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2003年8月19日
高木敏雄HomePage

職師離脱に至る事象

宮大工 十四代 高木敏雄
        ◆ は し が き ◆

 既刊の拙文に、知ったか振りをする人のことを「白河夜舟という」と書いたところ、早速に口さがない、友人から偉ぶった苦言のメールが届いた。彼の言い分によると、この意味は「夜という字があることから、熟睡していたので、その間に何が起こったのか、(例えば地震など)知らないという意味だ」と、のたまう。

 ならば夜はよいが「白河」はどのように説明するのかと、しばし居酒屋談義に花が咲いた。その真意の究明について、約五十年以前に読んだ本なので紛失、書名は忘却し、その著者には誠に申し訳ないが、この白河とは比叡山麓、京都左京区付近の地名であって、その白河について、或る日京都の事は何でも知っていると大言する人(ほら吹き)にこれを質問すると、「三十石船でここを通ったときは夜であったので知らない」と答えたので、以来この人のことを白河夜舟と仇名で呼ぶようになった。と書いてあった事を記憶している。

 その知ったか振りについて本項では、当家文書を調査したと広言する奈文研の同報告書の内容が、社会通念上普遍的に認めらるる真理を、埒外に置き去りにした感情の赴くままの、攻撃的で是非を云々する範囲を越えた、言語道断な論外ともいうべき表現に対して、大工頭と組下大工の狭間にあって、微力乍ら職責を完遂した弛まぬ努力によって、積み重ねられた過去の貴重な事実を、忖度はせず、野次馬的な白河夜舟の状態で、写実的、具体的に表現することもなく、さりとて叙事的に述べたものではなく、また当家の営業上の多元的な事情等についても、一切斟酌しようとはせず、ひたすら興味半分の作為による、恣意的な裁量に基づく不実の記載は、到底許せるものではなく、折角の古文書の閲読を、玩味不充分な空疎な判断に対して、肉薄で迫るものである。

          ◆ 中井役所の成立 ◆

 関ヶ原の戦いの後、家康個人に重用され、上方大工集団の総師として華々しい活躍をした中井氏は、寛永期(元年は1624)に入ると、入札制度の普及に伴う幕府作事方の退嬰により、明暦大火(1657)以降、江戸を撤収して京都に帰着され、元禄六年(1693)十二月、作事業務に関する諸費用を、公費負担とする幕府出先機関、京都中井役所として成立した。

 その過程に於いて、これより先の寛文八年(1668)幕府老中奉書による家作禁令(三間梁制限)の徹底及び大工人別改や、貞享三年(1686)、従来は郡単位であった大工組に五人組の設置を命じる一方、作事願(簡単な小修理を含む)の提出に際しては、個々に所属する大工組頭の加印のあるものを、申請人(願主)自身が中井役所に持参し、その奥書(大工頭の許可条項)を得て、始めて着工が可能になるという原則を定めた。

          ◆ 最寄の独立化 ◆

 以上の如く、中井家が大工支配体制の強化を目的とした種々の規制の内で、大工組分立の萌芽となる前述の五人組の制度は、悪政とはいわないまでも、功罪相半ばするものであった。即ち、当初は組頭が広大な一郡全域を支配していたものが、年々無高大工の著しい増加に伴い、中には無届の大工もみられ、彼等の専横な振舞は槌代(税金)の徴収ができないのみか、作事まで無届とする違反が頻出するに至った。

 そこで、この防止策の一環とする当初の目的は、一郡大工組を五つの小組とし、各一名の大工年寄を置くことにより、その運営の円滑を図ろうとしたものが、結果としては大工年寄同志による競争対立意識を育むこととなり、これが次第に増長し、やがては個々の小組を母体とした最寄の独立を策謀し始めたが、そもそも親組を離脱して新組を結成すること自体、蒲生大工組を分裂させる要因となり、結局この愚挙は、自身で墓穴を掘るが如き危惧を胚胎した状態であったが、それでも十八世紀に入ると、軽挙妄動は六ケ国全体に波及していった。

