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2007年3月16日
高木敏雄HomePage

県教委による調査の失態と爛熟

宮大工 十四代 高木敏雄
     ◆ 論点無視の屁理屈と虚妄 ◆

 根拠の無い取沙汰にまつわる中国の諺(ことざわ)に「三人市虎を成す」という戒めがある。この意味は一人が市街地の真ん中で「虎を見かけた」と言ったところ、「まさか?」と言下に否定した。続いて二人が同じことを言うと半信半疑となり、最後に三人がこれを言うと終に信じ込むという不毛の連鎖は、事実無根の事柄でも大勢が言えばあり得ない放言に妄(みだ)りに雷同し、直ぐ様悪評が世間に蔓延する不慮の事態は、宛(さなが)ら県教委の
村田・池野説や、分別なくこれに与(くみ)する細見・山岸説の中傷に左袒する従属的な観念に類似する。

 このように冷飯から湯気が立つ妄想を鵜呑みにした戯(たわ)け者による先祖攻撃に抗(あらが)い、自家薬籠中の古文書を拠り所とする真相を打(ぶ)ちまけると、本願寺八幡別院本堂の修理について高木日向は元禄7年(1694)1月、京都大工頭・中井家に修理願を持参し、即日「大工作右衞門へ」と手交された往復文書が、
細見・山岸・池野による杜撰な判断の迷妄を超えて一際次元を高くする。

     ◆ 幕府の法度と本堂の応急修理 ◆

 この修理について、本山西本願寺・御門主様の御下命は、
『在来本堂の柱が所々朽損したのでこれを取替え、桁行方向に一間半継足し、地形(基礎全体)を二尺ばかり築き上げて欲しい』と、解体修理をほのめかす御希望であったが案に違(たが)い、当時幕府の建築制限は殊の外厳しく、『梁間3間を越える新築は不可』という幕府の禁制に加えて、屋根の形状は入母屋・妻飾りを禁じた『小棟造り』に、また柱頂は、『舟肘木以上の結構は無用たるべし』という質素を旨とする規制があった。

 この建築制限は新築に限り「入母屋造りは不可」であるにも抱(かかわ)らず妻飾りを備える当該本堂及び、時を隔(へだ)てず高木によって修理された安土浄厳院本堂(重要文化財)共に、同じ意匠で妻を飾って実存する様相は言うまでも無く二ケ寺共に修理であればこそ、これを許されて現在に至る紛れ無き証拠であるが、『明るけりゃ月夜だと思う』(考え方が単純で調査する適格性に問題がある)
細見・山岸・池野説では『修理・拡張という高木文書は、実は中井役所に提出する際の便法であって、実際は新築を目論むものであった』と、自己の不見識を棚にあげて威丈高に構え、不条理を捲(まく)したてることに余念が無い。

 一方、この杓子定規の幕府の規制は喫緊の要事とも言うべき主要柱の耐用限度の緊迫に伴(ともな)う取替や、この仕事を可能ならしめる解体は、
『本堂を一旦壊して建直すことは難しく成り申し云々』とある通り解体修理は水泡に帰すことになり、県教委が頑固に主張する素人判断は元禄再建どころか解体さえも禁じられた思惑外れとなり、必然的に基礎の盛土まで諦念を余儀なくされたが、一方、桁行1間半の増建については由緒格別(門跡様の寺院である格式)により特別に許可を与えられ『本堂の応急修理』に加え、対面所の新造及び、書院・台所の再建は何れも梁間3間を堅持し、着工より6年後の元禄13年9月10日、京都本山より御門主・寂如尊師の御下向があり、慶讃法要が執行された。(これにて第一次応急修理のみ完了)

     ◆ 高欄擬宝珠の刻銘に惑溺した迷論 ◆
 
 中途半端にその道を心得た門外漢は、何事も自己の過信により大失敗をしてこれを歯牙にもかけないが、御多分に洩れず県教委の主張に論駁すると、そもそも当該本堂の高欄擬宝珠に『享保元年(1716)霜月』の刻銘(但し、製造年月、または寄進された年月)があり、一方、
高木文書に元禄7年本堂修理の記があるので、元禄頃より本堂の修理または再建の計画がたてられ、実際は享保元年頃再建が成就した等と無策なつまみ食いにより新築か、修理か?曖昧かつ趣意の徹底しない噴飯すべき記述がある
 
