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2006年4月10日
高木敏雄HomePage

先祖を謀略した偏狂な連中を嘲笑う

                      宮大工 十四代 高木敏雄

     ◆ 意図的に歪曲された先祖の駄作 ◆

 昭和49年1月、本願寺八幡別院(近江八幡市北元町)より一通の書簡が届いた。同寺院の御輪番・責任役員連名の文面によると、昨年6月、本堂以下三棟(但し、裏門のみ一年遅れて指定され、何れも先祖作)が県指定建造物となり、この慶事を機会に尚、本堂を重要文化財に請い願うべく文化庁に働きかけた結果、同庁より
「高木家に確たる古文書無きや」の回答に基づく、当家に対する打診があった。

 当時、寺院には棟札は勿論、諸建物造・修営の裏付けとなる古文書
(元禄7年付、高木文書の元本を含む)の一切を紛失、止むなく昭和15年に発刊された八幡町史の記載〔高木より京都大工頭中井家に提出した元禄7年(1694)正月付、当該本堂修理願及び裏判(前述の高木文書の写し)〕を拠り所とする以外に然したる手立ては無く、一方現存する享保元年(1716)縁高欄擬宝珠の刻銘とを対照した挙句の果ての窮余の策は、事の本質をはぐらかした県の指定説明、即ち『元禄7年修理に着手し、22年後の享保元年に新築完成』したと、筋の通らない自家撞着に陥った発表をし、見識に乏しい事実を歪め曲げた決定をしたのである。

 註、この真正な元禄
修理申請文書は、経年に伴って次第に元禄新築説
   論点を摩(す)り替え、卑劣な手段の果てには
『高木は、実際は新
   築を目論み乍ら、申請を修理の名目とし、つまり虚偽の申請をして
   許可を得た』
と、先祖を公文書偽造の罪人扱いとした。        
                  (細見・山岸・村田・池野説)
   
     ◆ 法の秩序を蔑ろにした謬見 ◆

 明けて翌49年1月半ば、前述の寺院の要請に呼応すべく関係文書17点を披露、数日の確約で貸し出した過程で、当時の県文化財元、建造物係長は責任役員太田氏に対して
『あんなもん(高木文書)は修理の文書だ』と、不服がましい吐き捨て発言があり、その無能振りに愕然とした。即ち『本堂修理に際して桁行方向に一間半増建したい』の申請に対して、幕府の掟によって解体は認められなかったものの、非解体を条件の中井家許可書を眼前にし乍ら『あんなもん』と折角の古文書を無視し愚弄するのは失礼であり、「係長」の肩書自体を疑うものである。加えて擬宝珠の製造年月、又は寄進年月にのみ惑溺し、このとき新築されたものであると安易に決めつけた次元の低さにも問題がある。因みに高木が解体修理を示唆した申請に対する中井家の許可条項は、

『表絵図の御堂を御門跡より御修復なされるについて、今度桁行方向に壱間
 半増建すること自体が御停止(不許可)であるが、子細各別(門跡寺院で
 ある由緒)によって御許容されるので細工つかまつるべく、(許可を与え
 るが)他の例(一般寺院では適用されない。)但し解体して建直しするこ
 とは難しいので、「若し左様の御好み」(どうしても解体が必要ならば)
 「重ねて申し来るべきものなり』(再申請をするように)と、柔軟に対
 処し、(この場合は中井家ではなく寺社奉行に伺いをたて指図をまつよう
 にと、諭(さと)している)

 畢竟するに、
『所々朽損した柱を取替したい』の請願(解体修理を示唆した)さえ首肯しなかった幕府による秋霜烈日の建築制限では、県の要人による無定見な誤謬(新築)など絶体あり得ない。

 以上の如く、事実に反し、憶測に満ちた素人紛いの貧困な発想は、客観的に実態が把握されているとは考えられず、不見識による事実誤認が独り歩きし、懐疑に満ちた空想と、虚妄がもたらした場当り的な抱腹絶倒の調査報告は、単なる屋上屋を架す無駄な自己満足であって、論理的な思考による的確な判断とは世辞にもいいにくく、論理が飛躍した単なる思い込みによる自己実現への欲求である。