 このような泥沼化した暗中模索の渦中にあって、大工組自体、江戸時代当初は幕府の強固な権力により門答無用の状態であったものが、これが中期ともなると、時として横槍も入る弛緩の傾向となり、宝暦元年(1751)一部の無法大工の煽動によって、
 「組分けの立案を阻害する組頭高木は退役させろ」
とする主謀者の主旨に共鳴した組下の大工は、不和雷同の一義による退役願連判状に、面従腹背で一旦名を連ねた者や、首鼠両端の逡巡により署名の決断を躊躇する人、揚げ句の果ては、一旦署名したものの、悔悟の情が著しく、のち署名を削除した人、それぞれに苦渋の選択を迫られた事が文面により推察できるが、ここで特に力説すべきは、当家に対し遺恨でもあるのか、事毎に陥穽を狙う奈文研職員の悪評とは裏腹に、これを裁いた中井家では、この暴挙について、旧来の一郡一組とする基本的理念を墨守して、これを一切認めず、「今後は理由なき専横な行動は許さない」とし、念の為、組下大工全員に対して「誓約を旨とする一札を書いて当役所に持参せよ」と命じ、「それに不服の輩は大工職をさせない」と、不満分子は切り捨ての方針で臨んでいる。

   註 既刊地の巻、「新組結成の画策」も一連の騒動につき、
           併せてご一読を乞う。」

          ◆ 文政度の新組結成の謀略 ◆

 第二の元禄時代ともいわれた化政時代(文化・文政の略称)の文政十年(1827)五月、高木家旧来の弟子大工、弥兵衛氏及び、当時の八幡向寄の大工年寄役、伝兵衛氏(但し、当人は病気中の喜三郎氏の代理)の両名が京都奉行所に(駆け込み御願申し上げ候)とする口上書、(案)の経緯を考察すると、同六年(1823)の初め頃、高木作右衛門組下の内、蒲生郡内仙台領村々の大工が、親組から離脱して新組を結成せんとする計略を、逸速く察知した高木は中井家に対し、

 「右の体(不穏な空気の内容)が、新規の儀(新組の結成)に関する
    出願であれば、 古格の通り(旧来の形式通り)に仰せ付け下さいます様に」

と、事前に届けてあったので、中井家では訴えた大工の印札を改めた上で、「何れも心得違い(道理に外れた考え)である」と却下し、大工側も「従来通り当組に入りたい」と申し立てたので、この一件は落着した。

 ところが前件の結審後、時を隔てず同領内の西羽田村(現八日市市)の大工七左衛門、他の大工が、

  一、 大工仲間の集会に出席しない、
  一、 組の諸入用を出銭しない、
  一、 印札の受領をしていない、(無登録のもぐり)
  一、 寺社方普請を中井家に無届でする、

等、大工作法の破約が、羽目を外した容認し難いものであったので、職責上、拠ろなくこれを中井家に届け出たところ、大工頭中井岡次郎(八代正平)氏は、これの裁決を西奉行所に請願され、同文政六年(1823)九月、双方を召喚し、吟味(取調べ)の結果、七左衛門以下は「全て心得違い」と謝罪したので、大工頭は訴えを取り下げ、「御赦免なし下され候」となったが、この甘い処置は対外的にみれば何故か首を傾げる訝かしい決定であった。

 今度は、以上の二件で思い過ごしとなった同じ仙台領に住む大工清八が、執拗にも再度組分立を画策し、その口実として、「高木は蛇溝村(現八日市市蛇溝町)本啓寺本堂普請を請負乍ら、普請願を提出していない」と、窮余の一策として事実無根を申し立て、これに事寄せて(かこつけて)今度は領内の大庄屋久保内蔵頭の添書を楯として、高木の組下を離れたいと、中井役所に願い出た。

