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2003年1月20日
高木敏雄HomePage

歪められた実像

宮大工 十四代 高木敏雄

         ◆  序  論 ◆

 室町時代以来江州蒲生郡の片隅で十八石の大工高を有し、社寺建造物の造営一筋に塁を重ねて只管それを業としてきた大工組頭高木作右衛門家所有文書は、近江蒲生郡志、八幡町史の発行や、その他学術研究による出典として少なからず寄与してきた。

 近年になっても各地の諸賢から断続的に古文書閲覧の要請があったが、就中昭和六十二年国立奈良文化財研究所(以下奈文研と略記)による「高木作右衛門の系譜とその作事」と題する調査報告は揣摩憶測を網羅し、その為に私の先祖に対して平然と倫理感の欠如した筆致として同年三月公表された。

 その頃の私は病床にあり呻吟の日々を送っていたため、前述の私意によって織り上げられた虚構に対して反論はできず、切歯扼腕の閉塞感漂う内、今度は平成六年「建物の見方・しらべ方」と題する出版物によって徹頭徹尾、完膚なきまでに誹謗、中傷された。
 次いで平成十三年三月末、「滋賀県指定本願寺八幡別院本堂」(以下八幡西別院と略記)の修理が完成すると、修理工事報告書が公表されたが、その執筆責任者、文化財保護課建造物係副主幹は前述の奈文研による誤断に基づく記述を碌に精査もせず、迎合的な、全く労を要しない、いわゆる「孫引き」の形で当家先祖の尊厳を冒涜した事実無根の苛烈な記述として公刊した。

 このような公衙の職員による偏見に凌辱が付加された悪循環の連鎖を絶ち、危ない轍にはまることを回避することは死を覚悟して、十四代目として生きる私に課せられた焦眉の急と考え、取り敢えず合法な手段として諮問機関のご叡智を参考として、更に我が薬籠の物ともいうべき先祖の文書に依拠した正鵠を射る見解をHPの拙文で述べさせて戴いた。

 これに対して私より少しだけ頭の良い刎頸の交わりの友より「お前の論説は広範過ぎて、読んで戴く諸兄に理解し難いのでは」との生意気な高説もあり、矢張り持つべきは友なりとして、今少し視点を変え、逐一論拠となる文書を我が援用として核心に触れたものとし、彼等による高木排除の思想を超越した反論を試みるものである。

        ◆ 八幡西別院本堂の元禄修理 ◆

 彼等による数ある暴論の中で懐疑的且つ悪意の棘に満ち、私の肺腑を抉ったのは前述の「八幡西別院本堂」の修理工事報告書の一部である。

 そもそも当別院本堂は、元禄七年(1694)正月、京都、本山西本願寺御門跡の御下命を拝受した高木作右衛門四代光連(受領国名日向)が本堂については増建を含む修理を、その他の付属建物三棟は新築で、京都大工頭中井役所に普請願を提出し、本堂に関してはこれより先寛文八年(1668)江戸幕府老中覚書による家作禁令(建築制限令)に抵触しない範囲の条件付の許可を与えられた。

◆ 本願寺八幡別院本堂他建築願 ◆

 江州八幡

     西御門跡
御堂    修復

一 御堂  梁行 十一間半
        桁行 十間半
元禄七年 本堂修復願

   右今度修復被仰付候ニ付、(西本願寺御門跡より仰せ付けなされたので)
   桁行の方へ一間半継足して十二間に仕り候、
   柱所々朽申候を取替申し候、
   惣(総)地形(基礎)二尺斗(ばかり)築き上申し候
一 書院屋根小棟(寄棟)こけらふき
一 対面所屋根同断
一 台所

 註、書院、台所は立直(再建)に、対面所は新造(初建)で申請している
    右の通り(御門跡より)被仰付候、(仰せ付けなされ候)細工可仕候哉
   (細工してもよろしいか)奉窺候、以上


