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2003年7月15日
高木敏雄HomePage

鼎の軽重を問う  (地の巻)

宮大工 十四代 高木敏雄
◆ 五人組の編成 ◆

 前掲の如く寛文八年(1668)大工頭中井主水正は、江戸で発令された寺社方三間梁制限(建物の梁間は京間寸法の三間〔5.91米〕が限度)の法令の周知徹底を契機に幕府公用作事に対する勤仕や、大工個々の営業に関する作法の原則を示した条目を触れ流し、同時に「大工人数改め」をも実施した。

 次いで中井家では、十八年後の貞享三年(1686)正月、三カ条の覚書を申し渡した。その第一項には、
「一、六ヶ国大工組頭、国分ケに五人組申し付け候間、不作法これなき様に、五人組の内にて吟味つかまつり候て、御公用(作事)大事に相勤め申すべく候」
に加え、第二項として建築願の書式及び提出方法や、第三項では大工組頭の世襲に伴う原則を定めて、その厳守を促進した。

 註  五人組が民間の組織として制度化されるのは江戸幕府成立以後のことで、
         遵守すべき法規を列拳した書状に五人組が連署し、その条文に違背しない
         請書とした。

 ここでは一概に五人組の編成といっても今回の大工統制自体、在地の地頭による治安対策とは一線を画した、いわば、大工の自治機能の育成を目的としたもので、従来郡大工組の長には原則として組頭が存在したが、蒲生郡は他郡に比して面積も大きいことから、年毎に増加する大工数も顕著であり、すでに寛文期(1661〜72)には、高木と長兵衛が併記されたこともあった。

 それでも対応は至難で、取り分け無役もぐり大工の反発は組内の混乱を招き、やがては分立や、組織を解体して新組の結成を企てる不穏な動きさえ見られるに至った。

          ◆ 小組から向寄へ ◆

 そこで中井家では、従来の一郡一組を五人組と制度化し、この五分割した小組に各一名宛の大工年寄を置き、小さな範囲で無法大工による違反事実を看破し易くする手段とし、それらを大工年寄の責任とした。

 この小組は、のち「向寄」(むより)と呼ばれるが、その真意は取りも直さず「最寄」と考えて大過はない。それについて川上貢博士著、「近世建築の生産組織と技術」昭和五十九年、松原家文書の中に、
「一、六ヶ国大工組頭、国分ケに「五人組」を申し付け候」とする前述と同じ文書(貞享三年)に、五人組の文言(五カ所)の上から「向寄」と訂正した貼紙がしてあることで、この五人組と向寄は同義語であることが立証された。

  一方、五人組から向寄に改変された時期について、これの発布より六年後の元禄五年(1692)甲賀郡大工組定帳に、
 「無役の大工が組(甲賀大工組)に入りたいと申し候はば、四組にて相談の上で」
とあり、これは同郡内の 山北、山南、杣、柏木の四組であるところから、このときでは向寄という呼称はみられない。

 続いて、享保十九年(1734)頃、前述の甲賀大工組頭左次右衛門氏が失脚して、同組の統制が脆弱化すると、十六年後の寛延三年(1750)春、
 「往古以来の一郡内を、当春より新規に細工場所を四組に分け候」
とある如く、当時でも未だ向寄とは変名されていない。

          ◆ 尾州領内の大工 ◆

 尾州侯とは徳川家親藩三家の内、家康の第九子、義直(初代名古屋城主)を祖とし、一方蒲生郡内の尾州領とは当時西川、岡屋、田中、山の上(以上は現在同郡竜王町)その他、鳥居平、山本、上野田(同じく日野町)の合計七ケ村の内で石高五千二百石余を領有していた。

 この領内に居住する大工は、元来蒲生郡大工組に属していたが、寛延三年(1750)九月、尾州領外の大工が、組頭高木に具申した書状によると、同領内の山の上に住む大工与兵衛が、蒲生大工組の協定を破り、周辺の素人大工を雇って仕事を始めたので、使者をもって大工作法を守るよう申し入れたところ、これに対する与兵衛の言い分は、
 「山の上の尾州領役人の取持ち(周旋・仲立ち)であり、自由に働いてもよい」
と書面で回答したため高木に対して、
 「大工与兵衛は仲間の作法を用い申さず、私共公役大工渡世(世渡り)の
    害になり、難儀至極である。尾州役人に願い出て、公役大工の作法が
    以前の如くなるように取締って欲しいと訴えている。」 
                                     (高木文書 )                                                         
 この訴えの通り尾州領内の大工によって、「蒲生郡は先規通り(これ以前に定められた規制通りに)仲間一組で、中井家支配下の公役大工ばかりで堅固に相守り云々」であった高木組下大工が、どの程度の被害であったのか、文面では定かではないが、
 「わけても(殊更を強調して)蒲生郡の儀は分割支配(天領と私領が入り
    混っている)も   多く、これ以上に他領の大工にまで悪影響を及ぼしては、
    以下略」
と、正規の大工仲間を擁護する訴えであったが、これが単なる私領ではなく、徳川親藩であるので、この対策には一際高木は苦慮したであろうことは想像に難くない。

