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2009年10月13日
高木敏雄HomePage

化けの皮を剥ぐ心髄と、意趣返し

                             宮大工 十四代 高木敏雄
   
 昭和48年6月、先祖の駄作・本願寺八幡別院(近江八幡市北元町)本堂・他三棟が図らずも県指定建造物の末席を汚(けが)すこととなった。これについて高木文書〔元禄7年(1794)1月28日、京都大工頭・中井家に提出した本堂修理許可書〕の裏面には、
   『本紙(主たる文書)は西の御堂金台寺(八幡別院)が代々これを
    所持、江州蒲生郡西の御堂、元禄7年1月28日御裏判・絵図・諸
    事の写』             (高木作右衛門四代筆)
と明記されていることから、京都中井役所に
修理の申請をして許可を得た文書(本紙)は、如何なる理由によるものか?このとき既に当院の所有となり、残り滓(かす)のみ当家に伝来したことが判明するが、猫に小判というべきか、別院の所有となった文書は残念乍ら何時(いつ)の間にか紛失、折角先祖の好意は水泡に帰すという無様な故事来歴を有する。

 翌49年1月、案に違(たが)うことなく別院より当家に対し「関係文書無きや」と、打出(うちで)の小槌でもあるまいに、またもや調子に乗って古文書を入手せんものと、鉄面皮な打診があり、止むなく前述の写しの他、高木文書17点を数日の確約で閲覧を許したところ、有ろう事か、このとき古文書全部に消去不可能な落書をし、唯一無二の文書は二束三文の価値に成り下り、常軌を逸脱した寺院の非常識により、取返しがつかぬ紙屑同然にされた。

     ◆ 三間梁制限を知らぬ素人の囁き ◆

 日成ならず別院の太田氏(責任役員)の言付けによると、〔県教委・文化財保護課の成瀬係長に高木文書を見せたところ、あんなもん(あの文書)は
修理の文書だアー〕と、慮外の不満を耳にしたが、其許(そればか)りか、家宝の文書を見せた善意を土足で踏み躙(にじ)った上、古文書が読めないのか、係長の思惑は飽(あ)くまで新築一辺倒に凝り固まった狂虐(きょうぎゃく)に等(ひと)しいが、そもそも本山西本願寺御門主の御依頼に基(もと)づく本堂修理許可書に対して「あんなもん」と高木文書を虚仮(こけ)にする不見識の素因は、一途(いちず)に高欄擬宝珠が寄進された年月〔刻銘・享保元年(1716)〕のみに惑溺してこれを新築と強調する係長の妄信に他ならず、その誤謬は、『梁間寸法3間を越える新築は許可しない禁制』を知らぬ専門知識の欠落した素人判断に起因するものである。
                      (高木文書)

 その震源とは、当時江戸幕府の大工法度を、五畿内・近江六ヶ国の大工・杣(そま)に周知徹底せしむべく焦眉の急であった大工頭・中井家による緊急指令は、江州大工組・組頭高木に対して「大工年寄を一名同道して上京すべし」と命じた書状に、『幕府老中より新令が出たのでこれを申し聞かせた上で、その写しを遣(つか)わす』という差紙が届けられたことに端を発する。                    (高木文書)

 以上の新令
(新築する場合の梁間寸法は三間を限度)とする法令と、今回高木に修理を依頼された現存本堂の梁間(11間半)とを比較するまでもなく、幕府禁令より8間半も超過した本堂の新築が許可される筈もなく、それ故に先祖は合法的な修理の申請をして許可を得た真っ当な高木文書を愚弄かつ侮辱するのなら高木文書を返せと、口角沫(あわ)を飛ばす押問答となった。

 これに類する唯一の目溢(めこぼ)しは、梁間3間の建物の両端に屋根を一段低くした1間半の庇を両側に付加し、合計を6間にする程度ならば許可された。その例として当本堂の
元禄修理と併行して新築された対面所・書院・台所は何れもこの手法で許可され、これが宝暦期(1751〜63)になると、梁間制限も弛緩の傾向となり、例えば先祖光幹が造営した弘誓寺本堂の如く、3間どころか、その3倍を越えた本堂でも新築が許可される過渡期でもあった。

