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2002年5月8日
高木敏雄HomePage

我が先祖を語る

宮大工 十四代 高木敏雄

 室町時代以来、江州蒲生の郡、八幡の片隅で一介の溝板修理大工として星霜を重ねること四半世紀半、如何なる宿命によるものか連綿と累加して現代に至った末葉として僭越乍ら「先祖を語る」という大言壮語な拙文を貴重な時間を割愛してご一読下さることを感謝します。

◆ 序にかえて ◆

 名もなく、清貧を甘受しつつも、農村育ちの故か、古典的で反面ちょっぴり御きゃんで、それでいて決してお世辞にも美人とはいえない女房の内助の功に援けられ、共に手を携えて一途に先祖の誇りを胸に秘めて平穏裡に現在に至った私が、同職の諸兄に愁訴してご賢察を仰ぎ、ご批判を希うこの立案の趣旨は、この度の晴天の霹靂ともいうべき事態に関してであります。

 それは昨年三月末、近江八幡市に存在する先祖作の本願寺八幡別院本堂(県指定建造物)修理の完了後に刊行された工事報告書に当家にとっては憤懣やるかたない「高木は公儀出先機関たる中井役所に虚偽の建築申請をした」とする根拠のない憶説や、加えて当該本堂の修理報告とは無関係な他寺院本堂(重要文化財、高木作)までも同様の記述とし、これら主観的で片寄った筆致は、現今いくら研究発表の自由であっても、それの許容限度を超越した中傷、誹謗に属するもので、子孫たる私にとっては生涯拭い去る事の不可能な精神的被害を受けた。

 勿論この事実は社会通念上断じて許されるものではなく、存じ寄りの法曹界の先生に相談し、相手方に行き過ぎとならぬよう配慮しつつ県の関係者に再三抗議したが、「安易に他の調査報告書を引用してしまった」という厚顔無恥な返事であった。

 その巧言令色な言い訳の出典とは、これより先奈良文化財研究所(以下奈文研と略記)の職員によって当家の古文書調査をした報告書を意味し、これが基盤となったものである。

 これは国立の機関の調査報告であったためか、軽軽に県の職員が鵜呑みに信用し、傀儡的立場で引用したとする心情は理解できなくもないが、元来、他家の古文書の閲覧の許しを得た上で、それを誇張して自己の意見を書き添える場合は、原稿の時点でその所有者の検閲を受けるのは一般常識であり、それらを故意に怠って推測による尾鰭をつけたもので、とりわけ京都大工頭中井家支配に於ける組下大工の支配制度、建築制限令、建築申請及びその方法等々、多岐にわたる幕府老中法度は、一朝一夕に理解でき得るものではなく、その不十分な調査報告は辛辣、酷評程度の噴飯、失笑で済まされるものではなく、殆どが当家に対する事実と相違した筆誅ともいうべきものとなっている。

 とは申し乍ら、一方観点を変えて、当家の紙屑のような文書でも文化財調査の学術研究の一端に役立つのならとの善意が裏目に出たものであり、安易に貴重な古文書の閲覧を許可した私にも非があったと反省せねばならないが、幸か、不幸か私入院中であったので、長持三棹文の膨大な文書の内、ほんの一部を除く大部分が調査から免れたことは、結果としては仏となった先祖の加護による僥倖であったと考えております。

 以上、前書きが長くなりましたが、当家所有文書を過去四十年にわたって精査研究した「生き字引き」とも自負でき得る私の責任のもてる適正な資料と、前述の奈文研による当家文書報告書とを対比させ、その相違点を究明して訂正し、後進の諸兄の研究の一助としたい。よろしかったらご一読の程を。

◆ 高木姓について ◆

 室町時代の応永三十年(1423)高木姓を有する大工として滋賀県蒲生郡安土町奥石神社社蔵神輿の天井裏銘文に

「安土慈恩寺村 高木金四郎実名直□」

とあり、同氏はのち豊臣秀次による八幡築城にともなって近江八幡に移住し、それが当家の祖高木作右衛門であると蒲生郡志及び近江新報(大正6年9月5日付)は伝えるが、直系か否か定かではないものの、高木一族であることは否定できない。

