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2003年12月18日
高木敏雄HomePage

特集・金台寺本堂の非再建論

宮大工 十四代 高木敏雄

     ◆ 判断と決断の意義 ◆

 「当り前の事を書くな」と、地球上で最も悪い友人から声が聞えそうであるが、これは似て非なるものであると私は思う。即ち、前者は「もの事の是非や、善悪等を考えること」であるのに対し、後者は、「その判断により意志の向かうところを確かに決めること」である。それ故に知悉に裏付けされた正確な判断力がなければ、到底まともな決断をすることは出来ず、また、その決断は絶えず正しい判断を重ねた経験の行く手にあり、両者は互に連係を密にし乍ら、存在するものと考えられる。

 註 表題の寺院名は本願寺八幡別院のことで、県教委発行の同本堂
   修理工事報告書(平成十三年)には当家文書を誤読して『金古寺』と
   あるが、正しくは金台寺である。尚、当寺院の元禄修理に際し、
   高木日向が中井役所に提出した修理願には金台寺と記されている
   ことから、先祖に対する懐旧も含め、以下本項に関して寺名を
   金台寺としたい。

     ◆ 擬宝珠の刻銘と高木文書 ◆

 前述の本堂は、元禄七年(1694)正月、本山御門主の御下命により『修復』の名目で中井家に申請し、それに対応した許可を与えられ、その書状が残存するにもかかわらず今回の修理工事報告書(以下報告書と略記)には、これより先、昭和四十八年の県指定説明を踏襲し、縁高欄擬宝珠に享保元年(1716)の銘があることから単純に(高木文書に修復とあるのを無視し)実際は享保元年頃『再建が成就したものと考えられる』と独善な決定とした為、当家文書は無残にも虚仮にされてしまった。

 勿論この「元禄再建」とする決定は、当時の知識人や、練達の士によって決められたもので、正に文字通り「上手の手から水が漏れる」こととなったが、別段新築・修理どちらであろうと自分直接に痛痒を感じるものではなく、余りにも低俗な次元の話なので問題にする気にもならなかったが、このような単純な入口のみの議論では、実質的な中味は那辺にあるかわからず、『我七十の半ばにして心の欲する所に従えども矩をこえず』の悶々たる心境の今日この頃である。

     ◆ 落縁から二重縁へ ◆

 私は生来、自他共に認める旋毛(つむじ)曲りであるので、不得要領に対しては安易に妥協しない性格の所有者である。そこで微意の存するところ、あくまで再建ではなく先祖の文書を信じて絶対に「修理であること」を結論の基礎となる命題として、修理前の縁の状態と修理後のそれとを考察すると、先ず旧来の側柱から同柱までの機構、外陣(間口方向)は高木図に示す、中の間4間+脇間(2間半×2)=9間とする本建の寸法は、当時の幕府法度によって、動いていないというよりも、権として弄る事は出来なかったのである。そこで増建(一・五間)の計画については、入側の外に存在した旧来の木口張りの落縁を一旦除き、出幅一・五間の広縁を三方に廻らした上で落縁を復活させた二重縁とし、これにより、桁行の合計は本建の9間+広縁(1.5間×2)=12間となって、「旧来の桁行(十間半)に一・五間継足して十二間に仕りたい」とする当家の修復願文書と一致するのである。

 註 報告書には卑劣にも自己の過誤を正当化するため桁行寸法を
    十三・二間であると明記している。

 そこで元禄修理では、旧来落縁のみであったものが、本山なみの二重縁となったことにより、享保元年に何方様かが擬宝珠を寄進されたものと考えられるが、それを刹那的に新築説を肯定した上で、「臭いものには蓋をしろ」との我執により必然的に修復名義の高木文書が邪魔となり、「あれは虚偽の文書」とするが、このような愚計では素木の文化財建造物にペンキを塗りたくる行為に他ならず、スペシャリストと、我々専門職プロフェッショナルとの隔て心を、まざまざと感得した。

