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2004年9月14日
高木敏雄HomePage

捩じ曲げられたプロの本懐

宮大工 十四代 高木敏雄
     ◆ 歪曲・侮蔑の毒筆と得喪 ◆

 宝暦6年、(1756)高木但馬によって改築された矢川神社(甲賀郡甲南町森尻鎮座)本殿は、先例の如く県教委に付託された奈文研職員により調査された。
                (昭和62年、高木非難第3号)

 これの対処にあたり、彼等は容易に捨象することのできない潜在観念の梗概(あらすじ)に沿い、其処に証拠(社蔵文書)を当てはめる短絡な方法により、すべて『事足れり』としているが、その実態は交通信号の設置されていない交差点に、安全標語ポスターを貼るだけで絶対事故は無いと大見栄を張るに等しく、杜撰な調査は求知心(専門知識を得ようとする心)欠如の謗り(そしり)を否めない。
 
 また、これらは本質的な規範・縄墨を無視したことによる根拠の薄弱な中傷が、尚お飛翔した事実無根・意味不明の酷評となり、それ故に反駁に要した事理が重複した嫌いがなくもないが、兎に角骨髄に徹する彼等の弥縫の策を羅列すると、

 『高木は他方面で排斥されているにも拘らず、組頭という強力な地位を利用した強引な手法で仕事をし、そのことが根源となって、地元大工と問題を起こしているがこうした強引なやり方が、各地の大工と相論を起こすことになったのである』と、事態の収拾不能な論詰をした。

 このような先祖に対する論難は、飽くまで瓦全主義(定見や主義、主張もなく、啻に、高木文書調査を依頼されて「なんとかしなければ」という自己の沽券にかかわる一途な保身)による印象批評、(一定の客観的事実に基づくものではなく、自分が甘受した感懐を、興味半分そのままに非難した、換言すれば主観に基づいたもの)であり、それが為に姑息な策を弄して恬然としているが、それは見え透いた茶番であるため、必然的に隠微な表現となり、批判するにしても、この程度の低次元の憶測以外、他に方法が無かったのであろうか。

 勿論、このような人倫に悖る、常道を逸脱した非建設的、破壊的な攻撃の根源は、前掲の郡外作事不可論の洗脳が執拗なまでに底流をなし、益々高木嫌悪と非難を増幅させていったものと考えられる。

     ◆ 強引な手法と嘲罵されて ◆

 さて当本殿造営にまつわる高木の契約手法が彼等が宣う通り強引であったか否か、その経緯を概説すると、そもそも甲賀郡大工組は、同郡池田村、佐次右衛門氏が幕府直轄領水口藩の公用作事(大工役)に関する交渉過程で、享保20年(1735)失脚し、已むなく以前より郡内を四分割されていた小組の大工年寄が、それぞれに急拠統帥するところとなったが、蹉跌があって郡中の庄屋が四名の大工年寄を相手に訴訟に発展した。この紛糾途上に当本殿改築案が浮上し、同神社別当周顯師は、係争中の甲賀大工年寄ではなく、風波穏やかな蒲生郡の高木にご下命されるのは、自然の趨勢であり、これでも官人の世界では強引な手法と宣うのか。

 斯くて、寛延元年(1748)高木は神社と契約が締結し、同年9月、
  一、 甲賀郡矢川大明神二宮絵図
  一、 諸事絵図通(りの)積書、(見積書)
  一、 矢川大明神二宮木寄帳、(材料明細書)
の書類を提出した。
 註、ここでの社殿仕様は旧制に倣い、一旦二社殿併立式(高木絵図に
   よる)であったが、日ならずして計画変更され、現在は一社合殿
   となっている。

     ◆ 地元大工の口上書 ◆

 次いで、『高木は地元大工と問題を起している』と中傷された素因について地元大工九兵衛氏と、高木との間に悶着が発生したか否か、次の文書を検討してみたい。

 (1)  九兵衛氏が中井役所に提出した口上書
       宝暦元年(1751)9月8日付      (社蔵文書)
 (2)  同氏が翌年神社に提出した謝罪証文
       宝暦2年(1752)10月        (高木文書)

