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2004年12月10日
高木敏雄HomePage

弘誓寺本堂普請願の齟齬

                      宮大工 十四代 高木敏雄
     ◆ 邪説に対する悪因悪果 ◆

 格別に取り立てて抹香臭い話をするつもりは無いが、物事には洋の東西を問わず、「原因があってこそ結果が生じる」という因果関係がある。この因とは『事柄を成立させた原因・素因』であるのに対して、一方の果は『その果て(はて)に行き着いた結果』である。

 因みに、これを彼等による一連の古文書調査に当て嵌めてみると、前者の「因」は取りも直さず公権力を駆使した無謀な調査手法に他ならず、残る「果」は、さしずめ調査の批評(書かれた事柄の内容)を示すものと考えられる。

 然は有れ、(そうではあるが、)肝心の文書の究明が不見識や杜撰であると、必然的に理不尽な論評は頓珍漢な迷論となり、それは起こるべくして起こった皮相的な主観となって行く手に立ちはだかり、これがネックとなって文理の要諦たる吾人の専門知識は最早認識や経験の外に押し出されて識ることができなくなり、その為に不適切な潜在観念と、理念との緩衝(止揚)は那辺にあるかわからず、傍若無人な振舞は決河の勢いとなって無実な先祖の来し方を故なく悪し様に書きたて、恬然として省察することもなく、その果ての悪因悪果は当然彼ら自身に振りかかる応報であると覚醒せねばならない。

     ◆ 高木非難第5号(池野説)と普請願 ◆ 

 平成13年、本願寺八幡別院本堂修理が完成し、工事報告書が刊行された。これについて監修池野保氏は渇望の著録(昭和62年奈文研、細見・山岸氏編、高木非難第3号)を探求したと欣喜雀躍する余り、内容を碌碌精査することなく、不文律乍ら、当方の首肯を得るといった常識の片鱗さえ具有せず、「濡れ手で粟」の状態で思い通りになったと、得手に追風の論調は、
『当時同様に高木が関わった工事に於いて、修理と称して新築する例は、弘誓寺本堂にもあった』と、不遜の思い上がりによって決めつけ、『以上の事から修理とするこの願書、(本願寺八幡別院本堂・弘誓寺本堂の申請願)は、実際は新築を目論むものである』と極めて不当な判断により公権力を乱用し、世間を誤導して故人の尊厳を冒涜した。

 以上の池野氏説は、世辞にも高論卓説とは言い兼ねる常道を逸脱した異端説であり、これを荒唐に主唱する同氏の意図を思索すると、前掲の細見・山岸氏説の糟粕、(残りかす、精神の抜け殻)を鵜呑みにした結果、不幸にして下らぬ趣向の洗脳感化を甘受した誇大な迷妄となり、その為に私の先祖のひたむきな来し方に対しならず者の如く愚弄した難癖は、無辜の民に対する事実無根の絵空事となり、それを針小棒大に報告書に網羅して一向に憚らないが、その悪し様は当時埒外の立場であるにも拘らず当該弘誓寺本堂普請願にまで言及した鼻つまみの差し出口は、却って賢しら知識の要らざる容喙となり、理不尽極まる見当違いの感情を露骨にして悦楽に浸るが、その愚鈍は謀略とは裏腹に自己の無知を巷間に曝け出し、天に唾する行為となった。

     ◆ 食わぬ飯粒が口髭に付着した訳 ◆

 本件の悪辣な中傷は、この内題のような生易しいものではなく、大幅に錯節した事由であるので、事後の曲解がないように枢要な問題点を再度徹底究明しておきたい。このとき池野氏が担当した本堂は元禄7年(1694)京都本山西本願寺ご門主のご下命による修理の思惑は改築ではなく、単に「桁行方向に一間半継ぎ足したい」のご希望に沿ったものであり、その証左として建築願には『梁行十一間半、桁行十間半の在来本堂桁行に、一間半継ぎ足して合計十二間につかまつりたい』(致したいの謙譲語)(在来桁行10.5間+1.5間=12間)と出願しているにも拘らず、(高木文書による)池野氏は軽々に梁行と桁行を逆に勘違いをした(桁行11.5間+1.5間=13間)であると、そもそも建築に携わるものとして基本的原則である寸法の誤謬をし、最大の恥辱を醸し出した。