     ◆ 元禄修理以前の落縁 ◆

 元禄修理以前の間口寸法は、高木文書に「桁行十間半」とあり、この数字から、修復以前〜現在に至るも維持されている本建の九間を差引いた一・五間を二分した大目(約五尺)が、側柱から外方に真宗寺院特有の軒支柱(この柱真々の桁行が十間半となっていた)として左右に存在し、従って落縁の出巾は五尺弱の木口張りとなり、その上の天井も同じ木口張りの水平天井ではなかったか?その天井の名残りは現本堂にも見られる。
   
     ◆ 高木に対する論難 ◆

 以上、私の論述は通論の範疇に属するものと考えられるが、これに対して当該報告書の執筆者は、何を血迷ったものか、桁行寸法を一間以上も捏造してまで自己の正当さを一廉殊勝らしく表明し、その可逆な手段は当家先祖を土足で踏みにじって自己の身の丈に合わない論難とし、金台寺、弘誓寺両本堂共に高木は虚偽の申請をしたと、後々の収拾も考えず断定し、うつろに響く幻想的な生煮えの公表とした。

 そもそも知性とは熟考の結果、一旦立ち止って自己の間違いに気付くのが知性であって、それでも正しいと自負するのは俗世間より高踏な知性ではない。それは特権社会に浸りきって知識を得、(これについて彼等の職能を決して否定するものではない)がその不勉強な結果によって生じる途方もない、意外な方針で我々の分野にまで土足で立ち入るが如き望まぬ論難は、正しい意図のない浅はかな罵声にしか受け取れない。

 それらを踏まえた上で、報告書の執筆者による懸案事項、生涯忘却できない煮え湯を呑まされた一件も含めて、『元禄再建』が当時に於いて、果たして成し得たか否か、いくつかの問題点を挙げて、真偽を剔抉し、その姑息な手段による矛盾を払拭し、後進の諸兄に公益を担保できるよう念じ、真実を顕在してその研究の一助としたい。

     ◆ 修復説を肯定する拠りどころ ◆

 1、 幕府による建築制限令

 寛文八年(1668)幕府老中奉書によって、以後の新築に於ける梁間の寸法を、『何によらず京間の三間を限る』という極めて窮屈な法度(禁令)が公布された。ここに我々が俗にいうところの「三間梁制限」は余程峻厳であったらしく、その後、貞享三年(1686)の大工頭覚書に続く、元禄五年(1692)の大工組中定書にまで趣旨を徹底すべく、その都度組頭高木は組下の大工に対して法令の遵守を誓約させている。

 このような渦中にあって二年後の元禄七年、梁行十一間半の本堂修復願に対して、中井役所は時代に即実した方針により解体は不可とするが、建乍ら(非解体)の修復は認める旨の許可を与えられた。以上の歴然たる経緯があるにもかかわらず、「高木がこのとき申請した願書は虚偽である」と、幕府法度まで尊大に否定した報告書の記述は荒唐無稽以外に適切な文句は見付からず、三百年も経過した現在当家の先祖を懐疑的に愚弄した上、鹿爪らしく再建・非再建について問題にする事自体、不毛の論理である。

 2、 妻飾りと柱頂の意匠

 これについても前述の法度に関連あるもので、このとき幕府の定めた屋根の形状は、(新築に限り)『小棟造りたるべきこと』とあり、つまり寄棟である。これに対して金台寺のそれは入母屋造り二重虹梁の妻飾りとして存在する現実を勘案すると、報告書に示すような元禄再建ではなく、修理であればこそ、この意匠が容認されたものと、大局的に判断すべきではなかろうか。

 また報告書には、重文安土浄厳院本堂妻飾り(元禄八年〜十二年、大改造)の写真を掲載して「双方共に高木による同時期の作」と説明するが、高木作は正解であっても、更に重要な事は「両本堂共に修理なればこそ、このとき成し得た証左」といえるものである。