     ◆ 弊履の如く棄て去った高木文書 ◆

 昭和62年3月、県教委に雇用された奈良文化財研究所、細見・山岸説による差し出半学によって『履きふるして破れた草履』(値打ちのないものと作為的に見誤った)稀覯の原拠(真っ当な内容の文書)に邂逅(めぐりあう)したにも拘(かかわ)らず、事物(文書)の価値を見極める力量や該博な知識も無く、(古文書が読めない故に、書かれた内容が把握できない)愚にも付かぬ判断で先祖を猜(そね)み、人の痛みに対する感受性に乏しい懐疑と、先祖の来し方を愚弄した増悪の念による毒筆は、整合性を欠いた机上の空理空論と、剥き出しの感情を露呈した事実無根の害毒を巷間に垂れ流し、因って自己顕示欲を逞(たくま)しゅうした。

     ◆ 事実と真実の定義と体系的理論 ◆

 事実とは事理を説明するまでもなく、客観的に実在する本当にあった事柄であり、それ故に幻想・虚構(フィクション)の可能性(論理的に矛盾が含まれていない)や、当為(人間の理想として、まさにあるべきこと)と対立し、反面、経験的なものであるから、論理的に必然性はなく、その反対を考えてみても矛盾しない。

 とは申し乍ら、凡人である我々がある事物を暫定的に真実と意識しても、果してそれが真実であるか否か、本当のところ直観では断定できない筈であり、そのために、あらゆる方向からこれを追考し、それが真実であることを明示する責任がある。

 一方、これの追考について、表裏一体の関係にある必須の調査とは、単に粗(あら)探しではなく、『ある事項を明確にするために貴重な文献を見せて戴く事』であって、決して取調べではない。その謙虚さを放却し、知覚を抜きにした分別なき、感覚のみの浅薄な判断では、偏見した先入主(頑固な持論)に一層拍車をかけることとなり、そのために客観的な判断を放棄し、逆に不確かな根拠に感動し、『事実として確かに存在する』と豪語して一向に恥じない素人紛いの調査報告では、取り分け我々の現実界〔経験の範囲で、特に本件に立脚して考察すると、他の追随を許さない五畿内・近江六ヶ国大工技術の完遂を期した江戸幕府による
大工統制の規範・建築制限・金科玉条の重要な掟(おきて)の遵守〕等に絡む体系的な説明が、餅屋以外のど素人では尚々希薄であり、矢張り現実味を帯びた個々の複雑な認識を統一的に説明できる、普遍妥当性を併せもち、体系的な知識(一定した思考で矛盾のないよう組織された思想的理論)の註釈が必要不可欠である。

 詮ずるところ、基本的な概念すら理解せず、それでいて自己は至上の存在と思い込み、間違いだらけの論述で先祖による慣習と伝統を拒否し、没論理傾向の傲慢な誤断で事実を阻害し、大口を叩く割には真実を裏付ける証拠も、客観的な事実も不明なままに、知ったか振りで大見得を切るが、その曖昧模糊な調査で画一的な即効性を追究した極限ともいうべき先祖の非難は、折角積み上げた過去を踏みにじる不法な愚行であり、文化の破壊者と軽蔑されても、人並みに立腹する資格はない。

     ◆ 元禄期、本堂応急修理 ◆

 前述の如く、現存本堂は元禄7年1月、四代高木作右衛門(受領の国名日向)が、本山御門主様より『桁行方向に一間半継ぎ足しする様に』の御下命に対して、京都大工頭中井家は
江戸幕府による建築制限令に鑑み、解体修理さえ禁じた「建乍ら修覆」の許可しか与えず、その為、「地形(基礎)全体を二尺ばかり築上したい」や、所々朽損した柱を取替えしたい」を断念、修理着手より通算7年後の同13年、付属建物(書院・対面所・台所)の新・改築と併行して本堂応急修理も完成し、同13年9月10日、本山より御門主寂如尊師の御下向あって法要を御執行なされ、この慶事により元禄修理に終止符が打たれたであろう事は、火を見るより明らかな自明の理である。

