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2008年11月4日
高木敏雄HomePage

古文書調査機能の低劣と疎漏

宮大工 十四代 高木敏雄
    
 
    ◆ 安土から移建された八幡西別院 ◆

 浄土真宗・石山本願寺〔明応5年(1496)蓮如上人開創〕は、天正8年(1580)織田信長と和睦ののち安土城下に寺院を建立、のち信長はこれを蒲生野に移さんとしたが本能寺の変(1582)により果せず、城下町は衰微の傾向となった。天正14年(1586)八幡への移建に着手、6年後の文禄元年(1592)これが終了するや、京都本山西本願寺より御門主の御下向あって遷仏供養を執行された。          「堅田・本福寺旧記」

 詮ずるところ、天正14年より文禄元年に至る6年間は折角の本堂を安土で一旦解体し、これを現在地八幡に移建した期間と考えて大過はなく、その証拠として当該本堂は江戸時代の一間(いっけん)基準寸法を超越した中世の寸法で造営された本質は、余人の容喙を許さず、紛れもなく当初安土に造営した本堂を解体して八幡に移建した唯一の証(あかし)である。

     
◆ 本堂の増建を含む修理願と許可 ◆

 八幡に移建した102年後の元禄7年(1694)1月、当時の本堂は小修理どころではなく、柱根継ぎは言うに及ばず、「所々の柱を取替したい」と、京都中井役所に解体修理を出願する程の朽損状態であった。これに対して本山の御門主は地盤全体を2尺ばかり(約60センチ)盛り土することと、桁行1間半継ぎ足しの御希望により、高木日向は修理願に、『江州八幡・西御門跡の御(み)堂(梁行11間半・桁行10間半)の修復を(本山より)仰せ付けなされたので、これを機会に地形を2尺ばかり築き上げ、桁行方向に1間半継ぎ足して合計12間にし、その他書院・対面所・台所の新築を願い出た。』 

 これに対する京都大工頭・中井主水の許可条件は、『本来ならば1間半の継ぎ足し自体御停止の事であるが、子細格別(門跡様の別院)であることから特別に許可を与えるとし乍ら、他の例にはならない』と、楔(くさび)を差した上で、『但し一旦壊して建直す事は難(むつか)しく、若しその様なお好みならば重ねて申し来るべきもの也』と、継ぎ足しは許容するが、解体修理は不可とした上で、どうしても無理ならば(今度は奉行所に)再申請するようにと宛(さなが)ら温情と冷厳が混在する御墨付であった。

     
◆ 論理の整合を欠く皮相の空理・空論 ◆

 以上の許可条項に対する細見・山岸の反駁は、先祖が真っ当な申請をして許可を得たにも拘わらず理不尽な難癖を付け、

『この修理願は問題のあるところで、文面には桁行11間半・梁行12間(現実は桁行10間半・梁行11間半である)の本堂が大破したので、これを修理すると同時に桁行方向に1間半の継ぎ足しをやりたいというが、修復は良いとしても桁行に拡張するのは不可解である』と、不可解なのは「己」(おのれ)の頭であることを棚上げし、匹夫下郎の如き意味不明の言い掛りをつける。

 続いて
『当時の本堂がいつ建ったかは明らかでないが、これを八幡城下町形成と同時とすると、当然平面は左右対象形である筈であり、片側にしても、両側にしても1間半は中途半端な寸法となり、拡張後の姿が思い浮かばない』と、見せ掛けの差し出し口を強調するがこれは可笑しい。

 この素人判断の根源は、細見・山岸の調査より約290年以前の元禄7年、先祖による本堂修理の仕様に無頼漢の如く言いがかりをつけ、
『1間半の増建は中途半端で外観が思い浮かばない』と、揶揄・嘲弄された先祖の駄作が何処でどの様に間違ったものか?これより先、昭和48年6月27日、滋賀県教育委員長・石居良造氏の洞察により、すでに価値ある建物として『県指定有形文化財』に指定済みの現実をどの様に弁明するのか、それでも人間味の欠落した連中は昭和62年3月、当方の入院中を知り乍ら「古文書を見せろ」と執拗に迫ったので不承不承一部の文書のみ見せた結果案(あん)に違(たが)わず類(たぐい)なき稀覯文書を浅薄な既成概念で一括(ひとくく)りにし、稚拙な判断によって真偽を明確に言明せず「ぼろくそ」に書いて得意満面としているが、このような高木文書に対する逆恨みの根源は換言すれば自己の無能に対する劣等感と焦慮に他ならない。

