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2005年4月5日
高木敏雄HomePage

追録 本堂の解体修理 (第二期)

宮大工 十四代 高木敏雄
    ◆ 解体修理の促進と約定書 ◆

 本願寺八幡別院本堂元禄修覆(第一期)の慶讃法要(元禄13年9月)より、52年の歳月を経た宝暦2年(1752)7月、当寺院と取り交わした解体修理に関する『一札』が現存する。これについて県教委では、又もや屁理屈を捏ね、折角の好意を悪し様に書かれた所業に含むところあり、尚々食指が動く意味深長の文書の内実を詳述すると、

 御坊(当八幡別院)普請について、御堂を「かり立て」(建物を一旦解体し、朽損部材の取替・繕いを行い、再び組立て、土居葺まで)とする約定は、前回の元禄修覆では幕府の規制(梁行三間より大なる新築は不可)により、解体修理すら許可されず、その為に既存の朽損柱の耐用が差し迫り、終に極限の緊急事態となった改築(解体修理)をこの積帳(見積契約書)によって、四年以前(寛延元年1748に充当)に契約を交したが中断したので今回改めて、契約金額は相対(あいたい・双方合意)とし、工事は当節(この書状の年月、宝暦2年7月)より、同4年4月までに「かり立て・土居葺」の条件とした約定一札があり、これについて彼我の見解の相違を論究するものである。

     ◆ 天井見積書と当時の進捗状況 ◆

 さて、前述の虚仮にされた一札を中心に、寛延元年早速の手筈として柱の取替に着手したと考えられる解体修理の工程を勘案すると、先ず「申年4月」の天井見積書の干支自体は、寛延元年を嚆矢とし、木工事が大略終った宝暦9年までの申年は、同2年(1752)以外存在せず一方、視点を転じると、この天井見積を必要とする思惑は柱の取替が終りに近い証しでもあり、愚考するに、寛延元年初回の契約に基づく解体以来、通算5ヶ年を費して骨組など、本堂全体を構造的に支える『躯体工事』が終了したものと考えられる。続いて天井、他の内造作が始められたのは、前述の「一札」にある契約条項、即ち同4年4月限りで土居葺が終った頃より天井を中心として順調に進捗し、その結果修理報告書にある通り同5年9月、御障子側より後方の天井釣木の墨書、同8年の外陣天井板裏面の墨書が示す如く、それぞれの天井造作(木工事のみ)が終った事が判明する。
 註 柱の差し替えについて、「申4月」の天井見積に、弥頼・広縁・
   外陣の各天井、
並に外陣四本柱・入側柱(十六本)共と明記され
   但し、何れも出組の柱穴 あり
と但し書きしているのをみると、
   柱の差し替えの時期は寛延元年以降の仕事であっても、のち宝暦
   2年の天井見積では、例えば「出組一組につき」という単価表示の
   書き振りは、(1)内陣・余間の柱及び柱頂 の組物に次いで、
   (2)前述の外陣・その他の柱及び柱頂の組物等と、その都度逐一
   分割した見積であったことが分かる。

 尚、『京都府の近世社寺建築』によると、丸柱の使用は正徳3年(1713)以降、本寺の許可を得て普及し始めたとあり、県教委が頑なに主張する元禄7年本堂新築説は、丸柱使用の認可よりも19年以前の事であるので論理的に大きな矛盾を生じ、口を開けば異説を唱える他者の掣肘を断固退けるものである。