 一方、金台寺柱頂の意匠について、同寛文期の法度では『舟肘木造りたるべし』(浄土系寺院の原点)と定めており、特別に内陣来迎柱頂のみ、大斗、枠肘木、小斗、絵様肘木を辛うじて認める厳しい制限であった。ところが、現在みられる内陣廻りは二手先、余間は平三つ斗、外陣廻りに至っては挿肘木式出組となっている現状は、これらの制限が稍々弛緩の傾向となった中期頃以降のなせる技と考えて大過はない。

 註 次項円柱使用の時期と関連あり、

 3、 角柱から円柱へ

 一般寺院では主として来迎柱を除き角柱が使用されているが、当本堂に見られる円柱が使用された時期について、『近世の社寺建築、昭和六十一年、県教委山岸氏』(三十七頁)には
 「本願寺の定めた規制によれば、寛文八年(1668)には使用できなかった円柱は、正徳三年(1713)には子細(わけ)あって、本寺(本山)に願い出て許可されれば用いる事ができたようで、この頃以降より丸柱が普及し、(広くゆきわたり)真宗本堂の変化の画期(新しいことを拓く)となった」とある。これに対して報告書では『元禄再建』とあるのをみると、本山の許可制度開始よりも十九年以前に、既に円柱が使用されていたことになり、池野氏説は大きな矛盾を生じることとなり、この批評(元禄再建説)は額面通りには受け取れない。

     ◆ 没却された高木文書 ◆

 前述の角柱から円柱に切り替え時の契約書状と自分勝手に自負している文書、即ち元禄七年より五十四年後の寛延元年(1748)、本堂を一旦解体の上、土居葺までとする契約で工事に着手、一時中断があったものの、改めて宝暦四年(1754)四月完成とする再契約が締結した『一札』があり、それは金台寺協力寺院十ケ寺連印の確かなものであり、写しではない。内容については寺院より高木宛のものであるので仕事の詳細はなく、主として契約金額、完成期日を強調し、「御坊の御堂」とする記述は当寺院以外他にない。そこで推測の域を脱しないが、(元禄申請では、解体修理を却下された成り行きもあって)このとき、角柱から円柱に改められ、柱頂の意匠も一連の仕事と考えられる。これについて県では折角の一札を虚仮にしているが、一方視点を変え報告書の宝暦期の工事進捗と対比すると、「一札」の契約条件(同四年四月完了)に呼応するかの如く、翌年から御障子側通りより後方の彩色が始められたとあり、また同八年には外陣天井を張ったとあるのをみると、工事の流れとしては契約書通りの順調な進捗と考えられるが、「こんなもの関係ない」と一蹴された。

 その上で当初の修理願まで非情にも『虚偽』と決めつけ、一体何を根拠に物事を決定しようと考えているのか、この尚古思想をバカにした手段は、やがて『小を軽視するものは大を失う』ことになるであろう。

 4、 一間(けん)という基準寸法について

 前項「1」で述べたように、当時の一間といえば幕府が定めた「京間の六尺五寸」である。中世では七尺という建物も存在したようで、それについては各地の修理報告書に散見されるが、これが慶長期(元年は1596)に造営された江戸城諸建物の柱間は六尺五寸が圧倒的に多く、また正保元年(1644)頃に書かれた東寺五重塔、寛永重建高木絵図にも、「塔の高さを一旦は間(けん)で表示した上で、但し尺に直して云々」とあるのを計算すると、これまた六尺五寸であり、のち寛文八年の三間梁制限令公布に際しても、幕府はこの寸法を踏襲している。