 それでも委細構わず、厚顔な無策の裏付けとして、『現本堂を1間6.2尺と仮定して計測すると13.2間となる』と極言するが、本来この6.2尺という中途半端な寸法自体素人臭く、当時幕府の定めた1間は京間6.5尺であり、それでも我関せずと、茲に廉恥心は疾っくに面目を喪失し、自らの出鱈目な計測(13.2間)と、高木文書を見誤った13間、(高木文書には12間と明記されている)とを対比して両者の寸法差は0.2間の僅差であると、是に於いて空前絶後の汗顔の至りとなった。

     ◆ 才余り識足らずの論理 ◆

 以上の如く池野氏は誇るに足らざる事大主義の発想が無碍となり、無様な大失態を演じた追目があるにも拘らず、馬耳東風を装い一向に躊躇することなく、尚々意味不明な屁理屈を捏ね回し、尤も愚かしい違算を棚上げとした上で臆面もなく『これにより、(前述の誤算を自慢たらしく標榜して)桁行方向に継ぎ足しは欺く手段であって、当初よりその必要は無かった』と自己の1.2間の誤差は無視し、それ故に(高木は)内実では秘かに新築を目論み乍ら公文書に充当する普請願の内容を捏造した修理名目で申請をし、つまり『虚偽の申請をして許可を得たものである』と公権力を乱用した筋の通らぬ毒筆を世間に垂れ流し、剩え、弘誓寺本堂の申請まで同様の空疎な論理は、児戯にも悖る妄想となるが一方、これらに対処する規制は、当時では通典どころか金科玉条、秋霜烈日の権威ある幕府規制であり、これに対して一つ覚えの如く、口を開けば
『高木は虚偽の申請をした』との決まり文句は目を覆うものがある。

 そもそも報告書は真実を闡明にする目的でそれの究明に博識ある者が手間をかけ、その成果を一般に提供する金字塔の事業であるべき筈であり、この程度の体たらくでは実態を知らない集団による先祖に対する報仇であり、不断の啓発が必要である。

 因みに前者建物は、昭和48年6月県指定に、同じく後者も同61年3月同指定となり、続いて翌62年6月、図らずも後者のみ重要文化財に昇格した。余計な事乍ら、大工は前者が高木作右衛門四代光連、(受領の国名は日向)後者は、同姓五代光親(受領名は但馬)である。

 ところが、奈文研の細見・山岸氏・県教委の池野氏はこれを造営した高木という奴自体、殊の他ご立腹され、最終的に収拾不可能な事実無根を書いて溜飲を下げたであろうが、このような「鳩を憎んで豆を作らず」の人間味の欠如した了見では、徒に自己の品位を下げるだけであり、最も軽蔑される高慢な行為である。

 一方、先祖作の建物に県指定・重文の格差はあれど、折角価値あるものと認定された建物を『親子共々虚偽の申請によって建てられた』と事実ならいざ知らず、不実な事を書かれては建物も瑕瑾となり、その建物所有者に対しても大変無礼であるだけでなく、第一に県教委の内部の人間によって悪し様に公表することは、社会の木鐸として最も恥ずべき行為であり、常識で理解不能なその醜態は、「獅子身中の虫」と蔑まれても返す言葉のない妄評である。

 私共の世代は戦前の教育である人間としての五常(仁・義・礼・智・信)の教育の影響もあって余計痛切に感じるのは私だけであろうか。高木作の修理を命じられて虫酸が走るのなら辞退すればよいのであって、自己の誤断により逆鱗に触れたからといって、無実な先祖の来し方を味噌糞に書いて公表する権利は官人と雖も無い筈であり、問題である。