 これらについて当家の点鬼簿(過去帳)で確認でき得る高木家の濫觴は大永4年生、元和7年没(1524―1621)の初代兵衛で、高木作右衛門と名乗るのは二代目同姓光喜からであり、彼はその父兵衛が慶長8年(1603)80才の高令を理由に幕府公用作事のみ隠居して以来抬頭した。
 奈文研の調査による「高木作右衛門の系譜とその作事」の3頁に江戸初期に高木姓を名乗ったか否か、今回(昭和62年3月)の調査では名乗っていないと明記されているが、二代目作右衛門の足跡の内

1 比牟礼山大島大明神御社、近年退転に付いて島郷之内、
  井上道意奉造立者也

慶長二十年四月十日          

大工 高木作右衛門  

2 奉造立 江州蒲生郡八幡宮鳥居

元和二年十月十日          

御大工 高木作右衛門  

 前者は元和元年(1615)4月、八幡神社の地主神たる境内社、大島神社社殿が荒廃したので地元の井上氏の寄進によって造営されている。(高木稿本)

 後者は同神社馬場の入口に白雲館と対峠して建つ大鳥居(県指定建造物)の棟札に明記され、共に元和元、同二年の造立であり私は江戸初期と理解している。

(八幡町史及び同鳥居修理工事報告書)

◆ 大工座について ◆

 ともあれ高木金四郎や、初代兵衛の活躍した当時代は足利氏の最盛期で、室町幕府の支配下で将軍御大工と称する肩書きの大工もいたが、一方民間でも有能な大工の指導者が在地の為政者に身を寄せてその庇護を受け乍ら、いわば共存共栄、相互扶助の形態で、大社寺を施主(建築主)として仕事を確保していた。

 だが、その工事の施工にあたっては、小さな修理程度のものは血縁組織で事足りるが、大規模な新築工事や、有事の急を要する工事ともなると必然的に集団の力に依存せねばならず、中世の大工にとって社寺の工事を独占するには「大工座」という集団組織を結成せねばならなかった。

 例えば、少し時代は降るが慶長15年(1610)二代目高木作右衛門が、京都大工頭中井大和守に提出した関連書状には、自己を中心とした「我等」といった複数表現や、「傍輩衆」(同じ主家で奉公する仲間)とする書き振りとし、一方所司代板倉伊賀守と、中井大和守とで解決した書状にも大工又太夫に次いで、その子及び当人の兄に加え、妹婿や、甥の名が列記されており、この人々は又太夫を中心とする血縁組織といえるもので前者は指導者と配下の大工、後者は血縁の大工で組織されたグループで、これらの人々は後年「中間」と呼ばれる。
 註 中間であって仲間ではない。

◆ 大工所と大工職 ◆

 大工所とは大工が生業を維持するための持場(出入り先、得意先)を占有できる範囲、つまり縄張りで、大工職(だいくしき)とはこれによって生ずる勢力範囲、営業範囲が権利化したものである。

 したがって前述の大工座の結成によって確保し他所者大工から絶対侵害されない大工所を根拠として営業活動をするときは、大工座の結束は益々隆盛となり、その営業権利(大工職)は株化を招聘し、この匠家の正当さを明確にする最重要文書として、一子相伝の形で子孫に伝承したが、ときには株の如く売買もされたのである。

 註 大工所は江戸中期頃ともなると、「細工場所」と表現されるが、
   その所有権に変りはなく、敢えてこれを侵す者あるときは
   奉行所に訴えが、大抵は謝り状で解決を見たが、
   悪質なものは大工道具を没収された。

◆ 大工職の譲渡 ◆

 室町時代における大工職の譲り状として永正9年(1512)9月、藤原光吉氏より馬場村の大工左衛門に譲られた証文がある。(旧蔵 高木文書)

譲与大工職之事
1、八幡宮に於て
  下八幡宮末社等、同内馬場の鳥居、同馬場村
1、興隆寺惣山の内
  本堂、妙光寺、炎(閻)魔堂、蓮光寺、
1、嶋郷の内
  多賀、宇津呂、市井の各村及び鷹飼上、下村
1、金田荘(庄)の内
  若宮殿、同金剛寺の棟梁古文書No1を支配する権利と、
  同かや堂大工を支配する権利
1、土田の内
  浄覚坊、勝蔵坊、浄心一類
永正九年九月日

藤原光吉(略押)
馬場村 左衛門   
    

◆ 譲状の分節 ◆

 この書状は、このとき藤原光吉氏から直接当家に譲られたものではなく、一旦馬場村の左衛門という大工が入手したもので、その年次は初代兵衛が出生する十余年も以前のことであるが、これ程の重要文書が当家に代々伝来した事実は、後年左衛門氏から副次的に高木に譲られたとみるのが妥当と考えられる。