     ◆ 擬宝珠の刻銘に惑溺する浅慮 ◆

 現存する縁高欄擬宝珠が寄進された年月の詮索に先立って、桁行の増建に絡(から)む縁巾の拡張に言及すると、修理以前の桁行10間半に1間半継ぎ足して計12間にしたい旨の出願に対して中井家は、子細格別(本山御門主の別院である特別の事情)につき許可を与えるが、『但し、一旦壊して建直すことは難(むつか)しい』つまり、増建は可であっても解体して建直すことは不可であったので、先祖による『千慮の一得(いっとく)』(いろいろ考えている内に名案が浮かぶ一つの利)は、本建の部分(入側から対面する入側までの範囲)には幕府の禁令を順守して一切触(ふ)れることなく、その代りとして修理以前の縁の巾(三方共に0.75間)を2倍の1間半(本山並みの広縁)にすることで拡張後の広縁に相応(ふさわ)しい高欄が必要となり、このとき寄進された金物の刻銘(享保元年)を『本堂の再建が完成した証(あかし)である』と、素人判断で決め付けて恥をかき、幕府の法度を虚仮にしてまで
本堂新築と呪文(じゅもん)の如く唱える捻(ひね)くれた衒学を自慢たらしく公表する浅慮は余りにも物事を知らぬ盆暗と蔑(さげす)まれても人並に立腹する資格は爪の垢程も無い。

     ◆ 高木文書を捏造した細見の奸策 ◆

 昭和62年「蒲生郡大工組頭・高木作右衛門の系譜とその作事」(奈良文化財研究所・細見啓三)による事実無根の罵詈讒謗(ばりざんぼう)
『故人に対して謂(いわ)れなく悪口を浴びせ、口汚く先祖を罵(ののし)るという御里が知れた衒学趣味』は愚の骨頂であり、迚(とて)も正視するに偲びないが、ここでは八幡別院本堂修理願に言い掛かりをつけ、先祖を敵視する細見の暴論のみを剔抉(てっけつ)すると、この願書(高木文書)は法度違反であるにも拘わらず、子細格別につき許可され、例外の措置であることが明記されている。このことは法度違反の申請でも特別の事情があれば許可され、その際上納金納入等の何らかの取引があったことが推定できる。

 以上の事から
修理というこの願書は、実は中井役所に提出する際の便法であって実際は新築を目論むものであった。事実高木が修理と称して新築する例は他にも見られ、(例えば神崎郡弘誓寺本堂)殊に、中井役所開設より間もないことを考慮すれば、このようなこと〔江戸幕府の出先機関・中井役所を誑(たぶら)かすこと〕も罷り通った可能性が高く、従ってこの願書(八幡別院本堂修理願)は新築を果(はた)す為の願書とみておくと、終始一貫ど素人の分際で気違い染みた「でたらめ」と偏狂した間違いだらけの結果、自分で墓穴を掘る馬鹿丸出しの細見は恥をかくこと以外に物事を知らぬ度(ど)し難い人間に他ならない。
 註 以上は、先祖の怨敵・細見の僻論より抜粋。

 このような細見の僻見は有るか無しの権力を盾にして踏(ふ)ん反り返って虚勢を張っているが、所詮は高が知れた素人であるが故に専門的な実質が伴(ともな)わず、如何なる遺恨によるものか?天上天下唯我独尊の独り善がりの果ては、先祖に対する度が過ぎた鼻摘(つま)みと化し、天に向かって唾(つば)する愚考に頓着せず、興味本位に先祖を愚弄する数多の讒言〔先祖を貶(おとし)める目的で事実を捻(ね)じ曲げ、ボロクソに腐(くさ)して欣喜雀躍すること〕は何(なん)の合理的な根拠も無く、その為に肝心の結論が立証されておらず、次元の低い不見識かつ卑劣な細見の憶測は抽象的可能性(現実離れして具体性を欠いている)に過ぎず、余りにも視野の狭い感情論に終始し、愚にも付かぬ幻想により味噌糞に書いて溜飲を下げ、先祖の痛みを斟酌(しんしゃく)することなく、また、そのような人間味の欠片(かけら)もなく、只管(ひたすら)是非を混同した細見・山岸の毒筆(先祖非難)は、整合性を欠いた馬鹿丸出しの空想と、剥(む)き出しの感受性を露呈した事実無根の冤罪以外何物でもなく、世間の物笑いに対して「へそ」が宿がえする。

