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2005年8月19日
高木敏雄HomePage

置き去りにされた文化遺産 

                      宮大工 十四代 高木敏雄

 文化遺産とは言う迄も無く、文化の発展に寄与・貢献し、各人が継承すべき責務のある先人の所産であるが一方、これを文章にして伝承してゆく過程に於て、
憶測による雑駁な知識で現実を無視し、自分に都合よきように事実を歪曲し、その為に実態が把握されていない迷論が大手を振って傍若無人に闊歩する。

 これについて、多年にわたって隠忍し、食指が動く事例を腹蔵なく標榜すると、折角
中世に造営された建物が、退(の)っ引きならぬ時代の趨勢により、中世建築の特色の一部ともいうべき柱間寸法(柱の中心から中心までの距離)の膠着を見事に保ち乍ら、文禄元年(1592)現在地に移転を余儀なくされ、今日に至る訳合い(筋道)について憚り乍ら愚見を述べてみたい。

 とは申し乍ら、畑違いの私(文献屋の範囲外)が心匠を吐露したとて、所詮
経年的な観点からいえば、中世末期の建物など侃諤の議論には至らず、その建物の故地についても諸説紛紛として詳かでなく、況(ま)して移転しているので、当初から其処の土地に遺った人的活動による痕跡(例えば、往時の柱礎石など)が残存するでもなく、『この程度の物事を実質以上に誇張するな』との批判を尻目に、尚も含むところあり、これの対策について自家薬籠中のものともいうべき先祖の奥伝を拠り所とし、一方、去る昭和48年、寺院の依頼による棟札・墨書探しと同時に実施した当該本堂柱間の実測と、先祖の絵図に書かれた間数(けんすう)とを突合せ、その両者から得た独自の一間(けん)の基準寸法なるものを算出すると、僅少の誤差が生じたものの、6.84尺、6.88尺であることが判明し、この数値は、「中世のそれは7尺が圧倒的」とする先学の研究発表を参考に、この寸法(7尺)を上限とし、時代が降って江戸初期に幕府が定めた『一間(けん)は6.5尺を限る』を下限として考量すると、満更私が調査した基準寸法は、恰(あたか)も中間値であり、換言すれば中世から近世に至る過渡期の寸法といえる。

 詰まるところ、この『本願寺八幡別院本堂』は
中世にこの基準寸法で造営され、文禄元年に至りこの柱間寸法を維持する格好で現在地に移され、その後102年を経た元禄7年、当時では柱の根継ぎどころではなく『所どころ朽損した柱を取替したい』と願い出たその大破振りは、『地業』(基礎)を2尺斗(ばか)り築上したい』とあるのをみると、その朽損の根源は経年も然ること乍ら当時この周辺は相当な湿地帯であったらしく、近くに幸円浜という水辺が現存するのも一層私の想像を逞(たくま)しくする。

 以上のような切迫した
建物損傷に鑑(かんが)み、高木は解体修理を示唆した作事願を提出したが、当時の幕府規制は苛酷で、『壊して建直しすることは難しい』と、非解体の修理許可とし、のち高木但馬の代になって建築制限は稍(やや)弛緩の傾向となり、鶴首していた解体を許されて円柱に取替えるなど、それでも柱間寸法は旧態依然として堅持され、現在に至るも中世の名残をとどめているのである。

 それ故に誠に惜しむらくは、現在では先祖による犬馬の労を無視(頑強に
元禄期の新築を主張)をし、事理の弁識能力が欠落した一部の心なき連中により、江戸・本所の錦糸堀(通称置いてけ堀)でもあるまいに、文化的所産を遠ざけた置き去りとし、下らぬ観念のみを追及して矛盾を重ね、先祖の中傷に汲々とするが、それは調査報告書とは名ばかりの安手の読み物に過ぎない。

 以上の私の心匠(心の中の工夫)を
県教委、池野保氏に翻意を促してみたが、頑として元禄新築説を主張して一顧だにせず、逆に高木文書に難癖を付け、『今は(報告書に)何を書いても自由』という上司の思考に惑溺され、にべもなく言下に否定、バカにされた。

     ◆ 微に入り細にわたる寸法調査 ◆

 所詮は『曲がった木の影は(部下に対しても)曲がったようにしか映らず』因循姑息で頑迷な手段を弄した官人特有の無謬性を強調し、(ここまでは池野氏の勝手であるが)問題は修理報告書(平成13年3月、
池野氏監修)に何を血迷ったものか、『高木が修理願(元禄7年1月)に記した修理拡張後の桁行寸法は13間である』と、広言・大書して憚らない無様な池野式誤算の連鎖を炙り出すと、〔高木文書に書かれた修理以前の(桁行)本建寸法は、中の間4間+脇の間(2.5間×2)=9間に、双方の落縁合計1.5間を加えた10.5間〕であるのに対して、今回の修理は御門主が希望された〔1.5間の継ぎ足しを加算した修理であり、完成後の桁行合計は(10.5間+1.5間=12間)となり〕池野氏が頑なに主張する13間ではなく、現在も12間である事は自明の理であり、1間の大誤算は肩書とは裏腹に児戯にも悖(もと)る棒腹絶倒の極みである。