 そもそも古文書を覗き見するには読解力という土壌が豊かでなければ読破という果実は望めないが、県教委では何故か識見に富む人間を選ばず、適格性を疑う差し出半学の連中は先祖の来し方を味噌糞に書く以外に物事を知らず、取分け傲岸不遜の細見・山岸は基本的に枢要な梁行・桁行の寸法を取り違えるという無様な醜態を演じたのである。即ち修理前の桁行10・5間に1間半継ぎ足して12間に増建した元禄時代の既成事実に対して耄碌する年齢でもあるまいに、桁行と梁行とを間違える体たらくは、名ありて実のない不毛の調査と化し、当初から継ぎ足しの必要なき11間半の梁行寸法を桁行に据えるという大失態に恬然として見向きもせず、それでも委細構わず11間半にバカの一つ覚の如く1間半足して13間になったと糠(ぬか)喜びしているが、その途轍もない浅慮がもたらす弊害は、とどのつまり桁行12間のところが13間になり、一方の梁行も腐敗した頭の波及によって11間半でよいところが12間になる等、この程度の計算もできない盆暗が、人並に先祖を非難するのは御門(おかど)違いも甚だしい愚の骨頂というものである。

     
◆ 本堂増建箇所の究明と先祖の英断 ◆

 前述の如く修理以前の桁行は10・5間であっが、元禄修理で1・5間拡張されたことによって12間になった結実は細見・山岸の謬説を無視した真っ当な私の正論であるが、これを分析するについて先ず縁の出巾寸法を求めると、修理以前の桁行10・5間の内、縁を除く本建(入側柱から対面する同柱まで)の柱間は、高木絵図によると9間であり、その内訳は、中の間が4間と脇の間の2・5間が両方で合計9間となり、これに対して修理前の総桁行は10・5間であるのでこれと本建ち9間との差、即ち1・5間を二分した0・75間(大目、または台目という)が拡張以前の縁の巾ということになる。

 一方、今回の修理に絡(から)む条件として解体は不可であったので本建ちの範疇には一切触れず、縁の巾だけを拡張することとした。即ち、旧の縁巾0・75間の外方に、更に0・75間拡げることにより縁巾は従来の2倍、即ち1・5間の広縁となり、その外側三方に切縁を付加した本山なみの二重縁に、威風堂々辺りを払うが如く高欄手摺を廻(めぐ)らしたのである。

     
◆ 員に備わるだけの節穴調査と戯け者 ◆

 概して古文書調査の使命とは、文章のあらわす意味を真っ当に把握し、理非曲直を明らかにしたものを江湖に普及する責務があるにも拘わらず、県教委の村田信夫やこれに左袒した奈文研の細見啓三・山岸常人による高木非難は、江戸時代に死去した先祖に対して如何様な遺恨によるものか、徹頭徹尾悪意によって先祖の合理的な判断を否定し、猫も杓子も自己の判断が正しいと無理矢理にこじつけ、我劣らじと反り返って付会の説を強調しているが、肝心の根源を突き詰めた実証を明示せず、愚にも付かぬ偏見を客観性よりも優先させ、屁理屈を捏ね回して自己の愚考を頼みの綱とし、詭弁を弄してまで真実を改竄することに余念がない。

 即ち持ち前の惚(ぼ)けた感性に感(かま)けて梁行と桁行を取違えた痴れ者が、人並に為(し)て遣(や)ったりと鬼の首でも獲ったかの如く雀躍し、剰(あまつさ)えその恥辱を汗顔の至りと意識せずごり押しに正統化せんとし、
『現本堂の桁行寸法は縁柱真々で81尺1寸8分あり、1間を6尺2寸と仮定すると13・2間にあたる。先の文面(高木文書を指摘している)では修復完成後の桁行寸法は、11・5間+1・5間=13・0間であるから、ほぼ現存本堂の寸法と一致する』と、子供でも大笑いする間違いだらけにあいた口が塞がらず、猿の尻笑いの傑作に「へそ」で茶を沸かす。

 註 (1)高木文書には10・5間の桁行に1・5間継ぎ足して12間にし
    たいと出願し、これを許可された建物が現存しているが、
    それを調査し乍らわざわざ13間と豪語すること自体、初手
    から彼等の頭が可笑しいのである。
 