     ◆ 臭いものに蓋をした県教委 ◆

 前述の如く生殺与奪の権を握っている県教委は、真実の修覆文書を完膚なきまでに否定し、然(さ)りとて正当な反証を提示するでもなく、唯々匹夫の如き嘲弄は、私にすれば掛け替えのない先祖の貴重な文書であり、これに対して県教委では自己の妄想を棚に上げ、『これは当本堂に関係ない』と、情け容赦なく言下に否定するが、その真実を捩じ曲げた理由は、呆(あき)れが礼に来る位に誠に短絡的で、以前(S48年)に意図的な作為によって『元禄7年新築』という希代の胡麻胴乱(ごまかし)をした以上、僅か58年後に『解体などあり得るか』という御託は、自己の誤断の繕いに汲汲とし、加えて『寺院名のない「御坊」や「御堂」は何処にでもある』という恣意的な愚論は、旧時代の幕府成文律たる基本的概念すら知らず、また知ろうとはせず、浅薄な既成概念でひと括(くく)りにして理不尽な難癖をつけるが、この一札に連署された十ケ寺は何れも当別院の協力寺院でもあり、これらを考慮すると当該約定書は今回の改築に関係無いのでなく、関係あるのである。

 尚、参考までに述べると年号の記載はないが、9月21日、本山西本願寺坊官・下間氏より、『天井造作について御為よろしき様に』と高木に宛てた依頼状は、前述の天井見積書提出より5ケ月後と考えて大過はなく、断定できないがこの下間氏は宗祖聖人没後、知恩院境内(黒門脇)に「六角堂」として初建された「御影堂鍵取衆」の直系または傍系の人と考えられ、高木日向、但馬、越中等と国名の名乗りを認可下さったのも坊官下間氏である。

 『明(事理を弁別する知力)は、秋毫(細かい毛)の末を察するに足れども睫(まつ毛)を見ず』目先だけの御都合主義では、大所高所からの大局観は迚(とて)も覚束なく、その捕まえどころは原点(元禄7年)に立ち戻って誠に訝(いぶか)しく、如何にも事理に暗い判断規準自体が欠乏しているといわねばならない。

     ◆ 因循姑息の伝承と高木非難 ◆

 平成9年より着手された本願寺八幡別院本堂の修理が同13年3月に完成し、報告書(県教委発行・監修・池野保氏)が発行された。これの執筆に際して池野氏は先祖の人としての営為や、大工組頭としての来し方を他者の妄評を覗(のぞ)き見した生半可な知識が無碍(障害なく)に高じた「御座なり」により、当本堂修覆に関する毒筆は言うまでもなく、このとき修理に着手していない隣郡の弘誓寺本堂建築願まで言及し、その軽率の結果、如何なる意趣(考え)によるものか、無辜な先祖の来し方に対して、恰も「卑劣な遣り方である」と根拠のない非難をし、自己の肩書や職権に悪乗りした、本質に至らない皮相的な上滑りは、収拾不可能な誹謗中傷となり、これを公刊物に記載して世間に喧伝した。

 以上の如き今回の紛擾は、彼等の衒学趣味を基いとする管窺(見識の狭小)は言うまでもなく、これより28年以前の調査で元禄修覆の高木文書を懐疑とし、賢しらによる新築と決めつけたことに端を発した確執に於いて当時の文化財保護課建造物係の要人自身が、旧時代の幕府規制に無知であったことに起因する不肖な因循が、現在に至るも尚、実(まこと)しやかに伝承され、その悪習は事ここに至り池野氏自身も定見を標榜することなく、唯唯諾諾として、只管歪曲された他者(細見・山岸両氏)の説に付和雷同したもので、流動してゆく趨勢の一端すら弁えず、闇雲に先祖の所業を味噌糞に書いた愚鈍さに対する私の反証は、日々の忸怩を忘れない為の天の配剤であると自省せねばならない。

     ◆ 報告書に観(み)る首鼠両端 ◆

 さて、報告書の内実を勘案すると、元禄7年、本堂新築・修覆の命題に対する葛藤は、党同伐異(どちらに加勢するか)の心象、即ちその事物の観察によって受理した結果の自己印象は、大抵が不善をなし、黒白の弁別自体が理非に拘らず、群集心理によって大勢(たいせい)派に流動し、(つまり、衝動的に自己の主観を無視してまで新築説に左袒する)結果として反対派(修覆説)の高木を徹頭徹尾排撃するが、その心中には紛れもなく首鼠両端による選択の片鱗が報告書に垣間見えている。