この二通の書状の内、(2)の文書は神社に存在しない高木文書であり、従って奈文研調査員が問題云々と指摘する例証は、紛れもなく(1)の九兵衛氏口上書に他ならず、『これには、高木が当本殿造営に携わるについて、地元大工がそれを停められん事を大工頭に願い出たものである』と事実を歪曲しているが、仮に彼等の解釈が的確とすると、これは現代風にいえば『高木に対する工事差し止め請求』であり、当家にすれば前代未聞の由々しき一大事であるが、何れにしても彼等による悪意に満ち足りた常套手段であり、事実、私が口上書をいくら熟読してみても、高木に対して不都合な事は一切書かれておらず、総て彼等による権謀術数の虚構である。
 註 郡外作事は『可』であるので、大工頭が差し止めをかける筈がない。

     ◆ 口上書の注釈 ◆

 口上書の内容は初会議以降の事情を述べているが、その文中に大工年寄の名が散見されるので布石として、先ず登場人物名を明らかにしておきたい。

    山北組   大工年寄    惣右衛門     新庄村
    山南組    〃       源 三 郎      滝 村
    柏木組    〃       喜右衛門     不 明
    杣 組    〃      九 兵 衛      深川村

 口上書は前、後段に分かれ、重複した部分や叙述を欠くところもあり、両方をジグザグに統合し乍ら考察すると、
 (1)  九兵衛氏は初会議に列席し、含むところあってか、席上強調な発言(異議)があったらしく、それは初回以降の会議はすべて疎外されている事実により明らかである。

 (2) 出端をくじかれた同氏は、その後、日ならずして大工年寄仲間の山北組惣右衛門、柏木組喜右衛門両氏と示合(前以って相談)の上で京都中井役所を訪ねるが、陳述の内容は書かれていないものの釈然とはしなかったようである。
 註 差し止め願却下。

 (3) 今度は(高木の心底の程を承りたい)目的で喜右衛門氏と二人で八幡高木宅を訪問するも、当人は他行(不在)であり、この訪問は徒労に終わった。(口上書は、ここで中井家・高木訪問後、(在所)にまかり帰り候とある)

 (4) しかるところ(自宅で待機中に)未否の儀について、(普請は未だなのか、するのか、しないのか、) 神社側より一切連絡はなく、一方では八幡の様子知らざる内、(高木から事情を聞くことができない内に)惣右衛門氏が神社別当に対して『どのように申されたものか』(九兵衛氏を省いて)『氏子中で寄合をしなされ候』とあり、ここに至り同氏は大工仲間にまで、蚊帳の外におかれているのが判明する。 (これ以後、事物の核心に触れて)

 (5) その会議で別当師が氏子に吐露された真情とは、京都(中井役所を示す)は、新庄村総中(惣右衛門氏配下の大工中)の世話(尽力)で普請願書作成・出願・許可に至るまで惣右衛門氏に頼みなされ、許可済みとなった。

 註 但し、この申請は、当初計画の二社殿並立であって、のち計画変更
   により(一社合殿)となり、改めて宝暦3年(1753)1月、再申請さ
   れている。

 (6) 九兵衛氏は前述の「寝耳に水」ともいうべき事実を、別当師から直接聞いたものではなく、自分の知らぬ間に開かれた寄合の重要議決の結果を、会議の帰路九兵衛氏宅に立寄った村役人より「又聞き」した程度の事態では到底理解することが出来ず、苦悩の結果『お断り申し上げ候』と、宝暦元年(1751)9月8日、ご自分の意思で『口上書』を中井家に提出され、事実上断念されるに至った偽らざる真相である。