 とは申し乍ら八幡宮大工職については、同譲状五項目の内第一項により当初左衛門氏がその権利を入手したのは下八幡社の末社と同馬場の鳥居のみである。
 ところが兵衛自筆の「八幡御造工の覚」(八幡神社蔵)によると、弘治2年(1556)上八幡社の宝殿及び下八幡社拝殿の造替を行っており、この二棟の造営以前にその権利を追加入手している筈であるが、その譲り主は前述の藤原氏か、否か、不明である。

 次いで第四項の金田庄の大工職については、同庄内の小字金剛寺村の三建物の棟梁を支配する権利が左衛門氏に譲られているが、慶長15年(1610)7月「永代これを進め申す大工所之事」の表題で地元大工新兵衛氏が左衛門氏に加印を依頼、連署して当家に宛てた文書がある。

 それによると左衛門側は従来より所有する大工所の村落名を挙げ、その他は高木家のものであると、彼我の大工所を明確にした上で「我等に後継ぎの者これなく」との理由で今回「残り分をも譲りたい」とし、そのことによって「その埒明きなされ」と明示しているのでこれによって金田庄内の大工職は全て高木側が掌握することを容認している。

 この文面によって判明することは、これより先永正9年9月左衛門氏が金田庄内で大工所を入手したときは三棟の棟梁を支配する権利だけであった筈なのに、後年高木家はその半分を入手したことによって金田庄は彼我によって二分されていた訳で、相手側はその入手時期を「先祖の代より」と表明し、すでに取得していた高木の分は「往古よりその方の御持分である」と述べている。

 以上の事から年月は不明なるものの、先ず半分を取得し、今回(慶長15年)残り分全部を入手したことになり、このように、徐徐に営業範囲を拡げていった。尚、今回の譲渡について相手は「判料一貫文戴いてかたじけない」と謝辞を述べている。ちなみに銭一貫文は当時で米二石分に充当する。


◆ 大工所をめぐる又太夫の異議 ◆

 慶長16年(1611)地元の大工又太夫は、高木一族の八幡宮大工所を自分が権利を有するが如く主張し、『又太夫手前に御座なく候を、色々理不尽なる儀申しかけ』その上で高木の同輩にまで恨み返しをし、『重ねて意趣つかまつり』遂に又太夫側より提訴したであろう事は察するに難くない。

 その証左として二代目高木作右衛門が10月1日付で「恐れ乍ら申上候返答書の事」【A】と題する答弁書を中井大和守(大工頭中井家初代)に提出している事と、もう一通の請状【B】(慶長16年12月付、中井信濃守宛)の貼紙に「是ハ慶長十六年に板倉伊賀守様、中井大和様にて相済申す(裁決が)ときの請状」とある。

註 【A】【B】共に現在では「旧高木文書」の状態であり、
  谷直樹氏のご厚意により原本の写真を提供して戴いた。
  尚、『……』の部分は、特に難解部分は手を加へ、
  それ以外は成可く原文のままとした。
 この両通の書状を考察すると、当初又太夫はその訴状を京都所司代板倉伊賀守に提出し、板倉氏は訴えの趣旨が大工所に関する案件であるので中井大和守に審理を委ね、中井氏は裁決するについて高木に詳細な内情の答弁書を求めたものと考えられる。

 その答弁書の内容「高木の言い分」を要約すると、

1、 江州八幡宮大工所は代々我等にて仕り来り候(仕切ってきた)とし、
  これについては地下十三ケ村及び同町中(市制以前の旧八幡町)が
  周知の事であり、その上先祖よりの譲状も所持している。
2、この大工所の継承については、徳川政権下天領として町治にあたった
  初代代官以来、代替り毎に大工所の確認(調査)があり、その都度
  『我等に前々の如く仰せ付けなされた』
   として安堵された事を述べている。
3、又太夫による『ととかざる儀』不条理で不届きな主張は
  これ以前にもあり、即ち慶長10年より着任した三代目
  代官権太小三郎のときは『又太夫は悪戯者につき成敗をなされべく』
  であったものを、彼は町中または十三ケ村の者で不憫につき
  『預かりおき申し候』とする大工同輩による温情処分の身であった。

 この返答書提出の年次を知るものとして幸い同書状に、『然ハ今度八幡のつりかね、いなおし申し候ニ付いて』とあるのをみると、この書状は釣鐘再鋳直前に出されたものと考えられ、再鋳は慶長16年1月より始められて翌年には初代兵衛によって鐘楼も完成しているので、この返答書の提出年次は同年10月1日と見做すことができる。