 この根拠の無い妄想の根源を詮索すると、去る昭和48年6月、当本堂が県指定となり、このとき寺院では造営関係文書の一切を紛失し、辛(かろ)うじて高欄金物の刻銘以外に年月究明の手掛りは無く、藁にも縋(すが)る思いで翌年1月、当時京都の私宅を探し当てた寺院の依頼に呼応して高木文書の一部を披露したが、この半年の間に当時の文化財建造物係長・成瀬氏は、すっかり擬宝珠の年月に心を奪われて私の善意を虚仮にし、
『あんなもの(高木文書)は修理の文書だ』と、自己の判断が正しいにも拘わらず上辺だけは誠に不可解な発言があり、元禄修理を新築と見誤った不見識は以後歴代の係長も唯唯諾諾とこれに迎合して新築説を継承し、恥を掻くことに屈託が無い有象無象の愚考は、子孫の私にすれば笑止千万であり、客観的な裏付けもなく、ひたすら現実を無視した抽象・空想による惚けた感性では迚(とて)も迚も梁間3間以上の禁令を無視してまで現在見られる本堂の新築が果たしてこのとき可能か否か?その判断の誤りは当初高木文書を愚弄した成瀬氏の不明が端緒を開いた。

     ◆ 寛文の建築制限と大工仲間の作法 ◆

 これより先、明暦3年(1657)正月、江戸城本丸をはじめ江戸市中の大部分を焼き払った大火ののち、中井家は京都に帰着されたが、江戸ではその後も防災意識と併せて質素を旨とする建築制限令を矢継早に発布し、特に新地に建築する場合は、(年貢量が減少することもあって)建築願は勿論、竣工検査も殊の外冷厳であった。        「高木文書」

 註 以上の事から
細見・山岸・村田・池野説の誤断による虚偽の
   申請など絶対にあり得ず、すべての高木指弾は下種の逆恨み
   (さかうら)みに等しい。


 この制限は、のち上方にも適用され幕府老中による下知(指図・命令)が大工頭・中井家を通じて『江州大工組頭・八幡高木作右衞門方へ』届けられ、その文面には「老中下知の写しを与えるので大工年寄を召(め)し連れて上京すべし」という差紙の内容の内、一通は前述の如く
新築の梁間寸法は3間を限度と命じ、その他、例えば塀の小修理でも届け出るよう義務付けられた。残る一通は建築主に対する作法、互いの大工所の確認、特に他郡・他国の建築主の要請により、自己の所属する大工組以外に出向するときの大工作法を徹底した。

 これに対して幕府の掟を皆目知らぬ
細見・山岸・村田・池野説は何を血迷ったものか、また、如何様な遺恨によるものか、先祖に対する悪態嘲罵は止(とど)まる所を知らず、批評眼力の無さや洞察力の欠如により、事の本質を看過した無様な実態は自らが無知を表顕して墓穴を掘り、天に唾する愚行は『千里の野に虎を放つが如き禍(わざわい)をつくる基』と世人の嘲笑を買うこととなり、挙げ句の果ては伝統的な既成の秩序を一切否定し、文化や制度を破壊しようとする皮相により主観を丸出しにした不得要領の大言を吐くが、その歪みは論理的に筋が通らず、先人が拠って立つ斯道の根本法則を斟酌することなく、また、その奥深さを理解しようともしない書きたい放題の妄説は、吾人の専門分野にまで図太く土足で介入し、自らの誤りに向き合おうとしない浅慮により、懐疑と憎悪が充満した高木忌避の調査報告書として杜撰かつ粗略な公表をするに至ったのである。