 一方「当本堂の一間は如何程か」について報告書の実測図を参考に考察すると、外陣桁行の中の間寸法は、27.36尺、同脇の間は17.20尺とあり、これが高木絵図では、中の間が四間、脇の間は二間半と記入されていることにより、それぞれを一間に直すと、中の間は6.84尺、同脇間は6.88尺となる。
 但しここでは4分の誤差があるものの、外陣脇の間17.20尺÷2=8.60尺を一小間とする柱間が外陣四周の内で十四個所あることにより、当本堂の基準の一間は中世から近世への過渡期寸法を彷彿させる6.88尺と考えられ、これを幕府がのちに定めた6.50尺との寸法差を勘案するとき、我田引水ではなくとも、曲がりなりに大工組頭の肩書を有し、組下大工に範を垂れるべき立場の先祖が幕府禁令を破った寸法で元禄期に再建したとは考えられず、あくまで公儀出先機関中井役所に『修復』で申請したもので、以上の論拠によって私は『元禄再建に非ず』と、声を大にして県の決定に抗うものである。

 因みに報告書では、『願書(高木が申請した)に記された拡張後の桁行寸法は十三間で、これは現本堂の側柱真々寸法を、一間六尺二寸と仮定すれば十三・二間となり、ほぼ現本堂に一致する』等と胡散臭い論述とするが、正しくは桁行十二間であり、一・二間の寸法誤認を繕う為の窮余の一策として、短絡した中途半端な寸法で発表したものである。

 5、 工事期間について

 報告書一頁及び三十八頁には『元禄七年(1694)本堂修復(実際は新築)を願い出て許可され、すぐ工事に着手、元禄八年には順調に進捗した。(その内訳は)元禄八年には屋根は土居葺まで施工し、造作は床を張り、側廻りに建具を建て込んだ。尚、瓦葺工事は元禄十六年(1703)に瓦を製作、宝永二年(1705)葺工事が完了した。』
 以上の如く、工事が緒についた当初の進捗状況について、もっともらしく真顔で説明するが、その冒頭に本堂修復と記述してはいるが悪辣にも『実際は新築』を画策したとする不実記載とし、あたかも当家先祖が公文書の偽造行使をしたかの如き表現で謂われなく中傷誹謗し、その愚挙により自らが招く事態の収拾不能に陥ることについては愚昧にも一切関知しょうとはせず、それでも高木が京都(公儀出先機関)、大工頭中井家を欺瞞した事の証拠となる他寺の引例として、

「当時、高木が関わった工事において、修理と称して新築する例は、弘誓寺本堂にもあったことから、修復とするこの文書(金台寺本堂の修理願)は、実際は新築を目論むものであった」(同報告書三十八頁)
と、事実無根を公刊に発表し、年甲斐もなく、分別の不足した性悪な暴論とした。
 このような鳥滸がましい不毛の論理、即ち大型の新築本堂が僅か一年余りで野地降りした(土居葺を終えた)珍説は、唯々驚愕に堪えないところである。それについて、私なりに間尺のあわない記述に対して疑義を述べてみたい。
 (イ) 高木は土居葺の終った元禄八年、当分瓦を葺かない、(葺けない)状態で、一時停滞を余儀なくされる事由について、瓦製作元とも打合わせの上で早くから予知していた筈であり、それ故に土居葺の葺足寸法を特別に短くして、雨漏りに対処している。(結果としては十年の空白を生じた)

 そこで新築を前提に考えた場合、誰しも屋根工事完了頃から逆算し、本堂建方を少し遅らせ、空白時間の短縮を考慮する筈であるが、それでも元禄八年より瓦葺完了の宝永二年に至る十ケ年間を、拠ろなく土居葺のみで風雨を凌いだ事実は、このときすでに、旧来の既存の本堂であった「証し」である。
 (ロ) 一方造作について、床を張ったとあるが、これは畳床であるので多少の雨漏りは許されたとしても、「建具を建込んだ」については頂けない。それは新築による建具の建込みとなると、土居葺のみの状態では、必ずしも雨に対して完全無欠と断じられず、矢張り修理に伴う古建具であろう。第一、新品の建具を瓦を葺かない状態(荷重のかからぬ)以前に建込むような間の抜けた大工はこの世に存在しない。以上を押し並べて、私はここでも修理説をかまびすしく提唱するものである。