     ◆寸法を取り違えた細見の恥曝し ◆

 児戯に類(たぐい)する容易(たやす)い計算違いを棚に上げ恬然として恥じない屹度(きっと)馬鹿・細見啓三の醜態を暴くと、本堂桁行80.52尺を間(けん)に換算するについて、基準となる1間を
「6.2尺」で計算すると13間になると大言壮語して憚(はばか)らないが、江戸時代・慶長5年(1600)以降は概して「1間=6.5尺」と制定され、続く寛文の大工法度にも「1間は京間の6.5尺を限るべし」と定めているが、これに対して八幡別院本堂の場合は、知ったか振りの係長以下挙(こぞ)って高木文書を虚仮にし、これを改竄して新築であると、大見得を切る以上は、当別院本堂も『1間=6.5尺』で現存すべき筈であるが、豈(あに)図らんや、高木文書による 此等(これら)の素人判断は化けの皮が剥(は)がれ、本質は6.5尺を更に越えた1間の基準寸法、即ち、江戸時代以前に安土城下に創建された中世の本堂であることが判明するが、これに対して細見による雪隠(せっちん詰め)の窮余の一策「6.2尺」の中途半端な計算の根源を穿(ほじく)り出すと、今回の元禄修理では(桁行10.5間+1,5間=12間)であるべきところ、13間であると強調する迷妄に苛(さいな)まれ、ごり押しに13間になるように6.2尺という都合の良い数字を意図的に悪用した卑劣な「ごまかし」に他ならず、別段6.3尺、6.4尺でも差し支えない筈であるが、如何せん80.52尺÷6.2尺=13.2間という1.2間超過した素人紛(まが)いの御膳立てが事前に出来上がり、一方ではこの数値が最大の限度である皮相的なP戸際となったが、それでもすっきりしない原因とは、下らない奸策である13間の当てが外れて13.2間となり、計算が合わぬまま頑強に『自己の妄想13間に近い』と糠(ぬか)喜びしているが、そもそも許可を得た増建後の桁行は12間であることから、日頃偉(えら)ぶっている細見に対する天罰は、肝心の寸法を1間も間(ま)違える醜態と化し、桁行と梁行寸法を取り違え、それでも飽(あ)き足らず、検算した結果の端数(13間と13.2間との差)が金魚の糞の如く付きまとうのは、当本堂創建時の設計基準と細見独自の6.2尺という中途半端な数値と対処しても依然としてすっきりしないのは、中世の基準寸法で造営された証(あかし)である。

     ◆ 史実を作為的に改竄した報告書 ◆

 平成9年9月、本願寺八幡別院本堂の修理に着手、同13年3月、修理報告書(監修・池野保)が公表され、その37頁には

『当別院に江州八幡西御門跡・御堂修復』・元禄7年(高木文書)があるが、これは本堂修理願の写しであり、内容は本堂の柱が所々朽損したのでこれを取替え、桁行方向に1間半拡張したいとするものである。しかしこの文書(高木文書)は
『既に問題点が指摘されている』(同報告書37頁)と、下らない細見の空想に没頭し、元禄新築説を強調する度(どし)難い池野・菅原は、人間性が欠落した細見・山岸説に幻惑し、事実無根を公表して得手に帆を揚げているが、この不見識による無謀は池野まで無闇矢鱈に妄信した細見の病弊「でたらめ」に他ならず、その証拠として当該報告書54頁に、(前述の同報告書37頁と同じ内容)『御堂修復願』(高木文書)を八幡市役所の人々が活字に解読して公表され、その好意によって一般の人々でも読めるようになった真(ま)っ当な高木文書の信憑性と、池野による卑劣かつ理不尽(じん)な筆誅(有るか無しの権力を盾にして有り得ない罪悪を書き捲(まく)る中傷)〔同報告書37頁〕との両者の格差について、江戸幕府の出先機関・京都大工頭・中井役所に提出して許可を得た公文書(元禄7年1月の修理許可書)に没分暁漢(わからず屋)の池野・菅原は無頼漢の如き言い掛りをつけ、それでも新築であると強調して譲らず、捏造した文書(報告書)を箇条書にして鬼の首でも取ったかの如く喧伝した帰趨に対して十三代続いた先祖の面目にかけて断固として争うものである。