 これらの偏狂をつらつら惟(おも)んみるに、昭和48年、当本堂県指定に伴う一知半解の誣告や一面的で下らない判断は、私にすれば心胆を寒からしめる事態を惹起した。続いて14年後の昭和62年3月、私が尤(もっと)も忌み嫌う事案とは高木文書の調査と?銘打ってこれを隠れ蓑にした美辞麗句に過ぎない悪辣な手法は、調査というには烏滸がましい「捜査」と見紛(まが)う官僚主義により、間違いだらけの御託を散散並べて先祖の来し方を蔑視し、当家文書のすべてを改竄した愚鈍によりこの上なく愚(おろ)かな「でたらめ」の断定をした。それは自己の立場を至上の存在と錯誤した恣意と、普遍概念とが一致しない蛇足(あっても益のない間抜けた判断)は、鹿爪らしい意味不明の邪推に自己陶酔し、更に14年後の平成13年、当該本堂修理工事報告書(執筆責任者・
池野保)も同様に識見に乏しく、定見無き人間が理非を分別することなく得手に帆を揚げて、細見・山岸説の荒説を讃辞したが、如何んせん自主性を欠き、勢力の強大な者につき従う卑劣な事大主義により匹夫の勇の如く先祖を敵視して古文書の内容を捏造し、実(まことしやか)に事実無根を公刊に明示し、史実を捩じ曲げて世人を誤導した歪(ひず)みの余波は、逆に荒唐無稽の恥曝(さら)しとなり衆心の謗(そし)りを招来する体たらくとなった。

     ◆ 室(奥座敷)に入り矛(ほこ)を操る ◆

 表題の意味は(他者の室に入り、そこにある武器を使ってその家の主人を攻撃する。)つまり、折角の善意による古文書閲覧に対して喉(のど)元が過ぎれば熱さ忘れ、逆に当方の善意を仇(あだ)で返す人間性が欠落した無礼者をいう。
 前述の本堂増建に絡(から)む
細見・山岸説に抗(あらが)うと、先祖・高木日向は深遠な道理を悟(さと)り得た才知により、大工組頭として可想界(高度の認識能力を薀蓄する英知によってのみ捉(とら)えられる感覚的範囲)に君臨し、京都大工頭・中井家より1間半継足し許可(申請書の裏書き)を得た修理であるにも拘(かかわ)らず、細見・山岸説は知ったか振りによる見当違いの邪推により、『法度違反であるが子細格別に付き御許容されたのは例外の措置であることから上納金納入等の取引が行なわれた』と、自己の品性下劣、素性が知れる僻見は、終(つい)に奇を衒(てら)う賢しら知識の横逸となり『この増建寸法(1間半)は中途半端であり、拡張後の姿が思い浮かばない』と根拠も示さずあく迄揣摩憶測によって無責任な公表をしているが、そうだとするとこの両人は高木による中途半端な拡張工事以前にこの世に存在していた事となり、一廉(いっかど)の評論家として先祖による本堂造営の仕様に杞憂(きゆう)していたのであろうか?と、屁理屈の一つも言いたくなる隔靴掻痒の感が否(いな)めない。
    
     ◆ 快刀・乱麻の紛擾を断つ ◆

 さて、是に於て当該本堂元禄修理(1間半増築)にまつわる問題提起の内幕は、
細見・山岸説による非現実的な妄想(打ち消そうとしても先入主が邪心を占有して離れない観念)により『高木文書にある増建は名目だけで、修理・拡張という願書は中井役所に差し出す際の便法であり、実際は新築を目論むものであった』と空想を逞(たくま)しゅうし、更に御念には及ばぬ駄目押しとして、『修理するのはよいが、桁行に拡張するのは不可解である。当時の本堂(元禄7年・修理を企画された本堂)がいつ建つたかは明らかでないが、これを八幡城下町形成〔天正14年(1586)6月、城下町完成〕と同時とすると、当然平面は左右対象形である筈であり、片側にしても、両側にしても1.5間は中途半端な寸法となり、拡張後の形が-浮かばない。その証拠として現存本堂の桁行に拡張した痕跡が無い』と、大層らしい御冠(おかんむり)であるが、それは子供の戯(たわむ)れに等しい一顧の価値も無い衒学趣味の妄想に他ならない。