     江州八幡大工組頭
             作右衛門 在判
  元禄七年戌正月

中井家の修復許可

               ◆ 中井家の許可条件 ◆

 表絵図(この申請書の表面に書かれた図面)の御堂を従御門跡(御門跡より)御修復就被成(なされるについて)今度桁行之方江壱間半(約二・九五米強)継足しする事は、勿論御停止(寛文八年の制禁によって)の事ではあるが、子細格別(門跡寺院である特別の由緒)に付、細工仕るべく候。尤も他の例にはなるまじく(このような増建は他の一般寺院では許可しない)但し壊候而建直候事(解体修理)は認められないが、若左様之御好みに候はヾ(どうしても解体修理が必要とあらば)重而可申来者也(再申請すること)

       元禄七年戌正月廿八日
                      中(井)主水(在判)
                             大工作右衛門へ

      ◆ 修理工事報告書の暴評 ◆

 平成十三年三月発行、当該修理工事報告書、県教委文化財保護課編集(監修、同課建造物担当副主幹池野保氏、同主査菅原和之氏)三十七頁には元禄七年「江州八幡西御門跡御堂修復」と題する本堂修理願(写し)の内容に触れて

「本堂の柱が所々腐朽したのでこれを取替え、さらに桁行方向に本堂を一間半
 拡張したい」
として当家先祖高木作右衛門四代日向が、中井役所に提出した修理願に「問題がある」とご大層な無頼漢の如き因縁をつけるが、その指摘する問題点とは、
「【3】この願書に記された拡張後の桁行を池野氏は私意によって十三間と勝手に改竄した上で、現本堂の側柱真々を、一間の基準寸法六尺二寸と仮定して計算すれば十三・二間となるので、つまり修理後の本堂寸法と、現本堂寸法とがほぼ一致する」という荒唐無稽の論述として憚らない。

 またこの論理は高木を貶める心算で書いたものであろうが、人を呪わば穴二つ、百歩譲って桁行寸法が間違っていないとしても、これは可笑しい。それは修理前の寸法と現本堂寸法が一致しているというのなら拡張の要はなかったといえるが、修理後と現本堂のそれが一致するのは至極当り前のことである。

 池野氏が指摘する論詰を包括すると、悶着の原因は本堂の桁行寸法にある。それは修理完了後、つまり拡張後の桁行と、以来改造も拡張もなく現在に至った本堂も十三・二間であるとするが、当時幕府の定めた一間は京間の六尺五寸であるのに六尺二寸で計算すると約十三間である等と自分勝手な数字遊びとし、その上で「【1】現本堂に桁行拡張の痕跡がない」とする意味不明の言い掛かりは、つまり拡張の必要はなかった、言い変えれば拡張とは修理という名目であって実際は新築を目論む申請をして許可を得たものであるとしている。

 そのため当該修理には全く関係なき他郡の弘誓寺本堂申請の事実無根の出鱈目な例を挙げてまで「元禄七年に本堂修復(実際は新築)を願い出て許可された」と自信ありげに大言する。

  註 弘誓寺本堂に関しては後述で争う。

        ◆ 一間半の増建について ◆

 修理工事報告書による入側柱真々寸法は61.76尺でこれに9.38尺の広縁が双方に加算されて縁柱真々寸法は80.52尺となる。これを彼が指摘する十三間で計算すると確かに一間は6.194尺弱となる。しかし更に重要な事は「高木は先ず虚偽の申請ありき」と、決めつけ法度破りの罪人という目で疎んじるときは冷静さを失った底の抜けた浅ましい論述となり得る。


 重要な点を埒外に置去りにせず、偏見を捨てて高木による修理願をみると、現在の桁行「十間半」の本堂に、一間半継足して「十二間に仕りたい」と明記されており、彼等が囂すしくいう十三間ではない。更に平面図には中央間が四間であるのに対して脇の間二・五間が双方で、合計九間、と書かれておりこれが大工のいう本建柱間(入側柱真々)である。

 また本建九間の61,76尺というこの寸法は修理前も修理後も現在も動いていないというより、元禄修理では当時の禁令によって動かせなかったのである。

本堂増建平面図


 次に同絵図には入側より外方に九尺(一間半)の広縁が記入され、(但し、施工にあたっては支割の関係で9,38尺となる)そして本建の九間に広縁双方の合計三間を足して「合計十二間に仕りたい」とする修理願の文言に一致するのである。