      ◆ 甲論乙駁と正反合 ◆

 『尺も短き所あり、寸も長き所あり』という諺がある。物事にはどんなものでも一長一短があって、時と場合によっては、何が役に立つかわからないという事や、愚かしき者の方が賢い人よりもすぐれている、(寸も長いところ)場合もあるという喩えがあり、また類義語として、『是非は道によって賢し』とも表現される如く、総じて物事の善し悪しの判断は、その道の専門家に委ねる方が得策であるという先人の戒めもある。

 それ故に、門外漢の立場を忘れて専門家を僭越した愚弄をし、自分が絶対至上であるという一元論(一つの原理だけで説明しようとする考え方)の高慢な発想では、その外側にあるものが立ちどころにして視野狭窄となり、やがては全体像をも見えなくしてしまうのである。

 さて、その弁別について、「広辞苑」を座右に本項命題の甲論乙駁について究明すると、例えば甲が主張する正論に対して、乙がこれを弁駁(反論)をするという輻湊した議論の弁別証明(互いに違いを認めて意見を述べる行為)に対して、その中心概念である一つの判断『正』と、これに矛盾する相手側の判断、『反』とが一段と高尚な総合判断、『合』に統合されてゆく過程で、弁証(弁別証明の略称)自体は、自分の内にある矛盾を高らかに乗り越えて、正しい方向に行き着こうとする認識・知識がその弁証の発達過程で事象の低い段階部分の否定をし乍ら上手く構成し、逐次高尚な段階に到達しようとする。
 この時点で、必然的に衝突する「正と反」相半ばする二つの概念が、或る好機(切っ掛け)を得て見事に調和統合し、措定(はっきりした内容を示して固定する)されるのである。尚、このような議論が高揚する段階を止揚という。

     ◆ 修理工事報告書の謬見 ◆

 平成16年3月、弘誓寺本堂の修理が完成し、修理工事報告書(以下報告書と略記)(監修文化財保護課大塚博、池野保両氏、編集豊城浩行氏)が県教委より発行された。
 それについて同書56頁、「考察の項」には、従前の当家に対する吐き気を催す毒筆に比べ今般の当該本堂報告書では、『高木は虚偽云々』の文字を不承不承削除してはいるが、それでも包括的に刮目すると、その論評自体は旧態依然の青臭い議論に終始し(但し、現本堂が宝暦期の新築であるとの顕在化された事実を除く)以外については報告書執筆者自らが、全体を享受した印象に基づき、客観的な具象は一切用いることなく、只管主観的な見方によって、『願の内容(古堂を改築云々の第一次計画)が、計画としては存在し、実施した結果としては、新築同様となった可能性を完全に否定することはできない』と、漠然とした掴みどころのない迷論を標榜し、それでも臆面もなく『然し、総合的に判断して、大規模で装飾的な規制にとらわれないものを建てたいが、許可が可能な文面の書類を作成して実施に至った一例である』と結んでいる。

     ◆ 誤った事態認識 ◆

 報告書「考察の項」には『譲り受けた古堂の規模を縮小して本堂とする申請を行い許可を得た』とあり、これは寺蔵文書の内の宝暦5年(1755)付で中井役所に提出した「願い奉る造作之事」と題する普請願及び、裏面に書かれた許可条項(但し、写し)を根拠としたものである。(第一回目の願書提出と裁許)
 これについて私の場合は、何時でも取り出せる自家薬籠中の物というべき高木文書を拠りどころとして、この再建案を思索すると『幸い摂州大坂(阪)天満御坊に先年より畳おきなされ(積み重ねて、収納してあった)梁行十一間・桁行十一間、(中略)の絵図通りの古堂を本山(京都東本願寺)より拝領仕り候。(頂戴した)(中略、これを)桁行方向のみ二間切縮め、梁行十一間・桁行九間に縮小し、その外(他)は有形の通り(切縮め以外の形式・形状はその儘に)建て申したく、委細は絵図に記し申し候』と述べ、簡単な平面図と梁行断面図を記入の上、朽損の程度を明らかにすべく再用材と取替材の明細も同願書に併記した。
 これの出願にあたって高木は先ず願書を二通作成し、一通は地元の大工利兵衛氏(脇棟梁二名の内)が願主として法の定めるところにより、自身で中井家に持参して許可を得たが、これは本件に限らず、すべてが往復文書となるのが慣例であるので事後も尚これを自宅に保管し、残る一通は高木が書状を代筆した責任上、これまた自宅に持ち帰るのが慣わしである。従って、前者は大工頭の黒印ある正書、後者の高木文書は必然的に黒印なき副書となり得たのである。