     ◆ 詐謀に満ちた見掛け倒しの調査 ◆

 普通の人なら『穴があれば入りたい』と、自己の不見識を恥じて身を隠したいと思う醜態など何処吹く風と、
細見・山岸説は元禄7年1月の高木文書を熟読玩味することなく、また、その力量もなく、〔桁行の寸法と、梁行寸法とを取違え12間の本堂を13間と勝手にうそぶく無様な醜態〕は私意を以って法の正理を捩じ曲げ、加えて(建築制限を無視し)先祖を中傷する罵詈讒謗(ばりざんぼう)の枉法は、人間としての良識に逆行して公権力を恣(ほ)しいままにし、万人が希求する人間相互の倫理や、道徳観念を逸脱する跳梁跋扈(我が者顔にのさばる)は、根拠も理由も実証的に明示せず一方的に先祖を非難する低俗な雰囲気を醸成し、因(よ)って先祖の英知を否定して前述の如く修理の申請書を非難の俎上(そじょう)に載せ、興味本位に常套的な手法で先祖攻撃に終始一貫したのである。

 以上のような思考が腐乱した内実を適示すると、
『この修理は問題のあるところで、桁行11間半・梁間12間(高木文書には桁行10間半・梁行11間半と明示している)の本堂が大破したので、桁行11間半(正しくは桁行10間半)の本堂に、1間半継ぎ足したいという』と述べているが、この馬鹿げた謬見自体、在来本堂の桁行に継ぎ足をして合計12間にするのではなく論外の『梁行11間半』に1間半加える偏見は、サルでも分かる大失態であるが、それでも委細構(かま)わず『完了後の桁行は13間である』と頑迷に主張し、その捻(ひね)くれた暴論は、(高木は)『新築で申請すると不許可になるので故意に名目を変更し、修理に連関する継ぎ足しということで許可を取得し、実際は新築をした。その証拠として桁行に継ぎ足した痕跡が無い』と、懐疑的な構図に気違い沙汰の敵愾(てきがい)心を燃やすことに汲汲とする。

     ◆ 多面的な妄説と狡猾に立ち回る放論 ◆

 そもそも有るか無しの専門知識に酔い痴(し)れて先祖の来し方を味噌糞に貶(けな)す以外に字句を知らぬ連中によって
『桁行方向に拡張した痕跡が無い』等と矢鱈に大言壮語する細見・山岸は、信義を重んじる人間として実際以上に誇張した失態の取消しは沽券に拘わる?と、昭和62年、自己の主張する真偽を確認すべく当本堂桁行寸法を実測する一計を案じた。その上で自己の実測した数値と、(前述の)『桁行寸法と梁行寸法とを間違えて13間』(正しくは12間)の双方の寸法とを対比しその結果寸分違(たが)わず一致した場合に於いてのみ増建が無かったことの立証になると有頂天になり、これによって高木の鼻が挫(くじ)けると遮二無二突破しょうと試(こころ)みたが、天は我等に味方し結果は泡沫(うたかた)の夢幻(ゆめまぼろし)となった。

 この無能・無策の実測行為は、世人の嘲笑を買う蛇足に他ならず、即ち、元禄7年修理に着手、同13年の落慶法要により文字通り増建を伴う修理はすでに成就し、これに伴って従来の落縁から本山並みの二重縁になり、そのことから享保元年に高欄金物の寄進があり、更にその外側に濡(ぬ)れ縁が付加された現実態は取りも直さず増建された証(あかし)であり、この元禄初期の増建の様相はそのまま直ちに今昔の隔たりこそあれこの修理によって合計12間(修理以前は10間半)の既成事実として存在し、これを
村田・池野・細見・山岸以外の良識ある人々が測(はか)ると現在も13間ではなく、12間なのである。

     ◆ 牽強付会の調査と迷走した実測 ◆

 
細見・山岸説では増建が無かったことを証拠立てるべく桁行寸法を実測した結果、縁柱から対面する同柱までの寸法は81.18尺と認め、(実際は80.52尺)これを間(けん)に換算するについて、『1間の基準寸法を6.2尺として測定云々』とあるが、これは可笑しい。因みに、江戸開幕以来、1間は6尺5寸と定められており、大工頭・中井家から高木に届けられた折紙(建築制限)にも『1間は京間の6尺5寸を限るべし』とあるにも拘(かかわ)らず幕府規制を無視するかの如く、前述の80尺余を『1間6・2尺で計測すると13・2間となり、(1)この数値は先の文書(高木文書に修復完成後の桁行寸法は、11・5間+1・5間=13間』(2)と、困った時の神頼みの如く当家文書を巻き添えにして1間半の増建を渋々認めたが、その中途半端な独善、即ち(1)13・2間と、(2)13間を比較して、『ほぼ現存本堂と一致する』と、間抜けた早計により我が意を得たりと、一時的にほくそ笑(え)んだであろうが、究極の真実は、あくまで高木文書に10・5間+1・5間=12間と明記されている事実であり、現存本堂の桁行を実測しても12間であることは何人(なにびと)も否定できない事実である。

