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2002年5月8日
高木敏雄HomePage |
我が先祖を語る
| 宮大工 十四代 高木敏雄 室町時代以来、江州蒲生の郡、八幡の片隅で一介の溝板修理大工として星霜を重ねること四半世紀半、如何なる宿命によるものか連綿と累加して現代に至った末葉として僭越乍ら「先祖を語る」という大言壮語な拙文を貴重な時間を割愛してご一読下さることを感謝します。 ◆ 序にかえて ◆ 名もなく、清貧を甘受しつつも、農村育ちの故か、古典的で反面ちょっぴり御きゃんで、それでいて決してお世辞にも美人とはいえない女房の内助の功に援けられ、共に手を携えて一途に先祖の誇りを胸に秘めて平穏裡に現在に至った私が、同職の諸兄に愁訴してご賢察を仰ぎ、ご批判を希うこの立案の趣旨は、この度の晴天の霹靂ともいうべき事態に関してであります。 ◆ 高木姓について ◆ 室町時代の応永三十年(1423)高木姓を有する大工として滋賀県蒲生郡安土町奥石神社社蔵神輿の天井裏銘文に 「安土慈恩寺村 高木金四郎実名直□」 とあり、同氏はのち豊臣秀次による八幡築城にともなって近江八幡に移住し、それが当家の祖高木作右衛門であると蒲生郡志及び近江新報(大正6年9月5日付)は伝えるが、直系か否か定かではないものの、高木一族であることは否定できない。 1 比牟礼山大島大明神御社、近年退転に付いて島郷之内、 慶長二十年四月十日 大工 高木作右衛門 2 奉造立 江州蒲生郡八幡宮鳥居 元和二年十月十日 御大工 高木作右衛門 前者は元和元年(1615)4月、八幡神社の地主神たる境内社、大島神社社殿が荒廃したので地元の井上氏の寄進によって造営されている。(高木稿本) (八幡町史及び同鳥居修理工事報告書) ◆ 大工座について ◆ ともあれ高木金四郎や、初代兵衛の活躍した当時代は足利氏の最盛期で、室町幕府の支配下で将軍御大工と称する肩書きの大工もいたが、一方民間でも有能な大工の指導者が在地の為政者に身を寄せてその庇護を受け乍ら、いわば共存共栄、相互扶助の形態で、大社寺を施主(建築主)として仕事を確保していた。 ◆ 大工所と大工職 ◆ 大工所とは大工が生業を維持するための持場(出入り先、得意先)を占有できる範囲、つまり縄張りで、大工職(だいくしき)とはこれによって生ずる勢力範囲、営業範囲が権利化したものである。 |
◆ 大工職の譲渡 ◆ 室町時代における大工職の譲り状として永正9年(1512)9月、藤原光吉氏より馬場村の大工左衛門に譲られた証文がある。(旧蔵 高木文書) 譲与大工職之事1、八幡宮に於て 下八幡宮末社等、同内馬場の鳥居、同馬場村 1、興隆寺惣山の内 本堂、妙光寺、炎(閻)魔堂、蓮光寺、 1、嶋郷の内 多賀、宇津呂、市井の各村及び鷹飼上、下村 1、金田荘(庄)の内 若宮殿、同金剛寺の棟梁 を支配する権利と、同かや堂大工を支配する権利 1、土田の内 浄覚坊、勝蔵坊、浄心一類 永正九年九月日 藤原光吉(略押) |
◆ 譲状の分節 ◆ この書状は、このとき藤原光吉氏から直接当家に譲られたものではなく、一旦馬場村の左衛門という大工が入手したもので、その年次は初代兵衛が出生する十余年も以前のことであるが、これ程の重要文書が当家に代々伝来した事実は、後年左衛門氏から副次的に高木に譲られたとみるのが妥当と考えられる。 |
慶長16年(1611)地元の大工又太夫は、高木一族の八幡宮大工所を自分が権利を有するが如く主張し、『又太夫手前に御座なく候を、色々理不尽なる儀申しかけ』その上で高木の同輩にまで恨み返しをし、『重ねて意趣つかまつり』遂に又太夫側より提訴したであろう事は察するに難くない。
