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2004年1月23日
高木敏雄HomePage

続・金台寺本堂非再建論

宮大工 十四代 高木敏雄

       ◆ 大工という貫禄 ◆

 「棟梁よりも、大工の方が上位である」と書くと、大抵の諸兄は異口同音に、「嘘だ」と反論することでしょう。それについて先学の研究では、古代の造営における指導的立場の人々の肩書を、「大工」(だいこう)・(おおいのたくみ)と述べておられ、この呼称は近世になっても、例えば先祖が関与した洛南、東寺五重塔重建(正保元年、1644完)の「相輪納め」(一般の上棟槌打ちの儀)では、中井家の今奥和泉氏が棟梁であったのに対して、更に上位の中井五郎助正純氏の肩書は、「大工」であったのである。但し、このとき(だいこう)と呼称したか、否かは定かでない。

 註 同塔修理工事報告書には「大工大和(中井氏)、棟梁和泉」とある。

 その誇り高い名跡を継承する我々大工は、専門職としての矜持を胸に秘め、それぞれに学び覚えた素養、(技術の下地)を具有し、人間味豊かな巾広い識見を備え、深い思考と、鋭い洞察によって直面する複雑な諸条件に対処してこれを解決し、マニュアルを踏破していける高邁な技術と、能力を併せもつ存在なのである。

 このような大工(プロフェッショナル)に対し、一方のスペシャリストと呼ばれる人々は、卓越せる特殊な技能・技術を有するエキスパート(専門家)であり、本来この両者は、互に不必要な摩擦を減らし、合理的に協働すべき筈のところ、残念乍ら、中には気疎い、権力を行使した抑圧や、要らざる介入、干渉により、「氷炭相容れず」の状態から、白熱的侃諤の議論となったことも、私の過去六十年間の職歴において、決して否めない事実でもあった。

     ◆ 棄却された高木文書 ◆

 とはいい乍ら、これらは互によりよき建物をと希う、日常の茶飯事であったが、今般奈文研、県教委による予期せぬ事態は、近来稀有の、当世風というか、先駆的というか、隔世を感じさせるもので、唯一、的確な判断の拠りどころである的證の古文書に、筋の通らぬ難癖をつけ、これを多面的に見ることなく、遮二無二に感情論に走った判断により、事実とは大幅に相違した公表をされた事は、誠に情けなく、唯々痛恨の極みである。

 この僻見に対し、「勝手にしろ……自分が恥かくだけ」と、断念(やけくその諦め)で済まそうとしても、彼等は希代の思い上がりによって、自己の誤謬は棚上げとし、公権力を盾に、詭弁に詭弁を重ねた歪(いびつ)で強引な遣り口は、不確かな中傷程度の生易しいものではなく、人権に抵触するような、善悪の見境のない暴論となるが、これら掛け替えのない、希少価値の古文書を弊履の如く捨て去り、そのことで高木指弾の溜飲が下がるようでは、文化も砂上の楼閣の危殆に瀕することとなり、その愚挙はやがて自分で首を絞める行為に他ならない。

 一方、江戸時代の大工法度等について、一知半解の状態で問題点を抉り出し、当家を批判の爼上にのせるが、それには原拠の確認や、充二分な知悉と、その裏付けが必要であり、これを怠った虚誕の不実記載に対して、厳しく反駁されるのは、当然の趨勢である。

     ◆ 理念を踏まえぬ観念 ◆

 以上の如く彼等による粗略な裁量は、慢易(他人を見下げる)な思考によるものと考えられる。
 例えば当家文書調査報告の文中には、めくるめく、高木が、高木がと頻出し、更には「高木という人間が」との毒筆もある。(同十一頁)これについて、私の下らぬ先祖でも「人間と書いて戴いたのだから、立腹する方が可笑しいのかも知れないが、文脈全体を把握すると、決して黙視するに忍びない、これは「果し状」と理解せざるを得ないものである。
 
このような奇行に対する善後策について、その意味を辞書に求めると、諸説ある内で、「思わしくない結果であったことの後始末」とある。この始末こそ文字通り、始めと末(終り)であり、これは中国の古語にある『乾端坤倪』、(天の端から地の限りまで)と同義であって、縮めて、「端倪すべからず」即ち、これらすべてを一括して、始めから終りまでを意味することとなり、これが尚、「すべからず」となると、「全貌が皆目わからない」と、いうこととなる。

