれあり、

  のような面々ともに今後、先格(昔のしきたり)の通り最寄・最寄
  の年寄に従い働く事。この旨を年寄に申し渡したにもかかわらず、
  心得違いの者があって難儀するときは、以後大工職を辞(や)める
  のか否か、その者共より書付をとり、当方に差し出す事。このよう
  に先規(従前の規則)に決定したにもかかわらず、理由なく異儀を
  唱える者には大工職の停止を命ずるので、心得違いのないようによ
  くよく年寄に申し含める事。

 以上の事案について、連判して提訴された翌年八月、中井家役人より事の始終を説明した高木宛の書状を熟読玩味すると、組頭退役連判の有無について、
『当初から得心しなかった者、または、一旦は連判したものの取り除いた者もこれあり』と述べているのをみると、結果として高木に反旗を翻(ひるがえ)したのは、大工年寄(この事実は当該書状の末文にても確認できる)であった事が判明するが、これが高木文書と雖(いえど)も、中井家役人自筆でこの事実を表向きに鮮明にしている最も信憑性の高い唯一の証拠(論証)であり、高木但馬退役云々と前触れの騒動ばかり大きくて「大山鳴動して鼠一匹」結果は取るに足らぬ小事、「蟷螂(かまきり)の斧」〔非力な者が身の程を顧(かえり)みず、不当な申し立てで強敵に立ち向かう果無(はかな)い抵抗〕の徒労に終った。

     ◆ サルでも判(わか)る理義 ◆

 それでも一連の吉田説の内、「蒲生郡の項」では当家の先祖に触れて、
(1)『但馬の時代には、江州蒲生郡大工組頭、高木但馬退役の儀(につ
    いて
最寄の年寄並に大工より相願候儀』(についてとあるように)
   
『その地位は必ずしも安泰ではなかった』
(2)『但馬は中井家の力を借り、組内の統制を強化したが、文政10年に
    は作右衛門組下大工共、組分けの儀
(を)目論み』(とあるよう
    に、組下の大工は高木作右衛門より組分けを希望し、中井役所に
    訴えを起こして)
『組頭を辞めさせてしまう』(吉田説より引用)

 以上の如く吉田説では、偏見した持論に拍車をかけ、表面のみを見て下す浅薄な判断は、客観的な論証(中井家顛末書)を捏造して事実を改竄し、然(さ)りとて真実を探究することなく推理により、
 
『高木の地位は必ずしも安泰ではなかった』
と根拠もなく先祖を中傷するのは余りにも短絡であり、「高(程度)がしれた高木の先祖は、せいぜいそんな程度だろう」と、何様かは知らないが、先祖を愚弄した論述は、筋道を立て、本質の正面から論じた気配は甚だ希博であり、目的(論文)達成の為には手段を選ばぬ陋劣な手法は、先祖の尊厳を否定し、モラルの欠如した、人間としての品格を疑わしめるものがある。

 そもそも吉田説では、高木を中傷するについて、何を血迷ったものか?子供の作文でもあるまいに、物事の発生した時日を明確にせず、唯に「但馬の時代」とするだけの漠然とした表現に続いて性懲りもなく、
『高木は文政10年に組下大工に訴えられてクビになった』と恣意的な推測による論述は、誹謗を超越した人を人とも思わない付会(こじつけ)の説であり、道理に反し、憶測に満ちた「ど素人紛い」の毒筆は飽くところを知らず、肝心の基本的概念を捨象し、自己に都合のよい場当り的、手抜きの愚論は児戯に等しく、御門違いも甚だしい不毛な結果をもたらすだけである。

 一方、先祖はこの事象を覚書に「向寄の故障」・「具合の悪い事情」と受けとめてこれを寛容にあしらい、この暴挙を「ごまめの歯軋(はぎし)り」〔無力な者が徒に熱(いき)り立つこと〕と受け流していたようで、これが実践されるとなると先祖はその職責に鑑みて大工頭中井家の法度(掟・禁制)に従い、郡大工組を身勝手に離脱して自儘(わがまま)に行動させることは、先年の「宝暦の難」と同じ轍を踏む造反行為となり、中井家の下命による大工職の差し止め処分(飯の食い上げ)となるのは、火を見るよりも明らかな必然の結果を招来することとなる。

 そこで、事ここに至り組頭としての職掌上、拱手傍観するに忍びず、違反は違反として、この事由を逐一中井家に注進し、その結果大工頭の判断で京都奉行所に提訴する構図となっていたが、大抵は敗訴となった大工が高木に謝罪して旧に復するのが従前の常套であった。

 それでも執拗な組下大工の一部には、質(たち)の悪い在地の小領主に教唆され、有ろう事か、中井家役人に賄賂を送り、その陋劣な手段に激怒した当時の九代作右衛門は組頭を辞したいと口吻を洩らし始めたため、四代当主以来、代々高木に助力して下さった大工弥兵衛氏が、「お家の一大事」の代理として京都奉行所に駆込み訴訟をし、「賄賂で動く中井役人の判断を正路にお裁き下さい」と訴えた写しが当家に存在する事実のみで、「お上の裁き」に至るまでに差し戻し(却下)、または運良く提訴できたものか?その成否を裏付けるに足り得る客観的な事物(証拠)は存在せず、従って吉田説の推論による事実関係は甚だ曖昧模糊といわねばならない。

 それにも況(ま)して吉田説では、「組分け」と「組の細分化」とを味噌も糞(くそ)も一緒にし、それが高じて議論の中核の峻別を感覚のみで判断し、肝心の大局的な論証の筋道(中井家の顛末書・駆込訴訟状の内容)を味得した上で意味を理解する認識が不足した論述は、単なる自己満足と考えられ、没論理傾向の判断で先人による伝統と慣習を否定し、先祖が折角積み上げた過去を踏みにじり、それでいて、自己の目的を急進的に実現しょうとする構図は到底不見識の謗(そし)りを免れない。

 このように、真偽の程が定(さだ)かでない吉田説に続いて、これよりのち、県では「近世社寺建築の見直し」と銘打って、他県から調査員を招来したが、その報告書には迷惑千万、望まぬ事乍ら当家先祖の来し方について、首を打ち傾く事態即ち、前掲吉田説を覗き見し、事の正否を見定めた斧正を加えることなく、作為的と見紛(まが)う先祖に対する誹謗は、次第に高じて中傷となり、この事によって吉田説の虚構は一層巷間に垂れ流しの体たらくとなった。

 恥を恥とは意識しない県の要人は、臆面もなく無様な前車の轍を踏むこととなり、遂に「県指定建造物修理報告書」には、自己の不見識を棚上げとした上で、先祖を「犯罪者扱い」としたが、これらの低次元の論述に至る以前のなすべき事として、筆者の取捨選択が轍鮒の急と考えられるが、このような不毛の改善なき現状では「塗箸で素麺を食う」が如き無理がある。これについて性善説には〔惻隠の情なきは人にあらず〕とある如く、理不尽で識見なき者が、傍若無人に生半可な屁理屈を捲(まく)し立てて先祖を論(あげつら)う資質や資格は毛頭なく、それは不遜極まる裁量の逸脱である。

 正義(人の行う正しい道)とは、観念的なものではなく、個々の事案について公正で妥当的な判断を下す力量の実践であると私は切実に思う。

PN   淡海墨壷