     ◆ 現実と虚構の狭間にあって ◆

 口上書を熟読した結果、人の世の愛惜と、人情の機微に触れ、また但馬の子孫として、理解できた九兵衛氏の本意は、飽くまで類推の域を脱しないが、本来当人は「矢川七ケ村」の氏子であり、さぞや篤実な人であったに違いなく、氏の意中には『今回の本殿造営は当然、自分に指名されて然るべき』の気負いがあったであろうことは想像に難くない。それ故に初会議の席上『地元大工を僭越して何故に』であったろうし、取り分け出し抜けに、梯子を外された無念さは察するに余りある。

 一方、神社側にすれば組頭が去って俄然求心力が低下し、加えて係争中である大工組の現状を考慮した上の苦渋の選択として隣郡から大工を招致すれば、地元大工の遅きに失した独善的な横槍が入り、嘸かし、(さぞかし)別当師は眉を顰められた事であろう。ともあれ、九兵衛氏が事実上断念されたのは、高木との契約が成立した通算5年後の事であった。

     ◆ 九兵衛氏の謝罪状 ◆

 九兵衛氏は心緒麻の如く乱れ「これでは得心参らず」と大工頭に口上書(断り状)を提出して断念されたものの、荏苒とした日々を送られたものか、一年後の宝暦2年10月漸く、矢川寺院主様及び7ケ村の役人衆中に謝罪した。
                          (高木文書)
  (上包紙題字矢川大明神宮の事に付、九兵衛謝り証文)

 (前段)去る辰年(寛延元年)本殿造工に関する相談の砌、(そのおり)無調法(行き届かないこと)を申し、院主・別当・七ケ村の村役人に背いたことを謝罪しますと述べ、然る上は(今後私の方へ仕事をさせてほしい)等と申しません。

 後段では、細工一式は八幡高木但馬にご依頼なされ、この上は釿始め、上棟式の連中(仲間)に加えて下さるよう(高木に)お頼みしたところ、お聞き届け下さり、この上は指図通りに致し、若し行き届かぬ事があれば、その節は一言の異議も申さず、早速に退去致します。(後略)

 奈文研の職員は、以上の正当な事由があるにも拘らず高木は『郡外作事禁令破りの無法者・組頭という職権の濫用・工事契約の強引な手法・地元大工との不和、争い』等と、事実無根を書き立てた上、ならず者の如く難癖をつけるが、これでは彼等を雇用した機関(県教委)の名を卑める行為に他ならず、延いては自分の品位まで下げるものである。

 彼等は理性に従って行動するよりも、感情的に共感する仲間を探して弱者を攻撃し、他者の中傷には何の痛痒も感じない堅白同異の弁、(普通の人が肯定する事を否定し、否定に対しては肯定し、正否を故意に混同させる)強弁、詭弁を弄し、その上で自らに理があると過信して誤った判断により枢要な決定を否める。

 以上検討したように、彼等は目の前にある高木作品の非難にのみ汲汲とするが、自分が総てであるという刹那的な曲解から、もう少し視野を拡げる模索が必要ではなかろうか?先祖が折角努力して積み上げた過去を、このような支離滅裂な暴説で壊されては一たまりもない、それは文化の破壊である。

 門外漢がプロを籠絡するには斯道(専門技術)の普遍的原理の熟知が涵養であり、彼等によるこの程度の無けなしの知識で先祖を蔑ろにするのは、我々職人魂の否定であり、長い歴史が育んできた工匠の本懐を無視した思い上がりの果ての愚弄に他ならない。それは伝統・伝承を固守するのか、近代的な独自性を貫くのか、現状では異様な食い違いを生じている。不見識は非合理な判断を生み、それは文化の発展を阻害すると痛切に思う。

 以上の如く、彼等は先祖を貶める目的で、問題点を抉る事に切磋し、琢磨した結果の誤断に基づく当家に対する論難は、正しい意図のない浅薄な罵声にしか受け取れないが、それでも批評した以上は推論の基礎となった裏付けが求められる。