 以上の如く、客観的な現実と相容れない事柄を然(さ)も事実であるかの如く具体的かつ迫真的に表顕し、因って先祖の知見を愚弄する活字の暴力は、極めて曖昧な概念と貧困な発想による素人臭い判断と化し、その結果理由なく先祖に対する嫌悪と人間味の欠落した倒行逆施の悪行は、逆に自己の愚かさを表面に曝け出すこととなった。それは調査にあたって適否審査も行なわず、安易に奈文研に依頼した県教委にも責任がある。

     ◆ 増建有無の徴表と軒支柱 ◆

 地域により名称は異なると思われるが、私共は入側柱から対面する同柱までの範囲を『本建ち』と呼称する。この本建ちの柱間(間口寸法)を高木文書には『9間』(入側柱真々ではあるが実寸にあらず)と叙述している。更にこれより外方の縁柱真々寸法も同文書に求めると『10・5間』と明示していることから、その差は『1・5間』となり、詰(つま)る所、これを二分した0・75間が外陣三方を回る在来の縁の出巾であった。

 これについて注視すべきは、総桁行10・5間という表現は取りも直さず刎(はね)出し垂木の庇ではなく、縁柱が建てられていた証(あか)しであり、この柱頂に縁桁を載せ、これと矩(かね)の手(直角)に木口貼りの鏡天井及び縁板を貼り、これの木口に接する位置に真宗寺院特有の(本山・西本願寺阿弥陀堂にも見られる)軒受柱が存在していたであろうことは自明の理であり、想像に難(かた)くない。

 註 この縁の出巾0・75間、つまり1間の4分の3を大目、または
   台目という。

 以上のような構築手法を残した本堂の元禄7年修理にあたり、前述の10・5間に1・5間増建の許可条件を拳拳服膺し、従って本建ちの範囲には斧斤を入れず、それに抵触しない範囲、つまり、旧来の縁巾を本山並みの二倍の広縁にしただけの修理に止どまった。その仕様は正・側面三方の縁桁から入側柱に向かって長さ1・5間の水平虹梁を架け渡し、その中央に蟇股・斗を配してこれに中桁を載せ、これより内側は旧来の大板貼り・鏡天井を復元して旧の名残を継承し、中桁より外は縁桁を超え、一部は向拝桁まで打越(通し)垂木とした。

 註 この天井板は、これより後の宝暦解体修理で新材と取替えられ、
   高木文書(天井見積)に掲載されたがこれの裏付けは長さ5尺
   の天井板の総延巾26間が広縁正・側面三方の合計寸法と一致する。

 このように元禄修理では本建ちの範疇に一切触れず、旧来の縁の出(大目)を二倍の1・5間巾の広縁に改変したものであり、この事実によって増建は無かったのではなく、有ったのである。『目は毫(ごう)毛を見るも睫(まつげ)を見ず』という戒めがあるが、もう少し大局観が持てないものか?この程度の不見識をぶら下げて、生意気に先祖を攻撃し、自己顕示欲を高揚させようとするのは愚の骨頂であり、より以上に恥を掻かぬためにもこの程度の低次元の報告書なら、老婆心乍ら公開しない方が『増し』と思うのは私だけであろうか。反論があれば是非共頂戴したい。