     ◆ 二重縁と、高欄金物の寄進 ◆

 (蓋然性が許されるならば)この元禄修理によって、従来切縁のみであったものが、本山級の二重縁になったことから、法要より16年後に高欄金物の寄進〔擬宝珠陰刻銘享保元年(1716)〕があった事は否定できない事実であっても、唯に当該金物の寄進年月、若しくは製造年月のみに拘泥した県の要人による付会の論理『元禄
新築説』は、早計の謗(そし)りを免れない不確かな見解である。

 これを私が如実に否定する根拠とは、これより先、寛文8年(1668)高木は中井家の差紙によって上京し、大工頭より手交された幕府の掟(三間梁制限)の冒頭に、(新築の場合)
『梁間寸法は京間3間(6.5尺×3)を限るべし』の法令により止むなく修理に停まったものであり、因みに当本堂の梁間はこの制限より8間半超過した11.5間であり、新築などあり得ない亀毛兎角の証拠(高木文書)により、県の杜撰な新築説を断固否定するものである。

     ◆ 第二次、寛延期の本堂解体修理 ◆

 前述の法要より48年を経た寛延元年(1748)に至り、当初の修理申請(元禄7年)の時点ですでに柱の取替を必要とする程の喫緊の損傷であったにも拘らず幕府規制によって本格的な解体による柱の取替は許されず、この切羽詰った事態(柱の耐用限度)に鑑み、今回の
寛延修理は従来の角柱を丸柱に取替える(庇柱・縁柱は除く)解体修理が再開したものの作事は中断し、改めて宝暦2年(1752)7月、(以上の4年間に丸柱が立てられ、繋ぎ虹梁は組み込まれていた)真宗本派十ケ寺が署名(但し、二ケ寺のみ欠印)して、同4年4月までに『御(み)堂から木立てを経て、土居葺まで』〔部材の切り刻み加工を経て柱を立て、丸柱、(外陣の四天柱及び、その周辺の柱は前述の如くすでに立てられていた)桁を組み、化粧軒・荒野地を経て、瓦葺にいつでも着手でき得る状態まで〕の再契約を促す『一札』によって締結し、以来作事は順調に進捗した。

 つまるところ、当本堂は、第一次応急修理完了(元禄13年9月10日、本山より御門主御下向の慶讃法要を一つの区切りとし)以来約半世紀の空白(この間に第一次の本堂屋根瓦が葺かれた)を経て、
第二次解体修理が実施されることとなり、寛延元年着手、暫次中断したものの、宝暦4年(通算7年)までに木工事が完了し、契約通り概略整備された。(但し、漆塗り等は明和6年(1769)まで続けられた。)

 以上の如く当該本堂作事は、第一次・第二次と二段構えの
都合20余年で成就したものであって、徒に『75年の歳月を費やして云々』の発表は、私の管窺によると眉唾もので信じ難く、軽々に首肯できない含みが残る。

     ◆ 没却された解体修理の約定書 ◆

 そうであるにも拘らず前述の第二次本堂解体を促す文書(宝暦2年寺院より高木但馬に宛てた一札)は、文化財建造物係長、(去る昭和48年6月、当該本堂指定説明に際して、
元禄新築説を主張した人の次期係長)によって没却された。その理由は誠にバカ気た直截簡明で、当初元禄新築と誤断した以上、『今更修理であった訂正は沽券(こけん)に関わる(自己の対面に差し障りとなる)』との頑迷固陋により、『元禄7年に新築された建物が、僅か50年後に解体修理など有る得るか』の一喝(いっかつ)により、この文書の存在を言下に否定した。〔寺蔵文書一覧表、(即ち旧高木文書)には記載されていない〕糅てて加えて、その抱腹絶倒の理由とは、当該約定文書一札にある御堂の表現を、「み堂」と読まずに「お堂」と読み、『お堂なら何処にでも存在するので、当文書は必ずしも八幡西別院関係文書とは断定できない』と間が抜けた理由によるものである。