 この出訴について、大工頭は双方を召致して糾問があったが、その席上、前述の本啓寺普請に関しては、高木による請負ではなく、別人である旨を申し立てるも、一方の領主側の訴人、大工清八に対する不埒の糾問は一切お構いなく、「全て高木の落ち度である」との不条理な裁決となった。

 そもそも大工清八が、このような人倫に悖る誣告をしてまで、新組を結成せんとする汚濁した意図は、仙台領に居住する大工を自己の支配下に与み入れ、その領内限りに独自の大工組を擁立しょうとするもので、そのどす黒い企画は、蒲生郡内の大工であっても、仙台領以外に居住の大工の加入は許さないとする思索は、排他的で秩序を乱すものであり、蒲生大工組結成以来の、未曾有の策謀であるだけでなく、当大工組の由緒まで吸収せんとする、危惧すべき企画でもあったのである。

 この物狂おしく、乱痴気な清八の企ては、去る文政六年以来両者間で係争中の重要な案件であると、中井役所に申し立てるも、一顧だにされないのみか、以前にも況して今度は清八と共謀の大工仲間、喜兵衛・惣吉と申す者より、八幡孫平次町、蓮経寺本堂及び同町西方寺水屋(共に高木の営業範囲)の普請が無届であると、この年(文政九年十二月)中井役所に提訴するに及んだ。

 これに関して高木に糾問があったが、西方寺普請(同九年八月、中井岡次郎氏の裏書現存)については、高木作右衛門の留守中(前述の三重県本山専修寺如来堂門造営中)に弟子が着手(事前着工)し、一方、蓮経寺本堂も前述の理由により手支えの状態で、請負大工は別人であるので糾明して下さるよう申し立てるも、一途に西方寺の願書提出日が着工と僅か前後していることだけを理由に「作右衛門の職分取り放し」とする大仰な中井家の仮決定を、同町内に居住する大工弥兵衛氏(この口上書の筆者)の内偵の労によって極秘裡に耳にしていたが、それでも清八は本啓寺本堂普請を高木の落ち度として非に落とす偽造の書状を作成し、証拠がましく提出したのであった。

          ◆ 中井家の権謀 ◆

 以上のように、予てより大工組の支配体制に不満をもつ大工清八や、傀儡的に加担したその仲間の実態については忽論言をまたないが、京都大工頭中井家八代目当主、正平(岡次郎)氏までが、凡そ事物に対処するについて、審理は是是非非とする公平無私な信賞必罰で臨むべきところ、これの欠如した私的感情により、権謀(場合に応じた謀りごと)に傾斜する裁量とした要因を、大工弥兵衛氏が奉行に宛てた口上書に求めると、
 「大工清八側の誣告に対しては、高木側にもそれなりの訳(事由)があるに
    もかかわらず、中井家役人様は陳述の一切を聞き届けて下さらない事は、
    内々承知つかまつり候」
とあり、高木側が承知しているその裏事情とは、
 「中井様家老、鍵屋久兵衛と申す者が、利欲(利益をむさぼる心)にかかり、
   (目がくらみ)金子をもって、万事不筋(筋の通らない)取持ち(仲だち)により、
    内分を繕った(内密に体裁よく調整する)ことによるものと確かに承知
    つかまつり」                                        以下略
とする証拠立ては、清八側が鍵屋氏を通じ、「金子をもって不条理な仲介をした」と、臆することなく堂々と奉行に上申しているこの事実は、取りも直さず「賄賂」が動いたということであって、この場合鍵屋氏は、さしずめ仲介の労を演じた立場であり、背後にはそれを収賄した上司の存在が垣間見える。

 因みに、この鍵屋久兵衛氏とは橘屋喜兵衛氏と双んで、中井家支配下の六ヶ国大工が、普請願、その他の所用で上京する人の為に設けられた中井家指定旅宿の主人で、大工組と中井家との繋ぎ役をする出入商人であり、その他、扇子料という名目で、各大工組より上納される年頭の御礼等も彼らが取り扱ったのである。尚、これらは年末になると中井家役人より各大工組に対して請求書紛いの触状が届けられ、幕府出先機関とは申し乍ら、当時の中井役所の舞台裏をも覗くことが出来る。

