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2008年9月17日
高木敏雄HomePage

『死人に口無し』を悪用した下劣な論駁

宮大工 十四代 高木敏雄
    
     ◆ 本殿造営の内実まで改竄した細見説 ◆

      その(1) 「梯子を外された地元大工の口上書」

 ェ延元年(1748)9月、蒲生郡の高木但馬は甲賀郡・矢川明神の別当さんより御依頼の社殿改築見積書を提出し、神社ではこれに基づく役員会議が開かれた。当時甲賀郡の大工組織はすでに組頭が失脚し、山北・山南・杣・柏木のそれぞれの大工年寄が統合するところであった。中でも地元「杣組」の大工年寄・九兵衞は同神社に遠からぬ深川(ふかわ)の人で、矢川七ケ村の氏子であったことから高木が造営に携わることが腑に落ちなかったのか?会議の席上強硬な発言があったことは察するに難(かた)くないが、その証拠は次に述べる地元大工の口上書(同神社文書)に明らかである。

 これに纏(まつ)わる論点、即ち九兵衞の「口上書」を私なりに解釈すると、前述の初回役員会議より3年も経過した宝暦元年(1751)9月8日、九兵衞より京都大工頭・中井役所に提出された書状は、遅すぎた感が否めないものの、冒頭に『この度(3年前の役員会議を示す)矢川大明神の普請について先達って申し上げ、在所(自分の住んでいる所)に帰り候』とある文言は「地元大工である自分を差し置いて何故高木なのか」の拗(す)ね拗ねしい愚痴こぼしの為にわざわざ中井役所に陳情したことが判明するが、これ以来神社からはお呼びが無く、〔(意味不明乍ら)末否の儀とある〕文字通り疎外された傾向にあった。それでも後ろ髪を引かれ、本殿の新築は未だなのか、するのか、しないのか?荏苒(じんぜん)たる日々を送る内、某日思いがけず役員会議の帰路九兵衛宅に立寄った村役人から耳にした情報は、新庄村の惣右衛門(山北組・大工年寄)が、別当さんに対してどのように申されたものか、(九兵衞を除く)氏子中の寄り合いがあり、その席上で披瀝された事柄は、『京都はすでに調(ととの)い、〔中井家に提出する普請願を示す〕その上に御裏判も済み〔大工頭の許可〕までも取得できた成果は、新庄村・惣右衛門、他の人々の尽力によるものであると申された』と、村役人を通じ別当さんの意向を又聞きした九兵衞は初めて蚊帳の外の存在に目が覚(さ)める。
 
 ここに至り万策尽き果てた九兵衞は、今度は仲間の喜右衛門と二人で八幡・高木宅を訪(たず)ねるも生憎(あいにく)当人は不在であり、抜き差しならぬ窮地に陥った九兵衞は雪隠詰め(せっちんづめ)となり、終(つい)に宝暦元年(1751)9月8日、中井役所に宛て『得心するのも難(むずか)しく、恐れ乍らこの段御断り申し上げます』と、三年間悶々たる歳月を費やした挙げ句の果てに自主的に身を退(ひ)くという悲嘆な物事の顛末(てんまつ)に終わった。

     ◆ 本殿造営の内実まで改竄した細見説 ◆

      その(2) 「 口上書の紙背が読めない暗愚 」

 元来誤った吉田説に殊の外ご執心の細見・山岸は、執拗かつ往生際の悪さを恥らいもなく露呈し、条理に外れた誤断や、道理に悖逆した論旨の杜撰さは、歪んだ思い込みや奇を衒う馬鹿げた先祖非難と化し、瞠目に値する実態を的確に表現すること無く、益々偏見に拍車をかけて高木剥がしに汲々としているが、このような官人としての権限や裁量の拡大を主目的とした先祖の扱(こ)き下ろしは、非合理な判断によって事実を阻害し、途方も無い見当違いで先祖の来し方に論難を浴びせているが、それは永年培(つちか)った属性と、形成的かつ独善的な官僚制度の病弊である。

     ◆ 細見により偏執された妄説と能書き ◆

 『高木支配の排斥は他方面で見られる。高木は郡大工組頭としての強力な地位を利用してか、郡外でも仕事をするようになる。例えば甲賀郡矢川神社造営はそれである。しかし、ここでも高木は地元大工と問題を起している。宝暦元年(1751)の『口上書』は、甲賀郡深川の大工年寄・九兵衞から中井役所に出された文書の写しである。これには高木但馬が矢川神社の造営に携わることに対し、地元大工がそれを停められんことを願い出た文書である。この場合、矢川神社別当からの依頼であるために高木が仕事をする事になったが、こうした強引なやり方が各地の大工と相論を起こすことになったのであろう。』      (細見の讒説より抜粋)

