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2007年8月17日
高木敏雄HomePage

味噌糞に書く以外能が無い短絡思考

宮大工 十四代 高木敏雄
     ◆ 先覚者の末席に伍する先祖の足跡 ◆

 室町時代後期の弘治2年(1556)高木初代・右衛門兵衞による日牟礼八幡宮の宝殿・拝殿造営(当人自筆の造工覚)以来、幕末に至る汗牛充棟の高木文書は、悠久の時空を超越した大正6年(1917)先祖の顕彰を目的とし、(1)『近江新報』に掲載されたのを切っ掛けに、(2)大正10年・『蒲生郡志』・(3)昭和9年・『日本建築工匠技術の一研究』・(近江大工と其の技術)・(工学博士・藤島亥治郎)・(4)昭和15年・『八幡町史』に次いで「学習大辞典・美術編2」・「日本美術史概説」・(5)『近江人物伝』を出典とした(6)昭和26年・『近江の先覚』県教委・(7)平成4年・『近江を築いた人々』・県教委に掲載された。

 以上の(1)〜(7)は言う迄もなく先覚者の遺徳に対する顕彰であるのに対し、現今冤罪紛(まが)いの先祖非難〔後述する一覧表(8)〜(12)〕は嘗(かつ)て日本人特有の懐(ふところ)の深さを忘れ、定見の欠片(かけら)もない御都合主義により思慮分別無く、安易に先祖を敵視し、因って自己の存在を弥(いや)が上に誇示しているが、その断片的で中途半端な妄説は、『漿(しょう)を請(こ)いて酒を得た』〔希望していた以上のもの(古文書閲覧)を得た〕にも拘わらず素人であるが故に不確かでいい加減な先入観が却(かえ)って有るか無しの思考を妨(さまた)げ、それ故に先祖の真摯な来し方を県教委の一部の人間により蹂躙され、全く別次元の定義や妄想により有りと有らゆる卑劣な手段を講じ、不見識を棚に上げて逆恨みの矛先を先祖に向けているが、それらの愚策は合理的根拠を欠き、ど素人判断に基づいた職権の乱用は、論理的に筋が通らぬ愚の骨頂である。

 これについて捧腹絶倒すべき先祖攻撃の悪態を一覧に供すると、昭和2年、甲賀郡の匠家所蔵の文書を典拠とした『江州甲賀の大工仲間』・黒正巌(経済論叢)を参考とし、

(8)『江戸時代中・後期における六ヶ国農村大工組について』
    但し「近世建築の生産組織と技術」川上貢氏・昭和59年の内、
    159頁〜236頁に併記された吉田高子による高木非難。

(9)『滋賀県の近世社寺建築』 同教育委員会刊。昭和61年 
    執筆責任者、同文化財保護課・建造物係長・鈴木順治、
    同主査・村田信夫。

(10)『蒲生郡大工組頭・高木作右衛門の系譜とその作事』
    奈良国立文化財研究所、細見啓三・山岸常人による捏造。
    昭和62年。

(11)『建物の見方・調べ方』 山岸常人他2名の内、113頁〜114頁。
    172頁。平成6年。

(12)『本願寺八幡別院本堂修理工事報告書』滋賀県教育委員会刊。
     監修・池野保。平成13年。以上が先祖非難の対象として挙げ
    られる。

     ◆ 済し崩しに出来上がった没常識と咎 ◆

 先人の格言に『一人が虚言(うそ)を言うと直(す)ぐ様真実として万人に伝わる』という説諭がある。これの震源とも言うべき
(8)吉田説の先祖攻撃を検討すると、江戸幕府の大工規制の内、それぞれの大工が郡外に出向して仕事をすることの可否について、自己の不見識を棚に上げ、興味本位に先祖を中傷して止どまるところを知らず、侮蔑の連鎖となった。これが(9)に伝播されるや、紙背の意義すら判断できない戯(たわ)け者が、『高木は幕府の禁令を破る怪(け)しからぬ奴』と事実無根を公表し、意図的に先祖の陥穽を画策した。(10)それ故に先祖に対して弥(いや)が上に懐疑心を誘発し、『徹底的に文書を調査する必要ありき』と途轍も無い邪心を醸成し、私の入院中を忖度することなく非人道的に公権を行使し、文字の行間が読めない果実なき成れの果(はて)は、肝心の本質が味到不十分なまま規範意識の希薄さを露呈し、前代未聞の敵対調査を公表する羽目となった。