そこで、彼等の異説に壁易する私にすれば、絶対許し難い表現や、酷評の内で、是とする根拠を見い出す事の困難なものも含めて、冷静に勘案すると、古文書なるが故に、文字が部分的に読めないものや、仮令読めたとしても、肝心の文章が読めない(内容が理解できない)等の障壁により、旧時代の複雑な事情が把握できず、このような粗雑な思考では、ますます内容が詳かにされず、暗中模索のその果てには結論のみが残り、極端な高木排斥の感情論にしかならないのである。

     ◆ 県教委との折衝 ◆

 去る平成十三年三月、県指定、本願寺八幡別院(金台寺)本堂の修理が完成し、修理工事報告書が発刊されたが、その一部に、如何なる寛容でも承服できない事実無根の記述について、執筆責任者の上司が、幸い旧知の関係であったので、個人的に事実と相違する部分訂正の請願を親書で郵送した。

 その過程で同氏は、「現在は自由(何を書いても)と違うのか」と、耳を疑うような発言もあったが、兎に角も、後日同氏の配慮により、執筆責任者の来宅があった。話し合いは都合三回に及んだが、終始一貫「一旦掲載したものは訂正できない」と、流石お上意識が色濃く残る、時代錯誤も甚だしい、独善な回答があり、ここに県を相手の話し合いは水泡に帰することとなった。

 一方、その話し合いの過程で、個人的に「滋賀県文化財教室シリーズ」(高木作品の顕彰を目的とする)を一万部発行するとの言質をとり、その見本の呈示もあったが、それさえも案の定、食言(嘘)であり、彼の品性さえ訝るものとなった。そこで念の為に更に半年間、それが出版されるのを待ってみたが、いよいよ誠意なきことが明らかとなったので、彼の上司に詳細な経過を報告の上、諮問機関の門を叩き、そのご英知による二、三の選択肢の内で、第一段階として「HPの書き込み」に至った次第である。

     ◆ 自由への問いかけ ◆

 現在我々は、民主的な社会の構築に関して、「自由」が最も大切な価値であり、取り分け、本項に関していえば研究の自由、表現の自由、発表の自由、について「当然これが尊重されて然るべき」と、法律には門外漢の、ど素人の私でさえ道義的に考えて、これに疑いを持つものではない。

 しかし、一方この一面的な考えは、「さは、さり乍ら」の内の「さは」の範畴であり、(それはそうだ)と肯定する反面、「さり乍ら」(こうも考えられる)という、否定的な考え方、つまり見解の相違もあり、この両極について、奈文研、県教委による僻論以来、その対処について苦慮煩悶の日々が続いた。

 その後、日ならずして天佑というべきか、仏恩によるものか、県教委による不適切な発表の翌、平成十四年、私にすれば従来の苦悩を一掃できる、人格侵害の事例とすべき、画期的な最高裁の判決があった。新聞各紙は挙ってこれ以前の判例をも含めた論評を大々的に報じ、これを参考とすべく、全紙の収集に奔走し、その是々非々について、大いなる自信を得ることができたが、その伝家の宝刀を抜くのは、もう少し先になりそうである。

     ◆ 批判と非議 ◆

 そもそも、批判の本来の意味は辞書によると、臣下から宰相に対して、ある事実の意見を具申し、(上奏)それに対する批正を乞い、宰相またその奏文に意見を加えた批答をし、この両方を併せたもの」、とあるが、一般には「善し悪しを比べて批評し、その判断をすることを、批判という」とある。故に批評するには、「批評眼」と称する力量が必要であり、これの欠如した人がこれを行なうときは即座に反駁を食らう。

 これに対して、後者の批議(非議)とは、謗る(そしる)即ち誹謗であり、悪口をいう、けなすこと、等であり、度を過ごすと、「誹毀」つまり、他人の名誉を傷つけることとなる。

 例えば、「滋賀県の近世社寺建築」、県教委、(昭和六十二年)には「虹梁絵様の変遷」と題して掲載された二十四点の内、三点の高木作品のみを非議の対象とした上で『決して佳作とは言い難い』つまり鈍作である、と非難して辱しめを与えられた。これに対して、末葉として含むところがなくもないが、更に不可解な事は、非難しておき乍ら、その後に於いて、尚、高木による鈍作が指定建造物となるのは、如何様に判断すればよいのか?