 以上の如く彼等による常套かつ下劣な手法は、九兵衞が京都大工頭・中井氏に対して直(ひた)向きに訴えた「口上書」を故なく改竄し、一方の高木に対しても大工組頭という職権を乱用して強引に本殿造営を横取りせんとしたので、九兵衞が高木に対して工事差し止め請求を提出した等と、性悪な細見・山岸が意図的に歪曲し、責任の一切を先祖に転嫁せんとする悪辣な謀略が空疎に響くが、このように筋道が立たない独り善がりの八つ当たりは、人間の普遍的特性を否定する陰謀に他ならない。

 その誤断の根源とは、何(なん)といっても吉田による郡外作事不可説が拭色できず、それに絡む思惑外れは古文書の読解は言う迄も無く理性的・合理的な判断能力の欠落に端を発した常軌の逸脱に強い違和感を覚えるが、彼等の見え透いた嘘偽りは、私が神社文書の「口上書」を糾明した注解〔(前掲、その(1))と、細見・山岸による不実の悪態〔その(2)、赤字で区別した先祖非難〕とを比較するとき、その(1)・その(2)共に同じ口上書の玩味の結論である以上結果は理論的に考えて大差を生ずる訳もなく、別して口上書は中井役所(幕府出先機関)に提出する書状であることから信憑性は極めて高いが、それでも私の見解と大差を生じた現実は、細見・山岸が間違った解釈をしている唯一の証拠である。

     ◆ 地元大工・九兵衞による謝罪証文 ◆

 『神は高い所におわしながら下界の人々の言葉を聴き、人間の善悪に対して厳正な判断を下される』

 宝暦元年(1751)9月、前掲の如く九兵衞は中井役所に対して断り状を提出、翌2年(1752)10月、漸(ようや)く矢川寺の院主様及び七ケ村の役人衆に謝罪した。その証拠となる高木文書〔上包紙の題字・矢川大明神宮の事に付、九兵衞謝(あやま)り証文〕によると、去る辰年(ェ延元年)本殿造工に関する相談の砌、(そのおり)無調法(行き届かないこと)を申し上げ、院主・別当・七ケ村の役人に背(そむ)いた事を謝罪しますと述べ、細工一式は八幡・高木但馬にご依頼なされ(と断念し、)この上はせめて釿始め・上棟式の仲間に加えて下さるよう(高木に)お願いしたところお聞き届け下さり、(条件として)『この上は指図通りに致し、若し行き届かぬ事があればその節は一言の異議も申さず早速に退去します』(以下略)と謝罪した。

 かくて同4年(1754)1月20日工事に着手、翌5年10月7日棟木が上がり、宝暦6年(1756)8月18日、上棟式、翌日御遷宮された。

     ◆ 弘誓寺本堂の造営と出鱈目の調査 ◆

 『識(し)る者は言わず、言う者は知らず』(識者は分際を越えてまで容喙せず、矢鱈に横槍を入れる者は禄(ろく)に物事を知らぬ井の中の蛙である。)            (老子・第56章)

 神崎郡に現存する弘誓寺本堂は、宝暦5年(1755)10月、大坂(阪)天満御坊に解体してあった本山の古堂を拝領して建替すべく、その調査を蒲生郡の高木但馬に依頼された。   (宝暦度本堂再興・第一次計画)

 建物の規模は桁行・梁間共に11間・(1間の向拝付)であったが、建設地の都合によるものか?桁行のみ2間縮小を余儀なくされ、改めて桁行9間・梁間(在来寸法11間)に造り替え、朽損箇所を精査〔精(しら)げ・古文書には志ら計とある〕した上で、取替材の明細・略図・修理願書を作成した。

 これの提出に絡む大工作法の根本(金科玉条)は、京都中井役所の規制により建設地が他郡である場合、蒲生郡の高木には建築願の提出義務は一切無く、代理として地元の助棟梁が願書を持参する慣例であったが、それでも中井役所にすれば俄仕立ての願主は一面識もなく、従って神崎郡大工組頭が加判したものを提出することと定められていた。

 以上の煩雑な規制の内実を摘示すると、修理願の奥書きに『大工の儀は、(大工について言えば)設計及び本棟梁を高木但馬が勤め、諸事の指図(指揮・命令)を致します。以上により本来ならば高木が御窺(うかが)い(願書を持参)すべきところ、(高木は蒲生郡、建設地は神崎郡とそれぞれに)大工組が違いますので、〔御定(おさだめ)に従い〕神崎郡の私が助棟梁乍ら代役として御窺い主(申請人)となり、大工組の違う訳を立て申し(立証します)。この上は、本棟梁・助棟梁の差(職位)を互いに守り、入魂(じっこん・親密)にし、無事に(本堂が)建立します様に』と誓約したものを地元の助棟梁が中井役所に持参した。