 その意味不明の箇条書 (一) には、『現本堂に桁行拡張の痕跡が無い』
と大言しているが、その誤断の物笑いとは、(二) 近世において基本的に左右対称の浄土真宗本堂の桁行に1間半拡張することは中途半端な平面となり考えにくいとあるが、池野・菅原の御託(ごたく)(傲慢な言い分)37頁が正しいとすると、当本堂の桁行は修理以前の10.5間のままで現存する筈であるが、これに対して現状の桁行は、同報告書にある通り総桁行は80.52尺、即ち、高木文書にある如く、『本建(入側から入側まで)の桁行9間に加えて修理後の縁巾は双方で3間であり合計は12間につかまる。』とあるのに対して(一)では拡張の痕跡が無い、(二)には『1間半の拡張は中途半端な平面である』と咆哮(ほうこう)した跡始末は如何(どう)処置するのか?また、中途半端と吐かす不細工な本堂が、昭和48年、抜け抜けと指定されたのは何故か、以上の馬鹿丸出しの池野・菅原の愚にも付かぬ計算違いを理解することの方が、余程考えにくい。

 一方、以上の
(一)、(二)では桁行の拡張は考えにくいと吐かし乍ら、(三)によると、願書に記された拡張後の桁行寸法は13間で、これは現本堂の側柱真々寸法を1間=6.2尺と仮定すれば13.2間となりほぼ現存本堂と一致すると恥を恥とも思わず公表した。
  註 、如何なる痴れ者でも裸足(はだし)でにげる池野・
     菅原の御高説に対する駁論は◆寸法を取り違えた細見
     の恥曝し◆の項に詳述した。

 肩書が似付かぬ池野は散散馬鹿げた御託を並べ乍ら、猿の尻笑いでもあるまいに未だ恥がかき足りないのか? (四)によると、当時同様に高木が関った工事で修理と称して新築する例は弘誓寺にもあったことから、この願書(八幡別院本堂
修理願)も新築を目論むものであったと、教育と名が付く組織の人間共が嘘偽りの害毒を巷間に垂れ流して平然としているが、当家では郷里に保管されている長持三棹の古文書は亡父が封印したままであり、この自家薬籠中の物によって生ある限り正論で争うが、其(それ)につけても恥と言えば報告書の平面図こそ、気が利(き)いた大工ならばそれを指差し、腹を抱えて笑うであろう。

 事実は小説よりも奇なりというが、続いて同報告書に、今回の修理で発見された野地板に
(新築とは書いていないが)「元禄8年1月、人足覚」があり、これは同8年当時、すでに本堂造営を行なっていたことが判明するが、(高木文書には元禄7年本堂修復とあるのに対して)池野・菅原はこれを改竄して『実際は新築を願い出て許可されたものである』と間抜けた頭で主張するが、同8年の人足覚の内実は、応急の野地修理について、例えば古瓦・古材等を降した門徒の人々の奉仕に他ならず、第一に僅か1年間で山中に分け入り、伐採した用材は最低半年間は樹液を吐き出す目的で水中に浸(つ)け、そののち木挽さんによる挽き立て、墨付け、切刻み、建方、野地降りと、太閤さんの一夜城でもあるまいに、池野の空想による新築説は論ずる価値もなく嘘八百の「でたらめ」であるが、それ以前の問題として新築は江戸幕府が許可しない。

 尚、県教委の者まで
元禄新築説を馬鹿の一つ覚の如く強調し、その愚策によって宝暦解体修理の高木文書(土居葺までの契約)は、宙に迷っているが、根拠のない新築説が正しいとしても、当時では来迎柱以外の円柱は許されず角柱の筈であり、そうだとすると眼前の(側柱を除く)円柱は何時建てられたのか?知ったか振りで先祖を「ぼろくそ」に貶(けな)す門外漢池野・菅原の一言居士は角柱が円柱に切り替えられた実態を明確にして公表する責務があるが、これを解明しない限り、当方は500年以来の先祖の尊厳にかけて命尽(つき)るまで争う。
 兎にも角にも、先祖の来し方に対する池野・菅原による牽強付会の妄説は「でたらめ」であり、ど素人による先祖非難は天に向かって唾する馬鹿丸出しの愚考に過ぎず、先祖に成り代り猛省を促(うなが)すものである。

PN   淡海墨壷