 6、 五人組による衆目の渦中にあって

 貞享三年(1686)中井家は、年々大工数の増加に伴い、広域に分布する旧来の一郡一組の組織では、幕命を衆知徹底させる対応も難く、五分割することとした。のち元禄期(元年は1688)の景気高揚と相俟って、仕事も増えると、大工組に所属しない「もぐり大工」も無視できない人数となり、中井家では正規の組大工を保護する目的で鋭意取締を強化した。それが為、元禄五年(1692)の「大工組中定め」では、『違反した大工は親、兄弟たりとも見付け次第に此方(大工頭)に報告せよ』というものであった。

 このような浅ましい世情にあって元禄七年の当本堂修理に際し、報告書には「高木は、実際は新築を目論み乍ら、名目は故意に修復とし、つまり虚偽の申請をして、ぬけぬけと許可を得たが、事実は新築であった」と、謂われなく、不条理で、慷慨に堪えない、出鱈目な記述とするが、世間の風潮は以上のように虎視眈眈と手薬煉引いて事あれかしと待つ、衆人環視の状況下に於いて、果たして幕府法度を破る無謀な違反造営を、堂々となし得たか否か、それは仕事場の片隅で内密に犬小屋を造る事とは訳が違い、立ち所に人口に膾炙され、告訴される事は必定であり、この筆罰は徹頭徹尾当家先祖を愚弄した傲然たる愚計である。

 7、 幕府役人による検査

 幕府は建築の許可に際し、『品により見分の者を差し遣わし申し候事』とする、つまり敷延して述べると、「建物の種別によっては、検査の役人を派遣する」という条件を付けたが、これは寛文期の制限に抵触しないよう示唆したものであった。事実、先祖の覚書には、奉行所の与力二名に加え、中井家の頭棟梁一名が同行され、「見分相済み候」とある。
 斯くの如き制度にもかかわらず報告書では味噌糞に非難するが、彼等がいうように、修理名目で申請した本堂が、検査によって新築であることが露見した場合、その後の処置は、多筆に及ばずとも諸賢のご推察に難くない。それは高木を貶めんと画策する歪(いびつ)な者同志による陰湿な凭れ合いに他ならない。それについて例えば現在各都府県には、中井役所に匹敵する機関(建築確認申請)が点在する。ここで、同じ立場の内輪の職員(報告書執筆者)によって「中井家は高木が偽った申請書にまんまと騙され、安易に許可を与えている」と、薮蛇な誇張するのなら、それは現在前述の同種の機関に於いて「不正な書類と知り乍ら「お目こぼし」をしてくれるのかと、勘繰りしたくもなるというものであり、一方の奈文研による「高木調査報告」にも「上納金が動いたのでは」と明記しているのをみると、御意に従えば唯唯として承諾するのか、と余計な事まで考えてしまう。

     ◆ 特筆 何処が虚偽なのか ◆

 先祖伝来の極秘伝の序文に、「先知後行」と題して、『即ち理を究むるにあらずんば、実践躬行すること能わず』との戒飭がある。これを布延して述べると、先ず物事の道理を知り、(究明し)その上でなければ、これを実践することは不能(できない)とあり、末葉に対して知悉(究悉)の育成を求めている。

 この先祖の家訓を頂門の一針とし乍ら、家業を継承してきた私にすれば、今回の奈文研及び県教委の職員に煮え湯を呑まされた痛恨の一件は、虚偽申請とする冤罪紛いの嫌疑をかけ、如何にも事実であるかの如く、公刊された素因についてこれを究明するものである。