 尚、返答書の末尾に兵衛が同宮の造修営に際して建物名と年月を明記した「造工の覚」は11項目もある中で今回の釣鐘再鋳のみ抽出し、『昔よりの鋳つけにも我等先祖の名、大工兵衛と書付に御座候』と元亀2年(1571)に行なわれた鐘鋳(釣鐘の鋳造)及び鐘堂の造営のみ強調しているのをみると、又太夫の企画は今回の鐘楼造営に意図があったのかもしれない。
◆ 又太夫の処分と請状 ◆

 中井大和守による裁決の結果は高木の言い分を『ありやうにお聞き分けなされ』偽りのない実際の事情で『実正』確かなことであると結審されたが、その審理の過程で又太夫は国役を懈怠していたことが発覚し『公方御やくぎつかまつらす候』との理由で『ろうしゃおほせつけられ候』と入牢処分と決定した。
 そこで五名の大工が又太夫の請人(保証人)となって『いかやうにも』如何様にも御国役の儀はこの五名の者共を『御さん用つかまつりあいたて』保証人として必要な人数に算用して戴き、又太夫には公用作事を勤める事の誓約をさせ『ぶさたにおいては』それでも無沙汰して公役を果たさぬときは『この請人に御かかりなされべく』と、中井大和守の従弟、同姓信濃守に同年12月12日付で請人(保証人)となった上、請状(保証書)を提出した。

 この請状によって結審をみた今回の悶着は、

1 当初は又太夫の訴状
2 次いで作右衛門の答弁書
3 近隣の郡の大工肝煎による請状。

と、以上の経緯が推察される。

 ところが奈文研による当家の文書調査報告には、前述の【3】の文書のみ調査したとして、その釈文を同報告書に掲載し、これを高木の「八幡大工所口上書控」であると明言するが、これは大きな誤りであり、明らかに【3】は請状であり、奈文研のいう「大工所口上書」といえば、寧ろ【2】の作右衛門答弁書を指すべきである。

 結論として明言でき得ることは、奈文研は作右衛門の答弁書を調査していない事は明らかで、それでは双方の事情の充二分な把握も出来ない筈なのに、「高木の大工職は常に安泰であった訳ではなく、又太夫と相論があった」と巷間に対して響きの強い揶揄的な筆致としている。

 「相論」とは「言いあう事」で争いではないのかもしれないが、答弁書にもある如く、以前にも三代にわたる代官が高木大工所の確認を行なった過程に於いて「又太夫は悪者に付、成敗する」との裁きに対して作右衛門は、彼も地元の大工であるので処分保留を願い出た経緯もある。

 このようにみてゆくと、今回の又太夫の訴えは恩を仇で返す一方的な非人道的な行為であり、これでも奈文研は相論という冷酷な表現とするが、頭上の火の粉を振り払わず辛抱する愚者はいないであろう。過去の事は兎も角も、奈文研では充分な調査もせず、当家造営による他建物についても「各地で相論を起こしている」と根拠なき憶測により、無責任で一方的な記述とした上で、「高木が」とか、「高木という人間が」とする当方の全人格を否定し、憎悪を込めた筆誅とするために、奈良より遠い滋賀県の片田舎まで調査にお越し下ったその意図は私には到底理解できない。


◆ 国役(公用)作事について ◆

 江戸時代で「役」といえば先ず税金と考えて大過はない。近世になって為政者による築城、自己の居館造営が盛んになると、城下町形成として大工以下諸職人を城下町(職人町)に集住させ、特に有事に際しては好むと好まざるとにかかわらず徴発したが、その代償として「諸役これあるまじく」とする職人保護の方策がとられた。

 前述の請状にみられる「公方御役儀」「御国役儀」は共に同じ意味の幕命による公役作事である。故に又太夫のようにこれを懈怠する事は現在でいえば国税の不納であり、「入牢を仰せ付けられ」となること必定である。

 高木家の公役作事に関するものとして同返答書に、

「慶長八年より親が高令を理由に隠居したので以来我等にて公儀の御役を勤め、その上江戸、駿河までまかり下り御役勤め申し」

とある。この江戸、駿河とはとりも直さず両城の作事を示すが、当該書状の趣旨自体八幡宮大工所の詳細報告であるので、具体的に書かれていないが、提出した慶長16年を下限としてこれに充当するものは、