 彼等の没義道な遣(や)り方は、事前にアンテナを張っていたことから毒牙にかかった文書は僅少にとどまったが、それでも事実誤認の無様な調査結果は惨憺たる様相を呈し、案の定文書の紙背が読めず、一方的に先祖の非難を垂れ流して世人を誤導し
(11)それでも飽き足らず、私家版にまで先祖の悪宣伝をして溜飲を下げ、我関せずと得意満面な醜態となった。

 続いて
(12)本願寺八幡別院本堂(県指定)修理が完成すると、修理工事報告書の作成について、渇望の資料(10)を得たと雀躍した(12)池野は真相を糊塗した曖昧な弥縫策に感(かま)け、高木文書による第1期の元禄応急修理に次いで、第2期のェ延〜宝暦に至る解体修理を隠蔽し、一途に元禄7年から新築で着工し終始一貫、通算71年を費やして完成したと素人判断による虚誕の報告を公然としているが、造営期間は扨(さて)置き、肝要な事象は、当時江戸幕府の建築制限は(新築の場合)「梁間寸法は三間(げん)を限る」と定めており、この金科玉条の禁令を破ってまで現存する11間半の本堂がこのとき新築できる筈もなく、(新築を目論み、上納金が動いたと根拠も無くうそぶいている)これに対して私が反論する真相は、先祖の絵図を拠りどころとして現存本堂外陣四周の柱間寸法を一間(けん)に換算すると、江戸時代の基準寸法の6尺5寸ではなく、中世の6尺8寸8分であることが判明した。(これでは元禄7年の申請に際し新築許可は得られる筈もない)

 詮ずるに、当寺院の故地は蒲生野説・安土説と諸説紛々として詳(つまび)らかでないが、私の管見によると、文禄元年(1576)現在地への移転の仕様は、旧本堂の解体に先立ち旧状の平面寸法に準(なぞら)えて現在地に柱礎石を据(す)え付け、因(よ)って中世の柱間寸法を堅持して現地に旧本堂を組み直し、これが102年後の元禄7年の修理方針では柱の根継ぎどころではなく、
『所々朽損した柱の取替えがしたい』と、高木日向が大破した本堂の修理(解体・地形二尺築上)の申請をしているのも、それ相応の経年の証(あかし)でもあり、膝(ひざ)を叩(たた)いて首肯できる。とは申し乍ら、これらの柱は第二期・(ェ延)の解体修理で現在の円柱(側柱は除く)と取替られたが、礎石の間隔(柱間寸法)は旧態依然として現在に至るも中世の名残を維持する貴重な証であるが誠に惜しむらくは、これでも元禄修理ではなく、新築と主唱する文化の破壊者が存在することは慙愧に堪(た)えない事実でもある。

 そうであるにも拘らず、県教委ぐるみで先祖の陥穽を策謀し、前述の如く
(8)〜(12)に至るドミノ倒しで先祖を襤褸糞(ぼろくそ)に書き捲(まく)る盆暗集団による調査は、職位としての上辺だけの画餅であって専門的な資格を有する人間の調査とは世辞にも言い難く、逆に自己の品格を欠き、天に唾する愚の骨頂は自分で墓穴を掘ることとなった。

     ◆ 郡外作事は
違法と嘯(うそぶ)く吉田説 ◆

 元来、「郡外作事」または「郡内作事」という言い回しは無いが、これの峻別について敢て言うならば、自己の居住する「郡」の境界を越えた
他郡・他国で仕事をすることの可・否について一知半解の(8)吉田説では、『それぞれの大工組は「郡」を単位として存在したものである』等と場違いの前置きをし、一郡一組の大工編制の後講釈を力説した上で、『仕事場所を郡切り(郡内限り)と定め、他郡には立ち入らぬこととした』と恣意的な解釈をし乍らこの規制が何時(いつ)、誰が発布したかも明示せず、無責任で辻褄の合わぬ自家撞着を憶測によって実(まこと)しゃかに大言するが、案に違(たが)い大工頭・中井家の基本方針は飽くまで顧客第一主義であり、特例として郡外の出向をも条件付きで容認している。