 この両者による決定的な思い違いは、当該本堂寸法の短絡した初歩的判断の過誤であり、その的の外れた間の抜けた部分について問題提起してみたい。

   【 僻 説 の 分 析 】
  イ
 八幡町史記載寸法 (S、15年) 出典 高木文書
    梁行  11. 5間
    桁行  12、0間
   (イ)の桁行12.0間は、1.5間の拡張分を含む現存本堂の正しい寸法である
  ロ
 奈文研の調査による寸法 (S.62年)
    梁行  12.0間
    桁行  11.5間
ここで最も注目すべきは(ロ)の桁行寸法で、(イ)の12.0間と同じ寸法であるべき筈なのに、11.5間と変更し、つまり(イ)の梁行寸法を誤記し、これが拡張前(修理以前)の寸法であると主張する。その上で(11.5間+1.5間=13.0間)これを拡張後の寸法と誤認した為、桁行寸法は彼等の私意によって1.0間大きくなり、最後までこれを引き摺ることとなり、とどのつまりは辻褄合わせの手段として高木の所為とし、挙げ句の果ては『虚偽である』と、怪しからぬ結論とした。
  ハ
 一方(S.62年)の調査にあたり、桁行を測ると81.18尺あり、これを『1.0間を6.2尺として(勝手に決めて)計算すると、13.2間になる』註(実際は12間)と、独善的専断とするが、これは奈文研のみで通用する勝手な数字遊びであって、偶さか6.2尺で計算したらこの偶成の数字になっただけのことである。
  ニ
 以上の如く(ロ)では12間なのに、13間であると決めつけ、一方(ハ)の測定では13.2間となったので、略々同一寸法であると広言し、その上で高木による『1.5間継ぎ足したい』の文言は名目に過ぎず、つまり0.2間の誤差はあるものの、双方の桁行寸法は同一であるので拡張の計画は当初からなかったものと決めつけ、名目だけの拡張と申請して充分に修理で通用する。(でも実際は新築を目論むものであった。)とするもので、「つまり虚偽の申請をしたというものである。」と途轍もない大誤算をした。
  ホ
 ところが、「人を呪わば穴二つ」これは子供でも即座に見破る迷論である。理由は簡単、「拡張は始めから無かった」と言い乍ら(ロ)ではすでに(11.5間+1.5間=13.0間)と、拡張分を加算済とし、その上で拡張後の桁行寸法と現在の桁行寸法が同じであると主張するのは、至極当り前の愚論である。
  ヘ
 以上の言い掛かりについて反証をすると、彼等がいう『1.5間の拡張は名目であり、実際は無かった』と疑うのならそれは修理以前、つまり拡張分を加算する前の桁行寸法(10.5間)と現在の寸法(12.0間)とが同数値であったときに於いてのみ、高木は欺瞞の申請をしたと断定できるのである。しかし事実は依然として1.5間の寸法差があることにより、「拡張は当初よりなかった」と誇張する彼等の暴論は、この証明によって、もろくも崩れ去るのである。
  ト
 それにも況して、12間が正しいにもかかわらず、13間とか、13.2間とか、1.0間以上も錯誤し、これが瑣末な数字ならいざ知らず、素人でもあるまいにこれ程の誤差は目測でも長い工事中に気付く筈であり、このような体たらくでは、とても高木を論う資格はない。
  
 尚、古文書解読、他について、市教委から九名の方が調査を担当され、問題の桁行寸法については、(10.5間+1.5間=12.0間)と活字で明記されているので、当時の古文書が難解であった等との言い逃れは通用しない。矢張り高木を貶める浅慮な計略であった。?

 「事物の一端をみて、その大勢を識る」の喩えがあるが、彼等はその初歩的、かつ軽率な失態、(前述の説明)に対して、一切頓着せず、一体何の為の調査報告なのか不明であり、これでは批判に対して批判を必要とする不測の事態となり、とても納得できる大義(人としての最も大切な筋道、道理)の片鱗すら見い出すことは困難である。
   
 それでも凡人なるが故の、誰しもが具有する迂闊の範疇ならば、ある程度理解もできようが、これらの訂正を要求するも、一顧だにしないのみか、唐突に『高木は虚偽の申請をした』の許し難い暴論は、如何なる料簡によるものか。それは官人といえども、この無法は普遍的に、社会通念にあてはめてみても、適合するものではない。

 註  この非再建論は、もう少し続くのですが、長文となりますのでまた
    来春お目にかかります。


PN   淡海墨壷