 その他、同種の納得いかぬ悪筆は枝葉末節に及ぶが、これらは批評眼の欠如した、非議の範疇に属するバカ気た「粗探し」であり、それでも飽き足らないか、身の程を知らない、「誹毀」と判断すべきものもある。

 これらの小賢しい知恵は、取りも直さず「猿の尻笑い」であり、逆に当方も瑣事では済まない「ネタ」を握ってはいるが、『訐(あば)きて以って、直となす(正しいと思う)者を悪む(にく)む』(人の欠点や、弱みを探して、人にいい触らし、そのことで正しいことをしたと思う者は、心掛けの良い者ではない)等と、憎まれる側の負け組になる事は潔しとしないと考えている。

 それにも況して重要な事は、『高木は公儀役所に対して願書の内容を改竄し、不正な手段で許可を得た』と事実無根を公表された事に対して、その的證(確実な証拠)の明示を要求するも未だ回答はなく、一方では、来る三月末には「高木が同様の不正手段で申請した」と書かれた重文、弘誓寺本堂修理がいよいよ完成する。その報告書内容の蓋然性に備えて現在待機中でもあるが、それは前述の所業を車に喩えると、当て逃げされたが如き悪質な行為と考えられ、いよいよ天王山が切迫したことを想起させるものである。

       余説・置き去りにされた実情

     ◆ 本堂付属建物の造営 ◆

 当本堂元禄修理願(同七年正月)と並行して、書院・台所・対面所、以上三棟の新築(書院・台所は改築、対面所のみ新築、屋根は三棟共に柿葺)で願書を提出、何れも三間梁制限令に順法した(本建梁間寸法を三間に抑えた上で、三方、または四方に庇をつける)ものであったので、中井家は躊躇することなく許可を与えている。(但し、本堂については同制限令により「壊し候て建直しすることは難しく成り申し候」と、解体修理は認めず、建ち乍らの小修理となる)

 かくて、願書の提出より六年後の元禄十三年(1700)九月十日、京都本山より「御門主寂如尊師の御下向ありて、御堂慶讃法要御執行なり」とある。
                        (堅田本福寺旧記)

 註 御堂(みどう)とは別に「大遶堂」とも記述され、「遶」は、めぐる、めぐらす、かこむ、とりまく等と読むところから、このとき瓦は葺けていなかったが、(柿葺の状態で)御堂修復に次いで、書院・対面所・台所の新築が完成したことが判明するが、県教委の報告書には何故か、この法要より十六年後の享保元年(1716)完成とある。

     ◆ 屋根葺工事 ◆

 本堂に関しては、元禄七年正月、修復許可下付、翌年土居葺が完了して当分雨露を凌ぐ状態が続いたが、九年後に至り、御堂瓦は元禄十七年(1704)より始めて「こん里ゆう」(建立カ)有りて、宝永元年(1704)登(と)かわる。つまり、元禄十七年の三月に改元があって、年号が宝永に改められ、同二年「天」八月上旬に「うえい事」(造営事カ)終るものなり。 
                        報告書より
 
 註 「天」とあるのは「夭」の誤記と考えられ、つまり夭閼(ようおう)で、おさえふさぐと解し、現在言うところの棟包みを意味するが、それにしても瓦葺工事で建立とか、造営とか、いやはや随分と大袈裟な篦書でもある。

     ◆ 高が大工風情と侮る勿れ ◆

 金台寺本堂の元禄修復(同七年1694申請)に際して、これより二十六年以前の寛文八年(1668)二月、『以後の新築は、何によらず(建物の種別を問わず)梁間は京間三間を限るべし』との幕府法度が公布されており、この諸般の事情に抗って、このとき梁間十一間半の本堂再建が許可される訳もなく、その是非は素人でも即断できる自明の理である。
 にもかかわらず官界の人々は、属性として持つ傲慢の永い伝統によって築かれた頑迷により、修復ではなく、再建と決定したが、そもそもボタンの掛け違いは、ここから始まった。

 その素因は、享保元年(1716)、一人の篤実者の厚い志により、縁高欄金物を寄進された(修理でも寄進は可能)と単純に決めつけ、この小手先のみの専制のお陰で、折角の古文書まで、認められないままの、野垂れ死にの形骸化したものとなったが、この軽々しい評価の根本的なものの見方自体(価値感)が多様化された考えではなく、陳腐化した単一の方向に集約された、いわば、自己の主観にとらわれた、高木文書は「食わず嫌い」の状態、つまり都合のよいところだけの、つまみ食いの決定となった。