 即ち、池野氏説にみられる洞ケ峠の日和見主義の信念なき空疎な愚考は、同報告書3頁に迷妄の心情を吐露し、

 『高木文書に元禄7年本堂修復
(原文は覆)の記があるので、元禄頃より本堂の修理または再建の計画が立てられ、実際は再建が成就した』とする不得要領の捩れ思考は、黒白を弁ずるまでもなく、さながら飲み屋での戯れに過ぎない話題を醸し出し、『新築か修理か、はっきりしろ』と大向うから罵声が飛び交い、「あちら立てればこちら立たず」と、二つの命題が共に相容れない中途半端な書き振りは、如何にも傑作な噴飯の極みといわねばならない。

     ◆ 愚にも付かぬ空想の披瀝 ◆

 『漿を請いて酒を得る』(希求した以上の文献に遭遇した)にも拘らず先入観に惑溺し、調査機能の低下による事実の誤認、傲慢、正鵠を失った洞察に乏しい場当り的手抜きの高木非難は、「モノツクリ」を自負する吾人にすれば「胡乱」(乱雑・不誠実)であり、其故に論述の整合を欠いた空想と虚妄がもたらした先祖の扱き下ろしは、逆に自分の愚かさを巷間に曝(さら)け出すこととなった。そこで本項では高木指弾の裁量の拡大を目的とした彼等の虚飾と空論について穿ってみたい。

   (1) 報告書 1頁、池野氏説

 本堂の建立については、元禄7年(1694)頃から再建計画が立てられ、順調に工事着手に至ったが、元禄8年頃には屋根は土居葺まで施行し、造作は床を張り、側廻り(内外部境)に建具を建て込んだところで一旦工事を中止したと考えられる。

   (2) 報告書 3頁、同氏説

 高木文書に元禄7年本堂修覆の記があるので、元禄頃より本堂の修理または再建の計画が立てられ、実際には享保元年頃再建が成就したものと考えられる。

   (3) 報告書 37頁〜38頁、同氏説

      (本堂再建計画から工事着手まで)

 寺蔵の八幡別院に関する高木文書には、「江州八幡西御門跡御堂修覆」がある。これは本堂修理願書の写しで、内容は本堂の柱が「所々」腐朽したのでこれを取替え、さらに桁行方向に本堂を一間半拡張したいとするものである。しかし、この願書については既に
問題点が指摘され、『近江蒲生郡大工組頭高木作右衛門の系譜とその作事』によると、(ア)現本堂に桁行拡張の痕跡がないこと。(イ)近世に於いて基本的に左右対称の浄土真宗本堂の桁行に一間半拡張する事は中途半端な寸法となり考えにくいこと。(ウ)願書に記された拡張後の桁行寸法は13間で、これは現本堂の側柱真々寸法を一間6尺2寸と仮定すれば13・2間となり、ほぼ現本堂に一致すること。(エ)当時、同様に高木の拘った工事において修理と称して新築する例は、弘誓寺本堂にもあったこと。以上のことから修覆とするこの願書は実際は新築を目論むものであった可能性が高いとしている。

 ところで今回の修理(平成修理)で、人足数や寄進等を野地板に転用したものが発見され、「元禄8年正月日・人足覚」によると、元禄8年当時に本堂の造営を行なっていたことがわかり、前述の「江州八幡西御門跡御堂修覆」をも考慮すると、元禄7年に本堂修覆
(実際は新築)を願い出て許可され、すぐ工事に着手、元禄8年には順調に進捗していたことがわかる。

 なお、この時の工事は、軸部から小屋組まで組上げ、屋根は土居葺を終え、内部は床を張り、側廻り(内外部境) に建具を入れた程度で、濡縁もないまま工事は一旦休止したと考えられる。(報告書原文のまま)

     ◆ 奇を衒う虎口の中傷 ◆

 『一斑(豹の毛皮のまだらの部分)だけを見て全豹を評す』物事の一部分だけを見て、単純に全体を推量・判断する軽卒な言動は、『修覆』と明記された高木文書を歯牙にもかけず、これを蹂躙し、剩え幕府法度(当時では新築不可とする規制)まで私意を以って法の正理を曲げる傲慢な奇策を弄し、尚かつ恬然として新築説を大言する度し難い傍若無人は『矩を踰(こ)えず』(規律や道徳を踏みはずさない)をモットーに愚直に生きる私にすれば戦慄さえ覚える。