 因みに、大阪の津村・難波両御堂に所縁(ゆかり)あるメーンストリート「御堂筋」を、当係長は『お堂筋通り』とでも呼称するのであろうか?如何にも呆(あき)れ果てた付会(こじつけ)の物笑いではなかろうか。

     ◆ 創建本堂の余情と、基準寸法 ◆

 県の要人が半可通で
元禄新築といくら豪語しょうと、私にすれば先祖の文書に『修復』とある以上は、自然(じねん)『おのずからそうである事』と信じ、必須の知識(職業病)として、本堂創建時代の究明に食指が動いた。それは前述の如く、折角の稀覯(容易には見られない)古文書を、『あんなもの』と揶揄嘲弄した人品賎(いや)しき雑言が憤慨に堪えない、心骨に刻す含みが払拭できず、早速(昭和49年春)事物の根源、即ち、当本堂の創建にまつわる設計の基底となる一間(けん)の寸法(中世の建造物は個々に違う)の把握が先決と考え、外陣四周の柱間を測定したところ、8尺6寸の小間を20ケ所見つけ出すことができた。

 これに対して、先祖の絵図に記入された寸法(間数・けんすう)とを突き合わせて計算したところ、当本堂の設計基準たる一間の寸法は、江戸幕府が定めた
『一間は京間寸法6尺5寸を限るへし』よりも3寸8分広い、6尺8寸8分である確信を得たが、この他者の追随を許さない新事実の数値発見は、取りも直さず中世の定尺、(7尺)から、近世の6尺5寸に移行する過渡期の寸法であることがここに立証されたのである。

 ここに至り、県が飽くまで元禄7年新築を大言するのなら、それは勝手であるが、ならば、同7年1月の申請にあたり当然のこととして
6尺5寸を基準とした設計図でなければ大工頭中井家は許可しなかった筈である。案ずるに、当本堂は中世の基準寸法を膠着したまま故地から文禄元年(1592)現在地に移建され、更に102年を経た元禄7年に至り修理を企画されたもので、その根拠は現在に至るも中世の柱間寸法が無言で証明している。加えて「所々朽損した柱を取替したい」の希求は取りも直さず、このときすでに耐え難く朽損する程に年月を費消した証しでもある。

     ◆ 報告書の裏側を炙り出す ◆

 平成13年3月、県指定建造物、本願寺八幡別院本堂の修理が完了し、工事報告書が発刊された。(滋賀県教育委員会発行、監修・文化財保護課建造物係・
池野保)38頁に、『高木が修理と称して新築する例は、神崎郡弘誓寺本堂にもあった』と、事柄を作為的に歪曲し、事実無根の害毒を公刊物によって世間に垂れ流し、『以上の事から当該本堂元禄修理許可書(元禄7年1月、高木日向申請、大工頭中井主水許可)も同様である』と、愚にも付かぬ言い掛かりを付け、『両本堂共に修復とするこの文書は、実際は新築を目論むものであった可能性が高い』と、事後の収拾のつかない人権問題を公然と表明した。

 以上の謂われなき先祖非難について、思慮の足りない不所存、池野説は、肝心の
江戸時代の建築に関する金科玉条の掟・禁制を皆目知らぬど素人の分際で、それでいて論には負けない非学による取り留めなき愚論や、知ったか振りで先祖を性懲りもなく攻撃する手抜きの怠惰を棚に上げ、人間としての良識に逆行した衒学的な見解に加え、他者を論(あげつら)うについての枢要徳、知恵・勇気・節制・正義の当然なすべき実態の確認を等閑に付す見切り発車の愚鈍が災いし、さながら(角を矯めて牛を殺した)(先祖非難が度を過ぎ、逆に物事全体を駄目にし、天に唾する)大失態を演じたが、この輕挙妄動により、先祖は恰も幕府禁令を破った罪人の如き印象を世人に与えしめた。