 一方修理以前は、合計桁行十間半とあり、ここから本建の九間を差し引いた残る一間半が双方の縁の出の合計で、逆に考えて大目(一間半の二つ割)が縁の出巾ということになって当初は木口貼りの落縁でなかったのか。そして落縁板木口に接する位に真宗寺院特有の軒受支柱が建てられ、落縁上の天井は切張り(木口方向)の水平天井であったと考えられる。

尚、本建柱間九間は一間にすれば6,86尺強となり、江戸幕府の示す京間六尺五寸(1,97米)より広い柱間となり、中世から近世への過渡期を思わせる。

        ◆ 寛文の建築制限 ◆

 江戸幕府は身分による封建的な制度「応分の度を越えざらしめんが為」とする、武士は武士らしく、町人は町人らしくとする倹約令を発したが、江戸市中の大半を焼き尽くした明暦三年(1657)正月の大火(振袖火事)以降、作事法度と称する建築制限が加えられたが寛文八年(1668)二月、またもや江戸で大火が発生し、同月中に上方にも具体性を帯びた禁令、梁間寸法は京間(一間六尺五寸)の三間を限度とする規定が京都所司代を経由して大工頭中井家に届けられた。

寛文八年申 建築制限令


 この家作禁令では梁間は三間より広いものは不可とし、(桁行に制限は設けない)四方に設ける庇の梁間も京間一間半以内に、仏壇後方の張り出し(凸型に突出させた角屋)も三間四方、大屋根は入母屋妻飾りを禁じた寄棟造り、軒下の意匠である組物は舟肘造り以下として、勿論出組、二手先はいうに及ばず、三斗、大斗肘木までが禁じられた。
 この幕府老中 申渡覚は同年三月二十九日、中井主水正(三代正知)より、「大工組頭及び年寄を召し寄せて下知の条目をつかわす(与える)ので上京せよ」と命じ、その内容を「毎月組下の大工共に促し申すべし」とし、「若し違背すれば罪科とみなす」というものであった。
 
 註 この家作禁令は三間梁制限ともいわれる厳しい規制ではあるが「但し桁行は
    心次第たるべし」とある。愚直に考えると嫌味のような規制?と考え
    られるが、昔から建物は奥行(梁間)に対して間口(桁行)は黄金比といって
    一対一・六一八の比の家の姿が美しく、この比率は奈良時代より先人の
    奥義として伝承された。それは曲尺の裏目の比(ひとよひとよにいさん)を
    編み出した鎌倉時代の大工の知恵より古いとされ、正倉院御物の色麻紙に
    みられる。ちなみに東大寺大仏殿(聖武帝)や、鎌倉再建のそれはこの
    比率で建てられた。故に梁間の制限をするだけで桁行に制限を設け
    なかったのはそのためである。老婆心乍ら参考までに。


幕府老中申渡覚


        ◆ 建築制限と当本堂造営 ◆

 高木が当該本堂以下他三棟の建築申請の目的で上京したのは、この規制が衆知徹底し始めた元禄七年のことで、新築で計画した書院、対面所、台所は禁令通り梁間を三間に抑えた上で庇も一間半を限度とし、屋根形状は入母屋造りではなく小棟(寄棟)としているので中井役所では躊躇することなく許可を与えている。

 一方本堂は新築で申請するまでもなく、前述の通り屋根形状や柱頂の意匠は兎も角も、僅か梁間三間の狭小な建物では「本山御門跡御別所の御堂」としての体裁をなさない。
 また柱間の基準寸法については江戸幕府の定めでは京間(一間六尺五寸)であり、これに対して現本堂は六尺九寸近い寸法であるので大きな矛盾を生じる。

 加えて現本堂にみられる円柱使用について、「近世の社寺建築、昭和六十一年県教委、三十七頁山岸氏」には、
「本願寺の定めた規制によれば、寛文八年には許されていなかった円柱は、正徳三年には子細あって本寺へ願い出て許可されれば用いることができたようで、この頃以降丸柱が普及し始め、真宗本堂の変化の画期となった」
との記述があり、当本堂が元禄七年新築とすると前述の正徳三年(1713)より十九年も以前に円柱が使用されていたことになって修理報告書の池野説は自家撞着となり得るのである。