 註 (2)天罰覿面とも言うべき村田以下3名の妄想は、修理完成
    後の桁行寸法は飽(あ)くまで
12間であるにも拘(かかわ)
    らず恣意的に
13間と妄信し、これを正当化すべく桁行81尺余
    を間(けん)に換算するについて、
(1間を6尺2寸と仮定して
    云々)
と大言壮語するが、江戸開幕以降の1間は6尺5寸であり、
    それを知ってか知らずか、
6尺2寸云々は如何にもど素人であ
    ることを丸出しにし、世間に恥を曝(さら)す茶番狂言である。

 このようなど素人の謬説をプロの立場で勘案すると、当本堂は中世の造営であることから江戸時代の基準(6・5尺)で命が尽きるまで計算しても絶対割り切れず、況(ま)して細見・山岸説の如く「1間を6・2尺と仮定すると13・2間に充たる」と賢(さか)しらの誤算をしているが、それならば0・2間の端数を如何説明するのか?それは咎(とが)めるまでもなく実際は12間であるべき桁行寸法を13間に間違えたことの焦慮に駆(か)られ至近の数字、つまり6・2尺を窮余の策とした卑劣なごまかしの手法自体がど素人と嘲弄されても地団駄を踏むだけで人並に立腹できない所以である。

    
 ◆ 高欄擬宝珠の刻銘に惑溺する低能 ◆

 元禄7年(1694)1月、本堂の修理と1・5間の拡張は許容されたが解体修理は不可であったので準則により本建には一切触れず、代りに従来の縁の巾を2倍にすることで本山なみの広縁とし、元禄13年(1700)9月10日、本山より御門主・寂如尊師御下向のもと慶讃法要が執行された。

 このとき広縁に相応(ふさわ)しい高欄擬宝珠に享保元年(1716)の刻銘があることだけで県教委では『元禄7年
修理に着手し、享保元年新築が終わったものである』と、独り善がりの奇妙な珍説を主張し始めたが、その嚆矢(物事のはじまり)は、昭和48年当本堂が県指定になったことから当寺院より当家に対して「関係文書なきや」の打診に呼応し古文書を披露したことに端を発するが、この善意に対し節穴の文化財建造物係長は、『あんなもん(あのような文書)は修理の文書だ』と不服がましい吐き捨て発言があったが、その根源は、『享保元年の銘があることから本堂もこのとき新築されたもの』と早とちりした皮相・浅薄に由来する。

     
◆ 元禄修理を歪曲した池野保の暴論 

 『矮人(わいじん)の観場(かんじょう)』〔少し身長の低い人が満員の劇場で人の背後から芝居見物し、見えもしないのに前の人の批評に雷同する意〕から、しっかり定まった自分の意見・考えもなく識見の乏しい池野保の論述は、
『建立年代については高木文書に元禄7年修理の記があり、擬宝珠には享保元年の銘があるので元禄頃修理が始まり、実際には享保元年頃再建が成就した』と筋の通らぬ暴論を主張するが、擬宝珠の銘は紛れ無き眼前の事実であっても、このとき本堂まで再建が成就したとは断定できないのである。その理由とは

(1)当時江戸幕府による建築制限は、
『梁行寸法は3間を限るべし』の法度により、8・5間も超過した本堂新築許可の是非は議論する以前の問題である。
                     (高木文書)
(2)本堂朽損の対策は修理なればこそ許可されたものであり、その実証として修理着手より6年後の元禄13年9月10日、本山より御門主寂如尊師によりすでに法要が営まれている。      (堅田本福寺旧記)

(3)池野説の如く享保元年(法要より16年後)頃の新築とすると、残念乍らこの法要は宙に浮いてしまう事になる。

(4)当時(本山級の建物を除く)では来迎柱以外の円柱は許されず、角柱の筈であるが、それにも増して現存する本堂は縁柱以外は円柱である現実態を如何様に説明するのか?先祖を一方的に愚弄した池野はこれを解明する責務がある。

(5)従って現存する円柱の差替工事は必然的にこれ以降となり得るが、県教委では当初から頑(かたくな)に新築説を唱えて譲らず、このような常軌を逸脱した偏狂者(物事に執着して、常識を超えたことを平気でする輩)と論争してまで『我、火中の栗を拾わず』の心境であり、気違い染みて迚(とて)も同日の論ではない。

     
◆ 専門知識の無能が絡むバカげた冗談 ◆

 このように史実を歪曲してまで害毒を垂れ流す文化の破壊者・池野保は、遂に当家の文書
(修理の許可書)まで改竄し、『元禄7年高木文書には修理とあるが、実際は新築を願い出てすぐ工事に着手、翌8年には順調に進み、軸部は小屋組まで組み上げ、屋根は土居葺を終え、内部は床を貼り、外廻りには建具を入れたが、濡れ縁はないままに工事は一旦休止した』と、高木文書を蔑ろにし、史実を歪曲する窮余の謀略は『元禄修理を意図的にごまかして新築である』と改竄した無能無策や真っ当な元禄修理に始まってのち解体修理に至る寺院との契約書までも隠蔽したことに由来する。