     ◆ 願書の弁別 ◆

 これに対して、寺蔵文書の宝暦5年10月の年号を有する「奉願造作之事」は、願主利兵衛氏が中井家から持ち帰った正書を、寺院側がその後に筆写した唯の副書であり、これは造営経過を示す貴重な文書であっても利兵衛氏所有の正書より信憑性は一段低く、何故か副の寺蔵文書が重要文化財建造物の附文書となっており、本末転倒の様相を呈している。

 註 当文書は昭和59年の調査以来、高木による虚偽の申請文書である
   と、頑迷固陋、再三再四に渉って散々不実な難癖をつけておき乍
   ら、それでも同62年6月文部大 臣より前述通り指定された無分別
   な自家撞着は、浅学な私の頭では到底理解不可 能であり、珍無類
   の奇妙奇天烈、摩訶不思議な椿事はここでも彼等自身の破廉恥を
   露呈した。

 何れにしても報告書執筆者は、『肝心の原本は何処へ』と訝かしむことなく、平々凡々として理念ばかりが先行し肝要な事を歯牙にも掛けない無神経では多岐亡羊の嘲笑を否めない。

 このような不合理は、私自身痛痒を感じるものではないが兎にも角にも正書一通、副書二通の願書の内容は、何れも建物の規模や、形状、例えば妻飾りの意匠、柱頂の意匠、(支輪付、出組等々)の詳細を高木は愚直なまでに実測調査をし、旧状通り誠実に出願した事実は(切縮めの希求を除き)このとき異色の旧堂実測図を出願したと考えた方が、手っ取り早く、理解し易いのではなかろうか?

         天満御坊古堂取替材調査
       (クリックで別表を御覧いただけます) 
      ◆ 古堂修理、転じて新築へ ◆

 その後、折角紆余曲折を経て中井家から修理の許可を得たものの、関係者による衆議の結果、当初の修理案を廃して「矢張り新築で」と計画変更するのに然程の時日を要する事はなかった。それは中井家の裁許より7ケ月後の宝暦6年5月、高木は改めて全部新材で拾い出した(寄進の可能性ある丸太は除く)木寄(材料明細書)を寺院に提出している事実がそれを裏付けている。

 その経緯を示す文書はなく、あくまで推測の域を脱しないが、所謂暗黙の了解として、存外取替材も多く、(参考として再用材・取替材を一覧表としたので閲読を乞う)結果としては割高となる事や、入母屋造りの切縮めは少し厄介であって、特に本件の場合、建物の両側面を左右一間宛縮めるのはよいとしても、これでは正面の美観、桁行全体と、向拝桁行とが不均衡となる事や、間口方向両端の間と、中央間との比例も崩れ、延いては内・外陣の御障子側通りに於いて、内陣と余間の案分比例まで見苦しくなる。その他、外観として破風の位置や、「妻」(入母屋)の移動も余儀なくされ、それの改造は、数えれば枚挙に遑(いとま)がない。

 畢竟するに、縮小するのは是としても、支割・木割法が完熟の極致に到達した当時代に於いて、間口寸法に比例した遜色なき全体像の均衡を保つには、厳密にいえば総ての柱位置まで移動を余儀なくされる千篇一律の慮外の事態では、(一例として、桁行方向の繋ぎ虹梁等も切縮めによって、彫刻文様が切断され)大局的に立脚して大旨得策ではなく、止むを得ず折角の修理許可を廃棄とし、改めて新築に変更されたものと考えて大過はない。