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註 【A】【B】共に現在では「旧高木文書」の状態であり、この両通の書状を考察すると、当初又太夫はその訴状を京都所司代板倉伊賀守に提出し、板倉氏は訴えの趣旨が大工所に関する案件であるので中井大和守に審理を委ね、中井氏は裁決するについて高木に詳細な内情の答弁書を求めたものと考えられる。 その答弁書の内容「高木の言い分」を要約すると、 1、 江州八幡宮大工所は代々我等にて仕り来り候(仕切ってきた)とし、これについては地下十三ケ村及び同町中(市制以前の旧八幡町)が 周知の事であり、その上先祖よりの譲状も所持している。 2、この大工所の継承については、徳川政権下天領として町治にあたった 初代代官以来、代替り毎に大工所の確認(調査)があり、その都度 『我等に前々の如く仰せ付けなされた』 として安堵された事を述べている。 3、又太夫による『ととかざる儀』不条理で不届きな主張は これ以前にもあり、即ち慶長10年より着任した三代目 代官権太小三郎のときは『又太夫は悪戯者につき成敗をなされべく』 であったものを、彼は町中または十三ケ村の者で不憫につき 『預かりおき申し候』とする大工同輩による温情処分の身であった。 この返答書提出の年次を知るものとして幸い同書状に、『然ハ今度八幡のつりかね、いなおし申し候ニ付いて』とあるのをみると、この書状は釣鐘再鋳直前に出されたものと考えられ、再鋳は慶長16年1月より始められて翌年には初代兵衛によって鐘楼も完成しているので、この返答書の提出年次は同年10月1日と見做すことができる。 尚、返答書の末尾に兵衛が同宮の造修営に際して建物名と年月を明記した「造工の覚」は11項目もある中で今回の釣鐘再鋳のみ抽出し、『昔よりの鋳つけにも我等先祖の名、大工兵衛と書付に御座候』と元亀2年(1571)に行なわれた鐘鋳(釣鐘の鋳造)及び鐘堂の造営のみ強調しているのをみると、又太夫の企画は今回の鐘楼造営に意図があったのかもしれない。 ◆ 又太夫の処分と請状 ◆ 中井大和守による裁決の結果は高木の言い分を『ありやうにお聞き分けなされ』偽りのない実際の事情で『実正』確かなことであると結審されたが、その審理の過程で又太夫は国役を懈怠していたことが発覚し『公方御やくぎつかまつらす候』との理由で『ろうしゃおほせつけられ候』と入牢処分と決定した。 1 当初は又太夫の訴状 と、以上の経緯が推察される。 |
江戸時代で「役」といえば先ず税金と考えて大過はない。近世になって為政者による築城、自己の居館造営が盛んになると、城下町形成として大工以下諸職人を城下町(職人町)に集住させ、特に有事に際しては好むと好まざるとにかかわらず徴発したが、その代償として「諸役これあるまじく」とする職人保護の方策がとられた。 とある。この江戸、駿河とはとりも直さず両城の作事を示すが、当該書状の趣旨自体八幡宮大工所の詳細報告であるので、具体的に書かれていないが、提出した慶長16年を下限としてこれに充当するものは、 11年〜12年 江戸城天守及び本丸造営 が挙げられる。次に 「江州より大工衆二百人用意候て禁中の御普請に と7月11日付で中井信濃守より江州きも入り(肝煎)衆に宛てた差紙(出頭命令書)がある。【C】(旧高木文書) 慶長11年〜12年 院御所造営 の二件が挙げられ、【C】の原本の写真を戴いた谷直樹氏は後者の方であろうと指摘しておられる。 ◆ 東寺五重塔造営について ◆ 本塔造営に関しては拙稿で述べたので重複を避け奈文研の高木調査報告と、絶対他の追随を許さないと自負する私の先祖の足跡調査との相違点についてのみ述べてみたい。 (京都総合資料館、東寺塔御造営大工作料渡判帳) 仮に総勢10名で編成された作右衛門組として計算すると、1ケ月28日働いて10名で280人分、これが32ケ月であるから8.960日分の大工手間を消費する。 そして奈文研により「高木は江戸時代末期に組頭を失脚させられた」 に対して反論したい。 |
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