        ◆ 元禄の本堂修理 ◆

 県の文化財保護課では、現本堂縁高欄擬宝珠に享保元年(1716)の刻銘があるという事のみで単純に「このとき再建」と決めつけているが、当時の家作禁令の制約を熟知した大工組頭なればこそ一間半の増建を含むあくまで「修復」で申請をしたものであり、それでも増建は「由緒格別に付、御許容の間、細工仕るべし」とし乍らも解体して修理することは不許可とされたほど、当時の制限は厳しかったのである。

 これにより所々腐朽した柱を取替えしたいとする希望も空しく、根継ぎ程度にとどまり、屋根瓦は少し遅れて建築申請より十年後の宝永元年(1704)より着手、翌二年に完了した。

        ◆ 奈文研による暴評 ◆

 この本堂の元禄修理申請に件う中井役所の許可条件に対して国立奈良文化財研究所は「子細格別につき御許容された」のは御門跡寺院という由緒による例外措置であるのにこれを「法度違反である」と決めつけ、(江戸幕府の出先機関たる中井役所が法度違反と知りつつ許可を与える訳がない)
「このことは実は法度違反の申請の場合も、特別の事情があれば許可され、その際上納金納入等の何らかの取引が行われたのであろう」
と、大工頭中井家に対してまで不遜の役人らしき中傷をくり返すが、当然その事実無根の矛先は高木に向けられ、

「修復、拡張というこの願書は、実は中井役所に指出す際の便法であって、実際は新築を目論むものであった。」とし
「高木が修理と称して新築する例は他にも見られ、例えば(神崎郡五個荘町金堂、弘誓寺本堂、高木但馬作、重要文化財修理中)を挙げ、従ってこの願書(本願寺八幡別院建築願)は本堂新築を果たす為の願とみる」
と決めつけ、つまり虚偽の申請をしたと結んでいる。

        ◆ 宝暦期の解体修理 ◆

     
弘誓寺本堂 普請願 奥書     本堂解体修理再契約


 元禄七年より五十四年後の寛延元年(1748)本堂を一旦解体し、工事範囲は土居葺完了まで(瓦が何時でも葺ける状態)とする契約が締結して工事に着手したが、中断となり、四年後の宝暦二年(1752)七月、再契約の要請があり、今度は別院傘下の十ケ寺(但し二ケ寺は落印)が連名で、同四年四月完了する契約を結んでいる。

 この寛延元年に始って、一時中断があったものの宝暦四年までの通算六ケ年に及ぶ工事は、これより先、元禄期には解体を却下された部分修理では我々大工のいう締め直しが思惑通り出来なかった事や、従来の角柱を丸柱に替える等の仕事も一旦解体せねば不可能な元禄修理で成し得なかった仕事であり、一方では高木但馬より天井見積を提出して、本山坊官下間氏よりの依頼状が届くなど、工事はこの頃以降急速に進められた。

 文化財保護課では残念乍ら今回の解体修理は認めておらず、従ってこの再契約依頼文書(旧、高木現在八幡西別院文書)までも虚仮にしている。理由は簡単で、それは寛文八年の厳しい建築制限など知ってか知らずか、歯牙にもかけない彼等によって、元禄七年着手、享保元年に修理ではなく再建完了と勝手に決定している以上「僅か三十二年後に解体修理などあり得るカ」というもので、加えて契約書状に書かれている「御坊」(ごぼう)では不明とし、「御堂」(おどう)は何処にでもあるというのも理由の一つである。

 註 正しくは御堂(おどう)ではなく(みどう)である。

        ◆ 修理工事報告書の瑕瑾 ◆

 前掲の如く元禄修理に次いで、宝暦期にも修理が重ねられた八幡西別院本堂は、去る昭和四十八年六月、県指定建造物となり、このときの説明では県の見解として「高欄擬宝珠の刻銘により再建」とする一方で、「八幡町史に記載された高木文書に修理とあるので」と二律背反的な、正否を明確にしない決定がなされた。