 職師高木家を憂慮する大工弥兵衛氏の口上書は更に続き、「先年の最寄故障の儀(これより先、宝暦元年の紛争を示す)のときは、先の御頭様にて、正直な究明となり、旧来の通りに取持ち(組下大工の説得)によって、その筋道も立ち」と、先々代大工頭の判例とを比喩している。

 一方組頭高木は、今回の贈収賄という卑劣な手段による偏重、偏断の審議に激越し、自ら組頭を辞退するとの唐突な言い分に、八幡向寄の年寄や、大工弥兵衛氏は、「然は然りながら」(そうであろうと肯定した上で、しかし、こうも考えられる)と、勘忍を含む諌言をしたが、文政十年(1827)といえば、専修寺如来堂門造営が本格的に始まりつつあり「くだらない不毛の論議に逐一関わっていられない」とするのが、彼の偽らざる真情と考えられ、「いずくんぞ、残肴、冷杯に首(こうべ)を低(た)れんや」と、権力のお零れに預かることや、不正を極端に憎む潔癖な職人気質が、ここでは如実に反映されており、私もその琴線に触れると自負する、頑固なモノつくりの一人である。

 以上の如く、絶えず事あれかしと、虎視眈眈とする奈文研による報告書には、自らの意思で組頭を離職したことは事実であるにもかかわらず、これを揶揄する目的で、「これにより組頭を追われた」、「これ以来組頭の名は消える」等と奇弁を弄し、複雑多岐にわたる内情も知らず、恰も当家が逼塞したかの如く書き立てて愉悦を貪り、安手の読み物のような内容とするが、仮初めにも文化の発展に寄与することを目的とした調査報告書ならば、蕪雑な表現によって、過去の事実を一方的に歪曲したのでは、未来に向かうといっても前進できないのではないか。

 そこには、いまだに残る官民格差により、民に対しては理性的な表現や、感情的な共感よりも、更に邪悪な攻撃する相手を探し求めんとする、時代の風潮があるのかも知れない。

 高木文書は憚りながら、私が過去四十ケ年の蛍雪を重ねて研究したものであり、その他の一家言も含めて、他人に見せて不都合な文書は皆無である。それでも味噌糞に書き立てるのは、調査した人間の無知、不見識、誤断であると断定でき、それらに立脚して考察した結果、奈文研によって批判されたものの内で正答といえるのは、その古文書の所有者名と、住所のみである。人間である以上は、二,三件の間違いは認められるが、正答が一件もないその奇妙さは、悪意による虚構であるといわざるを得ず、調査の真意が探求不可能となる。如何に生殺与奪の権を握っているからといっても、「角を矯めて牛を殺す」が如き行為は官の人間と雖も、避けた方がよいと草莽の臣、私は思う。

 名もなく、貧しくとも営利は追求せず、一途に文化の発展に寄与された匠はモノ作りとして、付加価値を生み出し、その見事な産物は、建物や、その関係文書も含めて、知的財産といっても過言ではない。
 その付加価値を、更なる付加価値たらしめるには、現代その恩恵を享受している吾人が、それなりにこれを保護する義務がある。しかし、一方では、その保護を標榜する人間でさえ、前述の如く、心ない輩によりこれに感謝することもなく、折角の古文書閲覧に貢献した善意を土足で踏みにじる。その粗野な行為は資質を問われ、自己の品位を下げることを忘れ、公の権力で「ボロクソ」に書いた公刊として発表した。これ以上、閉塞感漂う現世に古文書を残すことは忍びがたく、止むなく涙をのんで焼却処分とせねばならない。それは延いては文化の瓦解につながると意識し乍ら。

PN   淡海墨壷