 これらを門外漢の考えではなく、「モノツクリ屋」として一途に大人の知識で考察すると、そもそも桁行24・4米、梁間27米余の大型本堂が池野氏説によると、元禄7年着手、翌8年中で切刻み・組立て・上棟を経て土居葺は勿論、造作は床を張り、建具まで建込んだとする驚異的な進捗は、天狗さんにでも依頼せぬ限り不可であり、専門家でない人でも「修理ならいざ知らず、新築では迚も無理」と即座に理解できる物笑いの愚考は、いくら冗談にも程がある。
 
 更に報告書は恰も楽屋から火を出すように、「元禄8年正月、人足覚」が発見されたと説明するが、この発見物は修覆なればこそ着工と同時に(古瓦下ろし等の)雑用の人足さんを必要とした証しであり、これが新築であったとすると、着工より僅か一年後に大勢の人々を必要とせず、修覆ならばこそ人足覚の辻褄が合うのである。

 それでも執拗に邪曲による新築説を標榜すべく、「これ見よがし」に先祖の面目丸潰しを画策し、元禄7年本堂修覆の文言に続いて、糞丁寧に括弧をつけた
(実際は新築)と、わざわざ付記し、最も陰湿な表現手法とするが、この無益な筆誅こそ過誤の範囲を逸脱した悪辣極まる窮余の一策と言い得て尚余りあるもので、先祖もさぞや、あの世とやらのどこかで苦笑しているであろう。

     ◆ 反論と旗幟の鮮明 ◆

 今般不幸にして我が身に遭遇した筆舌に尽し難い不肖(運の悪さ)とは、その事を成す力量の無い連中によって当家文書を調査され、その結果は事実と小説的虚構とを綯い交ぜにした虚誕の内容が独り歩きした官の刊行物となり、これを信じて読まれた人々の好奇心を煽動する態様は、単なる憶測による抽象的可能性に過ぎない懐疑心と、尊大を剥き出しにした蛇足の弊害を明らかにするものである。

 私はこれらの納得できない部分の訂正を要求したが、県の要人は「現在は何を書いても自由である」と、お上意識が色濃く残る暴言があったが、元来『表現の自由とは民主主義体制の存立と、健全な発達のために必須の、憲法上最も尊重されなければならない権利』(第二十一条・一項)に明示されていること位は如何に法律音痴の私でも新聞等で生意気に承知しているつもりである。

 それ故に各自による見解の相違以前の問題として、当該本堂が元禄修覆であれ、新築であれ、私が痛痒を感じるものではないが、問題は彼等の不見識による旧時代の法令を皆目無知の状態で厚顔に大言して先祖を論(あげつら)い、頑迷固陋、一つ覚えの如く『高木はわざと名目を変更し、つまり虚偽の申請をした』という暴挙は如何とも許し難く、それは表現の自由以上に重いのが第十三条の『すべての国民は個人として尊重されており、表現内容が真実でないとき、公益を図る目的でないことが明らかなとき』に適用される法の概念として定着しているのである。

 このように、人間の尊厳を無視した自分勝手な甘えは、公人たりとも許されるものではなく、況(ま)して前述の如き県の要人の思考は、言い換えれば下らぬことを書いた上に、尚かつ高木の尊厳を無視してまで一方的に痛みを押しつけ、その上で身勝手に表現の自由を呪文の如く唱え、尚々免責の材料にすることは、重ねて傷口に塩を塗られるが如き耐え難い屈辱である。

 名ありて実なしの看板だけの威勢を張って、吾人の未知の領域に土足で踏み込んでみても、所詮は幕府法度の専門技術的実質が伴わず、理念なき独り善がりの度が過ぎた人権の無視は却って文化の剥奪に繋がると愚考するのは、私の杞憂であれば誠に幸いである。

PN   淡海墨壷