 註 このとき先祖但馬は自筆の修理願(願い奉る造作之事)を
   二通作成し、一通は高木の代理として京都中井役所に出向
   する地元・助棟梁にこれを委託、同氏は大工頭の裏判を得た
   のちこれを自宅に保存(していると思われ、)残る一通は私
   が保存している。

   これに対して何故か現在重要文化財本堂「付」文書となって
   いる同じ内容の寺蔵文書は、地元大工が中井役所の裏判を得
   て自宅に持ち帰ったものを、後日寺院関係者が筆写した単な
   るメモであり、敢て順位を付けると、同じ先祖の直筆であり
   乍ら助棟梁が自宅に保存していると考えられる高木自筆の文
   書は当然第一位にランクされるべきであり、一方私が所有して
   いるものは大工頭の裏書が無いので残念乍ら第2位に甘んずる。

      ◆ 罵詈讒謗の使い所を間違えた駁論 ◆

 前述の中井役所に提出する修理願の奥書きに対して何事も逆手にとる細見啓三の偏狂を剔出すると、
(本堂の造営について)『地元大工と高木とが一致協力して工事をすることを約束しているが、『蒲生郡と神崎郡とでは大工組が違う』と、わざわざこれに前文つけているのをみると、その経緯は必ずしも平穏であったとはいい切れない。そこに高木一流の政治力が働いていたこと、それは『矢川神社の例がよくそれを物語っている。』と、筋の通らぬ難癖をつけて想像を逞(たくま)しゅうし、恥をかくことに余念がないが、その専横かつ独善な枉法は、傍(かたわ)らに人無きが如く先祖を虚仮にし、多面的に誤断が横逸した悪辣極まる論調は、江戸幕府の法則までも蔑(ないがし)ろにする没分暁漢が味噌も糞も綯(ない)交ぜにした論駁は、縦(よし)んば猛省するにも沽券(こけん)が差し障りとなって未知の領域を脱することができず、場当り的な窮余の愚策は取るに足らない自己満足であって、決して論理的思考による判断とは言い難く、矢鱈に観念的な屁理屈を捏(こ)ね回して調子に乗っているが、それは評論ではなく単なる安手の小説に過ぎない。

 詮ずるところ、古文書調査の人選に際して有るか無しの職位に拘泥するよりも、寧(むし)ろその人間が古文書解読に相応(ふさわし)い識見の持ち主か否かの吟味が差当り焦眉の急である。

     ◆ 古堂修理を改め、急遽新築本堂に ◆

 弘誓寺本堂宝暦造営(桁行の縮小を含む修理)が調査の結果割高となる思惑外れから急遽新築に改変された。それを裏付ける関連文書として、
(1) 奉願造作之事、宝暦5年(1755)10月、
(2) 本堂(素建までの)新築用材の明細、同6年5月、
が挙げられる。前者(1)は当初の計画であった古堂修理の申請〔梁延び(制禁の梁間寸法を超えている)が子細格別に付き〕と、大工頭・中井氏が許容した写しであり、残る後者(2)は、表題の如く新築に変更されたことにより、高木は間髪を容れず、素建までの入用材(新材)を拾い出し、(1)文書の許可年月より7ケ月後)の宝暦6年5月、寺院に提出した木材明細である。

 一方、これ以前になすべき重要な義務(新築願の提出)は、前回の修理願と同様に地元の助棟梁が、再度中井役所に出向して新築許可を入手、これも自宅に保存している筈であるが、寺院では今回の許可書に限って筆写されなかったのか?紛失されたものか、死児の齢(よわい)を数えるが如き愚痴乍ら若しもこれが現存していたら、いくら細見・山岸が分らず屋でも今回の如き擦(す)った揉(も)んだは惹起しなかった筈であり、口角沫(あわ)を飛ばして
高木は虚偽の申請をした等とバカ気た悶着もなく、ひたすら計画変更という生みの苦しみを越えて新築された本堂が存在する現実は、何はさておき虚偽ではなく、真(ま)っ当な申請をして許可を得た証(あかし)である。

 更に、プロの立場で切言すると、宝暦5年付の廃案となった修理許可を金魚の糞の如く引き摺(ず)り回し、これを執拗に
虚偽の申請と嘲弄するのは誠に時代の趨勢を知らぬ往生際の悪い愚の骨頂である。その理由とは二回目の新築許可を得た時点で(1)文書は「造営経過を識る上での参考資料」であっても、現存本堂の証拠にはなり得ない反古なのである。

 それにつけても捧腹絶倒すべきは、(1)文書の価値について、自分らで「重要文化財本堂「付」文書」に推挙し、塩川文部大臣の認定書まで入手し乍ら一方、手の平を返せば。
『高木は虚偽の申請をして無理矢理許可にこぎつけた文書』 と愚弄する理不尽な悪態は自家撞着も甚だしく、逃げ場を失った鼬(いたち)の最後っ屁(ぺ)に等しい。