     ◆ 寛延・宝暦期の解体修理 ◆

 その後の本堂修理について、先人より「一頭の馬が狂うと、千頭の馬が狂う」と教えられたが、正にその通りであり、それは先ず、元禄修復に虚偽の申請と難癖をつけ、次いで、寛延元年(1748)に始まって、宝暦四年(1754)四月に至る、通算七ヶ年に及ぶ解体修理の事実は何故か否定とする。その理由と考えられるものは、観念的な屁理屈で決定した享保元年再建完了を機軸に考えると、「僅か三十二年後に解体修理などあり得るカ」という歪んだ御託宣によるものであろう。

 それについて、私自身で高木但馬筆と鑑定し得る申年(宝暦二年(1752)四月、金台寺講中に宛てた『弥頼の間・外陣・広縁の各天井及び、外陣四天柱・入側柱十六本の柱頂の組物見積書及び、蟇股の見積書』がある。その内容について
(イ) 柱頂の組物に触れてはいるが、柱の代金の記入がない。
(ロ) 蟇股の見積は記されているが、虹梁は記入されていない。
(ハ) 内陣・余間、つまり御障子側通りより後方の記述が見られない。
以上のことが判明する。つまり(イ)に示す「入側柱十六本、但し、何れも出組の柱穴あり」とある、切り刻み施工の既成事実を示す表現や、(ロ)これに組込まれる虹梁はすでに柱と共に建てられていたものと理解でき、これらの木代、虹梁彫刻手間、内陣・余間廻りの見積は、寛延元年〜宝暦二年(1748〜52)の間に契約され、すでに納まるべきところに納まっていたものと考えられる。

 続いて報告書にも掲載されている宝暦二年四月、組物、及び天井を主とする契約をしたところで一時工事は中断、三ヵ月後の同二年七月、今度は十ケ寺連判で、同四年完成の契約をするなど、都合三回にわたって契約を交したことがわかる。

 詮ずる所、今回の解体修理は独善により、全面的に否定しておき乍ら、第一回目の内陣・余間を主とするものや、外陣四天柱、入側柱(計二十本)に関するもの、虹梁関係の見積書等は、当家にも見当たらないので致し方ないが、第二回目の柱頂組物、内陣を除く各天井、すでに組込まれている虹梁上の蟇股等の見積書及び、その関連作事は肯定した上で、報告書には写真り入で公表し、第三回目の契約(日限・契約金額を強調)は否定とする。いわば、今回一連の解体修理の拠りどころとする三通の文書を、片や否定、一方は肯定する等、全体像が把握できないのか、支離滅裂の捩れ現象となり、換言すれば、これは「つまみ食い」の独善な決断であると指摘できる。

 尚、本山西本願寺坊官、下間氏より、九月二十一日付で高木但馬に宛てて、『御堂、天井造作について、金台寺と相談の上、御為よろしいように、相心得なされべく』との依頼状(折紙)も、天井見積の提出された宝暦二年九月二十一日と考えて大過はない。
 以上のように造作の最終契約、(第三回目)の日限には約束通り(木工事のみ)完遂し、宝暦九年、高木但馬は大工組頭を兵庫(六代作右衛門)に譲って引退した。

     ◆ 角を矯めて牛を殺す愚 ◆

 それにつけても、惜しむらくは、県教委による常道を逸脱した、心なき異論、「元禄七年再建説」では、後世に悔悟を遺すこととなり、本堂の文化財価値は、啻に、この時点からの出発となる。これが正論「修復説」で考えると、建物自体の創建年代は不明なるものの、元禄七年に「所々腐朽した柱を取替したい」と判断された事実を考察するとき、その状態に至った経年数は、一般的に考えて五十年や六十年遡及してみても取替えまでには至らないものと考えられる。その証左として、現本堂の基準の一間寸法は、中世から近世への過渡期を示す数値(6,88尺)であるが、この寸法は当時の三間梁制限によって、京間(6,50尺)に縮められることもなく、その僥倖はこのとき修理であったればこそ、(6,88尺)が維持されるに至ったのである。それでも元禄再建説を頑なに主張するのなら(一間を六尺二寸と仮定して)と、素人の如きことを言わず、現存本堂が一間六尺五寸であることの証明をしなければならない。それにも況して「高木は虚偽の申請ありき」と、馬鹿気た幻想の先入観に惑わされているようでは、物事の本質は見えてこないのである。

以上のように、中世から近世への過渡期の寸法の本堂が現存する事実は、換言すれば幕府法度がもたらした所産であり、その意味では先人に感謝せねばなるまい。
 最後に、京都大学森博士の名言を拝借させて頂く。『賢に教わるぐらいはアホでも出来るが、(高木のような)アホから教わるのが、ほんまの賢である』と、如何にも当を得た、ご名言であると思う。


PN   淡海墨壷