     ◆ 当らずと雖も遠からず ◆

 以上、報告書が述べるところの叙事(事実を有りのままに述べる)に至る情状、(この事実に至った実際の事情)に対して少し私の蛇足を加えると、当初本山から譲られた古堂の再建案は、折角乍ら宝暦5年10月、中井家の裁許より然程の時日を費やすことなく新築案に改められた。

 註 この計画変更は前述の許可を得た七ヶ月後、高木は総て新材(寄進
   木を除く)で拾い出した木材明細書を寺院に提出していることによ
   り明らかである。

 このような趨勢を報告書では何故か詳らかにせず、況して新築に移行した物事の段落(区切り)に不可欠な願書
(新築に変更した旨の再申請)は不必要と解釈したものか、それに関する説明は一切放棄し、(これについては後述する)その無責任さによる陰影が生じて「報告書考察の項」全体を隠微なものとしたが、それすら歯牙にもかけず、只管新築された本堂は『既存のものを越えざる範囲』と頻りに強調し、その事自体は是であっても、このとき新築された本堂の形式・意匠等を越えない程度の指標となったもの(報告書では既存のものと表現)は当初高木が作成した古堂の実測図に他ならず、続く文言には、『新築に際して既存不適確的な考え方が適用された』と指摘しているのを愚直に解釈すると、ここでは『天満古堂の高木実測図及び様式を模範に考える事や、これを基底に据える事は適確ではない』と、逆の判断をしたかと思うと、その直後には間髪を容れず、可逆的思考による『願いの文中(当初の建築願)で述べている形式通りのものが本堂として現存する』という散漫した論旨では、自家撞着(前後でくい違って辻褄が合わない)に陥った千変万化の様相を呈している。 

     ◆ 包括された報告書の論結 ◆

 以上、考察の結論として、(凡そ)『現本堂は他所の建物を移築したものでなく、始めから新材で現在地に建てられたものである』と述べ、それは当初修理名目の中井家許可書(高木による実測図・他・寺蔵文書)の内容を規範としたものであるが、内実(本当のところ)は、大規模で装飾的な規制(規模・形式や意匠等の制限)にとらわれない(法に抵触しない)ものを建てたいが、(止むを得ず)『許可が可能な書類を作成して実施(新築で施工)に至った一例である』と結んでいる。

     ◆ 概念のみに拘泥した印象批評 ◆

 この論決の内、『規制に即応する書類を作成して実施に至った』とする表現は新築本堂施工に際して理の当然であるとしても、これに必須の書類自体は残念乍ら当該寺院には存在せず、(現存すれば附文書に指定されている筈)それ故に報告書では史料の寡少に起因するものか窮余の一策として、本堂新築に関連する本質の外面的な現象つまり、他の相関的事物(相互に関係しあっている物事)を観察した印象の内から、すべてに共通する要素(必要不可欠な根本的条件)を抽出し、その成果で得た批評をして我が意を得たりとしているが、この策定そのものを忖度すると、飽くまで当初の修理許可書に依存する以外に良策はなく、それ故とどのつまりは表象及び意図(思惑)等の真偽を識別する理念に訴えることなく、その皮相な判断は一途に他を顧みない独り善がりの観念論にとどまったものと考えられる。

 以上の自明の理に加えて、後知恵(当初高木が調査した古堂修理の書類の内容)の玩味不充分が障壁となり、このとき本堂の新築に伴う再申請義務が生じたにも拘らず、これを何処吹く風と恣意的且つ相剋(掟に悖逆する)の尊大な思考や、奇を衒う論評は、換言すれば、当時の幕府法度に対する準則を放棄した枉法な発想であり、これを新築許可に横滑りさせ、『高木に恥辱さえ与えればよい』という他者を欺く横逸は、報告書として有るまじき不手際であり、異論と正論とを並立させたこの不均衡をどのように巷間に浸透させてゆく心算なのか、残念乍らここでは誠に不条理な判断の批評となっているが、それは先祖がひたすらに誹られるべき所では決してなく、唯に、洞察力の欠如した小手先だけの書きたい放題は、正しく頑迷固陋一点張りの次元の違う論外である。