    
 ◆ 空気が読めない後ろ向きの印象批評 ◆

 以上の如く有象無象による高木文書の究明が不見識や杜撰であると必然的に理不尽な論評は頓珍漢な迷論なり、起るべくして起った皮相的な観念論となって行く手に立ちはだかり、これが妨(さまた)げとなり真っ当な(高木評論)の筋道は、下らない認識や生半可な経験の外に押し出され、その残り滓(かす)即ち不適切な潜在意識(自覚されないまま潜んでいる意識)と、有るか無しの理念は傍若無人の暴挙と化し、無実な先祖の来し方を理由も根拠もなく悪し様に書き立て、恬然として省察することもなく、その悪因悪果は当然自分に振りかかる応報(むくい)と覚悟せねばならない。
    
 ◆ 調査能力の低劣と事実の誤認 ◆

 これら誤想の濫觴(物事の起源)である批評眼力の欠如は、対象となる古文書が難解であることから機能不全となり、江戸時代の大工法度を皆目知らぬど素人による心許(こころもと)無い誤謬に加え、建造物係長以下挙って自己の負数(マイナス)を認めない往生際の悪さが大手を振って常態化し、それが時を移さず先祖に対する詐謀(いつわりのはかりごと)となり、挙げ句の果ては自らが墓穴を掘るという愚挙に至るのである。

    
 ◆ 古文書の価値を剥奪した池野説 ◆

 このように池野による恣意的など素人判断は、肩書だけが先行した生半可な知識により自己の分際を一切顧みず、幕府法度を皆目知らぬ「たが」の緩んだ素人が、込み入った事象の関係文書と、眼前の本堂との違和を究明しょうとはせず、また解明でき得る力量もなく、一途に弥縫策のサル真似により表面のみを見て下す浅薄な判断は、物事の本質を「おとな」の見識で論じた気配は甚だ希薄であり、只管(ひたすら)先祖の陥穽を目論み、目的達成の為には方法・手段を選ばぬ非人間的な枉法を弄し、無実な先祖の尊厳を否定する最低の人間として無様な品格をわざわざ自分が主筆した修理報告書に露呈したのである。

     
◆ 論理が飛躍した短絡的な逆恨み 

 斯(か)くの如く偏見と勘繰りにより事実無根の難癖を付け、それでも飽き足らず軽慢な縦割り志向の権柄により虚誕の愚説を抜け抜けと公衙の刊行物を媒体として間違いだらけの害毒を垂れ流し、専ら先祖を貶めて幕府禁令破りの極悪人にすることで自己を善人に措(お)く卑劣な手段を行使し、愚策を弄して先祖に懐疑と非難を浴びせる愚蒙は止まるところを知らぬ匹夫に成り下った感が否めない。

     
◆ 虚妄と誹謗が混在した嘘と偽り ◆

 即ち、幕府が定めた建築統制の知見は組織ぐるみで限り無くゼロであるにも拘わらず、自分に不都合な事はすべて先祖の所為であると知ったか振りを決めつける権謀術策と化し、その結果呆(あき)れ果てた空想と虚妄がもたらす倒行逆施(道理にさからって、ごり押しに物事をする)が、宛(さなが)ら現実を蔑(ないがし)ろにした憶測と観念論の一点張りでは、とても論理の筋が通らず、愚にも付かぬ池野の毒筆(先祖を中傷する目的で書いた文章)と嘲弄する以外に私の凡慮では適切な表現方法は見出すことが出来無いのである。