 例えば、
幕府公金で運営される公儀出先機関、「京都中井役所」に提出する書状は、すべて公文書であるにも拘らず『高木は申請書内容を改竄した修理名目で申請し、実際は新築の許可を得た』等と、現在風にいえば『高木は公文書偽造を行使し、詐偽を目論んだ可能性が高い』と決めつけ、『元禄7年に本堂修復(実際は新築)を願い出て許可され、すぐ工事に着手、順調に進捗して翌8年に屋根は土居葺まで完了し、造作は床を張り、側廻りには建具まで建て込んだ』と児戯に等しい非現実論、(私と同職の人々ならば食い止(さ)しの口中の飯粒を吹き出し、腹をゆすって大笑いする)バカ気た珍説である。

     ◆ 自己実現の欲求と池野説 ◆

 詮ずるところ、これだけの大型本堂が、太閤さんの一夜城でもあるまいに、その場、その場で偏狂するだけの刹那主義や、野次馬根性、即ち(新築だとすると)僅か2年弱で旧本堂の解体に始まって、当初の計画である地形全体を2尺築上し、(この事実だけで2〜3年は建物造立は無理)木曳、部材の加工及び切刻み、柱立て、上棟、土居葺はいうに及ばず、造作に着手して床を張り、(このとき瓦は葺けておらず)それでも建具まで建込んだ等と、そんな間抜けた大工
(瓦が葺けていない状態では、雨漏りのリスクを伴う?)は存在しない。

 加えて欅材なら尚更に、杣職によって伐採されたのち、貯木場で水に漬け、樹液の吐き出しを待つ。やっと陸揚げしても次の手段は雨曝しの状態で外周の辺材が腐るまで待たねば後日狂いが生じるので、性急に木曳に着手できない。因みに私の修業時代〔昭和12〜18年〕は仕事場に木曳さんが常駐しておられ、(特上材は製材機にかけない、)その記憶は未だ生生しいが、前述の樹液吐き出し〜雨曝し期間は、私の経験によると5年では不足である。

 その他、報告書には執拗に、尚も恥を曝すことを意識せず自説に固執し、修理着手の翌8年、人夫さん連名の板が野地板に転用されていた事実から、これを高木非難の渇望の証拠とし、
元禄8年当時すでに本堂の造営を行っていたことがわかり、これと高木文書の御堂修復とを考慮すると、『元禄7年に本堂修復(実際は新築)を願い出て許可された』(梁間3間を越える新築は許可されない)等と賢しら知識で大言を吐くが、新築ならば僅か一年後早速に人夫さんは必要とせず、矢張り修理に伴う人夫さんの出面の覚書である。

 兎にも、角にも事物の是非(新築か、修理か)の黒白を弁ずる力量もなく、適性に欠けた腑甲斐なき因循姑息なやり方は、当初以来の事実誤認による詰めの甘さにより、
元禄新築の無様な誤認が、行き掛かり上(じょう)引っ込みがつかず、現在に至るも走狗の如きお追従によってこれを金魚の糞の如く引き摺り回し、とどのつまりは退っ引きならぬ示威により、事柄を没価値的・没批判の甚だ卑しい勘繰りにより、先祖を犯罪者に設(しつら)えて憚らない。

 以上のような眼前の揺るぎなき史実を歯牙にもかけず、すべてを言下に否定した上で真相を究めることなく、また究めようともせず、表面のみを見て下す御座なりの井蛙の見では、最早古文書など一顧の価値もない何処吹く風と、道理を捨てた皮相の愚にもつかぬ幼稚な分別に対し、大いなる退廃と、違和の念が払拭できない。

     ◆ 謀略と「でたらめ」を羅列した池野説 ◆

 前述の偉ぶった独尊主義による先祖の扱(こ)き下し(池野説)の魂胆は、自己実現の欲求を完遂するについて、尊大な党同伐異による排他的な対策と、傍若無人による観点の相違により、無謀にも方法・手段を選ばず、その悪辣かつ公序良俗に抵触する反社会的・不道義な行為(謂われ無き先祖に対する誹謗中傷)に続き、同報告書38頁には、文化財建造物修理を謳い文句とする立場にあり乍ら、自己の肩書とは裏腹に、事物の正偽判断の未熟により、児戯に類する初歩的大失態を演じたにも拘らず、これを省察せず尚、得意満面として(後述する)箇条書にし、淀みなく網羅した。