     ◆ 自家撞着の付会と池野説 ◆

 『小人窮すれば斯(ここ)に濫す』〔桶の箍(たが)が疾(と)っく(ずっと以前)に底が抜けた思慮の浅い人間は窮迫すると濫(らん)する〕取り乱して為(し)たい放題にし、却って恥を掻く。
 職権を濫用した恒常的な一連の先祖非難(当該本堂元禄修理)にまつわる侃々諤々(かんかんがくがく)の愚論
(細見・山岸・村田・池野説)は、真っ当な是非を論議する範疇を超越した感情論と化し、呆れ果てて二の句が継げない下らぬ暴論に成り下がった。この愚の骨頂とも言うべき偏重主義は『良識が乖離した文化の爛熟期』と憂慮すべき事態を惹起したが、これに関連する卑近の根拠を明示すると、平成13年3月、当該本堂修理工事報告書、(池野保)38頁に、今回の修理で野地板から人足数や寄進等を記した化粧板が発見され、その内一枚の『元禄8年亥年正月日、御人足之覚』は、「本堂工事にあたって関連寺院からの寄進を記し屋内に吊ってあったものが野地板に転用されたものである」と説明している。

 私は以上の事柄に敢えて異論を唱えるものではないが、(
池野説によると、)この人足覚えによって、元禄8年当時に本堂の造営を行なっていた事がわかり、前述の「江州八幡西御門跡・御堂修復」(高木文書)を考慮すると、元禄7年に本堂修復(実際は新築)を願い出て許可され、すぐ工事に着手、元禄8年には順調に進捗していたことがわかる。

 尚、この時の工事は軸部から小屋組まで組み上げ、屋根は土居葺を終え、内部は床を貼り、側廻り(内外部境)に建具を入れた程度で、濡れ縁もないまま、工事は一旦休止したと考えられる。
と、魂消(たまげ)たことを力説する。

     ◆ 漱石枕流と虚妄の池野説 ◆

 前述の『人足覚』(元禄8年1月の年次を有する板札)が作成された意図を探求すると、先祖が本堂修理許可を得た僅か1年後に
修理なればこそ、当御坊傘下の講中(信仰団体の門徒の人々)が屋根修理を目的とした旧土居葺や、野地板の取り除き作業に奉仕された覚書と考えられ、これは本堂の新築ではなく、修理であればこそ早々に人足さんが必要不可欠となったもので、彼等が主張する新築だとすると、元禄7年作事に際し、修理以前の桁行10間半の新築ではなく、当初から御門主様御希望通りの桁行12間本堂の絵図を作成して迂遠なく新築できた筈であり、これが約300年経過した昭和62年、傲岸不遜かつ半可通な知識の細見・山岸に『中途半端な本堂継ぎ足し』等と、揶揄嘲弄されずに済んだという原理が成り立つというものであり、皮肉な素人判断の結末に余韻が残る。

 一方、観点を変え参考までに新築を前提とした仮説を立ててみると、当初から御門主様の御希望通りに二尺ばかり地業の嵩(かさ)上げが実施されて今日に至っている筈であり、そうだとすると、元禄新築に際し雨が降る毎に地面が固まるのを待った上で、やっと柱礎石の据え付けに着手できるまで2〜3年の歳月を要することから、その後除(おもむろ)に約二尺の基壇を設け、亀腹構築に至ったであろう工程を詳(つまび)らかに観察してもその形跡は見当たらず、また、
池野説にある『このとき軸部から小屋組まで組み上げた?』は、解体を許されていないのにそれが可能である筈もなく、この非現実的な空想(白昼夢)はのち宝暦期に於ける第二次解体修理が爲す業である                
                           「高木文書」

 反面、定見もなく、無節操な妄想よる
池野説『内部は床を貼り、入側通りに建具を入れた』という素頓狂な妄説は、修理ならばこそ成し得た事実であるが、その証拠としてこのとき瓦は葺けておらず、それを承知で建具をはめる間抜けた大工はこの世に存在せず、詰まるところこの作事は在来のもの、つまり修理であったことの証拠であろう。

 このように同じ人間池野が
修復の高木文書を興味半分に渋々認め乍ら、一方では優柔不断に新築である等と、先祖を愚弄する「でたらめ」は恰(あた)かも三文小説の如く見え透いた事実無根を書き捲るが、詮ずる所、肝心の文意たるや素人がこれを読んでも『修理』と即断でき得る子供の作文擬きの書き振りは普遍妥当性を欠き、信を置くに足らない池野説に世人はこれを自家撞着と嘲笑(あざわら)い、蔑視するであろう。『言悖(もと)りて出ずれば、また悖りて入る』他者の悪口を言うのは、そのまま自分に返り、天に唾する愚行は冥府(めいふ)の先祖が苦笑し乍ら、私の反駁に声援しているであろう。

