トップページ
2001年9月28日
高木敏雄HomePage

清水寺三重塔

 「布団着て寝たる姿や東山」特に薄暮の頃は墨絵の如しと賞賛される東山山麓に 十六番札所で有名な観音様がおわします。この清水寺西門の東に重要文化財清水寺三重塔があり、去る昭和六十一年に修理された。その工事報告書によると、同塔は寛永六年(1629)の火災で焼亡後、同八年三月より」再建が始められ、比較的短期日で翌九年九月本堂に先立って再建されたとある。

 修理以前の塔は二、三重の軒先垂下が顕著であったのか、縁上から支柱が立てられ、塔を遠望するときは胴廻りが肥満で、そのため軒の出が短かく見えて、お世辞にもスッキリした姿ではなかった。今回の修理で支柱は撤去されて従来の美観となり、極彩色が復旧されて眩い程の絢爛たる塔となった。

  三十分の一模型の製作

 本塔模型製作の動機は前作品(平成11年8月完)の東寺五重塔模型に比べて私の先祖が関与したとするような直接的なものではないが間接的なものとして、

1.  今回の塔の修理で塔内に納められていた「願文」が発見されその一部に上田庄兵衛という人のものがあった。同氏は鳥取藩主池田公の依頼で元和五年(1619)(塔の造営より十一年以前)より始められた知恩院塔頭の造営に、私の祖二代目木作右衛門、飛島長右衛門と共に現在風にいえば三名での共同企業体の形で関与されており、同藩城代家老に宛てた書状(木文書)に連署しておられる。この上田氏について私の多年に亘る懸案事項の一つであったものを、同塔修理事務所の方が私に御教示くださり、この御好意によって上田氏は私の祖と「同じ釜の飯を喰った仲間」であった事が判明した。

2.  木作右衛門、本堂の縋破風を納める。
  私の祖六代目木作右衛門兵庫(文化元年1804没)の雑記に江戸中期の本草学者松岡元達の刊行物の抜粋をした中で、
 「山城清水寺の舞台東西の縋破風は上工の者でなければ納められない」とし、「兵庫の大工と、高嶋(近江)の大工が東西に岐かれて腕を競った中で、兵庫大工の破風は寸法が短く、高嶋の大工六左衛門の方は寸法が違わなかった」とある。また「六左衛門は」東寺の塔を建てし者なり、兵庫の大工より勝れたり」とも付加している。  この松岡元達に対する反論として私の祖は
 「この縋破風の事は予の先祖作右衛門の事也。忽論東寺の塔の事は世に知られる処の如く各々作右衛門の事也。絵図、書付の後証として予の家に伝えらるる処なり、松岡氏いかが年あやまりて 後略」  松岡氏の記述通り、東寺塔の寛永造営に前述の六左衛門が参加したか否かについて、幸い京都総合資料館に本塔造営に関する現代風にいえば「労務賃金支払台帳」が残されており、作右衛門に賃金を支払ったとする記述はあっても、六左衛門の名は見出せなかった。

3.  以上の如く私の祖や、その仲間、上田氏が清水寺観世音の御縁があったのに加え、私までもお導きがあってか、大西良慶様の成就院庫裏の増築でお世話になった等々の事が本塔三十分之一模型製作の動機である。なに――、そんなもん清水の塔と関係あるかァ―といわず、よろしかったら後文の知恩院塔頭造営の苦労話を読んで下さい。参考になりまっせ―。


◆ 模型の規模

 
M
 
基壇外巾
0.393
 
初重柱間
0.173.3
 
総高さ
1.007
地上より相輪上まで

(模型寸法、他、当塔修理工事報告書参考としました)

  知恩院の子院,浩翁軒 (のちの良正院)