          ◆ 小組支配の一元化 ◆

 前掲の如く、小組の呼称が向寄又は最寄に改められた明確な年度は残念乍ら定かではない。然り乍ら、前述の高木に対する訴状、寛延三年(1750)九月付に「蒲生郡大工組は仲間一組にて」とある通り、この時点に至るも五分割の向寄(近隣大工のグループ)となっていないことが判明する。

 ところが、二年後の宝暦二年(1752)八月、中井家役人三名より高木に宛てた連署書状には、
 「組中の大工は先格(これ以前に定められた規則)の通り、もより、
    もより(最寄)の大工年寄に従い」
と、このとき初めて最寄という語が登場する。更にこれより三ヶ月以前の宝暦二年五月、高木が中井家に提出した書状の写しには、向寄の呼称を具体的に挙げて「中向寄、下向寄」とあり、結局は1750〜52の間に名称変更されたと考えてよい。

          ◆ 向寄同志の大工作法 ◆

 蒲生郡内を五分割された近隣グループの名称は、八幡向寄(市制以前の八幡町と、その周辺)牧向寄(現在牧、加茂、小船木、等とその周辺)日野向寄(日野町及びその周辺)下向寄(安土町と、その周辺)中向寄(竜王町と、その周辺)の五つの小組で、これに各一名の大工年寄を置き、組頭高木は五名の年寄を統括したが、個々の向寄支配の権限は大工年寄に委譲され、組下大工が訴え事あるときは、年寄経由の上でと定められた。

 その分割の目的は、無役(無法大工)の暗躍を防止することが、直ちに正規の組下大工の保護につながるところから、それぞれの向寄に居住する大工の営業は、その範囲に局限され、規則を破って出入する者は、親兄弟といえども大工年寄に報告せよという窮屈な制度となった。

 但し、この制度に改正される以前より、他の向寄や、郡外に得意先を有する大工はこの限りではなくその在地の組頭や、大工年寄に届け出れば首肯され、あくまでも、もぐり大工の封じ込めが主眼であった。

 高木は組頭であっても、この新機軸により、その所属自体は「八幡向寄」である。そこで一例として安土浄厳院は「下向寄」であるにもかかわらず江戸時代初めより、明治の書院再建まで出入を容認された事実は、これより先、寛永十二年(1635)以前より営為を重ねた古株大工に対する特別措置であったが、一方では寛保二年(1742)郡内の日野町蔵王の金峯神社や、八日市市今堀の日吉神社造営に際し、前者は「日野向寄」、後者は「中向寄」であったので、高木はそれぞれの大工年寄と話し合いの上で、
 「蔵王権現造営について、日野大工年寄承知せしめ侯」
と快諾したものや、
 「鵜川村(中向寄)大工年寄、高木が造営されるに付いて他より故障(さしさわり)
    これなく侯」
といった承諾書を手交の上で、工事に着手している。

 このように従前は郡内での作事は何時でも何処でも自由であったものが、今回郡外作事同様に逐一先方の大工年寄と話し合い、承認書を作成した上で着工する制度に改められた。              (高木文書)

          ◆ 新組結成の画策 ◆

 十八世紀中頃(寛保元年1741〜宝暦年中1763)ともなると、最早時代の趨勢は、幕府の権力も開幕当初に比して弛緩の傾向となった下剋上(下級の者が上級の者を差し置いて力を振るう)の時代となり、これが法令を破って向寄から独立して仕事場所(縄張り)の確立を目指す者や、蒲生大工組という親組から分離を画策する者など、これらの不満分子は予ねてより蜂起の機会を狙っていたが、甲賀大工組頭佐次右衛門氏の失脚(享保末年1735頃)を機に乱れ始め、これが堰が切れた如く、蒲生大工組でも宝暦元年(1751)の冬、
 「江州蒲生郡大工組頭、高木但馬退役の儀について、最寄の年寄、
    並に大工より相願侯」
とする組頭退陣要求願が中井役所に提出された。