     ◆ 第二次・寛延期の解体修理 ◆

 前掲の如く、第一次・元禄修理願では『所々柱の根継ぎがしたい』程度の生易しい腐朽ではなく『朽損した柱を取替たい』という焦眉の急であったが、中井家では諸般の事情によりこれを許さず応急修理に止まった。のち、時代の変遷に伴い農家の小屋などが三間梁の狭小では、特に農繁期の収穫に支障を来すことから『作業小屋はこの限りに有らず』と、制限がやや緩和され、一方、社寺建造物について取り分け上方では、京都御所を中心とする公家住宅まで杓子定規の禁令は馴染(なじ)まず、必然的に従来の冷厳な制限も次第に弛緩の傾向となった。

 これが18世紀になると寺院本堂にも円柱の使用が認められ、当該寺院では享保19年(1734)表門の造替を企画し早速に建築許可を得たが、(このとき国名但馬の名乗りを許される)それにも増して(元禄以来の本堂柱の耐用限度)の極限状態を斟酌してか?表門の再建を一旦延引し、寛延元年(1748)旧来の角柱を円柱に取り替える(縁柱は除く)解体修理を主眼とした
『から木立て〜土居葺まで』の契約を締結した。
                          「高木文書」 

 この従来の角柱を円柱に取替る解体修理は二段構えで計画され、当初は内陣廻りの柱を中心に、両余間及び、飛檐の間の柱、縁柱(角柱)に次いで最後は外陣柱の取替えに及び、四天柱に大虹梁を組み込んだ所で工事は暫時頓挫した。その理由は明らかでないが、改めて宝暦2年(1752)高木と工事続行の再契約をし、工事期間は当約定の同2年7月より、来る同4年(1754)10月までと定め、以来順調に槌音が響くこととなった。

     ◆ 弊履の如く棄てられた高木文書 ◆

 続く天井造作に関する見積も、内陣及びその両端の間、弥頼の間、外陣、広縁と小分けした見積の内、宝暦2年4月、外陣大虹梁上の蟇股及び組物、外陣柱頂の出組、同虹梁上の組物、小組格天井の見積を提出した。一方、この頃になると造作も活呪を呈し、(同2年と考えられる)9月21日『天井造作に関する依頼状』が本山の坊官下間氏より高木に届けられる等、内陣廻りの完成は同5年、続いて外陣は同8年と、次第に進捗していった。

 惜しむらくは、当本堂が県指定となった昭和48年以来、代々の建造物係長は『元禄新築』等と素人判断による迷妄は今回(第二次)の解体修理を認めず、そのため前述の高木文書(再契約)を没却したが、その理由は『僅か50年後に解体などあり得ない』と「ごり押し」の杜撰な大言壮語は史実を意図的に歪曲し、その醜態は寺院史までも改竄した。

 以上の邪推は猿真似の
池野説にも見られ、『元禄以来天井はなかった・仮天井であった』と世迷い言を吐くが、これは元禄修理以前の天井が宝暦造作まで存在した証しであり、一方、元禄応急修理が新築だとすると、現存する円柱は何時建てられたのか?まさか、『元禄修理当時すでに円柱で新築した』と筋の通らぬことを宣(のたま)うのではあるまい?このように愚にもつ付かぬバカ気た権謀術数による阿漕な仕打ちは狭量で不寛容な人間が大手を振って横行し、不断の頭の悪さから肝心の焦点をはぐらかし、意図的に二律背反に封じ込めること自体が物事の本質を逸脱し、先祖を蔑(さげす)むことで我が意を得たりと優越感に浸っているが、その浅慮自体が軽佻浮薄で次言が低いと言いたいが、余りにも違い過ぎて話にならず、それは偏屈な思いを遂げる為の単なる権力の誇示(空威張り)に他ならず、論理的に理念が繋がらない見せ掛けの権威主義は真実の最大の敵である。