      ◆ 寺蔵文書に固執した素人判断 ◆

 空想と褌(ふんどし)は先方の都合で外れるというが、山岸常人による先祖攻撃の内、『船に刻みて剣を求む』(古堂の修理から最早新築本堂に変更された単純な頭の切替えが出来ず、)修理計画をあくまで固守するという執念を温存し、これを先祖に対する因縁のねた(種)にする魂胆は『天満御坊を修理して建直す旨の申請をして許可を得た』と、下らない前置きをした上で物事の是非を混同して偽計をめぐらした毒筆は、
 
 
『現存する本堂を見ると18世紀中期の様式を持っているものの、垂木には反り増しがある等古式な点もあり、その為に前述の文書(宝暦5年申請済)通り旧天満御坊の建物を修理したと判断する懸念もあるが、建物を詳しく見ると修理した痕跡は一切無く、むしろ宝暦期に新築した事が判明する』と、当たり前の事を実(まこと)しやかに机上の空理・空論を展開し、先祖の陥穽に余念が無い。

『事実、寺蔵文書にはこの他に宝暦5年(6年の間違い)の素建までの木材明細にはすべて新材で拾い出されている。従って(前述の宝暦5年10月付けの修理願は)虚偽の内容の申請と断定された』と、行きつ戻りつの空念仏の妄想は最早カンフル注射を要する二律背反に陥った。
 
  註 以上の山岸説が妥当な判断とすると、このとき京都大工頭・
    中井氏は虚偽申請に盲判を捺(お)したことになるが?

     ◆ 捻(ひね)くれた贅論と不毛の連鎖 ◆

 先祖の宿敵村田信夫・細見啓三・山岸常人による非難の内、弘誓寺文書〔宝暦5年10月付で疾(と)っくに廃案となった文書〕を先祖に対する言い掛かりの証拠とすべく執拗に引き摺り回し
『御制禁の所であるが格別の子細によって図面通りの細工を許可する旨の裏書を行なっている。』と、今となっては形骸を止(とど)めないものを標榜するかと思いきや、急に正気にかえり、『本堂素建平物角物木寄』(宝暦6年)には古材は含まれておらず、すべて新材で拾い出されていると、浅薄な知識で左顧右眄して躊躇する。

 次いで現存する本堂に視点を変え
宝暦以前の古材は使用されておらず、この両者(味噌と糞)の違いはどこから派生(根源から分かれて発生すること)したかを考えると、それは新築で申請すると不許可になる(現存する本堂は新築で申請したものである)可能性があることから、故意に修理・修復ということでその目的を変え、つまり虚偽の申請をして無理に許可にこぎつけたとするのが妥当なところであろう。と、自己の不見識を丸出しにして不必要かつ意味不明の寝言をのたまう。

 このように、先祖が弛(たゆ)みない努力によって積み重ねた犬馬の労を写実的に表顕することなく、只管(ひたすら)匹夫の勇の如く感情の赴(おもむ)くままに非難する精神的な妄想は、先祖の来し方を愚弄し、抽象的な空想以外に物事が考えられない捻(ひね)くれ者が、一丁前に高木文書を逆に解釈し、性根が腐った自己の至愚を棚に上げ先祖を「ぼろくそ」に罵(ののし)る権威的な裁量は、調査する資格と適格性を欠いた無様な醜態をさらしているが、能力が無いのなら始めから書かないという選択肢もある筈である。

 其(それ)につけても組織ぐるみで無けなしの公権力を行使し、たわい無く一方的に事実を歪曲してはその先が見えず、正論を標榜して前進しょうとしても愚にも付かない観念と、粗探しを趣味とするひん曲がった邪欲とのせめぎ合いは、どんなに愚策を弄して権力の座に固執しても真理を覆すことは迚(とて)もじゃないが不可能である。

 詮ずるに、人倫(人として守るべき道義)の空洞化した現実態では、普遍の原理(多くの物事にあてはまる根本の理論)に基づくか、独自性を貫くか、肝心の根幹がずれていては、その上に構築する論理は自然(じねん)砂上の楼閣に他ならず、一見、社会正義の観点に立脚した批判のように見えるが、豈図(あにはか)らんや認識の不足した連中による先祖非難は実態以上に誇張され、人間味を喪失した細見・山岸の悪態嘲罵に時として吐(は)き気を催すこともある。

 その鼻持ちならぬ構図は、現実と虚構の狭間で機能不全に陥り、持ち前の突慳貧(つっけんどん)な性格は他者に対する思いやりや想像力の欠落により、物事を客観視せず抽象的に考えるだけの恣意的な発想では自己中心的にならざるを得ず、途方も無い誤断や愚にも付かぬ論難は次元の低い罵声以外に何物でもない犬の遠吠え(先祖攻撃)である。
PN   淡海墨壷