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2002年2月7日
高木敏雄HomePage

矢川神社本殿改築

高木敏雄

◆ 九兵衛氏口上書の注解 ◆

表題 滋賀県甲賀郡甲南町森尻に鎮座する矢川神社社殿改築は、当初寛延元年(1748)本宮、二宮の二社殿並立の旧状を踏襲して計画された。

1、諸事絵図通積書 (見積書)
1、 矢川大明神 二宮木寄帳(材料明細書)
                  寛延元年辰九月     高木但馬
◆ 甲賀郡大工組  ◆

 江戸時代当初の江州大工組は一郡一組として組織され、甲賀郡は大工組頭佐次右衛門の統師するところであったが、享保年中(1716−35)以降 山北、山南、杣、柏木の四組に分離し、冒頭に示す九兵衛氏は四組の中の「杣組」の大工年寄(棟梁役)であり、矢川神社に遠からぬ深川の人で、矢川七ケ村の氏子でもある。

◆  口上書前段の文節  ◆

 当社殿造営過程を知るものとして、九兵衛氏が宝暦元年(1751)九月八日付で中井役所に提出した口上書の端書に、

「この度矢川明神の普請について先達て申し上げ奉りおき在所へまかり帰り候」

と、漠然とした表現となってはいるが、これは地元大工年寄の肩書きを有し矢川七ケ村の氏子である有力者として同社殿改築の初回会議に同席したことを示すもので、「この度」とする期日は寛延元年と考えられる。

註 宝暦二年十月付、九兵氏証文の文中に「去る辰の年(寛延元年)矢川明神御造工の儀について御相談の砌云々」とある (高木文書)

 続いて、そうであるのに(初会議に列席したのに)私方(九兵衛氏)にはその後当改築に関する何の回答も示されないままに、同郡新庄村惣右衛門氏(前述の山北組大工年寄)より矢川神社別当にどのように申されたものか、氏子中寄合致しなされ候。

「その席上で別当は氏子中に対して、「京都は新庄村総中の世話で相ととのい、その上で御裏判も相済申すべく候」

と、この如く申されたと記されている。当時の規定(幕府法度)では現在の建築確認申請制度のように建築願を提出するよう定められており、その提出先は幕府の出先機関たる京都中井役所であり、願書(申請書)は願主たる大工が京都まで直接持参し、大工頭自ら願主の目前でその裏面に許可印を押してくれるので「裏判」というが、これらの書類作成に次いで、京都までの往復などが新庄村総中の尽力でととのい、社殿建築認可も相済み申すべくと、別当が発表されたとするものである。別当による寄合既決の説明は更に続き、

「勿論この事実(建築認可に到るまで)は主として惣右衛門氏が尽力された経緯もあって棟梁は惣右衛門に頼みたいと申し聞かせなされた」

 以上は会議に列席した村役人が帰路九兵衛氏宅に立寄り、別当の説明を間接に聞いた話であると記され前段は終っている。

◆  口上書後段の文節  ◆

 口上書の後段ではここで初めて「喜右衛門」氏が登場する。この人の肩書き等は一切不明であるが文書の始めに、

「先達て惣右衛門、喜右衛門、私の三人で御上様に申し上げ候は」

とある通り この口上書提出以前(初会議直後頃)に京都中井役所に具申していることが窺える。その理由はあくまで推測の域を脱しないが、当社殿改築工事を高木但馬が請負うことに対する異議であったのか、

 「八幡但馬方(高木宅)へ喜右衛門と私の二人で訪ねて但馬の心底を確認する為であったが当人は他行なされ」

とあり、この訪問は徒労に終ったことを悔やんでいる。

 尚、口上書の末尾には高木宅訪問に次いで中井役所に具申する等の働きかけもしたが、高木の心底を充分把握できない間に京都中井役所の手続きや、建築認可も済んでしまった(惣右衛門氏の尽力により)とする事態となって、九兵衛氏にすれば地元杣組の大工年寄や、矢川七ケ村の氏子であるのに当初から蚊帳の外に阻害された形となって結果としては中井役所に対して

 「得心難しく存じ奉り候、恐れ乍ら此段御断り申し上げ奉り候」

との口上書を提出するに至り、訴えを事実上取り下げた形となった。

◆  九兵衛氏の苦悩  ◆

 九兵衛氏の口上書に登場する四組に分離した向寄(大工組が細分割されたグループ名)の内、ご本人九兵衛氏は杣組大工年寄(深川村在住)惣右衛門氏は山北組大工年寄(新庄村)の二名に次いで、山南組大工年寄源三郎氏(滝村)は口上書には登場しないが、当社殿建築願再申請(宝暦三年正月付)には惣右衛門氏と共に名を連らねておられる。

 以上のことから三向寄の棟梁役が判明したが、残る一名「喜右衛門」氏については所属組、肩書など不明なるものの、推測が許されるならば残る柏木組に充当できるのかも知れない。

 そこで重複するとのお叱りを覚悟で口上書の分脈を整理すると、九兵衛氏が当社殿造営初会議(寛延元年)に列席の結果その異議について惣右衛門、喜右衛門両氏と相談の上で、とに角八幡高木に事情を問い正すべく惣右衛門氏を除く二名で訪問するも折悪く留守、止むなく失意の内に今度は惣右衛門氏を交えた三名で中井役所に具申した。と口上書は伝える。
そこで口上書前段冒頭にみられる。

「中井役所に異議を申し奉りおき在所へまかり帰り候」

となったもので、以来神社側より何の回答もない内に或る日突然「惣右衛門が別当に如何申されたものか」会議がありこれに列席した村役人が帰路自宅に立寄って別当の発言内容を聞かせてくれた。と前段は結んでいる。

 ところが九兵衛氏が口上書の末尾に書いておられる通り「得心むつかしく」とあるのは、当初惣右衛門氏も交えて三人で今回の異議について相談し、高木宅の訪問、京都中井役所への具申など、共に行動した三人の結束した仲間であった筈の惣右衛門氏独自の働きかけで建築許可(初回分)まで完了したとする事実は九兵衛氏にすれば到底理解し難いものであったに違いない。

◆  その後の造営経過  ◆

 当社殿造営は改築が計画されたと考えられる寛延元年(1748)に矢川大明神の社僧周顕氏の依頼により高木但馬は同年九月、絵図、材料明細、見積書を提出し、三年後の宝暦元年(1751)四月、当初の二社殿並立から一社合殿に計画変更されたため再び必要書類を提出した。

 この五ケ月後の同年九月、九兵衛氏の口上書(前述の訴え取り下げ)を経て、翌二年十月、九兵衛氏は矢川神社別当及び七ケ村役人に対して「拙者無調法な事を申し上げました」と謝罪し、一方高木に対しては「仕事の連中にお加え下さい、不都合な事あればお申しつけ下されば早速退去致します」の一札をいれ、(高木文書)翌三年(1753)正月、今度は社殿計画変更の普請願を中井役所に届け、翌四年正月より本殿改築の槌音が響き、宝暦六年(1756)改築計画より通算九年目にして上棟式、遷宮の運びとなった。

高木敏雄


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