 当時私は東寺五重塔、本山西本願寺経蔵他の修理工事の関係で郷関を出て京都に居を移していたが、当別院の代表役員故太田氏が私宅を探しあてられ、関係文書を四・五日の約束で貸したことがあったが、そのとき県の元文化財建造物係長は「あれは(高木文書)修復の文書だ」と判断され、これを太田氏にも告げられた。

 その後、京都北白川の寺院修理(未指定)に着手したとき彫刻物について、京都大学工学博士故村田治郎先生に御来臨をお願いしたとき(文化財審議委員をしておられた関係で)前件の高木文書を見て頂いたが、同先生も「修理文書である」とのお考えであった。
 これに対して今回の平成修理の工事着手直後及び翌年の発表では、以前の曖昧な表現を払拭して、元禄の工事は「再建」とする不惑の発表となった。

 この決定は新築・修理どちらであろうと、あくまで県の勝手であり私は干渉する権利も資格もない傍観者で、この事自体に異儀を唱えるものではないが、問題は当修理工事報告書の監修、副主幹池野保氏は「再建」と決定したのなら「修理申請」と明記した高木文書の一切を払拭して同報告書に記載しなければ悶着など起こらないのに(当別院の表門、裏門、鐘楼の報告書に高木作の文字はないが異儀を申し入れていない)揶揄する目的?で、卑劣な窮余の一策として「県の方は再建、高木側は修理」ではなく「双方共に再建」と改竄する悪辣な手段で、その矛盾を解消せんとした。

 そこで高木が修理と称して新築する例は弘誓寺本堂(重要文化財、高木但馬作、現在修理工事中)にもあったとし、当別院も共に新築を目論み乍ら修理の申請をしたとし、重ねて「元禄七年に本堂修復(実際は新築)を願い出て許可された」として事実を公権力で捩じ伏せた作為的な誹謗中傷として公表した。

 これが単なる風評被害であれば「人の噂も七十五日」とかで自然消滅もしょうが、活字にして巷間に流布されては「座して死を待つ」訳にはゆかず生ある限り先祖に代って池野氏を不倶戴天の敵として争わねばならない。

 私如き凡慮で如何んとも理解し難いのは、先祖の駄作が如何間違ったものか、文化財審議会の答申によって指定されるのは、私の先祖には一片の罪科もなく、(法度違反等とされることも含めて)一方その建物の保存修理を命じられた人間はその事によって禄を食み安穏に暮らせる事に対する感謝を忘れて事実無根の空理空論を並べて逆に恥をかき、一方ではその子孫に対して憎悪の連鎖を増幅させる。

 今少し理性的で幅広い報告書の文脈とし、その失敗体験を明日の為に収斂させ、足らざるを補う努力を重ねなければ、神仏の館の修理に任ずる資格はない。と、これを書き乍ら「自分が刻を告げるから夜が明けるのだ」と考えている寓話のニワトリを思い出した。
 
        ◆ 終  章 ◆

 当本堂修理工事報告書による高木に対する隘路は、取りも直さず文化財建造物に関する事は何でも塾知しているとの思いより埒外の「餅は餅屋に」といわれる専門知識の無知と誤断によるものであり、この乱麻が人間本来具有する迂闊による失敗の範疇なら許されもしょうが、「高木は新築で申請すれば不許可になるので故意に修理という名目に変えて無理矢理許可を得た」と事実無根の公表をした。

 この事実は現在如何に研究の自由、表現の自由、発表の自由であっても、その枠を超越した冤罪紛いの記述として悦楽を貪る行為は公人といえども許されるものではない。

 私は滋賀県に生まれ育ち、県文化財保護課の内部告発?等毛頭考えていないが、例えば「虚偽の申請をした」「高木は幕府の禁令を犯している」等々と先祖の尊厳を侵されたことに対して「当時の文書による証拠を明示してほしい」と池野氏の上司に申し入れ、その結果当人は三回に及ぶ来宅はあったものの「一旦掲載したものは変更できない」と信義に反する官人特有の因循な手法で愚弄されるにとどまり、目下次なる手段を考えている次第です。


PN   淡海墨壷