     ◆ 先祖に対する筆誅と察当 ◆

 高木文書(公用大工としての職掌由緒)を摘録すると、江戸時代黎明の慶長12年(1607)12月、家康公の隠居城(駿府)の失火による再築の功績に対し、工匠保護(諸役免徐)の特権を与えられて以来、好むと好まざるに拘らずに徴用され、幕府公用作事に勤仕した中井家支配下の御用役大工の要諦というべき必須の条件の斯道(専門分野の人としての、人たる道)の掟(定め)・法度(法制)・差紙(呼出し状)を始め、特に中井家が京都に撤収後の元禄6年(1693)以降、幕府の公金で運営される公儀出先機関『京都中井役所』と変様した後も大工頭中井氏との従属関係の内規・郡大工組成立後の定法・大工相互の仕事の配分に伴う取決め等の定め書きに加え、先祖代々がそれぞれに与えられた天職の実践にまつわる現場体験の貴重な遺産である文書の類は、現在門外漢が指定建造物修理に際して推測する机上の観念論とは同日の論ではない。(全く違っていて比べものにならない。)

 また、確実さの程度からいえば、調査に伴う抽象的な推論や、蓋然・必然の有り触れた判断ではなく、その時々の往時に於ける実践躬行の凝縮された尚古主義の証拠となる「書き物」なのである。

 註 前述の中井役所は換言すれば、江戸幕府京都出張所とも言うべき
   京都所司代と双肩の建築(京都御所の修造を中心に)を司る公儀
   中井役所であり、ここに提出する書状は取りも直さず『公文書』
   であることは自明である。 これを一つ覚の如く増悪の矛先を向け
   『高木は虚偽の申請をした』と、常套句の如く興味本位に汲汲と
   する侮蔑的な筆誅こそ中傷以前の陰険かつ馬鹿げた論外であり、
   思慮分別なき思い上がった毒筆は、そのまま直ち に先祖が『公文
   書の偽造を行使した』と愚弄されたことになるが、それは決して
   当を得たものではなく、逆に自己の無知蒙昧を 標榜することであ
   り、まさしく愚の骨頂の外罰趣味である。

 以上見当した如く、先祖が折角の自分を豊かにする意志の得難い経験による知識・認識に対し、差し出半学による付け焼刃の見識ではこれの追随は容易に適わず、それ故関連文書の希求について焦慮に駆られた状態で、自己の足らざる補完を渉猟し、尊大に調査(取調べ)と称して吾人の領域に踏み込み、管窺による賢しら知識を衒い、剩え、後講釈の衒学的な事実無根の調査報告は、ときとして鼻持ちならぬ非道・卑劣極まる察当、(無実な先祖の正当な行為を自己の不見識により故なく咎め、徹頭徹尾筋の通らぬ非難する)となり、その絵空事や虚誕の論旨は決して時宜に適した判断によるものではなく、背徳(道徳に悖る)、迷妄(実体のないものを真実の如く思い込む)が渦巻く異質な空間の彼方で、底の浅さを露呈した不毛の筆誅となった。

 これら誤想の濫觴(物事の起源)は言う迄もなく、当該本堂普請願に関する事案を初見とするが、その根源となる批評眼力(物事を見定め、その真意を究明する認識)の欠如は、対象となる古文書自体が難解であることから逆に心許ない誤謬となり、加えて自己の負数を認めない往生際の悪さが常態化した先祖に対する詐謀となって、やがて自らが墓穴を掘る愚挙となったのである。
                  PN   淡海墨壷