 そもそも今回の私事に伴う事案(処理の対象とするしないに拘らず問題となっている事柄)の確執を簡明にするために昨今、政界で物議を醸している事象を参考に勘案すると、ある人より入手した一枚の紙片(細見・山岸説に充当)を、内容の正否を見定めることなく公然と披露した(池野説)に匹敵するものと考えられる。

 その前者(細見・山岸説)には、
 『高木文書に記された江州八幡西御門跡御堂(本願寺八幡別院本堂)
 
修理・拡張という願書(高木文書)は、実は中井役所に差し出す際の
  便法であって、
「実際は新築を目論むものであった」との疑いが成立
  し、高木が関わった他寺の例からみても、こういった事が罷り通った
  可能性が高く、従ってここでは当願書を、
本堂新築を果すための願と
  見ておく』
と、自己の不見識を棚にあげ、傲岸不遜の見解とした。

 一方、この愚にも付かぬ
バカ気た説を愚直に鵜呑みにした池野説では、『しかし、この願書については既に次の如き問題点が指摘されている』と、大同小異の烏合の衆が呆れ果てた御託を並べているが、これについては次に糾明してみたい。

     ◆ 価値判断が極めて甘い虚妄の説 ◆

 前掲に続き報告書38頁、池野説では、
(1)現本堂の桁行方向に拡張した痕跡がない。
(2)近世に於いて、基本的に左右対称の浄土真宗本堂の桁行に1間半拡張
   することは中途半端である。
(3)願書に記された拡張後の桁行寸法は13間で、これは現本堂の側柱
   真々寸法を、1間6尺2寸と仮定すれば13.2間となり、ほぼ現本堂に
   一致すること。
(4)当時高木が関わった工事に於いて、修理と称して新築する例は弘誓寺
   本堂にもあったこと。

 以上の事から修復とするこの文書は、『実際は新築を目論むものであった可能性が高い』

と、論理的思考を基底とした適切な表現とはせず、ひたすらに常道を逸脱した奇策を弄し、根拠もなく味噌糞に書き捲くる付会の屁理屈は、恰も酔いどれの戯言(たわごと)に酷似し、支離滅裂で意味不明、皆目筋道が立たない。

 その無様な中傷の原因は「類は友を呼ぶ」とある如く、似た者同士が自然と寄り集まって徒党を組み、次元の低い先入(細見・山岸説)に先脳された蒙昧な観念に加え、人間の認(知)識は経験の重畳と共に次第に啓蒙されるといわれているが、これがど素人であるが故に経験には由来せず、唯に他者の論述を覗き見したつまみ食い程度では、当然、一定の見識もなく、御座なりの直観による印象批評では、整然たる体系を具現した論説を希求するのは到底無理であり、逆に衆人の謗りを免れない恥の上塗りとなった。

 これについて、前述の先祖非難四項の内、
(1)、(3)は相関(互に影響し合う関係)にあり、建築申請に伴う下衆の勘繰りともいうべき言いがかりは、『一応修理の名目としてはいるが、始めから新築を目論んだ可能性が高い』という偏狂した邪推により、『修理に伴う増建は全く無かった』と、愚にも付かぬ立証に涙ぐましい無駄な努力が窺える。

     ◆ 人を呪わば葬る穴は二つ要る ◆

 例えば
(3)に検討を加えると、この紛糾の中核、(彼が頑迷に主張する)桁行寸法(高木文書では元禄修理後(つまり拡張後)は12間で、現在も12間であることは言を俟(ま)たない)にも拘らず、池野説では何を血迷ったものか、凡そ建築に携わる者として最大の恥辱、桁行寸法(12間)を1間もごまかし、その眼は節穴でもあるまいに、13間であると抗顔に宣言し、剩(あまつさ)え、現本堂桁行(13間と誤認)を、1間の基準寸法6尺2寸(当時は6尺5寸)と仮定して測定すると13.2間になったと、バカ気たこじつけの数字遊び(この場合、6尺3寸で測った場合どうであったか、また6尺4寸ならばどういう結果が出たか?の疑問が残る)に興ずるが、そもそも彼等の奸計(高木を貶(おとし)める性悪な悪だくみ)の腹蔵は、単に6尺2寸で計算したときに於いてのみ、偶然13間に最も近似する寸法(13間に対して13,2間)になったことにのみ雀躍し、間違いだらけの身勝手な計算の結果、「始めから増建など一切無かった」と、閧(とき)の声をあげているが、これは論理的に考えて非常に滑稽であり、笑止千万である。