 以上は、すでに縷説した事案でありますが、今回、口さがない悪友による言いたい放題の横槍が入り、『専門的な煩瑣(はんさ)で理解しにくく、もう少し詳細に書け』の尻馬に乗り、縷縷(るる)記述したので、よろしかったら御再読を乞う。

 何れにしても高木文書には、
修理以前の桁行は10.5間と明記されており、その内、本建寸法は修理前・後共に9間であることは現在も変わらず、(修理による寸法の移動はない)更にその外側の縁の出巾を求めると、(10.5間−9間=1.5間)となり、これを二分した約5尺が入側柱より外方に真宗寺院特有の軒支柱として建てられ、この5尺の間(あいだ)が落縁であったのである。

 註 その上方の天井は木目が落縁板と同方向の水平天井が貼られ、この
    5尺の陸天井は現在もその名残を残している。

 これが元禄修理後は、同じく入側柱より外方に、
従前の落縁に代って、約2倍の出巾(約9尺)の広縁に広げられ、結果として継ぎ足された総桁行は、本建柱間9間+(広縁1.5間×2)=12間となり、更に縁柱の外方に濡縁が付加されて現在の二重縁となった。

 それでも
池野氏は、道理に合わない不徳要領を捲(まく)くし立て、

(1) 桁行に拡張した痕跡がない。

(2) 左右対称であるべき本堂に1.5間の拡張は中途半端
である。

(3) 拡張後の桁行は13間でこれを6.2尺で計算すると、13.2間となって略々現在と一致すると、素人でも呆れ返る出鱈目な論旨とした。

(4) それでも飽き足りないのか、池野説は、『当時高木が関わった工事に於いて、修理と称して新築する例は弘誓寺本堂にもあった』と決つけ、浅薄な机上の空論により、『以上の事から修覆と称するこの願書(八幡別院修理願)は、実際は新築を目論むものである』と、賢しら知識により先祖を罵倒した。

 以上の池野説は、陳腐な官尊民卑が根付いた職権を乱用し、
事実無根、憶測に満ちた貧困な発想の差し出半学に対して反論するのも鳥滸がましいが、

(1)「拡張した痕跡がない」について抗(あらが)うと、
 池野氏は事柄を
意図的に歪め曲げた上で、(そもそも高木の手法は)『修理と称して実際は新築をした』とする根拠のない懐疑(下らぬ潜在意識)が絶えず底流をなし、素人紛いの愚考(新築説と決めつけた)により拡張(継ぎ足し)は中井役所を欺(あざむ)く手段(名目)で、当初から無かったと、恣意的な解釈をし、一方では継ぎ足し、(即ち修理名目)で申請すれば許可が入手し易いと、浅慮による意味不明の回りくどい偏狂の大誤算を為(し)出かし、如何にも誇らし気に「その証拠として拡張した痕跡はない」等と、衆人の物笑いとなるバカ気た主張を臆面もなく宣うが、本来拡張は入側柱より外方の縁の拡張(従来の5尺の縁を約2倍の1.5間の広縁にしただけ)に過ぎず、それ故に入側から入側までは触れておらず、継ぎ足しは事実であっても本建の間には何の痕跡も残らないのである。

(2)「左右対称の本堂に1.5間の拡張は中途半端」について抗う。
 継ぎ足しに際し、
1.5間を2分して両方に案分拡張しているので池野氏が指摘(干渉)するような(左右非対称)とはなっておらず、また拡張した桁行に対して拡張以前の向拝桁行では不均衡となるため、同桁行もそれ相応に延長、その為か入側・縁側の柱筋と、向拝柱とが睨んでいないが、この手法は各地に散見される手法でもあり、寧(むし)ろ中途半端はご自分の頭ではなかろうか?

(3)について反駁する。池野氏は自己を過大評価するための焦慮に駆られ、収拾不可能な恥辱・醜態を演じた。即ち、修理完成後の桁行12間を13間と捏造し、これを6.2尺で計算云々と宣うが、存外、当時の1間は6,5尺であり、それでも13,2間となって「略々13間の本堂と一致する」と誇張するが、仮初にも0.2間の誤差は略々の範疇とはいえず、また6.2尺云々は単なる戯れの数字遊びや、帳尻合わせの姑息な胡麻胴乱に他ならない。

(4)について抗議する。
 これに関する
池野氏の所業は、恰(あたか)も先祖が違法行為をしたかの如き冤罪紛いの指摘は、証拠もなく、唯に威張り捲くるだけの強権で、官人としての権限や、裁量の拡大を主目的とした人倫の根源に背くものであり、客観的な歴史上の事実を直視せず、正当な判断を放棄したことによる矛盾が散乱した出鱈目な論述は、権謀術数の性悪さを露呈した愚の骨頂であり、体温を人並みに有する子孫として池野氏の倣岸不遜な行為は絶対許さない。

 
結論として穿った見方をすれば、池野氏の遣り方は「矮人の観場」(身長の少し低い人が、満員の劇場で人の背後から芝居見物をし、見えもしないのに前の人の批評に雷同する如く)曽て、高木文書を調査した間違いの少なくない調査報告書を鵜呑みにした無定見の成れの果てであり、江戸時代の先人の来し方を準(なぞら)うについて、古文書の熟読玩味も含め一夜漬けではどだい無理な相談であり、恥を曝すだけである。所詮は雉子も鳴かずば打たれまい。
    
PN   淡海墨壷