 註  元禄8年(1695)1月、自己の営業範囲以外に出向するときの
    大工作法・五項目の内、第二項・大工頭覚書による。

 例えば、郡外の建築主より、ある大工が技量を認められ、栄誉ある要請には極力これに応ずることと定め、折角依頼されても手支えがある場合は信頼できる仲間に依頼し、成る可く建主の希望に応(こた)えることと定めている。その理由は、取り分け中井家支配下の五畿内・近江の内、(都市大工を除く)農村大工組では修理・新築を問わず農閑期に作事が集中することから、相互に他郡へ出向することも多く、但し、仲間同志の作法として相手方(出向先)の大工頭を介在し、双方納得の上で「一札」を手交し、その上で着工するのが仁義(道理にかなった方法)である。

 これについで頑迷固陋の吉田説
(8)では『郡外の作事は不可』と、正当な理由・根拠も無く豪語するが、元来(先祖を含め)諸役免除の特権を有する幕府御用役大工にすれば工匠保護の代替として(郡外・国外)の作事に出向する義務があり、この双方の鉄則は、開幕以来好むと好まざるに拘わらず徴用され、大坂の陣によって一応終止符が打たれたかに見えたが、とりわけ京都御所の造営、特に焼失に伴う再興には自普請を中断して馳せ参ずる退(の)っ引きならぬ責務があり、その頻度は先祖の職道由緒書によって明らかである。

 そうであるにも拘らず、恩知らずの吉田が貼ったレッテル(先祖に対する一方的な下らぬ判断)は、中井家が定めた本質的な規制の準拠を見誤まり、ど素人であるが故に実態以上に誇張した愚にも付かぬ誤断を増幅させ、客観的な実在性の欠落した下種の勘繰りは、自己に与えられた印象〔(ぼ)けた感性〕に基づく事実無根、かつ洞察力の乏しい屁理屈は、論理の妥当性を欠いた空想と、三文小説の虚構(つくりごと)に過ぎない。

 更に、
『郡外作事の特例』を摘示すると、野洲郡の本堂が高木四代によって造営され、のち同五代のとき従来の茅葺を瓦葺に改築すると同時に、近隣の本堂も新築で計画されたが、これについて後者の寺院より「野洲郡中の大工では不得心である」と中井家に進言された為、同家の下命で二ケ寺共に郡外の高木が造営した実例もある。  「高木六代目文書」
 以上の証拠によりかりそめにも吉田の主張が正しいのなら、六カ国大工を統帥する中井家が、
郡外の高木に御下命される筈がなく、吉田による井蛙の見も度が過ぎた鼻つまみものである。

     ◆ 元文5年の鳩首凝議と黒正論叢 ◆

 享保20年(1735)甲賀郡大工組頭が退席し、同郡のみ大工年寄の支配に移行した5年後の元文5年(1740)3月『取替(取り交し)を為(な)す証文の事』と題し、蒲生郡大工組頭・高木の他、三郡(神崎・野洲・栗太)の組頭と、甲賀郡大工年寄1名を含む計5名で凝議した結果、互いの営業範囲の再確認をし、表題の如く証文の取り替っこをした。その内容とは、

 一、東近江五郡の大工仲間の準則(のっとるべき規則)では従来より
 郡切り(それぞれの郡内限り)に仕事をすることと定め、但し(一応
 の原則である)これを組頭・組中の仲間が立会いの上で申し合せ、以
 来その旨を守ってきたが、この度不届きな事(違法)があったので、
 またまた五郡の組頭が立会ってこれを改め、いよいよ従来通りに厳守
 する旨の相対(あいたい)(双方が納得すること)が済み、(以上の如
 く)証文を手交した上は、これ以降他郡への入り込み細工をしては不
 可と決定(けっじょう)した。
  
『但し、特例として』条文は続く
 今後はこれを守らずに他郡に入り込み、その郡(出向先の郡)の組頭
 と相対を遂(と)げず不法に仕事をする者は、御上(おかみ)(京都
 大工頭・中井家)に御断りし、物事の理非を分かち、(どちらが道理
 にかなっているか否か判断して戴き)その上で急度(きっと)曲事(不
 正な行為)として御願い(提訴)申しあげる(とある。)(このあとに
 5名の署名・捺印あり。)