    
 ◆ 史実まで捏造した池野の駁論と偏見 ◆

 池野主筆による修理報告書は世辞にも高論卓説とは言い難い嘘・偽りに満ちた報告書であり、これを臆面もなく主唱する根源を詮索すると、前掲の愚にも付かぬ細見・山岸説を妄信したことによりバカの一つ覚えの如く高木文書の内容を貶(おとし)める趣向を甘受し、当家先祖の直向(ひたむ)きな来し方に対して詭弁を弄し、事実無根を実(まこと)しやかに報告書に網羅して一向に憚らないが、その馬鹿げた魂胆は埒外の立場であるにも拘わらず他寺本堂にまで言及した間抜けた差し出し口が、賢しらによる容喙となり理不尽極まる見当違いの誣告を公表して悦楽に浸っているが、その愚鈍な愚考は先祖に対する謀略とは裏腹に、自己の無知蒙昧を巷間に曝(さら)け出すという人間味の喪失は、天に唾(つば)するが如く自己の品位を下げるだけであり、最も軽蔑される不逞の輩と愚弄されても立腹する資格は毛頭なく、別して書かれた側の子孫にすれば恨み骨髄に徹して血涙を禁じ得ないが、それは子供の戯(たわむ)れと同じく一顧の価値もない虚構(作りごと)・虚誕(でたらめ)に他ならず、真っ当な理由・根拠もなく先祖を愚弄し、主観的な妄想による逆恨みは、事実関係の確認という観点からいえば筋道が通らず、信憑性を疑わしめるものがある。糅(か)てて加えて肝心の結論自体が客観的に立証されておらず、憶測による中傷は次元の低い不見識と相俟(あいま)って益々主観に満ちた抽象に終始し、視野の狭い零落の果ては物事の真理や道徳的価値を認めず、伝統的な文化や、その制度まで破壊しょうとする蕪雑な論難は必ずしも確たる裏付けがある訳ではなく、さりとて議論が収斂しているとは世辞にも言い難く、稚拙極まる中傷の積み重ねで傷ついた暴発により脆(もろ)くも崩れ去った当て付けがましい駁論に凋落した。

 惜しむらくは、もう少し脳漿(のうしょう)を絞って考えることができなかったのか?その異常さを異常と思わない感性こそが甚だ異常であり、人間性を置き去りにした誹謗・中傷は、人の痛みに対する感受性に乏しく、情味の欠落した冷(さ)めた活字の暴力は本質的な問題の在り処(ありか)を見誤り、それが高じて実態以上に誇張された誤断を恥らうことなく、味噌も糞も同じ価値で覆(おお)い尽くした浅薄により客観的な実相の把握には至らず、その無策が禍して判断基準が曖昧な入口論を標榜し、恬然として恥じない体たらくとなったのである。

 かりそめに先祖非難を達成するには、専門知識を得ることと、江戸時代特定の根本原則を識(し)ることであるが、その根源となる常識や社会通念が揺(ゆ)らぎ、人間味の崩壊した生半可な知識で論点を無視し、糞生意気に先祖を「ボロクソ」に書き捲(まく)っているが、その愚考は宛(さなが)ら砂漠に水滴を垂らすが如き徒労と、背中合せの皮相(表面だけを見る浅はかな判断)を漂(ただよわ)せる直視不能の実態は、残念乍ら暗闇の中の微(かす)かな光明にすぎない。

 一方、先祖に対する嘲弄と、子孫を不愉快にする悪意に満ちた一元論的な発想は自らの不備を正すことなく、底の浅い思い込みにより先祖の来し方を組織ぐるみで蹂躙(じゅうりん)し、全く別の次元の定義や妄想による卑劣な手段を弄して分別なく矛先を向けているが、これらの愚策は合理的な根拠を欠いた下種の勘繰りに他ならず、本来ならば自らを省(かえり)みて忸怩たる思いに駆られるのが良識ある人間である。

    
 ◆ 子供でも理解する客観的証拠 ◆

 平成9年当本堂保存修理が始められ、9月1日の新聞に、
(1)元禄7年工事に着手、享保元年(1716)まで20年かかって
再建された。
(2)続いて平成10年5月14日付の新聞にも
『本堂の再建は元禄7年(1694)に始まり、75年かかって、明和元年(1769)ようやく全工事が終った』 県教委・菅原和之談。とあるが、享保元年説は単に高欄擬宝珠の銘に過ぎない。これについて当時新築が不可であったことを裏付ける高木文書には、これより先、寛文期、すでに建築制限の新令が発布され、京都大工頭より高木に対してこの写しを交付するので『大工年寄を同道して上京すべし』と命じた差紙が届けられ、「今後新築する場合の梁間寸法は3間を限度とする」旨の二通の証拠が手元にあるが、それでも新築と大言し、大工頭・中井家の差紙(高木文書)まで愚弄する狂気の沙汰は子孫にすれば「罪万死に値する」仇敵と表顕しても決して過言ではなく、古文書を調査する資格の無い人間が生半可な知識で歴史的な事実を歪曲するのは実に鳥滸(おこ)がましく、公平性を逸脱した根拠無き讒説に過ぎない。
            
PN   淡海墨壷