 丸山公園を北に抜け、知恩院三門を右に眺め乍ら更に進むと同院黒門の前に出る。この門を東端として西に向かって東大路に至る道が古門前通りで、それぞれ東西方向、南北方向の道が黒門の石段下で丁字型となる道路中央に風雨を問わず、無言で上手く右、左折車の交通整理をしてくれる「瓜生石」がある。この南角に吉水学園が北面して建ち、これに対峙して建つ北角の建物が曾っては知恩院筆頭子院で、現在はその境内に大照学園が設けられている。

  「知恩院史」によると、この建物は古くは浩翁軒と称したが、寛永元年(1624)良正院に改められたという。この子院の開基年代は明瞭でないと同書物は伝えるが、近世の幕開けも近い文禄四年(1595)得入という僧が住持されて以来、前述の改号時期を経て示寂される正保四年(1647)までの五十余年に亘る法主に仕へ就中寛永十年(1633)の火災による復興造営にも功績を残された。またこれより先、慶長八年(1603)一山境域の大拡張(中の段)には家康は随喜して「宗把」の二字をあたえたという。

◆ 良正院の造営

 当院造営に関する「木家所蔵文書」『恐れ乍ら言上仕り候』と題する「申ノ五月六日」付文書の冒頭に「知恩院様御内宗把老御寺御建立被成候」とある。この日付の申年は元和六年(1620)申年に充当し、寺院名の「知恩院様恩内」は同院子院を意味し、「宗把老御寺」とは前述の如く、浩翁軒と号した時期の住職「得入宗把老」を指す。

 また文書の宛所(荒尾内匠頭)は鳥取藩池田家の家老、荒尾成利と考えられ、文中の「殿様」とは、もと姫路城主、池田輝政と、その後室(実は家康の二女督姫)との第二子、池田宮内少輔宰相忠雄のことである。

 私の先祖、二代目木作右衛門光喜が浩翁軒建物を造営することとなった経緯について「知恩院史」を参考として更に考察すると、先ず慶長十八年(1613)一月、池田輝政卒去、時を移さず史上有名な大坂の陣が起こり、家康は軍を大坂に進め,自らも上洛したが、一方督姫も父娘対顔のため入京して二条城に滞在中、父家康に先立って元和元年(1615)二月、四十一才で逝去、家康は知恩院に命じて同院山上に葬り墓碑 を刻んだ。

 元和四年、池田忠雄は母追善のため将軍秀忠の許を得て浩翁軒の寺域を拡げて新伽藍を建立、寛永元年(1624)工事完成して,寺号を母の法号に因んで「良正院」と改号し、得入宗把師が引続き良正院住職となった。

◆ 造営経過について

  知恩院史の記述通り、池田公が立案されたのは元和四年のことで、「木文書」にも「未の春御入札仰せ付けせしめ候」とある通り、同五年の春に入札が行われたことが判明するが、関係書類を早速奉行所に提出し、「相極り候」とあるから時を移さず落札決定したものと考えられる。

  ところが当時池田公が江戸詰であったため,御伺いの書状を江戸に送付するも日限が延引し、加えて江戸幕府に於は来る元和八年より江戸城修築の計画があって、「その内に大坂、播磨、明石の材木共江戸より御召しになり」といった状況下、上方では関白九条邸、清水寺の作事が始まり、そのため材木が異常な高値となり、運搬費まで値上げの状態となった。

  その上、三,四,五月頃まで日照り続きで、所々川の水が渇水、筏流しが不能となって運賃も上昇、当初の見積金額とは大幅な相違となりこの辺の窮状を奉行衆に訴えるも、池田公と契約した以上は作事完了の上でお窺いするよう促がされた。

  交渉は不調に終わって工事に着手したが、材木に至っては節のあるもの、色の少し黒いもの等々、格別入念に買付けるも、柱等は削り立ての途上で日割れの生じるものは申すに及ばず、僅かの木肌の色違いまで奉行の検査はきびしく、削り立て加工済みの柱まで取替えを命じられ、過分の失墜となって京都居住の堪忍もむつかしく、何卒御慈悲をもって、云々と池田家の家老荒尾成利に哀願した書状である。

申ノ五月六日

飛島長右衛門
上田庄兵衛
木作右衛門