 即ち、増建の有無に関する検証は、修理前(拡張前)の桁行数値
(木文書では10.5間)と、拡張後(現存本堂桁行(木文書では12間)の数値とを突き合わせ、その差引数値(12間―10.5間=1.5間)がゼロであった場合に於いてのみ増建は無かったと散々木を非難できるのであって、(3)に示している「拡張後の桁行寸法は13間」とあるのに対して一方、「現本堂の側柱真々寸法(中略)13.2間」と狂喜乱舞した寸法測定行為、即ち、同じ箇所を重複して測るのは単に糞丁寧な確認行為であって、これは一般常識で考える修理前と後、(拡張を境とした両者の桁行寸法)とを対比した検証とはいえず、現実は、現在に至るも依然として1.5間の差があり、この事象は(1)にみる「現本堂の桁行方向に拡張した痕跡がない」のではなく、この1.5間の桁行寸法の差は取りも直さず増建された証しなのである。

 それにも況(ま)して、
「0.2間も誤差があるのにど厚かましくほぼ一致した」等と、子供でも哄笑する屁理屈を、雪隠詰めとなった苦渋の選択肢として身勝手に容認(私共の仕事では時として1粍たりとも許されない)し、それでも余喘を保ち乍ら、先祖の粗探しに躍起になっているが、その切羽詰まった土壇場のみっともない悪あがきは、誠にもって度し難く、惻隠の情に慮(おもんぱか)り、分別に欠けた気の毒な連中でもある。

 
(2)について、約290年以前に1間半増建したことが今頃になって中途半端であると、大変な逆鱗に触れたようであるが、そうだとすると細見・山岸調査より更に14年以前の(昭和48年)、すでに中途半端な先祖の駄作と知り乍ら何故に県指定建造物に認定されたのか?そのこと自体が大変迷惑であり、それは当家の関知しない底の見え透いた茶番である。

 
(4)に関して、当家にすれば他郡の作事であり、従って建築申請義務は無く、その証拠は幸い当該寺院に宝暦5年付の写しが現存するが、それによると願主は地元の大工であり、当家の与(あずか)り知らぬところであるが、明るけりゃ月夜だと思う池野説では事実を踏まえず、先祖の来し方を逆手にとり、罪人に設(しつらえ)て「可能性が高い」を妄りに多用する。

 そもそも可能性とは「できる見込み」であり、「論理的に矛盾が含まれていない事」が条件であるが、これとは裏腹に、前述の
(1)、(2)、(3)にみる矛盾だらけの池野説は、分不相応な大言がすべて逆説であり、これは矛盾を超越し、前・後で辻褄があわない自家撞着となり得るが、その蛇足の原因は、自分を省(かえり)みない無能・無力から生ずる傲慢な意識によるものであり、これを世人は「猿の尻笑い」という。

 詮ずるところ、生殺与奪の権を握っていると錯誤し、雪駄の土用干しの如く尊大に振舞って反り返る反面、事物の真偽・正否を見極める眼力のない人間が、自分を至上の存在と思いこみ、事実でない事を襤褸糞(ぼろくそ)に書き捲くることによって溜飲を下げ、得たり賢しと得意満面としているが、反面このように侮蔑される劣悪な先祖作でも如何間違ったものか、県の内・外で他を抽ん出て重文・県指定となり、県の人間はそれぞれに駄作の修理に臨んで禄を食み、そのことによって生計が成り立っているのも事実ではあるが?
   
                  PN   淡海墨壷