11年〜12年 江戸城天守及び本丸造営
13年      前年の12月に焼失した駿府城再建

が挙げられる。次に

「江州より大工衆二百人用意候て禁中の御普請に
 出候様に申し付けるべく候」

と7月11日付で中井信濃守より江州きも入り(肝煎)衆に宛てた差紙(出頭命令書)がある。【C】(旧高木文書)
 当時中井家で行われた京都御所作事では

慶長11年〜12年            院御所造営
同 18年7月立柱〜同年11月上棟 慶長度内裏作事

の二件が挙げられ、【C】の原本の写真を戴いた谷直樹氏は後者の方であろうと指摘しておられる。

 その他、特筆、大書すべきは慶長19年(1614)12月、公用作事の内、「軍役」として大坂冬の陣に参戦した。 (高木稿本)

 豊臣氏が滅亡して年号も「元和」となり、有事の緊急動員も無くなり、八幡宮の境内社大島神社再建に次いで同宮の大鳥居(以上二件は非公用作事)を元和元〜同2年にかけて造営したが、同年4月、家康が薨去するや江戸城内の紅葉山にも御宮(のちの東照社)(東照宮と称するのは正保年中に入ってからで、当初は単なるお宮)の造営に「江州より上の大工(腕の良い大工)五十人を連れて下京(江戸に下る)すべし」の差紙が届けられている。 (高木文書)
 この東照社の造営は元和4年(1618)4月の家康の命日に正遷宮の予定であったので、その前年急拠大工の増員をしたのもで、次は非公用作事乍ら先に拙稿で紹介した家康の二女督姫(実は姫路城主池田輝政の後室)の御霊屋(のちの知恩院良正院)の造営を行った。(高木文書)
 元和も終りを告げる同9年〜翌寛永元年(1623−24)には公用作事としての大坂城本丸仮御殿の造営を行ない、(高木稿本)寛永期になって、同2年二条城行幸御殿、同11年江戸城西の丸再建、同14年から15年(1637−38)江戸城本丸の大改造に参加した。
 但し、寛永の公用作事三件は、これより先元和期より在地の領主による年貢徴集と、公用作事との二重支配(税金の二重取り)に対して大工頭中井家より公用作事参加一覧表を作成し、その都度代官に明示して不当な二重請求はお断りする様所持させたもので、具体的には書かれていない。(高木稿本)

◆ 東寺五重塔造営について ◆

 本塔造営に関しては拙稿で述べたので重複を避け奈文研の高木調査報告と、絶対他の追随を許さないと自負する私の先祖の足跡調査との相違点についてのみ述べてみたい。
 先ず奈文研の記述は「江州作右衛門は述べ一万人余りの工人を率いて参加した」とあるが、工事は寛永18年(1641)11月の釿始め(起工)に始って、翌19年1月作事始め、以来正保元年(1644)8月まで通算32ケ月となり、支給された賃銀は10,452日分となっている。

(京都総合資料館、東寺塔御造営大工作料渡判帳)  

 仮に総勢10名で編成された作右衛門組として計算すると、1ケ月28日働いて10名で280人分、これが32ケ月であるから8.960日分の大工手間を消費する。
 他の棟梁以下中井家棟梁衆五名は何れも個人で参加しておられ、これを基準にすると作右衛門の支給された賃銀は約10倍であり、「延べ一万人余り」とあるのは妥当であっても、作右衛門の率いた大工数は一万人ではなく、10名強である。何故ならば作右衛門組のみで一万人の大工が4日働くと、それだけで本塔造営の大工手間は大いなる赤字となり得るのである。
 尚、本塔造営関与に付いて「こうした公儀への貢献が後々の高木家が権力をもち得た背景となっている」と述べているが、作右衛門が公用作事に関与したのはこれより30数年以前、すでに慶長期半ばに端を発するのは前述の通りで寛永も終わりの当造営が公儀に貢献した始まりではない。
 正保元年(1644)8月、作右衛門は最終の賃銀を支給され帰郷し、本塔五十分之一絵図を「右ハ後代証拠として残しおくものなり」との目的で謹書、その子、三代目光吉が正福寺本堂(県指定)を上棟したのを見届けて、慶安3年(1650)没した。本塔完成より6年後のことである。

註 次回は折にふれて、大工組の性格について述べてみたい。
  そして奈文研により「高木は江戸時代末期に組頭を失脚させられた」
  に対して反論したい。

PN   淡海墨壷