     ◆ 持場の確保と大工所・大工職(しき) ◆

 前者の大工所とは大工が生業(世襲の職業)の維持に必要不可欠な営業範囲、つまり縄張りのことで、後者大工職とはこれが権利化したものである。それ故にこれらの証文は子々孫々に相伝されるが、事情により他者に譲渡されることもあった。当家の大工職は永正9年(1512)藤原光吉という人から馬場村(八幡城下町形成以前の旧村名)左衞門という人に一旦譲渡され、その後先祖がこれを享受し、弘治2年(1556)以降はこの大工職によって日牟礼八幡宮の造営他を行なっている。

 時は移ろい慶長15年(1610)3月、たまぬき町(現在八幡玉木町)の左衞門(前者と同一人物)に連署を命じた八幡久兵衞町(現在大杉町)の大工新兵衞氏より高木に対し、『永代これを進め申す大工所の事』と題し、『金田庄(蒲生郡下)の大工所は元来貴家と折半であったが、我等(この複数表現は左衞門を含む)に跡継ぎの者これなく、自分の所有する権利を貴家に譲渡して埒(らち)明き(物事のかたをつける)がしたい』という文書により、これ以降高木は金田庄全域の大工所をも掌握したことがわかる。
                          「高木文書」
 翻(ひるがえ)って、郡内・郡外の作事区分について、(8)吉田説では百様を知って一様を知らず(博識のようでも大切なところが抜けている)の半可通により『郡外での作事は不可』つまり「郡外に大工職を有することは罷(まか)り成らぬ」と大言をしているが、これを愚直に解釈すると『郡内ならば他者の大工所を侵害し、何処で仕事をしても自由であるのか』と、問題提起せねばなるまい。これに最も適切な郡内の例を示すと、慶安3年(1650)7月、もと八幡山に存在した成就寺の大工・大井久兵衞氏より護摩堂の付属建物を造営するについて、(これは高木の大工職の範囲である。)「八幡宮の神域ではあるが、護摩堂の庵室(尼僧様の住家)であることから貴家の大工職以外であり、これを容認して欲しい」と文書により無理に強(し)いたものもある。               「高木文書」   

 その他、八幡町(市制以前の六十六ケ町)は殆ど高木の大工所であったが、縦(よしん)ば、郡内であっても「今堀」(当時は蒲生郡)日吉神社は鵜川村(蒲生郡)大工の持場であったことから話し合いの上で高木が造営し、日野町蔵王(蒲生郡)金峯神社も日野町大工年寄の諒解の上で本殿の造営をしたが、これらは後日の為の相対尽の覚書が現存する。以上の如く、仮令(たとえ)自己が居住する郡内であったとしても、他者の大工所であるときは話し合いによって承諾を得、後日の紛争なきよう配慮し、一方、他郡・他国の建築主の需要に応ずるときは出向先の組頭に『我々は何々郡大工組の者共にてこれある旨を一応断った上で物事を神妙に相勤め申す事、若し我儘なるものこれあるときは此方(中井家)で吟味を遂(と)げる』と定めている。

 以上の定書は元禄8年(1695)に出されたものであるが、それでも文中には『前々よりこの定めに候』『この度改めて』『その後猥(みだ)らなる儀(礼儀正しくない)これあり』等の語があるのを勘案すると、回を重ねて布達するも容易に周知徹底せず、結局はこれより27年以前(寛文8年・1668)の大工法度が母胎(本体)を為(な)し、宝永7年(1710)の戒(いまし)めを経て前述の元文5年(1740)の鳩首会議に至るが、残念乍ら知ったか振りの
(8)吉田説では先学の黒正説に誘発され、心眼に乏しい誤読がもたらす賢(さか)しら知識により『郡外で仕事をしては不可と決められたのは、元文5年の取り決めが「それ」(初回)である』と半可通な知識で遅きに失する持論は、当初の寛文法度(同8年)より72年も経過しており、先学の黒正説を引用し乍ら整合性を欠いた不備な論旨(中心となる意味)を憚(はばか)りも無く公表し、自己に理があると過信した不遜な知識でぬけぬけと先祖非難に余念が無いが、この(8)吉田説はこれ以外にも高木に対し条理を超えた不実を公表し、偏見を客観性よりも優先させて真っ当な証拠を蔑(ないがし)ろにし、陋劣な手段により先祖を誹謗・中傷し、意図的に陥穽を画策したのである。
PN   淡海墨壷