 この根拠もない不確かな中傷を超越した事実無根の酷評に対し、私は徒らに拱手傍観していたものではなく、県の要人と数回折衝を重ねたが『一旦のせた(掲載したもの)は変えられない』『今(現在)は何を書いても自由である』との暴論で一蹴された。

 『事物の一端を見て大勢(たいせい)を識る』という諺があるが、折角の正論(古文書の内容)を扱き下ろし、剩え、これを頑なに否定する者は、やがては自分の正しい意見まで放棄していることに覚醒する。これが自己の邪論を悉く排除して正論の統一に到達する日は、恐らく未来永劫望んでみても「大河の河清を待つ」ようなものである。

 自己の保身と、力量の不足した自分や身内に余い感情論に終始したこの程度の次元の低い論述で『表現の自由』などとは笑わせる。


      ◆ 俯仰天地に恥じず ◆

 伝統とは、その系統及び、思想・精神をも受け継ぐことであり、一方伝承は旧来の工法を踏襲し、もとの姿・形を伝える事である。何れも優れた技が要求されるが、昨今では非現業の職員の中に、道徳性の欠如した人間が跳梁(のさばる)する風潮が見られ、誠に憂慮すべき傾向にあることは否めない事実である。

 さて、一概に文化財といっても甚だ広範であるが、これが吾人の分野では、その建物自体が価値あるものであり、絶対に侵すべからざる尊厳がある。それを権力で捩じ曲げる者は文化の破壊者といっても過言ではなく、現状のこの体たらくでは現業者と、非現業者との黙契(何も言わなくても通じ合う気持ち)が成り立たなくなり、世間のモノサシとは異なる価値感により、何れが非常識かを競う(粗探しに汲汲とする)異様な事態に陥っている。

 そもそも、文化財修理に携わっているといっても、凡百の職員全部がその建物の造営された往時の諸般の原則を塾知しているとは断定できない。例えば、昭和62年の高木文書調査についていえば、140頁余にわたって先祖を非難した内で、的確な解釈といえるのは、私の住所と、文書の所有者たる私の姓名のみという異常さである。

 憚りながら、かく申す私は高木十三代を継承した親父が昭和21年に没すると、文書の所有権も私に委譲され、以来、汗牛充棟の文書の解読研究に没頭し、その実績は半世紀余となる。このような解読の啓蒙に加え、斯道の規制をも尚々重畳した上でなければ、客観的な認識は、仮令文字が読めたとしても肝心の中味が読めず、それは一朝一夕で到底習得できるものではない。

 例えば事柄の本質を半可通な思考によって軽んじ、自己の誤った裁量による残杯令炙の侮蔑的な論詰は、目糞・鼻糞を笑うの諺の如く、他者の中傷をするについては、抽象的に考えるだけで具体的に考えようとはせず、その上で狭い了見で誇るに足らぬ事を誇り、自分では優れていると思ってみても、他から見ればたいしたことはなく、本職の先人を無視した専門家不在の空理空論では、根本的にどだい無理である。その為に実態を糊塗し、故人の尊厳には一切配慮せず、先人の認識(ものを思考する知識・作用)を不確実なものであると愚弄した上で一切を否認し、その上真理まで疑う懐疑論の果てには、自己の不条理な論拠に、最もらしい理屈をつけるという事大思想では、不断の見直しが必要と考えるのは私だけであろうか。

 それは最初の「ボタン」の掛け違いを、自我によって一切直そうとはせず、僅かな事でも以前のやり方に異を唱えると、すべてが壊れると思っている因習こそ異常である。結局は真理に矛盾する逆説で自分を追い詰め、とどのつまりは自分自身からも言い逃れの権利まで剥奪してしまう。貫禄は威張りまくって他者に認めさせるものではなく、自然と滲み出るものと私は思う。
PN   淡海墨壷