 因みに、形式張った矛盾概念とは、
池野説の如く一つの物事を同時に否定・肯定するが、一連の先祖攻撃の結果の及び腰は不見識によって両方とも否定できなくなるという無様な自家撞着の事である。

     ◆ 現実態を知らない空論と池野説 ◆

 憖(なま)じ物を言って逆に禍を招き自業自得となった
池野は、人間性の欠片すら見出し難い先祖攻撃一辺倒の焦慮に駆られ、その悪業の報いの果ては、現実と観念とが一致しない迷妄により桁行寸法を誤魔化してまで自己を優位に導く醜態を演じ、これを臆面もなく世間に曝け出して恥を掻く一夜漬けの弥縫策は、自己の分際を逸脱し、事も疎か、得手に帆を揚げて担当以外の弘誓寺本堂造営にまで容喙し、肩書のみが独り歩きする常軌を逸脱した偏狂によって事実を捏造し、当該本堂修理工事報告書(平成13年)の刊行を勿怪の幸いに然(さ)も迫真的・客観的な事実であるかの如く、先祖を貶めた公表をし、宛(さなが)ら勝ち誇ったかの如く中傷誹謗をして公務の適正を汚したのである。

 これらの証拠は前述の報告書37頁に、
『願書(高木文書)に記された拡張後の桁行寸法は十三間(高木文書には十二間と明記されている)で、これは現本堂の側柱真々寸法を、一間六尺二寸と仮定すれば十三・二間となり、ほぼ現本堂と一致する』と、独り善がり・不得要領の馬鹿げた屁理屈を大言壮語するが、このような偏狂者(物事に執着して常識を超えた事を平気でする)対象・池野説こそ邪念に苛(さいな)まれ、謂(いわれ)無く先祖に対する不当な攻撃の態様は、極めて悪質かつ荒唐無稽であり、それ故に客観的な判断の整合性を欠き、知ったか振りで論理の公平性・妥当性を否定する不自然な辻褄を如何様に合致させる心算なのか?この惚けた感性(印象を受け容(い)れる能力)の欠落により、本来は当該本堂の桁行10・5間+1・5間=12間であるべき筈のところ、梁行11・5間+1・5間=13間であるという間抜けた虚言や、稚拙な不見識に起因する軋轢は、終に不毛の論理に成り下がり、先祖を敵視する報告書の「でたらめ」の記述は、自己の道徳性の低劣さを露呈することとなった。

 因みに桁行の柱間80・52尺は何人も否定できない事実であるが、これを高木文書にある12間で計算すると
(取り敢えず)基準の1間は、江戸幕府が定めた6・5尺を超えた(80・52尺÷12間=6・71尺)となり、一方池野式ごまかし寸法は(80・52尺÷13間=6・19尺余)となる。この得手勝手な数値は取りも直さず建築に携わる者が肝心の寸法を間違えるという大失態の卑怯な弥縫策に過ぎず、この真相を解明すべく先祖の覚書を繙(ひもと)くと、広縁の出巾寸法(三方)は元禄年間の仕事であるので幕府の制限6尺5寸を超過せず、その他の外陣内部(本建ちの範囲)は、中世の柱間寸法を彷彿させる寸法で実存するが、それでも『継ぎ足した痕跡がなく、それ故に修理の名目で申請し、実際は新築である』等と素人判断により真実を歪(ゆが)める文化の破壊は、自己の品性を貶(おと)すだけで物事がくい違って整合性を欠いた愚鈍や、恥ずべき過去を払拭する方法を、もう少し研鑽を積んだ上で真実を真実と認めることであり、外観を飾っても実質が伴わない知ったか振りで幕府の法則を歪曲し、荒唐無稽の横車を押す池野説は不確定要素のみが先行する妥当性のない体たらくは、「へそが茶を沸かす」前代未聞の珍事である。徒に先祖攻撃を目的とする報告書ならば『百害あって一利なし』税金を費消してまで公表する理由は何処にも見出すことができず、斯くの如き先祖の駄作ならば本願寺八幡別院・弘誓寺両本堂共に指定建造物の認定を抹消せねば、論理的に筋が通らない。
PN   淡海墨壷