 これについて翌二年八月、中井役所の役人三名が高木に宛てた連署書状によると、これの評議について当時の組下大工支配の状況を参考として聴取すべく両郡(神崎・野洲組頭に上京を依頼し、
 「此許(ここもと、中井役所)に於て吟味に取りかかり、両郡の組頭が
    (さばきなされ)」
とある通り、二名の盟友による調停の結果、
 「双方が和睦致し、諸事先規の通りに相成侯」
とした上で、
 「当初より右の争論について、組頭退役願の連判に得心しなかった者、
    又は一旦連判したもののその後に連判を削除した者、このような面々
   (ひとびと)共に先格の通り最寄、最寄の年寄に相従い、神妙(素直)に
   相働き申すべく侯」
 「この旨を年寄共より向寄大工に申し渡し、その上で誓約書を提出させ、
    それでも言われなく(理由なく)異儀ある者は、大工を致させ難い」
と結んでいる。一方、大工年寄に対して、
 「今後大工共より申し出る儀あるときは、先ず大工年寄に申し出で、その上で
    年寄方より組頭に問題提起することとし、大工は年寄を差し置いて高木方に
    直接申し出る事は堅くつかまつるまじく(してはいけない)」

とある通り、中井家では大工年寄の支配権を従来より一層大巾に認めているが、内面では今回の向寄制度によって五名の大工年寄と組頭との間に同業者対等意識を育む事となり、通俗的にいえば中井家は年寄の「顔を立てた」ということになり、結局は「泰山鳴動して鼠一匹」(大騒ぎしたのに、大したことはなかった)という事であろうか。

           ◆ 西照寺本堂・庫裏の作事について ◆

 安永三年(1744)九月(浄土真宗)西照寺本堂の改築に次ぐ同六年三月、庫裏修理の両作事に際し、組頭高木兵庫が中井役所に提出した普請願に、異例の事として、前者は八幡町住の「同寺旦那大工三名」の後に願主、組頭高木兵庫として申請し、中井家では「高木兵庫へ」として同三年九月付で許可を与えている。
 一方後者は先に願主、組頭高木兵庫とあるのに次いで三名の「門徒大工」が連署しているので中井家では四名に対して同六年三月付で許可を与えている。

 これについて奈良国立文化財研究所、細見・山岸両氏による高木文書調査報告では、
 「高木単独名での申請は、安永三年の 西照寺本堂造営でくずれる」
とあり、これは願主に三名の大工が付着しているので単独?ではなく複数と理解したものと考えられ、続いて、
 「門徒大工の個人的な力ではなく、教団の力を背景にもっていたのではないか」
と恣意によって異次元な解釈をし、

 「このことは高木の独占的大工支配が薄れてきた可能性を窺わせる」
と根拠 もなく、例の如く穏やかならぬ極論としてる。

 これについて予てより事あれかしと刮目して当家文書調査に臨んだ奈文研職員は、異例の門徒大工・旦那大工の出現に嬉嬉とし、判断基準を超越した焦燥により、一義的に解釈して「高木は唾棄すべき人間」と、如何にも確証があるかの如き表現は、当家先祖を土足で踏みにじる権威におもねた記述としている。

 八幡町史によると、当該寺院おかれては、高木に本堂修理を御下命になる前年八月、御住職・門徒総代諸氏が連署して「本山御役所」に提出された書状には破損した本堂について近年以来再建を心にとめていたが、門徒も困窮の状態で見合わせていたところ、段々大破に及び、この度諸方の「他力をもって」再建致したく、と本山に誓願され、私の推測が許されるならば、本山の経済的な御助力によって門徒の内から大工を斡旋され、そのことによって旦那大工・門徒大工として普請願に登場されたもので、「教団の力を背景に」等は奈文研という権力による悪のりではないのか。

 私事ですが、私も先祖代々浄土真宗、門徒の末席を汚す者で、いわゆる「もんと」であり、それは真宗特有の「同胞、ともがら(輩)報恩の徒(なかま)であり、一方、旦那は檀那寺に所属する壇越・檀家で、施主として寺院に施入する旦那(檀家)のことで、私も報恩感謝を忘れてはいけない一人であると考えている。
 奈文研では、前述の門徒大工が登場される一件を安永の動き(1774年及び1777年)と大仰に銘打ち、この結節が動機となって、その後に高木退陣要求(未遂)につながったと述べているが、これは二十六年以前の宝暦元年(1751)のことであって、甚だしい年代の倒錯である。
 尚、退陣要求に関する審理について、中井家では神崎、野洲両郡の組頭を参考人召致し、このとき仲介して下さった神崎郡太郎右衛門氏は、高木にすれば恩義があり、これが四年後の宝暦五年、例の弘誓寺本堂普請願に両者は着工以前から犬猿の仲であったが如き表現とするなど、何れも高木の誣告に焦慮するあまり、自ら墓穴を掘ったものと断言できる。
      

PN   淡海墨壷